60年代のくるま広告
(番外編)
“レコード盤に見る60年代レース・シーン”
1966-73年
 先日、東京の神保町近辺の古本屋街を歩いていた時に、ふと目にした中古レコード店で劇的な出会いがありました。それが今回御紹介する「レーサー 風戸裕」という私が初めてその存在を知った“ドキュメンタリー・レコード”であります。
 風戸裕といえば、1974年のあの「富士グランチャンピオン・レース」で多重事故に巻き込まれこの世を去った不屈の名レーサーでありました。生沢徹と共に、「チーム・ニッポン」を結成し、ヨーロッパF2選手権1973〜74年シーズンを戦い、翌1975年シーズンよりは、ワークス・シェブロン(ヨーロッパのレーシングカー・メーカーで、特に2リッター・スポーツカーで成功した)から、ワークス・ドライバーとしてF2選手権全戦にエントリーする事になっていただけに、この死は当時大変なショックな出来事として取り上げられておりました。
私も少なからず「レーサー 風戸裕」については、知っておりますので、HPの企画ページにおいていろいろ取り上げさせていただいておりましたが、間違いなく1970年代を飾る国際的レーシングドライバーになっていたであろう彼が、まだ最初の1歩を記したばかりの頃のレコードであるこの「レーサー 風戸裕」を中心に、当時発売されておりました“実況録音盤 ドキュメント LPレコード”のあれこれを紹介させて頂きたいと思います。実に、昨年の3月以来久々の更新となる「60年代の広告(くるま編)」の番外編ということで作らさせて頂きました。
 ●「レーサー 風戸裕」 1970年発売 発売元 東芝EMI株式会社 TW-8002 STEREO ¥2,000
 
 上の画像は、左から表表紙(1970年インター200マイルレースにおける愛車“ポルシェ908II ”をドライブする風戸裕)と裏表紙(ピットで何を考えるか?!風戸裕)であります。また、レコード帯とでも申したらいいのでしょうか、「“世界で初めての録音!!ポルシェ908 時速300キロ 車内走行音” レーサー 風戸裕 ナレーター: 日下武 音楽: 渋谷穀」と書かれております。
1971年より始まる「富士グランチャンピオン・シリーズ」の前哨戦とも言えるこのレースには、イタリアからあの“フェラーリ512S(G.モレッティのドライブ)”が来襲、それをただ一人迎え撃った風戸でしたが、惜しくもリタイヤを喫するのでありました。その時走った真っ白なポルシェを、今だに私は強烈な印象として、脳裡に焼き付いております。ちなみに、1971年、風戸は、このポルシェで、「1971年富士グランチャンピオン・シリーズ」の全戦に参加し、さらに、同年アメリカで絶大な人気を誇っておりました「CAN-AMシリーズ」にも日本人としてはじめて参加するという偉業を達成するのでありました。その時のマシンは、当時マクラーレンと共に絶大な信頼性で最多参加台数を誇っていた「ローラ」の最新マシン“ローラT222(エンジンは、シボレー8000cc)”での参加でした(右の写真は、カンナム・シリーズに挑戦している風戸と彼のローラT222)。
 ところで、風戸は、1970年までは、フルフェイス・ヘルメットのカラーは紺白をベースとしておりましたが、71年度からは、赤白をベースに色を変更している事が上の写真等でわかると思います。そういえば、グランチャンピオン・シリーズにおいての彼のポルシェも白から赤に変更しておりましたので、何か心に喫するものがあったためかどうかわかりませんが、燃えるものを感じてしまうのは私だけでありましょうか。
 ところで、このレコードの内容でありますが、裏表紙に下記のように目次として書かれておりました。
■ 内容
A1.ローリングスタート開始〜計時室〜スタート
 2.ポルシェ908 走行車内音によるコース説明
 3.風戸裕紹介
 4.ストレート〜第1コーナー30度バンク
 5.須走り落しからS字コーナー入口〜ヘアピン〜ストレート
 6.風戸の略歴
 7.鈴鹿FJ〜堀田順子さんのインタビュー
 8.ポルシェ908-II のストレート〜ポルシェ車内音(右 車内音、左 エンジンルーム音)

B1.選手紹介〜ローリングスタート開始
 2.スタート(ピット側)〜須走り落し〜ヘアピン〜ストレート
 3.ストレート(ピット側)〜第1コーナー30度バンク(9番ポスト)
 4.タイヤバースト〜風戸のピット〜風戸とメカニックの対話
 5.表彰式〜滝進太郎氏との対話
 6.ポルシェストレート〜車内音
 7.TII 、GTII のストレート〜ピット〜佐藤君の死
 8.バンク走行音〜ポルシェ908-II ストレート

