皆様からの御便り紹介
 THE ROOM OF YOUR MAIL


IN THE YEAR 2002 

 皆さんのご意見を載せさせていただくコーナーを作りましたので、よろしくお願いいたします。

1999年12月までの皆さんからのメール

2000年5月までの皆さんからのメール

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鮒子田 寛 レーシング・ヒストリー 「Your messege 」を見る
 29/AUG/2002  Hさんから頂いたメール紹介 「60〜70を愛する男より」
 
 お便りします 貴方のHP拝見させていただき大変なつかしかつたです。わたしも小学生の頃ぐらいから自動車レ−スが好きでプラモデルなどを作成しておりました。60〜70時代の(マシン、ドライバ)が好きです。貴方は富士の30度バンクの走りを知つておられるのでしょうね?
 私が初めて富士に行つた時はたしかS53 GC開幕前の練習走行と記憶しておりバンクはすでに廃止されておりました。残念、無念、バンクについてお暇なら便り下さい。

プロフィ−ル

*1958生まれ(不良中年オヤジ)

*家族構成:妻+娘2の4人暮らし

*趣味:キャメラ、モデル(車、飛行機) 自作P/C、ゲ−ム(FSシュミレ−タ、レ−シング)

*仕事:サラリ−マン

*在住:滋賀県

*愛車:BCNR-33(GT-R)

 WEB MASTER : 
 H様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂き有難うざいました。
私が小学校6年の時に1966年「第3回日本グランプリ」をTVで見ることが出来、それがきっかけでモータースポーツファンとなり今に至っているのですが、幼い時の記憶が全部レース(スロットレーシングも含め)のことしかないというのもまるでレース馬鹿ですね!(笑)
 30度バンクについては私が初めて富士のレースを見に行けましたのが1971年の富士GC初年度で、故・酒井 正氏のマクラーレンM12や同じく故・風戸 裕氏のポルシェ908IIなどが走っていた懐かしいレースでした。
生沢さんもその年、ポルシェ917Kを持ちこみ雨の富士マスターズ250Kmレースに出場、風戸のポルシェには破れたものの第2位となり雨でずぶ濡れとなっていた私と友人を多いに喜ばさせてくれました。
 30度バンクは「鮒子田 寛レーシング.ヒストリー」でいつもお世話になっています鮒子田寛氏にお聞きすると「大変面白かったよ。馬の背というところがバンク途中にあって、そこを通ると1mぐらい横に車が飛ぶんだよ。」などと楽しそうにおっしゃっていました。
http://www.mmjp.or.jp/60srace/HiroshiFushidaHPTOP.html
 60年代の日本グランプリは鈴鹿の第1〜2回は別として、すべて富士のバンクを使用してレースが行なわれてきました。本当にダイナミックな時代だったと思います。
これからもぜひ立ち寄って思い出話を語って頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 20/AUG/2002  T.Uさんから頂いたメール紹介「素晴らしき徹ファンへ」

 トージズクラブの報告、楽しく拝見させていただきました。総会の様子が手に取るように再現されていましたね。
私も一応クラブ員(20年来のクラブ員)として総会に参加していました。
多分、覚えていないと思いますが、貴方が、生沢徹さんにサインをいただいたとき、私もついでといっては何ですが、貴方にマジックを拝借して封筒の表面にサインをいただきました。
そんな図々しい、いや、徹の大ファンです。
今回、このホームページを拝見して沢山のことを知りましたし、感動いたしました。
あのとき徹さんも言っていましたが、誰よりも彼を調べ尽くし、理解?しているかも知れません。
60年代を懐かしみ、その中に浸ることが何よりリラックスできるし、癒される、変な中年男。生沢徹であり、VANであり、アイビーであり・・・・・・。

そんなところが共通する所かも知れないと、感心して隅から隅まで本当に楽しく 愉快に読ませていただきました。
わたしもその他、紙もの、沢山の雑誌や本等が好きで、気にして集めています。
「モーターファン別冊オートスポーツ」「カーグラフィック」など・・・。
生沢徹、トヨタスポーツ800,ホンダS500、600、800等が表紙に載っているのはなおさらです。
 牧野さんの育ちの良さがわかる「ぼくら」のモデル時代の本、今後、神田神保町の各店やヤフーオークション等で出くわせて収集出来るのを楽 しみにしています。
 何より、トージズクラブの運営委員の牧野さんの活躍にも、今後大いに期待しています。
今日はこの辺で、またメールしたいと思います。
楽しいページの続編も期待します。

 WEB MASTER : 
 トージズクラブ会員114の牧野です。
U様、この度はメールを頂き本当にありがとうございました。
そして、トージズクラブの先輩であられるのにご挨拶もせずに誠に申し訳ございませんでした。
さらに、私のまだまだ未熟なHPまで立ち寄って頂き感謝感激であります。
小学生時代からのモータースポーツファンであり、スロットカーファンであり、また生沢徹信者であります私としては当日のUさんのことは覚えております。マジックを確か誰かにお貸しした覚えがありましたから・・・(笑)。
「ぼくら」については本当に照れてしまいます・・・。あまりに違う自分の姿に生沢さんが還暦になるはずです(笑)。
では、これからも良きアドバイスなど頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 09/AUG/2002  T.Kさんから頂いたメール紹介「はじめまして」
 
 牧野様 T.Kと申します。

JAF日本グランプリについて調べていたところ、こちらのホームページにたどり着きました。
若干25歳の私が集められる情報には限界があり、色々な検索キー、どれを入力してみても必ずといっていいほどこちらのページに行き当たり、大変勉強になっています。

先日ニッサンR381をチョロQ化した際も色々と参考にさせていただきました。
現在は生沢選手仕様のスカイラインGTや式場選手仕様のポルシェ904を作っています。(チョロQです。)これからも、色々と資料にさせていただく事をお許し下さい。

牧野様は日本グランプリの車両に貼られていた「GP-?」(クラス分けでしょうか?)やスポンサーなどの模型用のデカールをお持ちではありませんか?
貴重なものでしょうし、突然のメールの上にこんなことをお願いしても良いものか悩んだのですが、もしお持ちでしたら、写真など、何らかの形でお見せ願えませんでしょうか。
BSマークなどを初めとする各社の旧ロゴの画像データを頂きたいのです。
見ず知らずの者が全く失礼とは思いますが、ご協力いただければと思いメールを送らせて頂いた次第です。


TOP : ChoroQ Nissan R381
(C) Modifed, photograph by T.K.
 WEB MASTER : 
 K様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂きありがとうございました。
そして、60年代の日本のレーシングカーを大切にして頂いているとのこと感激であります。
チョロQは本当に限りなく面白いモデルカーのジャンルだと思っていました。
その仲間に当時のレーシングマシンを仲間にして頂いていると聞き、これまた感激であります。
もし可能であればKさんのコレクションを拝見させて頂ければ幸いです。
(後日Kさんより素晴らしいチョロQ“R381”の画像を頂きましたので載せさせて頂きました)
 02/AUG/2002   H.Aさんより頂いたメール紹介 「懐かしく読ませて頂きました」
 
 私は昭和29年生まれですから多分同年代だと思います。
一番最初に買ったマシンはコグレ社のコルベットスティングレーでした。世田谷に住んでいたので近所にサーキットがいっぱいある時代でしたから、もっぱらサーキットに行っていました(10分で100円。小学生には目茶苦茶高い)。
 このクルマはコーナーで転倒すると重心が高くてバンクの下までゴロゴロと転がってしまいます。そんな中私のクルマの横を元気に抜き去っていったのがタミヤ製のジャガーDタイプでした。このマシンはクラウンギアの設計に問題があったのかギアの音がやたら高かったのを記憶しています。
その時に私は今度はタミヤのマシンを買うぞと決心しました。そして、しばらくしてから発売になったロータス30を買いました。これはダイキャストシャーシーでがっちりしたものでした。ただコグレにしてもタミヤにしてもアルミなのでハンダが効かないので改造はガイドをCOX製に替えるくらいしかしませんでした。このガイドは先が太くなっていていかにも食い付いていそうな気がして気に入っていました。次はタミヤから発売になったエルバでした。たしかスプリングサスペンションがついた真鍮のシャーシーでした。
あのサスはどれほど効いたか分かりませんがスプリングの強さを変えたりしながら遊んでいました。そのあとは私もキットから離れて自作になっていきました。
 わたしの父が小さい工場を経営してたので工具には不自由しませんでした。懐かしいと言えばもう廃刊になっているでしょうけど「模型とラジオ」「模型と工作」は毎月買っていました。その本の中では「モデルカーレーシング」と言っていましたが、いまでは「スロットルレーシング」と言っていますね?ホームページの中でモデルカーレーシングと言う言葉を聞いてとても懐かしく思いました。とても楽しく読ませていただきました。これからもたまにHPを覗かせて頂きます。ありがとうございました。
 WEB MASTER : 
 
 A様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ちよって頂いただけでなくメールまで頂き本当にありがとうございました。
モデルカーレーシング。
Aさんのおっしゃる通り、「スロットレーシング」というよりは私たちにはピッタリ感じるところがありますね!
私は実際にレーシングカー(当時は単にレーシングカーと言っていましたね!)を買ったのは・・・買ってもらったと言った方が良いかもしらませんが、ニチモの「マンタレイ」でした。他とちょっと違う形が気に入った理由です。その後はAさんと同じような道をたどったわけです。
時代は丁度ヴェンチャーズが流行っていたり、グループサウンズの絶頂期だったり、また、トヨタ、ニッサンなどが凌ぎを削った日本グランプリなど、胸をときめかすことがなんと多かったことか・・・。
しかし、そんなことはなかったかのごとく現在ではすっかり世間からは忘れ去られているのが現実です。
4年前に腰を痛めて会社を辞め、それを機会にPCを習ったのがきっかけでどうしてもやりたかった「モデルカーレーシング」と「日本グランプリ」等の日本のモータースポーツ史のホームページをへたくそは十分承知でやり始めたのが最初でした。
他の分野ではその専門家の方々が大勢いらっしゃるし私に出来るとしたらこれしかないと思って開設に踏み切りました。そして、Aさんをはじめ、沢山の方々からのアドバイスや叱咤激励に励まされてなんとか3年目を迎えられたわけであります。
どうかこれを機会にこれからも良きアドバイス頂ければ幸いです。
また、当時をリアルタイマーで過ごされた方々に当時の記憶のコメントを頂き、微力ながら当時の熱狂的な興奮をネット上で再現させて頂いております。もし、Aさんの記憶をコメントしてまとめて頂けるようでしたら是非お願いいたします。
では、どうもありがとうございました。
 18/JULY/2002  T.Hさんから頂いたメール紹介 「はじめまして」
 私、T.Hと申します。
牧野様のホームページを興味深く拝見させていただきました。

