皆様からの御便り紹介
 THE ROOM OF YOUR MAIL

 皆さんのご意見を載せさせていただくコーナーを作りましたので、よろしくお願いいたします。

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 30/SEPT/2001  熊本のMさんから頂いたメール紹介 「風戸 裕のポルシェ908II とローラT222」
 牧野さん
 甲府のピットインに在った風戸裕のポルシェ908/2に関して、以下のようなメールが届きました。ニュージーランドのトニー・ロバーツから教えて貰ったのだと思いますが、ピットインから出たマシンがそれぞれこんな形でサーキットに帰るという事は素晴らしい事だと思います。

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Hello Sir,

I believe that you helped my frinds from the McLaren Trust to find and buy the McLaren M12 from Mr K's collection. 
I bought the Kazato 908/2 Flounder from the collection about a year ago. 
We have completed the mechanical restoration of the car, but left all the the original paint and the wonderful hand painted graphics intact. 
The car is so wonderfully original and has such a great patina and we aim to keep it that way. 
We ran it at the Monterey Historics and the Porsche Rennsport Reunion and it was a joy to have it back on track after 30 years.
Porsche Panaroma (the Club magazine) would like to do a feature story on the car and Mr Kazato.  As part of that they would like pictures of the car in the glass case where it was stored for 25+ years. 
Do you have any pictures of the car in Japan  or know where I could get them? 
Also, any other pictures of the car as it was running with Mr Kazato? 
Thank you so much for your help.
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 それから、ニュージーランドのトニー・ロバーツから以下のようなメールも入っております。

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Dear S,
I am pleased that you didn't mind the e-mail from Peter Stoneberg. 
He is a very keen vintage racer in the USA and owns another Porsche, a 962 and a McLaren M6B. He loaned me his M6B to race at Road America Can-Am race last July.
Peter is coming over to New Zealand next year in February and I will give him a drive in the M12.Another friend of ours, Murray Sinclair, is still trying to buy the Kazato Lola T222 in the USA.
Why did Mr K sell all his cars, we thought perhaps that he wasn't well?
We were concerned that we needed to overhaul the 465 ci engine in the M12 before something went wrong with it. 
So in the meantime we have put another genuine Can-Am Chevrolet 535 ci V8 Aluminium engine into the McLaren. 
We are going to Sandown (Melbourne) again in late October to race at the very large Classic Race meeting that they hold. We have reconditioned the Koni shock absorbers and renewed the water pump and all water hoses. 
We still love thecar and never tire of working on it and looking at it. 
Every time we race, the M12 is surrounded by people looking and touching a real Can-Am McLaren, as it is still the only one in NZ.
Best regards,

 WEB MASTER :  M様、貴重な情報ありがとうございました。
風戸選手のポルシェ908IIは、私にとってはとても思いで深い車で、初めてGCを見に行った1971年で酒井さんのマクラーレンM12とデッドヒートを展開していたり、生沢さんのポルシェ917K(D.パイパー所有ですね!)と争って優勝してしまった車ですから、とても印象深いです。
いつかこの車のレストアされた姿を見てみたいものです。
そして、同じく風戸選手のローラT222も早く見てみたいものであります。
本当に貴重な情報ありがとうございました。
 30/SEPT/2001  愛知県のホンダファンのおっさんさんより頂いたメール紹介「ホンダファンだった!」
 牧野さん こんにちわ。愛知県のAです。
「くるま村の少年たち」楽しく拝見させていただいております。またまた懐かしい写真や名前を目にしましたので、メールしちゃいました。
私は小、中、高、引越しを何回かしたので手元には当時の資料がまったくありません。
頭の中の記憶と牧野様のホームページが頼りです。少年のときホンダファンだった私はRA302の写真を見たとき、高1のときの思い出が蘇りました。なんと私はRA302のコックピットに座りハンドルを握ったことがあるんです。
おまけに後ろから友に押してもらい数メートル動きブレーキを踏んだのでした。学校の近くのホンダSRでのできごとでした。お店の人に注意されたのは言うまでもありません。
しかし懲りずにまた別の日にはブラバムホンダF2{1000CC}、また次の日にはついにRA301にも同じように乗ってしまいました。特にRA302は自分の記憶の中ではフランスグランプリでフランス人(?)ドライバーのジョー・シュレッサーが炎上死亡事故を起こしたことを、当時オートスポーツ誌のニュースで読んだ記憶があったので牧野さんのホームページ上でもその記述があったので自分の記憶もけっこう正しかったんだなぁと思いました。
その事故が原因にもなって、ホンダF1挑戦の1回目の中断につながったのだと思います。
あの当時、生沢徹さんがホンダF1に乗ってF1にデビューしたらいいなぁと思っていました。
それから今度リッチ-・ギンサーの話しも一緒にしてみたいですね。(これは小学生の頃だと思いますけど。)
それでは思いつくままメールしたことをお許しください。これからもホームページ楽しみにしています。大変な作業ですが頑張ってください。
愛知県のホンダファンのおっさん 
 WEB MASTER :  A様、またまた懐かしい内容のメールを頂き感謝します。
ホンダF−1は今考えても本当に当時よく参戦していたなと思います。それにもまして、すばらしいことを本田宗一郎さんはやっていたんだと改めて感じているところです。
本田宗一郎さんがやっていなければ息子さんの博俊さんも無限をやっていたかどうか・・・。
ニッサンやトヨタが日本で争っていたころホンダは海外でトップになろうと努力していたわけですから、なにか次元が違う感じがしてしまいます。
 