*上の内容において、とても懐かしい言葉があります。「須走り落し」です。この言葉を私が初めて聞いたのは、1967年の「第4回日本グランプリ」において、あの“高橋国光”のニッサンR380II のコース取りを高橋本人のインタビュー記事で読んだ時でありました。とにかく、バンクは、直線よりも速かったようで、さらにタイムを上げる為に当時のニッサンチームのキャプテンであった“田中健二郎”があみ出したと言われるバンク最上段から一気に出口に向かい落ちて下る走行、すなわちすり鉢の中を駆け下る走行を指しているのであります。

 上の画像は、表表紙を開いた1〜2ページであります。
まずは、左から、細切れにデザインされたレース・シーンがあり、ほとんどが、「富士インター200マイルレース」からのショットであります。フェラーリ512Sと風戸のポルシェとのデット・ヒートや、マツダ・プレスト・ロータリー・クーペでレースの出ていた頃の風戸も写っております。
下には、富士スピードウェイのコース説明がされております。今はなき“30度バンク”の説明には、「第一コーナー30度バンク:富士スピードウェイのコース最大の見せ場。200km/h以上で突っ込むと1.5G以上の垂直荷重が加わる。」と書かれており、当時最大の見せ場だった事が確認できます。
そして、風戸本人の略歴も書かれております。

風戸 裕 S24.3.13生まれ
本籍 千葉県茂原市
現住所 武蔵野市吉祥寺 風戸レーシングリミテット社長
事務所 東京都港区西麻布
身長 174cm 体重 56kg
趣味 スキー(2級)、ゴルフ(ハンディー18)、軽音楽
 
 
 

年度
月日
レース名
順位
マシン
1967 5.14 日刊スポーツJrチャンピオンレース 2位 ホンダS800
1968 - ホンダS800にて14レース出場 - -
1969 5.3 JAF.GP. 7位、クラス2位 ブラバムBT30
1969 10.10 日本グランプリ 8位、クラス1位 ポルシェ910
1970 1. 鈴鹿300km 2位 同上
1970 3. 全日本鈴鹿自動車レース 優勝 同上
1970 3. 全日本富士自動車レース 優勝 同上
1970 4. 鈴鹿500km 優勝 同上
1970 5. JAF.GP. F-J 2位 アウグスタ
1970 6. クラブ連合 優勝 アウグスタ
1970 6. 富士300マイル 3位 ポルシェ908
1970 8. NETスピードカップ 優勝 ロータリークーペ
1970 8. 鈴鹿12時間 7位 ロータリークーペ
  
 さらに、右のページに移ると一昨年亡くなられました、元「滝レーシングオーガニゼーション」社長の“滝進太郎”氏のコメントが載っておりますので原文のまま書いてみました。
“ 私が風戸君を最初に見たのは、富士スピードウェイのコース上であった。私はローラを持っているが、それは輸入した後ボディだけ日本で作り変えたものであったが、それに非常によく似たレーシングカーが走っているのを見てギョッとしたものだ。「これはデザイン料をもらわなくてはいけないがなかなか良いコースを取っているからまけとおこう」。などと笑っていたのだが、その車に乗っているのが風戸君だった。それからしばらくして彼がひょっこり私の事務所にやって来てやはり私が持っていたポルシェ910を譲ってほしいと言う。いろいろ話しをしていたが大変気持の素直な良い青年で、その車を持ち込みで私のチームに入らないかという話まで発展してしまった。私のチームの場合、数台のレーシングカーを持ち、契約ドライバーをかかえてテストや車両の広告などの仕事をしているので、自動車メーカーのドライバーのより選手の選択が大問題である。速く走るだけでなく、スター的要素もなくてはならないし、プライベートの悲しさで部品なども充分とは言えない。それに全体のチームワークも重大な事である。風戸君はそんな全ての条件を持った男である。日ごろはおとなしい坊ちゃんだがハンドルを持たせると人が変わったように走る。レーシングカーというのはデリケートに出来ているので、充分注意して扱ってやらねばならない。乗り手次第でどうにでも変わる点においては女性と似ていると思って間違いない。風戸君は自分の力量とマシーンの特性を非常に上手くしかも早くつかんで、高性能なポルシェを上手く扱っていた。やはりこれには頭脳的な面も加味されてくる。
それにこれは私としてもしゃくのたねは女性に良くもてることである。一見母性本能を刺激させられるが、男としてもレーシングカーをあやつり命ぎりぎりの事もやるという一面を持った彼としては、ごく当たり前の事かもしれない。
スタードライバーの不足している日本のレース界において彼に期待するものは大である。一層の活躍を祈っている。
滝レーシングオーガニゼーション社長
滝進太郎”
 上の画像は、3〜4ページであります。
風戸は、当初タキ・レーシングチームの一員として、1969年日本グランプリ用に同チームが購入した「ポルシェ908・スパイダー(写真左)」でレースに出場しておりましたが、タキ・レーシングチームが、1970年頃から資金難等でしだいに経営不振となり、ついにチームは解散となってしまいました。風戸は、レースを続けるために自らの資金で「ポルシェ908II 」をシュツットガルト(ポルシェ・ワークス)から購入せざるを得なくなり、その結果が「風戸レーシングリミテット」の誕生だったのでありました。
 風戸裕を語る上でどうしても1970年代のポルシェ908やCAN-AMシリーズでの活躍が中心となってしまうのですが、実は、彼のレース活動は、ホンダS800などによるプライベートなレース活動が最初であり、その集大成として「69年日本グランプリ」におけるポルシェ910での活躍を本来であれば取り上げるべきではないかと私は思うのです。前年、生沢徹が乗って2位となったポルシェ910を風戸は、全体的にレベルが上がっている本レースにおいて、総合8位、クラス1位(2リッタークラス)で飾り、2台のニッサンR382と川合稔のトヨタ―7、そして、ジョー・シファートのポルシェ917と田中健二郎のポルシェ908についでの8位という成績は、これら強豪マシンの中での結果だと考えた場合、むしろ前年の生沢徹の2位よりも価値がある成績だったのではないかなと私は思ってしまいます。
 ところで、話しは違うのですが、私は、プレーヤーを現在友人宅に預けてある為に今だこの「レーサー 風戸裕」を聞いておりません(情けない・・・笑)。
近々このLPの内容ということで追加報告させて頂きますので、今回は、御了承のほどよろしくお願いいたします。
最後に、上の画像にもある通り、当時オートスポーツ編集部企画部長でいらした“久保正明”氏のコメントを原文のまま紹介させて頂きたいと思います。