私、日本におけるレースゲームの総合サイトであるYellow GarageにてGrand Prix Legends(GPL)というパソコン用のレーシングゲームをより深く楽しむために企画されたプロジェクトを運営しております。サイトではbrubeckという名で、仕事をしております。

Yellow Garage
http://www.yellowgarage.com/modules/news/

GPLプロジェクト「Full Grid」
http://old.yellowgarage.com/titles/gpl/

Yellow Garageがデパートであるとするなら、この「Full Grid」という企画はデパートの中の一専門店のような位置づけになります。
私たちが扱っているGPLというゲームは、1967年のF1GPを舞台にしたものです。
申すまでもないことだと思いますが、この年のF1といえば、葉巻型のマシン、ウィング装着直前、3000ccエンジン、そして広告なしのナショナルカラーという「古き良き時代」ですね。日本との関わりで言えば、モンツァにおいてホンダが二勝目をあげた年です。この時代を扱うという点で、GPLはレースゲーム界で特異な存在です。
このゲームは発売からすでに四年が経過しておりますが、いまだに全世界的に熱狂的な支持者を得て、日々、全世界でオンラインの対戦が行われております。
それは二つの点において、このGPLが優れているからなのです。ひとつは、マシンの挙動のリアリティ。もうひとつが、ユーザーが新しくトラックを作製できる、という柔軟性を持っていること。

じつはこうしてメールを差し上げているのは、我々の仲間が、このGPLのために、船橋サーキットを作り上げたからなのです。
たかがゲームの中なのですが、船橋サーキットを走ることが出来るようになりましたので、ぜひ、お知らせしたいと思いまして、はずかしげもなくメールを差し上げている次第であります。
http://www8.ocn.ne.jp/~polarb21/tracks.htm

作者に寄れば、資料が非常に少なく、ほとんどが想像に寄らざるを得なかったということなのですが、現在ともかくも「走行可能な」船橋サーキットを我々は得ることが出来ました。
 このような形で、我々の世代(現20〜30才台)は60年代のモータースポーツシーンに触れ始めました。こういう存在も日本にはあるのだ、ということを知っていただけたらと思い、筆を執らせていただきました。
それでは、失礼いたします。

 WEB MASTER : 
 H様、この度は私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
早速サイトを拝見させて頂きました。素晴らしい世界を見せて頂いたと感激しております。
しかしながら、まったくゲームに関しては無知なため奥深く見極めることが出来ないことがとても残念でなりませんでした。
船橋サーキットを走ることが出来るようになったということをお聞きして一番先に思い立ったのは、1965年サーキットオープン記念レースであった全日本クラブ対抗CCCレースでした。このレースは、すでに個人となっている浮谷東次郎とそれ以後に日本のレーシングドライバーのパイオニア的存在となる生沢徹との対決に沸いたレースでありました。
ホンダS600の生沢とトヨタスポーツ800の浮谷とのデッドヒートはまさにドラマであり今だに語り続けられているレジェンドであります。
こんなレースがゲームで出来たならいいなとふと思ってしまいました。
では、今後共よろしくお願いいたします。ありがとうございました。
 15/JULY/2002  H.Kさんから頂いたメール紹介「感激です」
 初めまして。
先ほどなにげなく、昔好きだった「リチャード・ペティ」で検索をかけた所、あなたのサイトを見つけました。
現在45歳ですが、やはり「AUTO SPORT」は愛読書でした。
70年代頃までは海外からのレース情報は雑誌でしか得る事が出来ず、唯一の情報源でしたね。
あとは「モーターファン」とか、小学生の頃は「子供の科学」とかだったり(笑)
びっくりしたのは、「過去の日本ストックカー・レース戦績」です。こんなレースがあったなんて今まで知りませんでした。
勿論、昔僕は生沢のファンでした。
 現在川口に住んでいるのですが、明日は「川口オートレース場」で、自転車による2時間耐久レースがあるのです。チーム(4〜5人)で2時間に何周出来るかを競うものです。
 この1周800m足らずのコースで、当時いったいどんな状態でストックカーが走ったのでしょうねぇ。
何台出走したのかとか、どのぐらいの時間走ったのかとか今はもう知る事は出来ないのでしょうね。
ちなみに毎年川口で行われるお祭りが「川口オートレース場」を会場にして行われるのですが、1989年頃だったかF1マシンが何台か展示されていて、ベネトンのマシンがコースを何周か回ってくれました。恥ずかしながら僕がF1マシンの実走を見たのは、これ1度きりなのです。
これから、じっくりあなたのサイトを探索して行こうと思います。
 WEB MASTER : 
 K様、この度はまだまだ未熟な私のHPへ立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂き感謝感激であります。
Kさんがおっしゃる通り、当時のオートスポーツは本当に素晴らしいバイブルであったと思います。(現在は本当に同じ雑誌!?と思ってしまいますが・・・失礼!!)
何もかもがゆっくり動いていた60年代。
ケイタイもない時代、私たちはこれらモータースポーツ誌によって1ヶ月遅れで情報を得ていたわけですね!でも良い時代だったと思います。
ストックカーレースとしては、NAC(日本オートクラブ 日本CAN-AMなどを主催)が主催してはじめた1968年頃が最初のようですが、その原型は川口オートレース場などで行なわれていたとのことでした(これらもNAC主催)。
では、これからもどうぞ良きアドバイス等頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 07/JULY/2002   H.Mさんより頂いたメール紹介「はじめまして」
 
 突然のメールでまことに失礼します。
貴殿の「福澤幸雄」に関するHPを拝見しました。本当に懐かしく、楽しく拝読いたしました。
私は、彼のことを生前から少しは知っていましたが、強く感心を持ったのはあの事故死以後です。
ノーベル書房「追悼写真集 福澤幸雄の光と影」は今も大切に持っています。
当時学校の美術部で部活動をしていたのですが、コンテなどを使ってサチオのイラストやポスターを制作したものです。
絵を書きながら「このマスクは実にいい」とつくづく感じたのをよく覚えています。
貴殿のおかげで、忘れかけていた青春時代の思い出に浸る幸せに出会いました。感謝します。
このメールが貴殿のもとに届くことを祈りつつ、失礼いたします。
 WEB MASTER : 
 M様、このたびはまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂きありがとうございました。
福沢幸雄も含めて1960年代の日本のレーシングドライバーは実に個性のあるドライバーが多かったと思っています。
特に私にとってはチーム・トヨタに当時在籍していたレーサーたちには特別な思いを持っておりました。福沢幸雄はレーサーという代名詞にとらわれない今で言うオールマイティな人間だったと思っています。
このことでは、やはり事故死しました浮谷東次郎とも共通することであります。
現在私は縁ありまして福沢とチーム・トヨタ時代にチーム・メートをつとめ、いくたびかの勝利を分けあっていた鮒子田 寛氏と知り合う事が出来セミ・オフィシャルHPとして「鮒子田寛レーシングヒストリー」なる企画ページを作らせて頂いておりますが、鮒子田さんにとっても福沢は特別の存在だったと言っておられました。
では、本当にメールを頂きありがとうございました。
これからも宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。
 13/JUNE/2002   Hさんから頂いたメール紹介「HP見させていただきました」

 はじめまして、Hと申します。
長文申し訳ありません。

インターネットのサーチエンジンで牧野さんのHPを偶然発見し見させていただきました。とても濃い内容のHPでとても参考になりました。(まだ全部見きれておりませんが…)
私は現在30代ですが、旧車が好きで現在もMS50型のクラウンに乗っております。
当時はクラウンも国内でレースに出ていたという事を知り、そういった関係から当時の資料を色々と調べたいと思い「ストックカー」というKeyWordで検索中に牧野さんのHPに出会いました。
私の周りにも旧車に乗る人間は何人かおり、また、当時のレースに出ていた車のスタイルに興味をもっている者もいるのでとても参考になりました。
そこで教えて頂きたいのですが、これらの写真等は当時の「オートスポーツ」等の雑誌からの出典でしょうか?
なにしろ私が生まれた前後の事なのでなかなか情報を集めるのも大変ですが、幸いインターネットやオークションといった物が発達しているおかげで古い物や情報を入手することが出来、また牧野さんのHPのような参考になるページに出会えた事はとても幸運だと思います。
今後も期待しております。
それでは、失礼します。
 

 WEB MASTER : 
 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
H様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
主宰者として、HPを見て頂いた方からメールを頂くというのは喜んでいただくにせよ、お叱りを受けるにせよ大変嬉しいことであります。
さて、ストックカーというと1969年頃からNAC(日本オートクラブ)主催で本格的なアメリカンタイプのストックカーレースが開催されました。
それまでは、どちらかというとツーリングカーレースの一種として開催されていたというのが実情だと思います。
第1回日本グランプリが開催された時にもツーリングカークラスの1つのレースとして開催されたおり、クラウンやデボネア、ベレル、セドリックなどが活躍していました。
ところで、日本におけるストックカーというとすぐに故 鈴木誠一氏を思い出してしまいます。
鈴木氏は東名自動車を経営しながらニッサン系セドリックをNAC主催のストックカーレースに参加させて自らストックカーシリーズ王者を数年間続け、日本代表としてデイトナ500の前座レースではありましたがこのレースに3回ほど出場し日本の王者のテクニックを披露しながら本場のドライバー相手に大活躍されていました。
しかし、JAFとのトラブルでNACのストックカーレースは1973年頃(!?)だったかで自然消滅してしまいました。大変残念なことでした。
いまでももしこのレースが続いていれば、クラウンやシーマなどがとてつもないレースを繰り広げていたのではと想像してしまいます。
長々となってしまいましたが、本当にストックカーレースというのは楽しいものだったと今も思っています。
ところで、写真についてですが、オートスポーツ誌に掲載されていた写真も少しありますが、ほとんどがその他の昔の雑誌や参考書によるものです。
また、当時サーキットに行かれた方もおりまして、その方から写真をお借りして掲載させて頂いたものもあります。
では、これからも良きアドバイス等頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 22/MAY/2002   MデザインのH.Aさんより頂いたメール紹介 「アンタレス、マナについて」
 はじめまして。
「くるま村の少年たち」を 見させていただきました。