 なんと私はRA302のコックピットに座りハンドルを握ったことがあるんです。おまけに後ろから友に押してもらい数メートル動きブレーキを踏んだのでした。

凄い思いでですね!羨ましいです。
私は、1969年に開かれた東京レーシングカーショーで初めてRA302を見ました。とにかく小さいF1だなぁと思った記憶があります。
リッチ―・ギンサーといえば、ホンダ以外にはアメリカのフォードGTで活躍して、ル・マンやデイトナ、そしてセブリングではフェラーリとトップ争いをしていました。
そういえば、リッチ―・ギンサーはホンダに入る前はフェラーリやBRMなどのF1にも乗っていましたからすでにベテランだったんですね!
その後ヒッピーとなって最後はアル酎で変死(!?)だったと記憶しています。何かとても空しい感じがしました。
リッチ―・ギンサーと共にホンダにいたロニー・バックナムも1960年代はフォードGTで活躍していました。名前はアメリカよりも日本の方が有名だったのでは・・・。
でも、ホンダF1の話しは尽きないですね!
ありがとうございました。これからも宜しくお願いします。

 24/SEPT/2001 Aさんから頂いたメール紹介 「少年時代の英雄」
 初めまして。
貴殿のホームページを拝見させていただき、少年時代の懐かしい思い出や、夢中になって、オートスポーツ誌で徹さんの活躍を読み漁って、興奮したことを思い出しました。
第四回日本グランプリレースでプライベート参加ながら、ワークスチームを敵にまわし、見事に優勝した時などは大喝采でした。
また、ヨーロッパにおいて、日の丸カラーのフォーミュラーで、活躍した時などはいつかは必ずF1で走るだろうと信じて疑いませんでした。間違いなく、少年時代の大ヒーローでした。
いろいろな事情で、残念ながらF1には行けませんでしたが、最近でもニュルでクラス優勝したと聞いて、やっぱり徹さんは永遠のヒーローだと思いました。
日本の国際レーサーのパイオニアとして、いつまでも私の心に残るでしょう。
これからも徹さんの活躍をホームページで知らせてください。
感動をありがとう。愛知県 47歳のおっさんデス
 WEB MASTER :  この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
TETSUさんは、当時の大ヒーローでした。
同時に、世界を股に駆ける今で言うサッカーの中田や大リーガーであるイチローと同等以上のインパクトを私たちに与えてくれた英雄だと言えると思います。
A様は、多分私と同じ年代(私は昭和29年生れ)だと想像するのですが、同じ時代を体験したリアル・タイマーの方からこのようなすばらしいメールを頂くことは本当に主宰者冥利に尽きる思いです。
これからもお時間があれば立ち寄ってください。
また、先日元チーム・トヨタで活躍しておられた鮒子田 寛さんとある御縁でお会いでき、氏の御協力によりHPを作らせて頂く事が出来ました。
http://www.mmjp.or.jp/60srace/HiroshiFushidaHPTOP.html
鮒子田さんも生沢さん同様、海外に夢を乗せて活躍された方ですので、生沢さん、風戸さんと共にヒーローだと思っておりましたので、本当に感激しました。
こちらも是非立ち寄って見た頂ければ幸いです。
それから、メールを頂く方の大半は愛知県の方が多いというはやはり鈴鹿サーキット等によるモータースポーツ発祥の地と言うことが影響しているのでしょうか?!
では、これからも良きアドバイス宜しくお願いします。
ありがとうございました。
 24/SEPT/2001  K.Kさんから頂いたメール紹介 「はじめまして」
 牧野さんはじめまして。Kと申します。
スポーツカーズのOさんから話を聞いて拝見させていただきました。
私は現在レーシングカー製作や自動車用品開発のコーディネイトをしています。
私とOさんの関係ですが,私が(Oさんも)以前勤めていた会社(M.C)でお世話になり,現在も色々とお世話になっています。
マクラーレンM12も私の知人の知人が所有するもので,レストアするに当って適任と思いお願いしています。
当時実際に作った人はあまり詳細を覚えていないことが多いです。
これは自分自身にも言えるのですが,ファンの頃に見ていたレースはよく覚えているのですが,自分で実際に携わったことは,よほどの印象が無ければ覚えていません。
そんなわけで牧野さんのHPは役に立ちます。
牧野さんのHPで私が興味を引かれたのはモデルカー(スロットカー)のページです。
僕は1965年生まれなので第一次のブームは知らないのですが,1970年代の後半と1980年代の後半から90年代初頭にちょっとしたブームが有りました。今でも数台の車+部品を持っています。
牧野さんはシェブロンB19のボディーを製作して販売されたそうですが,それはいつまで行なわれて何台ぐらい作られたのですか?
添付した写真のボディーですが今でも僕が新品で持っている物です。HP上で見る牧野さん製のシェブロンと形の雰囲気が似ているのですがいかがでしょう?
ホイールベースは100ミリ,巾は80ミリのシャーシに適合します。
私はこれを都合3台(1台は70年代後半小田原で,2台は90年ごろ平塚で)買いました。
販売されていたのが71年それも巣鴨でということですが,原型が一人歩きをして知らず知らずのうちに量産されていたのでしょうか?
付け加えるとローラT280も持ってはいないのですが見覚えは有ります。
 WEB MASTER :  K様、この度はまだまだ未熟極まりないHPにたちよって頂き本当にありがとうございました。そして、メールまで頂き感謝しております。
マクラーレンM12って海外より、日本での方が有名になっている珍しいマシンだと思います。それも酒井さんの力が大きいとしみじみ思っています。

> 牧野さんはシェブロンB19のボディーを製作して販売されたそうですが,
> それはいつまで行なわれて何台ぐらい作られたのですか?
>
1971〜72年に50台ぐらい販売したと思います。