 風戸裕にチャンス到来か
ーあまりにも“日本的”だった日本のモーターレースー
 日本の自動車レースは、これまであまりにも日本的だった。それは日本グランプリの歴史を振りかえってみれば一目瞭然だ。第1回日本グランプリ・レースが三重県の鈴鹿サーキットで開かれたのは昭和38年(1963年)。いらい、わが国のビッグ・メーカーはきそって優秀なドライバーを集めてファクトリー・チームを結成、毎年のグランプリにのぞんだ。そして、いつのまにか日本グランプリといえば、ニッサンとトヨタの対決がその代名詞みたいになってしまったのである。そこには個人の力で戦おうとする、いわゆるプライベート・ドライバーなど、てんで入りこむ余地はなかった。わずかにイギリス帰りの生沢徹とか、レース活動をビジネス化した滝進太郎とか、そういったプライベート・スターが色取りをそえるぐらいのものだった。このうち滝進太郎のタキ・レーシング・オーガニゼーションは、大資本のビッグ・ファクトリーにはが立たないことを悟って、ついにレース活動を断念したくらいである。
 そんな環境の中にあって、もくもく頭角をあらわそうとする若き一匹オオカミがいた。風戸裕である。彼の名がレース界で聞かれるようになったのは’69JAFグランプリで小さなフォーミュラカー(ブラバム・ホンダS800)を駆って善戦、名誉ある“性能指数賞”を得てからだ。そのとき風戸は丁度ハタチ、成蹊大学2年生だった。
 彼は、もともとファクトリーが嫌いである。自由なレース活動が束縛されるからだ。自由なレース活動こそ、モーターレース本来の姿である。ニッサンがグランプリ不参加を表明して、70年秋の日本グランプリが中止となり、川合稔が鈴鹿サーキットで激突死してトヨタもレース活動をとりやめた。日本の自動車レースも、ようやく、日本的な姿から脱皮して、本来のモーターレースに立ち戻ろうとしているわけだ。風戸のようなプライベートの一匹オオカミにチャンスが到来したのだ。”

 以上で、お宝LP「レーサー 風戸裕」を終わらせて頂きますが、久保正明氏のコメントにもある通り、風戸裕は、今までにない個性を持ったレーシング・ドライバーでありました。彼こそが、日本モーター・スポーツ界の将来をになう青年であったということは疑いの余地がありません。それだけに、彼のあまりにも早い死は、誠にもって衝撃でありました。
 浮谷東次郎という伝説のドライバーとともに、風戸裕の名は永遠に語り継がれるものと信じて「60年代のくるま広告 番外編 レコード盤に見る60年代レース・シーン PART 1」を終わりにしたいと思います。
 この続きは、近日公開いたしますのでお楽しみに。



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