私はMデザインという会社のWeb MasterをしているAと申します。
弊社WebPageの更新にあたり、貴WebPageの写真を使わせていただけませでしょうかという相談です。
 弊社の代表は、当時エバでアンタレスやカンナムを、マキでMAKI F101、F102等を製作していたK.Mです。
今度、弊社WebPageの「代表者略歴」の部分で、昔のレーシングカーの写真を小さ く掲載しようと考えて、以下の車種の写真を探しております。

 エバ アンタレス Type 1A
 エバ アンタレス Type 2A
 エバ Type 3A
 MANA 06
 MANA 09
 MAKI F101、102 等々

当時、写真は撮っていたらしいのですが、残念ながら、Mがこれらを散逸させてしまって現状見つかっておりません。(MANA08は昔の雑誌の写真があ りました)
そこでもし宜しかったら、そちらで載せておられるエバ1A、2A、3Aの写真を使わせていただけないでしょうか。
以上ご検討の程宜しくお願い致します。

 WEB MASTER :
 MデザインのA様、この度はまだまだ未熟完成な私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
さて、御質問の件ですが、私が当時東京レーシングカーショーにて撮りました下手な白黒画像で宜しければどうぞお使いください。
((C) Photographs by Hirofumi Makino)などといれて頂ければ幸いです。
また、HP上の画像はHPを立ち上げたばかりのころの取り込みで、ちょっとピントが合っていませんので新たに送らせて頂きます。(添付画像)

TOP : EVA CAN-AM2A( Leftside) and EVA ANTARES TIPE 1A in 1969.
(C) Photographs by Hirofumi Makino.
ところで、私のHPでは昨年から元日本のトップレーサーであられた鮒子田 寛氏の御協力を得てHP「鮒子田寛レーシングヒストリー」を作らせて頂いております。
近い将来マキF1についても鮒子田さんの体験談をもとに企画ページを作らせていただくつもりでおりましたので、何かK.M氏と聞いてとても嬉しく思いました。
また、鮒子田さんの友人であります林みのる氏からもいろいろとメッセージを頂いておりましたので私としては尊敬する方々から頂くだけで天にも登る気持ちであります。
御協力出来ることがあれば何なりとおっしゃってください。
では、まずはお礼まで。
 22/MAY/2002  “まぼろしチャンネル”Mさんから頂いたメール紹介「リンクのお願い」
 牧野弘文さま
 こんにちは。突然のメールで失礼いたします。
「まぼろしチャンネル」のウェブ担当、
 http://www.maboroshi-ch.com/
Mと申します。リンクさせていただいた報告メールです。 
私たちの「まぼろしチャンネル」ネット局ページ
(http://www.maboroshi-ch.com/net.htm)より、
牧野さまの、
以下のページを張らせていただきました。
http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/ 
リンクすべきではありませんでしたら、その旨をお伝えください。速やかに削除いたします。
このたび、昭和B級文化の研究本「日曜研究家」の著者を中心に、昭和30〜40・1960年代を、扱うサイトをたちあげました。 
リンクのページを設置するにあたり、昭和文化を扱う先輩サイトを、ぜひ、掲載させていただきたく存じます。 
まぼろしチャンネルの中で、車のことを専門的に書ける人間がいなく、また、まぼろしチャンネルの中で、わたしだけ若輩者なのですが、ほかのメンバーにとって、貴サイトのトップに貼ってある「VAN」に、思い入れが深い世代のようなので、リンクを張らせていただいた次第です。
それでは、今後ともよろしくお願いいたします。
まぼろしチャンネル
M
 WEB MASTER : 
 「まぼろしチャンネル」M様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄っていただいいただけでなく、リンクまでして頂きありがとうございました。
早速HPを拝見いたしました。素晴らしい企画構成と内容にビックリいたしました。
このような素晴らしい領域に私のHPなど扱って頂いて本当にかまわないのでしょうか?!本当にありがとうございました。出来れば私の方こそリンクお願いいたします。
では、これからも宜しくお願いいたします。
 21/MAY/2002 広島にお住まいの小松さんから頂いたメール紹介「思い出を有難う」
 
 初めまして。広島の小松と申します、いつも貴殿のホームページを楽しく拝見させて頂きUPを楽しみにしております。
今回、鳥海志郎氏の特集を読ませて頂き、モデルカーレーシングのスーパースターであった氏を思い出させて頂きました。
 私もすでに50歳となり第一期レーシングカーに夢中になっていた世代であり、鳥海氏の事はスピードライフ等の記事を通じこの方はすごいなと思い、当時中学生の私が現在までお名前をフルネームで覚えているほど私にとってスターであります。
 私の住んでいる広島でも1期のころは自転車でいける範囲にも6ヶ所位のサーキットがありましたが、段々と閉店となっていきました、それから私の趣味は、Uコン、ラジコン飛行機、ラジコンヘリと移り家庭を持つ頃、仕事も忙しく空き地も減り趣味らしい趣味は終ってしまいました。
又、車のプラモデルも少し作り始めましたが、やはり私は作り込んだりするより基本的に動く物を作りたい為、あまり熱中する事ができませんでした。
 私の最初に手にしたキットは「コグレのロータスフォード」で始まり「タミヤのダッジチャレンジャー(チャージャー?)」が最後のキットでした。
「タミヤのマクラーレンエルバ」以降はタミヤのキット以外は買ってないと思います。唯一の外車はグリコの懸賞で貰った「レベルのACコブラ」でした、このシャーシーはかなりのポテンシャルがあり、ウエイトセッティングで、インディーカーのクリアボディーに替え速く走れたのを覚えています。勿論タイヤ欲しさのため「ニチモのポルシェF1」も買いました。
しかし、スロットレーシングに夢中になったのは「ミドリのアルファロメオカングーロ」がきっかけでしたその車はご存知とおもいますが、ナロートレッドにFT36でレース向きでは無いのですが、最高のボディーラインで実車は見た事は無いですがその美しさは最高でした。
又、シャーシーは真鍮パイプで、その後自作シャーシー作成やモーター巻きなおしのきっかけとなったキットだったと思います、おかげでハンダ付けだけは上手になりました!
 私の周りでサーキットが無くなって行く頃「AOYAGIパイプフレーム」や「ラクラチャ式シャーシー」が走り出したのを雑誌で見た記憶があります、関東方面はサーッキトがまだ有り羨ましかったのを覚えております。
そして、今の私は子育てや仕事も落ち着き、1年前インターネットで広島にもサーキット(43m6レーン)が有るのを知り時々走らせに行っております。
そこへ初めて行った時、コースの塗装  コントローラー  モーター  シャーシー(スイングアームの無いエクセル)を見て様変わりにビックリしました。
オープンは土曜の夜だけで、人数も少なく6レーンうまる位ですが毎週レースで、35年前を思い出しながら楽しんでおります。
そして、35年の空白を埋めるべく、新しいスロットカーだけで無く、オークションで安いジャンクを落とし「AOYAGI」や「フレキシ」「ユーロ」「プラフィット」等も磨いて走らせています、でもやはり私は当時のにおいのする真鍮のプラフィットが
大好きです、しかしオークションでみるビンテージスロットの高い事、又当時いつも買っていた「モデルスピードライフ」もすごい金額で落とされており、再度見るわけにもいきません当時夢中になった皆さんの気持ちが伺えます。
 取り止めも無く思いつきでメールさせて頂き失礼いたしました、今後ともますますお元気でご活躍され素晴らしい記事を楽しみにしております。
 WEB MASTER : 
 小松様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。
もともと3年前に腰を痛め会社を辞めた時に少年時代趣味でありましたモデルカーレーシングと当時の日本モータースポーツへの憧れがPC教室へ私を向かいさせ、自己中心(?!)のホームページを作ることになったというのがきっかけでした。
鳥海氏の出会いもこのHPに氏からメールを頂いたのがきっかけで、無理やり特集を組ませて頂いたという訳でありました。
そして、今年の2月末に東京 世田谷にあります「レーシング・パラダイス」(プラフィットの会社が経営)にて初めてお会いし、その衰えを知らないレーシング・テクニックは、56歳とは思えない若さを私たちに見せて頂き、ラップレコードを毎周更新していたことはまさに驚きでした。それも初めてのコースで、初めてのマシンで・・・。
今は、再び氏が作られたスロットカーでサーキットを走られることを期待してやみません。
では、今後もお時間があれば是非立ち寄ってください。そして、良きアドバイス等頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 22/APRIL/2002  東京都八王子にお住まいのA.Mさんより頂いたメール紹介「初めまして。お尋ねします」
 <PART 1>のメール
 牧野様

はじめまして。私、八王子市に住むMと申します。
突然のメールですが何卒宜しくお願いします。
 
貴殿のホ-ムページを本日初めて拝見しました。
子供の頃少ない情報の中で憧れたモーターレーシングの世界を久々に覗き見して大変懐かしく楽しく拝見させて頂きました。
私は1958年生まれの43歳ですが、遠い記憶の中に(1964〜1967)私が小学校一年から三年の頃に、叔父に連れられて「船橋のレース」に連れていってもらったことがいまだに忘れられません。

初めて観た「自動車レース」でしたが少なくとも2カテゴリーが走っており、BENZのSLやトヨタ、ホンダの800ccマシンなどが走るクラスといわゆる「ワークスマシン」「プロトタイプ」のクラスがあったと記憶しています。

「プロトタイプ」はいかにもレーサーという感じで台数は大変少なく強烈に速かった記憶がありますが、これの1台が確か「プリンス」のオレンジ色のマシンだったという気がしてなりません。ボディはオープンボディの1ないし2座席、何かの本で読んだ「ローラ製のマシン」にプリンス製のエンジンを積んだR380ではないかと思うのですが、叔父もこの世におらず確たる資料もないまま現在に至っています。