> 添付した写真のボディーですが今でも僕が新品で持っている物です.
> HP上で見る牧野さん製のシェブロンと形の雰囲気が似ているのですがいかがでしょ
> う?
>
このクリヤーボディは私も持っております。
これは、MINI AUTO製のクリヤーボディだと思います。クライマックス製だという説もあるのですが・・・。
私のクリヤーは、最も原始的な方法で作りました。
型の材料は、当時すぐに手に入った石膏です。処分してしまうまで、ずっと私の家にありましたのでその流出はないです。
また、ボディの材料は、1枚50円のエンビ板です。
販売は、当時の巣鴨サーキットで一切完売してしまいましたので、そのボディを使って他のサーキットに行くということはあるにせよ、エンビで作ったボディは非常に弱く、サーキットで走らせてクラッシュしたらたぶんお釈迦になってしまったのではと想像されます。
でも、所詮高校生の作ったものですから、今考えたらよくこんなボディ「250円」で買ってくれたなぁ〜と思ってしまいます(笑)。
でも、その当時の私は、お蔭様で(!?)非行に走らず(笑)スロット三昧を満喫していましたので本当に楽しかった時代だったと思っています。
そして今、再現モデル・スピードライフ第3号を作っていますので、UPした時には宜しくお願いします。
ありがとうございました。

 23/SEPT/2001 野上さんから頂いたメール紹介 「感激です!!」
( PART 1)
 前略 初めてメールさせて頂きます。
本日友人からメールで、貴HPを紹介され早速拝見致しましたが、その内容が自分のライフワークと合致しており、感激しました。
又、牧野さんのスロットへの思い入れと国内レースの造詣の深さには敬意を表します。

私は、60〜70年代の国内レースの中心にモデルカーを作り続けているアマチュアモデラー&コレクターです。
暇さえあれば、未だに昔のオートスポーツなどをを引っ張り出して、テーマを探しております。

生沢 徹と日産の熱狂的なファンでもありますが、今となってはあの頃のレース界を熱くさせてくれた全てのメーカー/選手達が愛しく思えてなりません。先日も鮒子田選手のマクラ―レントヨタをミツワのM8Aから出来ないか一日中眺め、F-AのイーグルをMPCで何とかならぬものかと、悩んだりもしておりました。そんな状況でしたので、このHPの内容にびっくりするやら、感動するやら。

とにかくこの頃のレースに関する資料が少なく、困っております。
私の会社は神保町にあり、ちょくちょく資料を探してましたが最近は掘り出し物も少なくなったようです。勝手を言わせて貰えれば、未発表の写真なぞ紹介頂くと大変有り難いですね。

牧野さん程スロットにはのめり込みませんでしたが、ここ30数年はカーモデル一筋で来ております。
これからも、ワクワクさせる記事を期待しております。
少し興奮気味ですので、乱文お許し下さい。 
                                      
草々
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( PART 2)
 前略 早速ご返事頂き、ありがとうございました。
鮒子田選手のモデルを作る企画も楽しそうですね。
私個人的には、生沢徹/高橋国光のヒストリーをしこしこと作っておりますが、生来の浮気性からか遅々として進みません。
鮒子田選手ですと、やはりトヨタワークス時代が中心となるのでしょうか。確かにトヨタ7だと色々できそうですね。
そう言えば、先日のモデル・カーズ誌にマキF−1を手にされた鮒子田さんが出ていましたね。ヘアスタイルの変貌ぶりに最初はどなたか分かりませんでしたが。(失礼)
ワークス後だと、ロータス47やカレラ10辺りが面白そうです。
FLY社のシェブロンは72年のグラチャンB21Pにしたいと思っておりますが、結構皆さんも考えているでしょう。
一日も早く、鮒子田記念館が完成される事をお祈り申し上げます。
牧野さんはモデル・カーズ誌はお読みですか。
私は最近その読者コンテストに参加しており、ちょこちょこ載っておりますので、御笑覧下さい。
たまに編集部の目にも止まるようで、以前ワークス・ダットサン特集(49号)とレーシングポルシェ特集(56号)に拙作を載せて頂きました。製作技術よりもその情熱が評価されているようです。(笑)
貴HPに使われていた(バックに)R−380?もコンテストに出ていた方のものではなかったかと推察します。
確かスクラッチのスロットでしたよね。凄い方も居るもんだと感心しました。
これからも貴HPを楽しみにしております。
                                     
草々

 WEB MASTER : 
( PART 1)
 野上様、この度はまだまだ未熟極まるHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
60年代スロットカーと日本グランプリ等の国内レースは私にとっては熱き思いの青春そのものでありました。
それが今はまるでそんな時代はなかったかのような扱いを受けていることがどうにも我慢出来ず3年前にPC教室に通い、そして2年前にこのHPを開設したというわけであります。
とにかく小学校時代のクラス会の幹事を(!?)やるつもりで始めました。(笑)
誰かきっと私と同じ思いを当時なさった方がきっといらっしゃると思いながら作りましたので、野上さんのような当時をリアルタイマーで過ごされた方からメールを頂くことは本当に主宰者冥利に尽きるという思いであります。
これからも体力が続く限り続けていこうと思いますので良きアドバイスを頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。
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( PART 2)
> FLY社のシェブロンは72年のグラチャンB21Pにしたいと思って
> おりますが、結構皆さんも考えているでしょう。
>
そういう私も同類でした!!笑