このイベントについてご存知でしたらぜひご教示頂きたいと思いご連絡致しました。
今後もちょくちょく貴殿のホームぺージをお訪ねしたいと思います、宜しくお願い致します。
------------------------------------------------------------------------------------------
<PART 2>のメール
 こんばんは、Mです。
この度は早速の返信メールを有難うございます。
貴重な写真まで頂き大変感激しております。
なにせ子供時代のことで何の情報もなくいきなり連れて行かれたものですので実際のイベントは仰るとおりだったのでしょうね。
でも長年喉につかえていたものが取れたような気がして大変嬉しく頂戴しました。

もちろん、掲載頂いて一向に構いません。
ニックネームでもあった方が宜しければ命名して頂いたら感激です、自分はあまりこういうセンスがないので・・・(鮒子田 なんてのもいいと思ったんですが)これでは偉大な先輩に失礼ですし。

若い有能なドライバーがこれから次々に現れそうでわが国のモーターレーシングも本当に楽しみです。
ただ自分が憧れた頃の福沢選手、生沢選手、風戸選手を始めとする当時のドライバーの皆さんの華やかさは年々なくなっている気がしてなりません。
子供心に「MG5」でしたか、男性化粧品のイメージキャラクターだった福沢選手のポスターを食い入るように観ていた記憶があります。

スロット(モデル)レーシングカーも背伸びして実は子供の頃少しやってました。

小学校の3年まで浅草におりまして当時「新世界」という「花やしき」の向かいにあるゲームセンターの階上にサーキットがありました。
その後、家の事情で麻布に引っ越した後も「西麻布(名前を忘れました)」「東京タワー」「白金」「恵比寿」のサーキットを転戦(!?)したこともありました。当時は自転車少年でよく広尾の「ルマン商会」のファクトリーや六本木の「瀧レーシングチーム」の事務所とか「ルブローレン」の工場へステッカー収集へお邪魔しました。いや〜懐かしいですね!

本当に楽しいサイトですのでまたぜひお邪魔させて下さい!
 

 WEB MASTER : 
 <PART 1>へのお返事
 M様、この度は私のまだまだ未熟なHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。

 一年から三年の頃に、叔父に連れられて「船橋のレース」に連れていってもらったことがいまだに忘れられません。

私とMさんの年齢差が4年あると考えて、尚且つ、船橋サーキットは1965年に誕生したわけですから、たぶん1965〜1967年(この年に惜しまれながら閉鎖)の2年間ではないかと思われます。

 「プロトタイプ」はいかにもレーサーという感じで台数は大変少なく強烈に速かった記憶がありますが、これの1台が確か「プリンス」のオレンジ色のマシンだったという気がしてなりません。ボディはオープンボディの1ないし2座席、何かの本で読んだ「ローラ製のマシン」にプリンス製のエンジンを積んだR380ではないかと思うのですが、叔父もこの世におらず確たる資料もないまま現在に至っています。

 プリンス系のプロトタイプは富士スピードウェイでしか出場しておりませんでしたし、ローラ製のマシン(ローラT70MKII)も船橋サーキットではついに走行することはありませんでしたから、このお話から想像するには「カネボウ・ダンディ・スペシャル」ではないかと思います。
このマシンは、NAC(日本オート・クラブ)のデルレーシングが製作したもので、エンジンはトヨタ製クラウンV8をチューンしたものを搭載していたスペシャル2座席レーシングカーでした。

 このイベントについてご存知でしたらぜひご教示頂きたいと思いご連絡致しました。

 これも私の想像ですが、このマシンが船橋サーキットに出場した時のリザルトを探してみますと1つのレースにたどり着きます。
それは、1967年3月19日に開かれた「全日本スポーツカーレース船橋大会」です。
レースは、ツーリングカーレースとスポーツカーレースの2レースが行なわれており、ツーリングカーレースには、コロナ1600GT、ベレット1500、スカイラインGTなどが出場しておりました。
また、スポーツカーレースは、カネボウダンディSPL、ジャガーEタイプ、デイトナ・コブラ、ロータス・エラン、ホンダS800などが出場しており、優勝は真田睦明のドライブするカネボウダンディSPLが優勝しました。
一応その時の画像(カラーは船橋のレースではありませんが、参考までに)を送ります。
では、これからも宜しくお願いいたします。
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 <PART 2>へのお返事
 M様、メールありがとうございました。
少しでもお役に立てたみたいですので安心いたしました。

 福沢選手生沢選手風戸選手を始めとする当時のドライバーの皆さんの華やかさは年々なくなっている気がしてなりません。

その通りだと思います。
やはりその時代背景の違いではないかと思います。
個性を打ち出さないと皆より一歩前にはでられない時代だったからではないでしょうか。
F1がポピュラーになっている今と違いスポンサーを捜すのにとても大変な時代だったし・・・。
それと家庭環境が裕福なドライバーが当時は多かったと思います。

 小学校の3年まで浅草におりまして当時「新世界」という「花やしき」の向かいにあるゲームセンターの階上にサーキットがありました。その後、家の事情で麻布に引っ越した後も「西麻布(名前を忘れました)」「東京タワー」「白金」「恵比寿」のサーキットを転戦(!?)したこともありました。

 その頃だと思いますが、モデルカーレーシング界で頂点におられた鳥海志郎さんの企画ページをUPしておりますのでお時間があれば立ち寄ってください。

 よく広尾の「ルマン商会」のファクトリーや六本木の「瀧レーシングチーム」の事務所とか「ルブローレン」の工場へステッカー収集へお邪魔しました。いや〜懐かしいですね!

 凄く行動的に活躍されていたんですね!
その当時のステッカーなどが今あればとても価値があるものになりますね!
では、これからも宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。

 24/MAR/2002  Yさんに頂いたメール紹介 「はじめまして」
<PART 1>
 牧野弘文さん、はじめまして。。
船橋に住む、Yと申します。
トヨタ2000GTを検索していて偶然見つけました。
「くるま村」の少年たちのページを楽しく拝見させていただき、第3回日本グランプリのお話が出ていて、涙が出るほど懐かしい思いでした。

小生は、牧野さんより2歳年上で、船橋生まれの船橋育ち、毎週かかさず、船橋サーキットに通い、帰りは、船橋ヘルスセンターボーリング場内のスロットルレーシングで遊んだほうです。

当時、船橋でも活躍していた、瀧進太郎や生沢徹の名を見て突然、懐かしくなって、メールを差し上げてしまい失礼いたしました。

ページのご繁栄をお祈りいたします。

<PART 2>
牧野さん、メール、ありがとうございます!
今日は一日、牧野さんのページを読んで過ごしました。トヨタ7、380(サンパーマル)、懐かしかった〜!(笑)

昔のレースに詳しい牧野さんが、ご存知でしたら、教えて頂きたいことがあるのですが。。。

当時、小生も車好きな中学生で、オートスポーツ、CARグラフィックを毎月買って読んでいました。
多分、それで船橋サーキットの情報を得ていたのだと思います。
当時、家が船橋駅近くだったので、レースが開催される度、モデルカー(小生の愛車BRM)とコントローラーを自転車に積んで、サーキットに出かけました。

牧野さんのおっしゃる1965年の全日本CCCレースがどのレースだったかは覚えていません。
ただ、やけに速いS8?6?(確かピンクだったような)と緑に黄色のストライプのロータスエランがあり、それが浮谷と生沢だったと後で知りました。

謎というのは、
「カネボウダンディSPL」という車の事です。
ほとんどのレース名は、覚えていないのですが、夏の「東京200マイルレース」は、覚えています。
瀧のカレラ6が出場するというので、楽しみにしていたのですが、何かのトラブルで本戦には出てきませんでした。その時、市販車を改造したのか、自分たちで作ったのか分かりませんが、2座席オープンカーが出場予定でそれが「カネボウダンディSPL」でした。
しかし、それも何かのトラブルで見られませんでした。
カレラ6は、後に見ていますので、あの車だけは、小生の謎です。
 昔の事なので、他のレースと混同しているかもしれません!違っていたらスミマセン!
以来、小生は船橋市内の引越しを三度繰り返し、車関係の本を全て捨ててしまいましたので、当時を振り返ることが出来ません。
牧野さんは、この車の事をご存知でしょうか?
まだまだ、書きたいことはたくさんあるのですが。。(笑)
長くなって、すみません!

 WEB MASTER : 
<PART 1>のお返事
 Y様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂きありがとうございました。
さらに、メールまで頂き感激であります。
そして、さらに船橋にお住みとのこと、実は私は近くの市川に現在住んでおります。目と鼻の先ですね!
今から12年前に東京の板橋から引っ越してまいりましたまだまだ新入りであります。
実は3年前から市川にある浮谷東次郎さんの公式クラブでありますTOJI'S CLUBに入会いたしました。
毎年、8月(浮谷さんが亡くなった月です)の総会が実家の中の教会で行なわれ、浮谷さんの親友であった本田博俊氏(無限ホンダ代表)が御夫婦で毎年名誉会員としていらっしゃいます。
私としては本田さんのお話しを聞くのが一番楽しいです。
もし御興味がありましたら、私のHP上にもTOJI'S CLUB体験記なども書かせて頂いておりますのでお時間がある時にでも立ち寄ってください。
また、TOJI'S CLUBのオフィシャルサイトはこちらです。

Yさんは、あの有名な1965年の全日本CCCレースをご覧になったのでしょうか。生沢さんと浮谷さんのデッドヒートで今や伝説化しています。
では、これからも良きアドバイス頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。

<PART 2>のお返事
 Y様、早速のお返事ありがとうございました。そして、メール掲載の件ありがとうございました。
また、御自身のHPにこのHPの事を書いていただけることも了解いたしました。
さらに、私のまだまだ未完成なHPを1日中見て頂いたそうで本当に感激であります。
「カネボウ・ダンディSpl」についてですが、1967年3月19日の全日本スポーツカーレース船橋大会に真田睦明のドライブで出場しました。
エンジンは当時のクラウン8のV8エンジンを積んだ2座席レーシングカーでした。詳しい内容はまた資料を調べてご報告いたします。
その後「ケロヨン号」などと呼ばれてレースに出場したのではと記憶しております。
1967年11月3日に開かれた全日本スポーツカーレース富士大会にも伊能祥光のドライブで酒井正のデイトナ.コブラや滝のカレラ6などに次いで4位に入っています。
シャーシーは、デル・レーシングではなかったかと思いますが・・・。
では、これからも良きアドバイス宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。