> たまに編集部の目にも止まるようで、以前ワークス・ダットサン特集
> (49号)とレーシングポルシェ特集(56号)に拙作を載せて頂きました。
> 製作技術よりもその情熱が評価されているようです。(笑)
>
やはりモデラーの評価は、その情熱なんでしょうね!!
でも、モデル・カーズ編集部にその技術を認められ、作品を掲載されたというのは素晴らしい事ですよね!!
是非、いつか鮒子田さんのモデルを作って私のHPにも載せさせてください。お願いします。

> 貴HPに使われていた(バックに)R−380IIもコンテストに出ていた
> 方のものではなかったかと推察します。
> 確かスクラッチのスロットでしたよね。凄い方も居るもんだと感心
> しました。
>
そうなんです。名古屋のウエスト工房の安西さんとという方の作品です。しかし、惜しまれながら今年2月他界されました。私と同年代の方で、本当にスロットを愛しておられました。
亡くなる半年前ですが、そんなことが将来起きようとは思いもせずに氏の企画ページを作らせて頂き、今、本当に作って良かったと思っています。今思うに、氏はその時すでに死の予感を感じておられたのかも知れませんが・・・。
http://www.mmjp.or.jp/60srace/PROSITE1.html
これからも良きアドバイス宜しくお願いします。
ありがとうございました。

 19/SEPT/2001  Oさんから頂いたメール紹介 「はじめまして・・・」
 初めまして・・・・
S.CのOと申します。
私は、以前GCカーのボディーを開発製作しておりました(MCS等)。現在は上記にてそれまでの会社から独立しレーシングカーを中心としたボディーやパーツ製作を行っています。
今当社には、「マクラーレンM12」のボディーが、レストアのために入庫しました。(元、故・酒井さんのです)
当時GC用にリアカウルを改造した私の師匠がこのHPを見つけてくれました!
レストアにあたりなにかアドバイスを必要な時に協力をしていただけないかと思い、突然ですがメールをさせていただきました。
こちらには当時のオートスポーツはあるのですが・・・・・・、それにしてもすごい写真の量で驚いています!
ちなみにマクラーレンの車体はレストア完了で先日スピードウェイにてエンジンかかりました。
もしよろしければ、またメールさせてください
 WEB MASTER :  O様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
ところで、元酒井さんのマクラーレンM12をレストアされたとのことですが、本当にすばらしいことだと思い感激しております。
実は、昨年熊本にお住まいの方からもう1台の酒井レーシング所有のM12がニュージーランドのブルース・マクラーレン・トラスト財団に渡っていて、これも素晴らしいレストアがほどこされて、ニュージーランドのヒストリックカーレースに出場されていることがわかったばかりでしたので、大橋さんのメールを頂き内容を読ませて頂きながら、偶然といえ大変驚いている次第です。
その映像も先日頂いておりますが、1971年に酒井さんがGCでチャンピオンを取られてM12であり、塗装を剥がしていくとなんと元トヨタのカラーリングがあり、それが鮒子田寛さんが乗られたマクラーレン・トヨタであったことがわかり、大変驚いております。
OさんのマクラーレンM12も鮒子田選手や高原選手、そして、71年GC富士500kmレースであの田中健二郎選手が最後に乗られたマシンとしても有名だと思います。
ということで、当時のGCで酒井レーシングから出場した大変貴重なマシンであることが頂いた画像からわかりました。
リア・スポイラーの形がこの2台、少し違うのが2台を識別する目印になっています。
これからも私に出来ますことでしたなんでもいたしますので今後共よろしくお願いします。
ありがとうございました。
 07/SEPT/2001  ASAIさんから頂いたメール紹介 「はじめまして」
 前略
前略にて失礼いたします。
当方は愛知県名古屋市にて「ミニカーショップ ファーストバック」というちいさなミニカーショップを営ませていただいております、ASAIと申します。
 お宅様のホームページを拝見いたしました。もう、懐かしくてこのようなホームページにめぐり合えてうれかったです。
 69年日本GPのときテレビで友達と見ておりました。やたらコカコーラのCMが流れておりましたね。
当時小学生だった私達は興奮して田舎のまだあまり交通料が多くなかった町と田んぼの間の道をコースというかルートを決めて「そこを何周だ」と自転車でGPをその当日放送終了後に「強行開催」した覚えがございます。
 ええまだ小学生だというのにそれからは「オートスポーツ」「カーグラフィック」「オートテクニック」「自動車と整備の実務」等を買ったり立ち読みしたりしましたねぇ。
 高校からは「鉄っちゃん」にいっちゃいましたが、レースは好きでしたねぇ。川合 稔氏のことも覚えてます。
小川ローザさんは73年に確か日欧合作の三人の男女がホンダCB750Fとシトロエン2CVがヨーロッパからインドまで走り旅をする映画にでてましたねえ。その後行方がわからなくなったそうですが...
 フジグラチャンの記事も懐かしいですねぇ。
本当に素晴らしいホームページをありがとうございます。
 是非当方のリンクのコーナーに掲載させてください。
是非多くの人達にお宅様のホームページを見ていただきたいと思います。
当店は客筋も比較的年齢層が高いと思います。是非お願いいたします。
 今後ともあなた様のホームページのご発展をお祈りいたします。
                                 早々
 WEB MASTER :  ASAI様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
 60年代日本グランプリは今だに私の中では今のF1グランプリ以上に素晴らしかったと思っています。
高度成長時代に日本中が興奮したあのイベントを今では想像も出来ないぐらいどれだけの人々が熱中していました。
しかし、そんな伝説のイベントが今ではあまり語られなくなってしまい私はどうしてもこの60年代の遺産(ちょっと
オーバーですが・・・笑)を後年に残すことが出来たらと思い立ちこのHPを作り出したわけであります。
それから、同時期にこれまた日本中を興奮の渦に巻き込んだモデルカー・レーシング(スロットカー)についても私は熱中しておりましたのでこれまた実車と同じような拘りをもってHPを作らさせて頂いた次第です。
ASAI様は、趣味を仕事になさったのでしょうか?!
ミニカーショップというとても素晴らしい仕事を選ばれたことに対して尊敬と共にこれからの御活躍をお祈りいたします。
そしていつまでも60年代の心を失わない「くるま村の少年」でいてください。どうもありがとうございました。
私のHPをリンクして頂けるとのこと本当に感謝いたします。宜しくお願いします。
また、ASAIさんの主宰されているHPは、下記のURLですので皆さん1度立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
 http://www.d7.dion.ne.jp/~fastback
 26/AUG/2001   A.Tさんから頂いたメール紹介「私も好きだった「世紀のデッドヒート」
 初めてメールします。何しろ一昨日インターネットが、開通したばかりなもので。
従って、好きなレース関係のサイトを、まず検索していたら、ナニ「60年代」ナニ「世紀のデッドヒート」と、あるではありませんか、驚きと同時に、嬉しくなりました。
そこで当方の「世紀のデッドヒート」体験ですが、あれは当方中学3年の夏、つまり1968年夏に遡ります、週刊テレビガイドで、事前に調査済みであった、この番組を残しておくべく、一計を案じた私は、ビデオなど、もちろんないこの時、書いて残すしかないと思い行動したのでした。
その第1回目がきたのが、記録によると7月1日でありました。
まず30分集中してテレビを見てからすぐに、記録に取り掛かることにしましたが、あまり好きではなかった、「ストックカーレース」であったため、書くことの手間を惜しんだようです。