 20/MAR/2002  I.Hさんから頂いたメール紹介 「懐かしく思いました」
 < PART 1>
 初めてメールを送らせていただきます。埼玉のHと申します。
「永遠なれ!巣鴨サーキット」の所を読んで、大変に懐かしく思いました。

実は私が巣鴨に行ったのは一度だけで、その時は自分のマシンを持参していなかったのですが、時期的には閉店する直前だったようですね。
当時の私が中学生の頃ですから、「1979年前後」だったと思います。
その時は真鍮製のスパーギアを何個か買いました。

高校に入ってスロットカーとは疎遠になりましたが、たまたま就職した所の社長がその昔、各地のサーキットで相当暴れ回ったと聞きました。
彼の住まいが滝野川だったので、巣鴨にはよく行っていたそうですが、パーツ製作の方も相当に熱心で、板橋辺りの町工場に頼んでギアを作らせたりして、その一部が巣鴨でも売られていたようです。

最も熱心に取り組んだのが、モーターのチューニングだったそうで、マブチから何箱もモーターを買って分解して、マグネットを選り抜いて丁寧に巻き直したアマチュアと組み合わせたモーターを付けては、週末に座間キャンプでアメリカ人たちを何度もやっつけたそうです。
当時の全日本でも活躍していた筈なので、ひょっとしたらご存知かもしれませんね。

私がスロットカーを再び走らせたのは1990年頃ですが、タイヤを入手するために青柳金属工業に電話した所、偶然にも会社の清算している最中なので、何か必要なら直接ここまで取りに来て欲しいと言われ、急いで小岩まで行った事もありました。そんな訳で、なぜか巣鴨といい青柳といい、閉まる直前に行く癖がある私なのでした。(白金もそうです)

たまたま私の父親はモータースポーツ関係で長く役員を務めていたので、他にも何か思い出せますが、もし興味がありましたらお尋ね下さい。

 < PART 2>
 ご丁寧なメール、ありがとうございました。
こんな話題でも返事を頂けて、私もちょっと嬉しくなってしまいました。

私はインターネットは見るだけの立場です。ご自身のHPを「未熟」と評されていますが、私には「思い」がタップリ込められている素晴らしい作品になっていると思います。これは大変な労力であるだけでなく、同じような思い出を共有できる場を創られた事に大変感謝しています。

私が勤めていた所の社長はFさんという人で、もう還暦のはずですが、南大塚で会社を営んでいて、私はここでお世話になりました。
今でも近くに用事があれば時々顔を出しています。スロットカーの話は本人から聞いただけでなく、当時使っていたマシンを見せてもらった事もありました。ちょっと記憶が曖昧ですが、コントローラーにはブレーキ用のバッテリーに逆転回路が組まれていて、これでスタートに大差をつけたと聞きました。(今なら完全に反則ワザですね)

Fさんは大変な物知りで、しかも話し好きなので、一度お会いになってはいかがでしょうか? それなら私もぜひ紹介したいと思います。(彼は実物のクルマ遍歴もすごい?ですよ)

コントローラーといえば、私は10年位前、無謀にも自作した事があります。
もちろん自分で使うためだったのですが、白金で使っていたらお店の人に「それ何個か作れない?」みたいな話がありました。すでに当時は青柳のコントローラーが入手できない状態で、レバー式にこだわる人達は古い物を直しながら使っていました。試作を何度か作って見せると次は色々なケチが付くもので、私の工作技術ではそこまで応え切れず、モタモタしている内に海外留学することになり、コントローラーの製造は立ち消えになりました。
白金が店を閉じたのは、それから数年後になります。

余談ですが、その自作コントローラーをリバーサイドで使っていた時に、飲料水の「チェリオ」の社長さんに会いました。彼の言葉に「ゴセンの・・・」という意味を当時の私は理解できなかったですが、牧野さんのHPを見てだんだん話の断片が見えてきたような気もします。
残念ですが今日は時間切れとなってしまいました。
では、また。

 WEB MASTER : 
 < PART 1>への返事
 H様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂きありがとうございました。
さらに、メールまで頂き感謝いたします。
巣鴨サーキットに私が行っていたのは中学生時代から高校の間ですが、とても感じの良いところだったと思います。
Hさんの会社の社長さんが巣鴨サーキットを主戦場となさっていたとの事ですが、是非機会があればお話しをうかがってみたいです。
そして、全日本選手権にも出場されていたのでしたらなおさら当時のお話しをうかがいたいところです。

> 当時の全日本でも活躍していた筈なので、ひょっとしたらご存知かも
> しれませんね。
>
実は、私のHP上にある「皆さんから頂いたメール紹介」ページに紹介させて頂いております鳥海志郎氏は、1965〜66年にかけてやはり全日本での活躍、特に関東では無敵を誇っていた方で、第1回オール関東選手権1/32クラス優勝をかわきりに2年弱の間に約90勝をされた方です。
たぶんHさんのお知り合いの方は鳥海さんを御存知ではないでしょうか?!
この鳥海氏は現在再びコントローラーを握ろうとされており、大変私達モデルカーレーシングファンにとっては嬉しい出会いでありました。

> たまたま私の父親はモータースポーツ関係で長く役員を務めていたので、
> 他にも何か思い出せますが、もし興味がありましたらお尋ね下さい。
>
JAF関係の方なのでしょうか?!
私のHPを見て滝進太郎氏(60年代後期タキ・レーシングチームを結成し、ニッサン、トヨタにプライベートチームとして、華麗に闘いを挑んだ方、後にJAFの役員にもなっていた)の御遺族の方からのメールもあったりもしますので、当時の日本のトップドライバーの方々についてお詳しいのでしたら是非教えて頂きたいことが沢山あります。
ということで、本当にありがとうございました。
これからもお時間があれば是非立ち寄って頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

 < PART 2>への返事
 それにしてもHさんのお知り合いのFさんは、先日お話しした鳥海さんという方よりも年上だと想像しましたが、実際に活躍しておられた時期は一緒ではないかと思います。
それにしましてもコントローラーの自作の件、本当に感心いたしました。
今でもその自作コントローラーを御持ちなのでしょうか。
是非このHP上でその自作コントローラー製作記なるものを載せさせて頂けたらなどと思ってしまいました。
そして、引き続きこのHPを宜しくお願いいたします。

 20/MAR/2002  JAMさん頂いたメール紹介 「偉大なる月刊誌だったオートスポーツ」
 はじめましてJAMと申します。

最近 「くるま村の少年達」を知り楽しく拝見させていただいております。

60年代後半のレーシングシーンはとても魅力的でした。
そんなことに思いをはせ 当時数少ないモータースポーツ番組「世紀のデットヒート」で検索をしたときに、くるま村の少年達を発見して、それ以来ちょくちょうく遊びに来ています。

AUTO SPORT誌についてですが、
創刊号は第2回日本グランプリの特集号で136ページ定価は180円でした。
表紙はプリンスグロリアスーパー6 おそらく発行は64年5月25日summer号。
このころのAUTO SPORT誌は季刊誌でした サイズもB5です。

第2号は64年autumn海外GPレースと国産GTカー。
表紙はスターリングモスのドライブするホンダS600昭和39年8月25日発行。

第3号は64年winter世界2.4輪GPとレーシング技術昭和39年11月25日発行。
表紙はジムレッドマンとホンダ250.6気筒レーザーの写真。

こんまま66年の第8号昭和41年2月25日発行のspringをへて、66年4月号からはれて月刊誌となります。
表紙はフェアレデイS  66年デイトナ24時間フォードの野望みのるとあります定価は230円です。

私の数少ない資料ですが少しでもお役にたてればさいわいです。
 

 WEB MASTER : 
 JAM様、この度はまだまだ発展途上で未完成な私のHPに立ち寄って頂きありがとうございました。さらにメールまで頂き感謝しております。
オートスポーツ誌が私に与えてくれた衝撃は、小学生高学年から高校時代まで、私の頭の中にまさに現実を見ているが如く記憶されつづけ、今だに勉強したことはとっくに忘れておりますが、オートスポーツ誌に出ていたことなどはしっかりと覚えております(笑)。
そして、お忙しい中オートスポーツ創刊号からの内容の御提示まで頂き誠に感謝感激でございます。
実は先日やっとの思い出創刊号から揃えることが出来ました。
また、浮谷東次郎さんのオフィシャルクラブであるTOJI'S CLUBにも入会していることも関係しているのですが、初期のオートスポーツ誌に書かれていた浮谷さんの試乗レポートの数々を見てみたいという気持ちもあって捜しに捜していたというのが本当のところでありました。
http://www.interq.or.jp/world/beat/tojiro.html
カーグラフィックとはまさに対照的なオートスポーツ誌は私をわくわくさせるに十分な内容であり、ある種のバイブル書になっていたと思います。
では、これからも良きアドバイス頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 27/FEB/2002  Y.Mさんから頂いたメール紹介 「はじめまして」

 初めまして。 スロット・レーシングの第一期、第二期それと第三期を経験した小生に取って貴HPは実に涙ものです。

小生の記憶では、第一期における東京でのベスト・コースは九段の科学技術館だと思います。 コースの長さや設計の良さでここの右に出るものはないと思います。

上記以外では、後楽園(2コース)や浅草にもかなりありましたし、ナガシマと言う喫茶店の2階にもコースがありました。

第二期では、浅草の楽天地ボール、花やしき、北千住等のコースを探しながら遊んだものです。

第三期では、日暮里にモデナ(すぐ閉店になりました)、足立のリバーサイド等でしょうか。

今ではどれ程の効果があったのか不明ですが、当時は自作シャシーを多く見受け、4輪サスペンションや、ディファレンシャル・ギヤまで装備した車が凄いスピードで目の前を走る抜けるのを見て驚いたものです。 シャシーを見たいがために、何とかコース・アウトしないものかと祈ったことを覚えています。

模型関係資料のみならず、実際のレース(日本GP等)は非常に楽しめるものです。

当時の資料を種々お持ちであることは驚異的ですね。

小生も数少ないながらも当時のカー・グラフィック誌及びオート・スポーツ誌を東京、神田の書店を巡り収集し保存しております。

その中でも小生が「バイブル」として所持している雑誌の画像を添付させていただきます。

これは、日産のR380、R381、R382それとR383のレース参加記録、開発記録を詳細図面と共に紹介している非常に貴重な別冊で、当時の状況を彷彿とさせてくれます。 トヨタ7やローラの記事も少ないながら載っています。

これからも貴HPに度々拝見しますので、よろしくお願い致します。

 WEB MASTER : 
 Y様、この度は未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
Y様は、60年代スロットカーの時代から最近までをリアルタイマーとして過ごされていらっしゃったとうかがい本当に素晴らしい人生を送られていると思いました。
実車のレースの世界も本当にその当時は素晴らしい夢があり、毎月発売されるオートスポーツ誌等を心待ちにしていたことが思い出されます。
そんな熱烈な時代が、今となっては余り語られなくなり本当に寂しい思いであります。
忘れてはいけないこの時代という気持ちがこのHPを作らせて頂いたきっかけであります。
最近、60年代スロットカー時代、名レーサーの名を欲しいままにしていた“鳥海志郎”氏からも感激のメールを頂き、本当にモデルカーレーシングは死んでないということを確認した次第です。
どうかこれからも良きアドバイス頂ければ幸いです。
ところで、最近Yさんも行かれていたモデナでレースをされていた方々と交流があり、先日も世田谷のレーシング・パラダイスにおいてレース風なOFF会を開かせて頂きました。
ゲストとして前記した鳥海氏にも参加して頂き往年のドライビングを披露して頂きました。
もし、またそのような機会がありましたら是非ご参加して頂ければ幸いです。
では、どうもありがとうございました。
 26/JAN/2002  佐賀県の脇山伸太郎さんから頂いたメール紹介 「はじめまして」

 「くるま村」の少年たちの管理人さま、はじめまして。

以前よりホームページを見させていただいておりました。
わたしも’68’69あたりの日本グランプリには懐かしいというよりもそうとうの思い入れがあります。

最近はyahooオークション等のおかげで小中学生の頃作っていたプラモを購入したりして楽しんでいます。

今回メールさせていただいたのは、私もまだ未熟ですがホームページをアップしたばかりです。
つきましてはリンクさせていただければ幸いだと思いメールした次第です。
よろしければ、よろしくお願いします。

http://moon.gaiax.com/home/shintaro

 WEB MASTER : 
 脇山様、この度はまだまだ未完成な私のHPに立ち寄っていただき、またメールまで頂きありがとうございました。
早速HP拝見いたしました。
まず議員さんであることにビックリ!
こんな話しのわかる議員さんがいたら私は安心して暮らせると思いました。これからも頑張ってください。
そして、HPを立ち上げたばかりだとおっしゃいましたが、私などは足元にも及ばない完成されたHPだったのでビックリいたしました。すばらしいです!
そして、私の大好きなディープ・パープルがお好きだと聞いてなおうれしくなってしまいました。
そして、モデルカーへの思い入れも素晴らしく、特にトヨタ7の初疾走した時のモデルと69年富士1000Kmに走ったと思われる赤いトヨタ7に感激しました。
私のHP上にある鮒子田 寛レーシング・ヒストリーに是非紹介したいです。
そして、リンクをしていただけるとのこと、こちらこそ宜しくお願いします。
当方も相互リンクを近日中にいたしたいと思いますので宜しくお願いします。
今後もどうかよろしくお願いします。
 23/JAN/2002  鳥海志郎さんから頂いたメール紹介「はじめまして?」
 牧野様
 突然のメールですが、今日インターネットの検索でたまたま「モデルカーレーシング」と入力したら牧野さんのページがでてきました。
私も昔昔その昔熱中していた関係で内容の凄さと正確さにビックリしました。
もう、懐かしい名前の模型メーカーやら車の名前、模型雑誌の名前が出てきてうれしくてうれしくて大変です。

私事ですが下記の名前でわかっていただけるかと思いますが、学生時代模型とラジオや模型と工作、モデルカーレーシングに記事や連載をしておりました事もあります。もう35〜6年前ですから‥

昔の部品はほとんどなくなってしまいましたが、最近また少し流行ってきているとのニュースを先日テレビでみてどこか東京にサーキットでもあればと、インターネットで調べていたところです。

白金サーキットの経営をやっておられた(最初は違いますが‥)等々力モデルのSさんとか、ミスタークラフトのM兄弟とも久しくお目にかかっておりません。

巣鴨サーキットは余りうかがいませんでしたが懐かしいですね。武蔵小杉サーキット、原宿サーキット、赤坂テアトルサーキット、ゴーセンの銀座サーキット、麻布サーキットなどなど、良く夜中まで行きました。

ところで、クライマックス社の社長は私の記憶ではUさん(紀久夫?‥お名前はチョット忘れました)という方です。
私の自宅が(今もですが‥)目黒で、歩いても10分ぐらいのところでした。

当時はYさんという方(たしかラジコンの方へ行かれたと思いますが‥)とかKさんという方が仲間だったと思います。

クリアーボディの型は最初たしか銀座天賞堂の2階模型売り場で、車とか飛行機の非常に精巧なクレイモデルを作られていた方だったと記憶しています。楓の木を削って型を作られていました。

今のお仕事は模型関係ですか?また、東京でどこかサーキットをご存知でしたらお教えください。(以前渋谷のNHKの前にありましたがなくなってしまったようですが‥)

また、家の方からでもメールさせていただきます。

 WEB MASTER : 
 鳥海様、この度はまだまだ未完成なこのHPに立ち寄っていただき、そしてメールまで頂いて本当にありがとうございました。
待ちに待ったというか本当に感激極まりない鳥海さんからのメールを見てこのHPを作った甲斐があったと今しみじみ思っている次第です。
まさに、私が当時(小学校6年から中学生時代)にかけて毎月のように楽しみにしておりました「モデル・スピードライフ」や「模型とラジオ」、そして増刊号でモデルカーレーシング特集がありました「模型と工作」に実際に記事を書かれていらっしゃった鳥海さんとこうしてメールを交わさせて頂いていることが今だに信じられません。
それだけ私の頭の中にはその当時の熱いモデルカーレーシングの出来事が今だに多くを占めているわけであります。
鳥海さんの記事を初めて見たのは、ストックカー用シャーシーの製作記事(田宮製スプリングサスペンションシャーシーを改造したもの)でした。
その後バックナンバーを手に入れて鳥海さんが第1回オール関東選手権で1/32クラスで優勝なさった事を知りました。
コックスのシャーシーを改造されたモデルカーで優勝されていました。
私がこのHPを作るきっかけとなったのは、もちろんこの圧倒的に燃えていた1960年代のモデルカーレーシングと日本のモータースポーツを忘れさられないためにという主旨はありますが、なによりも私個人が忘れられなくこの興奮をどうしたらHPに表現できるのだろうかと思った時、モデル・スピードライフを再現してみたらどうかと自然に思い立ったわけでありました。
この本は現代のモデルカー雑誌に多大なる影響を与えただけでなく、多くのオジさんモデラ―たちを誕生させてくれました。
現在のモデルカーレーシング(短にスロットカー呼んでおりますが・・・)のサーキット運営者や個人で作って販売しているモデラーさん、そして、今でもレースを楽しんでおられる方々・・・、モデルカー関係雑誌の関係者・・・など。
私のHPにも何10通にもおよぶ当時リアルタイマーだった方からのメールも頂いており、当時の熱狂さがわかります。
今でもサーキットは少ないですが、存在しており
1) http://www.j-clark.co.jp/index2.html
「シャパラル」というサーキットのHPです。
2) http://www.mars.dti.ne.jp/~sakatsu/
「さかつう」というモデルカーレーシング用シャーシーのメーカーのHPです。
3) http://www.mars.dti.ne.jp/~sakatsu/slot.html
同じく「さかつう」のHPのスロットカーのページで主な全国のサーキットが書かれています。
 1980年代に第2次スロットブームが起こり、昔のモデルカーキット(田宮、COX等)を使用したり、レジンでボディを作り、昔なかった車でレースしたりして楽しんでいました。
その後「モデルカーズ」という60年代を私のように過ごした「カーマガジン」編集部の1人が熱望して創刊し、スロットカー特集を掲載したことや「さかつう」や「プラフィット」などの当時市販されていたプラモデルに簡単に装着できるスロット用シャーシーを販売したことでブームに拍車がかかり、1990年代中盤までこのブームが続きました。
その後その影響でしょうか、昔のスロットキットが異常に沸騰した値段となり今では田宮のキットは10数万円で取引されているという現状となり、純粋な取引では絶対に手に入らなくなってしまいました。
今は、ホームサーキットを少々大きくした程度のサーキットで楽しむ事が出来る1/32スケールのスロットカーが年齢関係なく受け入れられています。
これらは全て完成品で私のHPにも鮒子田 寛さんの愛車として先日改造して作らせてもらっていますので見てください。
http://www.mmjp.or.jp/60srace/ModelcarHF3.html

ところで、当時のモデルスピードライフのお仲間とは交流はないとのことですが、初代モデルカーレーシング連盟会長のH氏やH氏、そしてK氏、S氏などはお元気なんでしょうか?!それから、無理なお願いだとは思うのですが、私のHPでの夢は、鳥海さんら当時のリアルタイマーの方のお話をうかがって、当時のレースの雰囲気や雑誌製作の上での裏話などを是非このHP上で語って頂けたらと切に思う次第であります。
もし、お忙しいとは思うのですが、1度お話をうかがわせて頂くことは出来ないでしょうか!
とってもあつかましいお願いなのですが、やはり外から見た私の一方的なレポートだけではどうしてもHPが成り立たないような気がしております。なにとぞ御理解頂ければ幸いです。
 クライマックス社といえば、私が本当にお世話になったというか楽しませて頂いたメーカーです。
ここの社長さんが今でもお元気でしたらいつかお話しをうかがいたいです。
ところで、昨年オークションでひょんなことから私の手元にまいりましたのが、当時のクライマックス社の木型でした。
1/24スケールの「ニッサンR382」です。ちょっとリヤが欠けていますが、正真証明のものです。
何故流出したのかわかりませんが・・・。他にも木型は流出して他のブランドとして売られているようでした。
 長くなりました。書けばもっと長くなってしまいそうなので、この辺にいたします。本当にありがとうございました。
これからもどうぞ宜しくお願いします。