 原文のまま記録によると
 

「世紀のデッドヒート」 7月1日
第1話 デイトナの決戦
これは、オートスポーツにものっている、1967年の、デイトナ500マイルストックカーレース。
インタビューしたドライバー まずメカニックたち、そのあと
リチャード・ぺティー、A.J.フォイト、マリオ・アンドレッテイ。
と、これだけで終わっています。
しかしこれ以後、ご多分にもれずCAN-AMなどは、かなり書いています。
今回は、挨拶がてらこれで、終わりたいと思いますが、第2話以降は、ご迷惑でなければまたメールしたいと思います。

追伸 これは記録ではなく、記憶ですが、番組の提供は京浜急行であったように思います、「海がみたーくなった、風と話がしたかったー、剣崎」と言う、コマーシヤルソングを、今でも口ずさむことがありますから。従って、相当な集中力で、見ていたことになると、思います。 
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(第2回目)
 第二話のセブリング12時間以降は、次回のメールにて送らせてもらうことにして、今回は先日テレビをみていて驚いたこと(貴ホームページに関連したこと)などを、書いてみたいと思います。
まずケーブルテレビでIRLレースをやっていましたが、それになんとあの「世紀のデッドヒート」のなかでコメンテーター兼レポーターをやっていた、クリス・エコノマキが、CARTとIRLの、和解の可能性について、コメントしていたではありませんか、まだ現役だったとは!
ちなみに、「世紀のデッドヒート」日本側コメンテーターは、大和通孝氏でありました、この方は60年代の日本のレース番組ではおなじみで、今でも私が持っている「モータースポーツ百科」という本の編者でもありました。
それとフジテレビ721でやった、レココレTVのゲストで、出ていたスパイダースの井上尭之氏が、スパイダースの振り付けをあの福沢幸雄がロンドンに行ったときなどに見てきた、はやりの踊りを紹介してくれて、それを真似してスパイダースの物にしたことを、語っていたことが驚きでした。
ではまた。

 WEB MASTER :  T様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、更にメールまで頂きありがとうございました。
「世紀のデッドヒート」は私にとりましても実に印象深い番組でありました。
私も中学2年生の時だったと記憶しておりますが、T様もメールを拝見する限り同じ年ではないかと想像しますが・・・。
それにしましてもビデオがない時代にノートにすべて記録してしまうなんて本当の驚いてしまいましたが、今思うと本当に貴重な資料ではないかと思いました。
ぜひぜひ次回からの続きを聞かせて頂ければこんなうれしいことはありません。お時間取らせて大丈夫でしょうか?!
何年か前に「ひょっこりひょうたん島」のリバイバルがありましたが、これもTさんのように一般の方が毎回のストーリーをノートに書き続けていたことにより再び作ることが出来たそうですが、まさにこれと同じではないでしょうか!?
それだけに益々拝見させて頂きたい衝動にかられてまいりました。
では、宜しくお願いします。
ありがとうございました。
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(第2回目)
 T様、お返事ありがとうございました。

> それとフジテレビ721でやった、レココレTVのゲストで、出ていたスパイダースの井上尭之氏が、スパイダースの振り付けをあの福沢幸雄がロンドンに行ったときなどに見てきた、はやりの踊りを紹介してくれて、それを真似してスパイダースの物にしたことを、語っていたことが驚きでした。

これは当時放送していた「ヤング720」のことでしょうか?!
スパイダースのかまやつさんと福沢幸雄さんとは当時かなり親しかったようで、特にエドワーズの企画部長をされていた福沢さんがロンドンなどで最新の流行を仕入れて来ると真っ先にスパイダースの衣装なり振りつけになったといいます。
余談ですが、福沢さんがデザインされたレーシング・ジャケットが当時のチーム・トヨタの制服となったそうです。
それとなくなった後、ムッシュかまやつさんが福沢さんの追悼曲を作ってレコーディングされたことからもスパイダーズと福沢さんの繋がりを表す出来事ではないでしょうか。
また、そのLP(1970年発売 MONSIEUR)には福沢さんの妹さんのエミさんとかまやつさんが「ノー・ノー・ボーイ」でデュエットしています。それではこれからも宜しくお付き合いください。
ありがとうございました。