 21/JAN/2002  Uさんから頂いたメール紹介 「はじめまして」
 まきのさま
突然のメールで失礼いたします。
以前より時々ページを見せていただいております。大変に充実した内容に感服いたしております。車好きな者にとってうれしいページです。
プラモデルのこと、スロットレーシングカーのこと、どれも懐かしいものばかりです。
私も50代半ばになり、昔の車のことを知っている者として当時のことを誰かに伝えたいと思い、つたないものですが車関連のページをアップしております。
http://usapapa.cool.ne.jp
私の場合は中学、高校の時に集めたカタログです。
WEBマガジンのようなものを目指しているため車オンリーではありませんが、一部に1960年代の車カタログと当時の様子を紹介しています。
このカタログは、一昨年自宅が火災に遇ったのですが、その難から逃れられたものです。(プラモもミニカーもスロットも全部焼失してしまいました)折角残ったものだからこの際、自分で持っているだけでなく皆さんに公開した方がよいと思ってサイトを作っています。文章は記憶を頼りに作っているため間違った記載をしているかもしれません。
 プラモデルは田宮がホンダのスーパーカブを出した時に始めて作りました。その精度の高さに感激した記憶が残っています。確か100円だったと思います。
私は昭和22年生まれですので、模型といえば木を削って作ることから始めました。ゼロセンや隼、戦艦武蔵・大和・三笠等々の模型キットがありましたが、ビニールや箱の中に入っているものは金物を除いて適当なサイズに切った木片ばかりで、それらを図面にあわせて削るところから始めたものです。
中学では先生がUコンというヒモ付きエンジン飛行機を時々飛ばしてくれました。どれも懐かしい思い出でいっぱいです。
牧野さまはスロットカーがメインですね。私も予備校時代に講義をさぼってボーリング場の一角にあるコースへ通ったものです。スリックタイヤにコーラをしみこませるとグリップがいいとか、ギヤ比をいろいろ変えたりもしました。一番よくやったのはモーターのコイルを巻き直すやつです。
初期の頃はブラシに耐久性がなくて駄目でしたがジッポーの着火石(名称を忘れてしまいました)みたいなものになってからは、随分とその効果が表れたことを今でも覚えています。コイルの巻数を均一にするため声を出して数を間違えないようにしたものです。
メールを書いていて当時のことが走馬燈のように頭の中を駆けめぐってきました。これ以上続けると際限がなくなりそうなので、またの機会にいたします。
本当にありがとうございました。
ご多忙とは存じますが、まきのさまに是非一度ご高覧いただきたくお便りさせていただきました。
 本当に不躾な便りで申し訳ありません。それでは、よろしくお願いいたします。
 WEB MASTER : 
 U様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂きありがとうございました。
私にとってUさんは60年代をリアルタイマーで生きられた先輩というだけでなく、当時幼かった私以上に当時のことを鮮明に記憶されておられると想像しています。
スロットカー(当時は単にレーシングカーと呼ばれてましたが)やそれ以前に当時の子供たちの憧れでありましたミニカーなどを火事により無くされたとのことですが、本当に大変だったと感じています。
でも先ほど拝見させて頂いたUさんのHPを見てとても素晴らしいHPだと思いました。
やはりリアルタイマーであったUさんだからこそ作ることが出来たHPだと感じております。
 私が小学校低学年の頃、家の死んだ親父がよく宇佐美さんのように大和などの木製の模型を作ってくれました。
プラスチックになってからは、幌馬車や駅馬車、それからユネスコシリーズ(!?)とでもいうのでしょうか、オランダの水車なども作っていたと記憶しております。そうそう帆船なんかも沢山作っていたと思います。
私自身は、マルサンのゼロ戦などのシリーズを作ったりしたのが最初だったと思います。
そして、Oゲージ(3本線)の電気機関車なんかも夢中になった思い出があります。
モデルカーレーシングは高学年になってから流行り出したもので今までのプラモデル等とは全く違う内容に強烈なカルチャーショックを受け、それが今でも続いております(笑)。
では、これからもどうぞ宜しくお願いいたします。また、よかったらリンクさせてください。
ありがとうございました。
 
 20/JAN/2002  mach-1さんから頂いたメール紹介 「勝手ながら感動してリンクしてしまいました」
 たしか前にも何回か寄らせていただきました、正に私たちの世代ですテレビでも富士でストックカーレースを日曜日に放送していました。
それを見るのが楽しみでした、ちなみに私は昭和31生まれです、生で見たのは日産R382を見ました当時ヘッドは日産でシリンダーブロックにシボレーと書いてあったと思います。
当時の日産としてもエンジンをそっくり開発が出来なかったんですかねー、でも迫力有りましたね、こちらのホームページを拝見していると車以外のことまで思い起こします。
当時は排気量がやたら大きかったのを覚えています8リーッターとか、そしてスリックタイヤが付いていなかったと思います、最後は日産R382でツインターボで確か1000馬力だったと思いましたが、オイルショックか何かでレースに出ていなかったと思います、トヨタもニュー7を作っていましたが日産がレースから撤退してライバルを失いニュー7も確かレース活動はしていなかったようでした?また迫力の有るレースをしてもらいたいですね、ではこのへんで失礼します。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mach1/
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 mach-1様、この度はまだまだ未熟な私のHPをリンクして頂き感謝しております。
60年代の日本モータースポーツは本当に熱いものでした。
何もかもが初めてのことで関係者はまさしく“ゼロ”からの出発だったのではと思います。
それだけにいろいろな試みもされたり、今考えてみると素人のような改造もされていたりと、本当に面白い時代でもあったのではないかと思います。
 モデルカーレーシング(スロットカー)も同じことで外国のコピーから始まって(COXやモノグラム、そしてレベル等)田宮のように今では世界の田宮といわれるようなメーカーさえも当時は一生懸命モデルカーレーシングを研究しておりました。
そして、当時の最高モデルカーと言われたCOX製キットを性能的に超えるようなものも作り上げたのもすごいことだったと思います。
これからもどうぞ宜しくお願いします。
 18/JAN/2002  T.Sさんから頂いたメール紹介 「懐かしい!!」
 マキノさん
始めまして、Sといいます。1954年生まれ、男性、S区在住。
最近、40代後半の人と知り合い、モデルレーシングカーに関しての話題が出てきて、後で、調べたくなり、田宮模型会社へメールの問い合わせを送信してたのですが、時間の経過が過ぎた所為か、全然分からないという返答でした。

そんな最中に、牧野さんのモデルレーシングカーに関するホームページを読ませて頂きました。涙が出るくらいとても懐かしく感じました。私が小学生だった、1960年代に大変に流行ったモデルレーシングカーに、私は、寝食を忘れて、夢中になりました。当時は、スロットカーという名称ではありませんでした。しかし、現在でも、サーキット場が健在しているようですね。

 私は、スロットカーを、また再開したいと思います。牧野さんは今はスロットカーをやっているのですか?もし、やっているのでしたら、情報を教えて頂きたいですし、もしやっていないのでしたら、一緒にやってみませんか!?

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 S様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
そして、再びモデルカーレーシング(当時は単にレーシングカーと呼んでましたね!)を再開されるとのこと、本当に嬉しい知らせを頂きHPを作った甲斐があったと感激しております。
 Sさんがメールの中で書かれてように私も1973年以来実際のドライブはしておりません。
当初このHPを作った目的は単純に当時の熱き思いをインターネットを通じて後世に残したい(オーバーですが・・・)、そして自分が今出来ることはこれしかないということがきっかけです。
それから、最近インターネットで同じ趣味ということで知り合いになりました同年輩の方々とついにサーキットに走らせに行こうという話しになり今月にも実行されそうな雲行きになりました。
Sさんも良かったら御一緒しませんか?
ということで、これからもどうか良きアドバイス等頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 16/JAN/2002  Kさんから頂いたメール紹介「感激しました」
 初めまして、Kと申します。
 CAN-AMレースを検索してたどり着きましまた。
今は感激で涙うるうるです。
こんな素晴らしいページを運営されていることを尊敬いたします。
私の青春の日々が昨日のことの様によみがえってきます。女っ気もなしによく鈴鹿にレースを見に行っていたものです。
 レースへの興味は、中学生の頃読んでいた「少年NO.1」とか言う漫画でした、ラジオドラマにもなっていたかな。
その漫画で、アクシデントとかクリアランスとか英単語を覚えたものです、(いまほど英語は氾濫していなかった)
スカG−Bタイプにあこがれ、ブルーバードのCMを見て古いコートを車に積んでいました(あのCMご存じでしょうか)
 私は「生沢徹」氏の大ファンでしたVANのマークが格好良かった!!
富士にはマスターズ250を見に行きましたが、はこスカ(KPGC10)の最後のレースでもありました。
マツダのチームプレーにやられてしまったけど、ちなみに私は日産のファンでした、プライベートでは「桑島正美」が好きでしたZのカラーリングが格好良かった。
 大阪在住なので殆ど鈴鹿での観戦でしたがあの頃は、サーキットと遊園地の区別もなく一枚のチケットで自由に往来が出来たのに、第一コーナーなども観客席など無く草むらに座り込んでみてましたよ。
富士にも数回行きましたが、鈴鹿と雰囲気があまりにも違うので何となくなじめなかったなあー。
東名の御殿場を降りたらやたら改造をした車ばかりだった様に記憶しています、関西は今でもですが、改造には厳しくて数は少ないようです。
 あれから我が家のなかを、ひっくり返して探したらAS誌の付録のポストカードが出てきました、私の手元に残る唯一の、AS誌関連のものです、R.ギンサーのホンダF−1ほか7枚セットのものです、あの頃のF−1はエンジンカバーも無かったんですよね。
 エキゾーストパイプもたこ足で、それで思い出したのがホンダの軽四のトラックですごいのを出してましたよね。
AKなんとか通称H号、京浜キャブでたこ足マフラーで・・・。
あの頃のバイクのレースには50ccクラスがあったんですよね。
10段とか12段ギヤで市販の50ccがやっと5〜6馬力の頃10馬力以上を絞り出していたんだからすごいですね。