 21/AUG/2001  N.Sさんより頂いたメール紹介「はじめまして」
 小生(N.Sと申します)、青春時代を60年代〜70年初頭で過ごした1950年生まれの今年51歳になる、アメ車マニアです。貴ホームページを拝見し、とても感慨深いものがあり、メールを書いた次第です。
 実は高校生の時、リアルタイムで「レッドライン7000」を観ました。その時はデイトナビーチのストックカーレースの迫力に圧倒されましたが、あまりそれ以上のものはありませんでした。
しかし、年と共に当時のカーレース映画で、あれ以上のものは無かったのでは・・・
と思うようになり、何とかもう一度観ることは出来ないかと、ビデオショップにも通いましたが、どこにも置いてありません。
テレビの洋画劇場で放映されないか?と毎日のテレビ欄をチェックした事も有りました。実際、数年前ですが埼玉放送で放映されたとも聞きました。
 実は小生、C2コルベット(63〜67年型)のモデルカーコレクターです。
長年に渡りコレクションしておりますので、それなりの質と量を持っております。それ以外の年代のコルベットには全く興味が無く、C2のみを追いつづけております。
 この映画で私が記憶していることは、パドック(だと思いますが)全体が映ったとき、銀色に輝くC2が画面の右から左へ横切った・・・と記憶しておりますが・・・。
また、紺色のデイトナコブラを街乗りに使用していて、夜走り回り、家の中にガレージがあるような家に入っていったのを覚えており、当時買ったパンフレットの表紙に、そのコブラが道路の溝?にはまり脱輪して傾いているシーンがあったように思います。
シェルビーマスタングGT350Rは白い車体で、ダートのレース場で女性にドライブさせ、暴走しかかったのを、助手席側からハンドルを持って止めた・・・?ような記憶があるのですが、間違っているでしょうか?
 そんな訳で、この映画のビデオを何とか入手する方法がございましたら、是非ともお知らせ頂きたいと思っております。
ご返事をお待ちしています。

追伸
ついでにご存知でしたら教えてください。
その当時テレビで放映された映画で、「それゆけスマート」と「ハニーにおまかせ」を一時間番組でやっておりましたが、ハニー役のアン・フランシスが軽々と乗り回していたのは、大変珍しい、白!のACコブラ427だったような記憶がありますが・・・ご存知ありませんか?
 