 偉大なる月刊誌”オートスポーツ”も定期購読していたのですが、引っ越しの時処分してしまい、今このHPを見ながら後悔しています。
あこがれだった「ジョーホンダ」氏のページがあるのにも感動しております。
まとまりのないメールになってしまいましたが、感激しながら書いているのでお許し下さい。
青春の一ページを思い出しながら又メールをしたいと思います。
これからも頑張ってください。

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 K様、本当ニ感激の熱きメールを頂き主宰者冥利に尽きる思いであります。
なにもかもが夢のようだった1960年代から70年代初頭。私もKさん同様全てにおいて憧れていた生沢 徹さん、日本のジル・ヴィルヌーヴと言っていい風戸 裕さん、そしてトヨタのエースからアメリカンドリームを夢見てGCチャンピオンになられた鮒子田 寛さんなどの活躍を毎月発売されるオートスポーツを通して胸踊る気持ちで読んでおりましたのが今だに忘れられません。
 私は鈴鹿サーキットにはまだ1度も行っておりませんが、Kさんがおっしゃる通り当時の富士はレース以外の娯楽施設は皆無でありました。だから雨の富士グランチャンの場合は本当に大変でしたが、やはり情熱があったんですね!
無心にTETSUさんのポルシェ917や風戸さんのポルシェを追ってヘアピンまで雨の中歩いて行きました。
では、これからも是非お時間がある時には当HPにお寄りください。そして、良きアドバイスなど頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 04/JAN/2002   M.Mさんから頂いたメール紹介「突然ですが・・・」
 年末にADSLを導入した事もあって、ネットサーフィン(私語?)をしていて牧野さんのHPを発見しました。
で、正直なところビックリしました。
よもやこんなHPを作っている人がいるなんて・・・・・。
そして、こんなHPを見ている人がいるなんて・・・・。うーーん、恐るべき情熱・・・・

私は1956年生れで、まさに牧野さんと同じ時代にモータースポーツを見てきました。(勿論、今も見ています。)
そして今でも昨日の事のように覚えています。
ホンダF-1の戦績を知るために、どれほどAS誌の発売日を首を長くして待ったことか・・・。
(R381が走った)日本グランプリとバッティングした運動会を恨めしく思った事か・・・・・。
本気で東名に入社すべく、下準備だと心に誓って電車で場所を探しに行ったのに、結局見つけられなかった日の事を・・
で、これからも時々拝見させていただきます。
つきなみですが、これからも頑張ってください。

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 M様、この度は私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂き本当にありがとうございました。
Mさんが言われるように、自分でもよくこのHPを続けているなと(笑)思いながら、皆さんのご協力とアドバイスによって続けてくる事が出来ました。
最初はほんの独り言のつもりだったのですが、いつのまにかてがつけられなくなってしまいました(笑)。
これからも良きアドバイス宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。
 03/JAN/2002  M.Hさんから頂いたメール紹介 「MSL拝見しました。」
 鮒子田選手のシェブロン(フライングオンワードスペシャル?もしかしたらこの名前は72年JAF-GPのブラバムBT36/R39Bについた名前だったかもしれません)、すばらしい出来具合だと思いました。
 復刻第3弾のモデルスピードライフも牧野さんらしい盛り沢山の内容で時間の経つのも忘れ見入ってしまいました。
 タミヤ製ロータス40はかっこよくて当時の私のあこがれでしたが、COX社製の方がより実車に近い感じだったのですね。もちろん実車は見たことないのですが、オートジャンブル誌(前号)に出ていたロータス30からの想像です。
 キングコブラについてのエピソードも興味深かったです。あの当時近所のお兄さんがヒノサムライと同じ設計者であることを教えてくれたことを覚えていますが私はまだ小学生でしたので、ただ単にかっこいい車としか思っていませんでした。サムライとキングコブラに共通するピートブロック独特のエアスポイラーはシャパラルを意識していたことも今回わかりました。
 あの独特のリアエアスポイラーはその後ピートブロックによって"KAMINARI(雷?)"という名前で市販車(Zとかコルベットなど)用のエアロパーツとして市販されているのを、90年代初め頃のアメリカの自動車雑誌で見かけましたが、事情を知らない人にとってはフェラーリF40のパクリにしか見えなかったことでしょう。
 ナッソースピードウィークについての内容も、Can-Am以前のアメリカのスポーツカーレースを知らない私にとって新鮮でした。フォードGTーXはGTー40スパイダー(1/24タミヤ製を所有していましたが、確かに小学生にとってFTー36Dは高価でした)とは生立ちが違うのですね。ついでに初歩的な質問ですがマクラーレンM1Bとタミヤから出ていたエルバマクラーレンとは同一のものですか?
また素晴らしい企画を楽しみにしています。
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 Hさん、MSLの感想ありがとうございました。
これだけ喜んで頂ければ本当に主宰者冥利に尽きるというものです。

 あの独特のリアエアスポイラーはその後ピートブロックによって"KAMINARI(雷?)"という名前で市販車(Zとかコルベットなど)用のエアロパーツとして市販されているのを、90年代初め頃のアメリカの自動車雑誌で見かけましたが、事情を知らない人にとってはフェラーリF40のパクリにしか見えなかったことでしょう。

 このことは知りませんでした。よくフェアレディZのリヤに似たウイングが付いているのは知ってましたが、これでしょうか?!

 マクラーレンM1Bとタミヤから出ていたエルバマクラーレンとは同一のものですか?

 田宮のエルバ・マクラーレンは、「マクラーレンM1A」と呼ばれるものです。
また、このM1Aはワークス・マクラーレンで、エルバは市販車という分けかたをしていたと記憶していましたが・・・。
M1Bはその後M1Cまでいったと思います。日本CAN-AMでジョン・キャノンが乗っていた同型はMKIIと呼ばれていましたが、その辺の分け方ははっきりいってよくわかりません。
エルバは、後のトロージャンと社名を変更して、マクラーレンのM6B,M8C,M12,M8Eなどを作り続けるわけですね。
では、これからも宜しくお願いします。

 03/JAN/2002  Kさんから頂いたメール紹介 「HP拝見しました」
 H.P.の方、興味深く拝見させて頂きました。
私は車の原体験はもう少し後年の世代ですので、スロットカーはよく分からないのですが60年代のレーシングカーには憧れを抱いております。タミヤのキングコブラの記事には驚いてしまいました。
今や世界1(少しオーバーですか?)のプラモメーカーの田宮模型でもそのような時期があったのですね。70年代の1/12ポルシェ934、935を製作する為にポルシェ930ターボのコマーシャルカーを購入した上、自ら構造を理解する為バラバラに分解してしまった逸話のあるタミヤと同一とは思えないですね。
とても勉強になりました。これからもアクセスしますのでより一層充実した内容を期待しております。
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 この度はメールを頂き本当にありがとうございました。
60年代の田宮模型は1年ぐらい前に発売されていた「田宮模型のお仕事」という本にも書かれていたと思いますが、とにかく行動力によって成功を掴み取っていた努力のメーカーでありました。
特にスロットカーの時代には随分と苦労が多かったと書かれていたとおり、他のメーカーとは一線を引いた技術力と新鮮さで私たちを随分と夢中にさせてくれました。キング・コブラについてのレポートも、あくまでも私の推測ではありますが、より本物を求めていた田宮模型ならばこそのエピソードではないかと自分自身思っております。
では、これからも宜しくお願いします。
 01/JAN/2002  T.Sさんより頂いたメール紹介 「再現3号MSL見ました」
 牧野さんへ。
MSLさっそく拝見しました。今回は特に内容が更に濃く、正月休みにじっくりみます。
シャパラル2の改造にはもう*ひっくりかえる*ほどの、驚きです。ここまでやるか?って感じです。
また、フォードGTXもわたしがいま、一番作りたいクルマなので、興味があります。*スパイダー*とは違うのですか?
モノグラムとか高いお金をだせば、買えるんですが、それもなんだか***
LSの改造も考えましたが、気が狂いそうに難しそうです。とかなんとか、言っているうちに、今年も暮れていきます。
1年間いろいろお世話になりました。
牧野さんのHPのお陰で、趣味も広がりました。ありがとうございました。
 WEB MASTER : 
 Sさん、メールありがとうござました。今年初めてのメール紹介になります。
昨年は、MSL作成に多大なるご協力を頂き心から感謝いたします。
ありがとうございました。
そして、さっそくMSLを見て頂いたそうで感激しております。
Dr.Kさんのチャパラル2凄かったでしょ!
無理にナッソー特集のためにお願いしたのですが、そこまでやってもらえて感激でした。
このチャパラルは結構謎が多く、2とだけでかたずけるわけにはいかなかったので特集してみました。
また、フォードGTXについてですが、これは文面でも書いたようにブルース・マクラーレンとロイ・ラン(カー・クラフト社)という人が開発したもので、モノグラムのスパイダーモデルとは基本的に違います。ただし、リア・セクションはスパイダーモデルを参考にしたそうです。
1966年のフォードMKIIの前身である65年ル・マンモデルの7リッターフォードGTを改造したものです。
66年ル・マン制覇を狙っていろいろ実験モデルとなっていたと想像されます。オートマチック・トランスミッションとか、ウェーバー・チョーク・キャブレターとか・・・。
たまたまアメリカのレースがオープン2座席カー専門のレースだった為に、オープンにしたと思われます。
しかし、所詮プロトタイプカーで、専用のローラやマクラーレン、それにチャパラルの敵にはなり得なかったようです。
では、来年ももう少しですが、今年以上に宜しくお願いします。
だんだんモデルカーレーシングファン(昔が懐かしいというファンも多いですが・・・)が増えていってもらえればこれ以上幸せな事はないです。
では、どうもありがとうございました。