WEB MASTER : S様、この度はまだまだ未熟極まりないこのHPに立ち寄って頂き、更にメールまで頂き感謝しております。
早速ですが、レッドライン7000は昨年WOWOWで放送されました。また、S様がおっしゃっていた通り、コルベットやデイトナ・コブラ、350GTなどが出ております。
この映画は今見ても大変素晴らしい出来で、低予算で作られたとはとても思えません。
そして、N.S様からの御質問である「それゆけスマート」、「ハニーにおまかせ」についてですが、放送当時確かに私もこのTVを見ておりました。「ハニーにおまかせ」は原題名「Honey West」でNET(現テレビ朝日)が1965−66年に放送し、30話が放送されたと思われます。また、「それゆけスマート」は原題名「Get Smart!」とやはりNETが1965―66年に放送したものです。こちらは138話製作されておりますが、実際に日本で放送された回数は不明です。
私は、「それゆけスマート」のコミカルなストーリーが面白くて毎週楽しみにしていたと記憶しています。
 N.Sさんの御質問の内容について何方か詳しい方がいらっしゃいましたら是非御一方頂ければ幸いです。
では、これからも宜しくお願いします。
 18/AUG/2001  N.Sさんより頂いたメール紹介 「HPの感想」
(PART 1)
 はじめまして。
ネットサーフィンしていたら、60年代の日本GPがあり、非常に貴重な資料多数で、感激して、メールしております。
 私が、全然生まれていない時代ですが、最近、FISCOの30度バンクを走ったり、FISCOで300マイル耐久などしたりして、(信じられないとおもいでしょうが・・・)
最近、FISCOに非常に興味が、出てきていたところです。
また、R380系がすごく好きで、昔のプラモで、R380IIやR381クローズドなど、買い集めては、少ない資料を元に、作成したりしております。
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(PART 2)
 早速の返事ありがとうございます。
>お聞きしたいのは、ストレートからバンクに入るコース
>どりをなさっているのでしょうか?!
ご存知だとおもいますが、1コーナーからは、30度バンクは、つながっていません。FISCOのジムカーナNコースをご存知でしょうか?30度バンクかけおり、右コーナーが続き、本コースへ戻る手前にジムカーナ場があります。
ここへ入る時に、昔のコースを走っていかないとたどり着けません。
で、このコースへ入る入り口の右側が、30度バンクの終点になっており、いつもは金網門で、「閉鎖」されているんですが。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~madhouse/photo2.html
私が走ったときは、この30度バンクを、逆走行し、1コーナーめがけて走ります。
当然、1コーナー手前で30度バンクは、ぷっつりと切れていますので、そこでUターンし、再び、通常に30度バンクを駆け下ります。数十年も閉鎖されていましたので、アスファルトは、もう、ボロボロで、走るだけで、崩れてきたりします。パラパラと・・・・(^^;
 添付の写真は、その時のもの。日産旧車フリークな方々が、連なって走っているとこです。
やっぱり旧車は、似合いますね。(私は、軽自動車乗っているので・・・(^^;
オーナーは、若者ばっかりでしたが、やはり、当時現役で走っていた場所を現在自分で走るってことで、喜んでいました。
 この30度バンクも、取り壊すらしいです。(そりゃそーだ。ここかなり広大な土地ですし・・・)今年の10月か11月に最後の「開放」があるみたいです。
詳しくは、わかりませんが、当時のクルマをできるだけ集めて、(レーシングカー含む)イベントが、あるそうです。
URLの写真にもあるように、この時は、R381とかZとか特別に参加していました。
*実は、次の日FISCOで日産のイベントがあったにもかかわらず、R381は、私が参加した30度バンク体験イベントのみ貸し出し許可おりて、持って帰ってしまいました。結構笑えます!
 WEB MASTER : 
(PART 1返事)
 S様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂きありがとうございました。そして、メールまで頂き感謝しております。
 Sさんは富士スピードウェイに30度バンクがあった時代にはまだ生れていないとのことですが、当時はストレートより速くバンクを駆け下っていたのですから、想像を絶すると思われることでしょう。
しかし、現在30度バンクに生え茂った雑草を刈り、そこを走っていると以前雑誌で見たことがありましたが、nshimuraさんが走られていると聞き大変ビックリしているところです。
お聞きしたいのは、ストレートからバンクに入るコースどりをなさっているのでしょうか?!
いずれにしましても今後ともよろしくお願いします。
ありがとうございました。
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(PART 2返事)
 S様、貴重な写真まで頂きありがとうございました。
スカイラインなんかが走っていると当時の写真のような錯覚に陥ってしまいますね!
このHPには当時の若者(いまの親父さん)がいっぱい見ていますのでこの写真を見れば感激することでしょう。
それにしましても、昨年ぐらいですか1974年以来使われてなかったあの30度バンクの全面に生え茂っておりました雑草をすべて刈り揃えてイベントを開いたと聞いてはいたのですが、これほど本格的だとは思いませんでした。
貴重なお話本当にありがとうございました。
 16/AUG/2001 S.Mさんより頂いたメール紹介「TETSU IKUZAWAの件」
 始めまして、私は生沢様の生き方に共感をもつM.Sでございます。
今から18年前に世田谷区にある店「TEAM IKUZAWA」へ行き、生沢様本人に会い、サインを頂きました。
今もその店はおありでしょうか?
いつまでも夢を失わないという生き方に強く魅かれております。
生沢様の熱狂的なファンの方がおられることは嬉しく思います。私としては夢がたとえかなわなくとも死ぬまでつき進めようという姿勢に共感をもちだしたわけでございます。
やはり前例にないことをやろうという発想も好かれる理由となっていますね。たとえば個人が大企業に勝てる(第4回日本グランプリン)例とか・・・あの時は大企業だからお金をポイすれば勝てるという固定イメージを打破しょうとレース史上初めて会社のスポンサーを得てのプライベートチームとか、あのハイレグのレースクィーンも生沢様が持ち出したとか、歴史に残る宣誓拒否とか・・・まさに時代の寵児ですね。今風流となっている事柄の先駆者ともいえますね。そういうところに魅かれるわけです。
申し遅れましたが、私は聴覚障害者です。人間は一生チャレンジャーであれ!という姿が障害者にとっても励みになりますので。
今後もよろしくお願いいたします。
 WEB MASTER :  M様、この度は私のまだまだ未熟なHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂き感謝しております。
TETSUさんとは私が熱狂的なファンでまったくの私の独断と偏見で作らせて頂いているHP宛てに感激のお連絡を頂いたのが一昨年であり、それ以来時たまではありますがお連絡を頂いております。
生沢さんは、Mさんがおっしゃっている通り当時としては正に先陣を切っていたリーダー的な役割をなさっていたと思います。
私たちはそんな姿に憧れていたわけですが、その反面、反生沢の立場の人間も沢山おり、かなりの風当たりを受けたのではないかと想像されます。
では、これからもお時間がありましたらぜひ立ち寄ってください。
また、生沢さんにもきっと見ていただけると思いますしきっと喜んで頂けると思います。
では、ありがとうございました。
 13/AUG/2001  境さんからのメール紹介「ホーメットTXでは?!」
 偉大なる月刊誌だったAUTO SPORT」記事中のホーネットTXは、私の記憶ではホーメットTXだったと思います。オートスポーツに何回か出てたので覚えています。ドライバーがかなりの年輩で、ヘルメットを抱えて斜め横向いて車の前に立っている写真も記憶にあります。
 第一回カンナムはヘアピンで観戦しておりましたのでまたお便りしたいと思います。
さて、自己紹介が遅くなり申し訳ありません。私は和歌山の有田中央という高校で、教師をしている境洋一郎と申します。1950年生まれの51歳です。先日息子のお気に入りの中から牧野さんの「くるま村」を見つけ、大変懐かしく読ませていただいております。最近仕事が忙しく、なかなか時間がとれませんが、少しずつ感想などお送りしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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 別の記事を拝見し「ぼくら」の表紙に出られてたとは驚きました。「ぼくら」は好きでしたので私も目にしていたかも知れません。当時我々の読み物といえば、少年マガジンや少年サンデーが出るまでは「少年」「少年画報」「冒険王」「おもしろブック」と「ぼくら」でした。小松崎茂の戦艦大和や空母の画がよくでてたのを、懐かしく思い出しました。それから第三回グランプリに出てくる砂子和義氏は砂子義一氏ではありませんか。
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今日は「60年代の広告」興味深く拝見しました。
特に「決死の富士スピードウェイ」は大切にして当時よく聞いていましたので大変懐かしく読ませていただきました。
早速探してみたら、ソノシートと一緒に私が当時書いたメモも出てきましたので、紹介します。
ジャケット左下部に「*本誌の解説を参照しながらおききください*」とありますので、おそらくその解説文をメモに写したものと思います。
本誌はすでに手許にありませんが間違いないと思いますので、メモをそのまま以下に紹介します。
録音地点とレース名、通過マシンの順です。
(1)《30度バンク》 68GP  R380−T70−910−R381−T7(トヨタ7)−P5−T7−P5−906−R381 
(2)《須走落とし》 68GP  910−T70−フェアレディ−T7−マクランサ(なつかしい)−R380−カローラ−906−T2000GT
(3)《S字ベンド(なつかしい)入り口》 68GP  R380−フェアレディ−T7−T70MK?−T70MK?−P5−T7−910−P5−フェアレディ
(4)《ヘアピンカーブ》 68GP  R381−R381−R380−910−P5−P5−T70−R380−T7−T7−R380−T70−マクランサ−906
(5)《ピットイン》 富士1000K  T70MK? 田中健次郎から酒井正へドライバー交代(もーずーっと入らないぞ とか ・・・駆け上がりまでね とか語りかける田中の声だけ聞こえ、バタ  ンとドアが閉まって例のバタバタっというエンジン音で終わる・・・・・と記憶しています)レコードプレーヤーがないので今聞くことが出来ません。牧野さん聞けたらまたお暇なときに教えてください。
(6)《グランドスタンド》 富士1000K  T7(鮒子田・蟹江)−T7(細谷・大坪)−T7(津々見・見崎)−910(長谷見・片平)−T70MKIII(田中・酒井)−R380(横山・北野)−R380(砂子・高橋)−906チュードルカレラ6(高野光正 メモには高野としかありませんが米山と組んでたのはルイではなく光正と思います 漢字自信ありませんが・米山)−P5(矢吹・武智)
それから、ソノシートと一緒に風戸のレコードも出てきましたので、次回感想お送りしたいと思います。
 WEB MASTER :  境様、この度はメールありがとうございました。
そしてホーメットTXのご指摘ありがとうございました。
早速「ホーメットTX」に訂正いたしました。どうもありがとうございました。
最近あまりにも企画ページが多くなり、私自身が書きましたページもすぐにどこに書かれていたかを探し出すのが
困難な状態に陥っております。
また、今後とも良きアドバイスよろしくお願いいたします。
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境様、度々ありがとうございました。ご指摘の通り砂子義一氏であります。
予選、本選結果のリンクページには正確に書かれておりましたが、どうしたことか本ページの中では間違って書かれておりました。
いずれにしましても正確さを必要とする内容ですので感謝しております。
ありがとうございました。
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境さま、またまたお忙しい中大変多くの書きこみ、誠にありがとうございました。
「決死の富士スピードウェイ」は当時としては実に興味を誘うものでありました。
境さまがご指摘のように特別解説ナレーションが入るわけではなく良く聞いていないと何がなんだかわからなくなってしまいそうな内容ではありましたがAUTO SPORT誌と共に読むと「なるほど・・・」という感じになったのを今でも思い出します。
今度何十年ぶりにプレーヤーで聞いてみようと思っておりますのでその時はお連絡いたします。
ではどうもありがとうございました。
 09/AUG/2001  O.Aさんからのメール紹介 「私もTETSUファンです」
 初めてメールいたします。牧野様のページいつも楽しく懐かしく拝見しています。
私も牧野様と同年代のテツファンです。中学、高校時代は毎月オートスポーツを見るのが楽しみで、どんな小さなコラムでもテツの結果を探しては一喜一憂したものです。勿論、いまでもテツファンです。一昨日、ミスタークラフトのジョーホンダさんの写真展へ行ってきました。記帳した時、私の前に記帳されていたのが牧野様でした。写真を見ていると本当に懐かしくて、テツはかっこ良くて、おもわずロータス69の写真を買ってしまいました。
私は1/43のメタル、レジンのモデル作りを趣味にしており、今年のテーマはテツの乗った車を作る事なのですが、もう8月というのに、まだ67年のニュルを走ったS800しか完成しておりません。これはもう今年のテーマではなく、私のライフワークになるかも知れません。このモデル作りの資料としても、牧野様のページを参考にさせていただいております。本当に有り難うございます。どうぞこれからもテツのことが沢山載っているHP作りをお願いいたします。
 WEB MASTER : A様、この度は私のHPを見て頂き、そしてメールまで頂きありがとうございました。
8月4日にジョーさんの写真展にいらっしゃったのですか!?
それも私のサインの後ということは同じ時間帯にいらしたということになるのでしょうか?!
私は会場でわいわい言っていたのですがお会い出来ずに残念です。
ところで、ジョーさんの話しでは生沢さんも招待してあるそうなのですが、いらっしゃってないようです。
もし生沢さんが今の時代にF3やF2をやられていたら絶対にF1に行ったとのでないかと思います。
それだけ当時の日本とヨーロッパとの距離、そして日本のマネー力の違いがそのままF1への距離となっていたのではないかと想像してしまいます。
ではこれからも良きアドバイス、そしてTETSUさんの思い出などを聞かせて頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 26/JULY/2001  N.Nさんからのメール紹介 「いつも楽しく拝見してます」
 突然失礼します。
武蔵野市在住のN.Nと申します。「くるま」村の少年たち・・・、いつも楽しく拝見しています。
 小生は牧野様より1歳年上の1953年生まれですが、中学生時代にはスロットカーレーシングにハマり、武蔵小金井にあったレースウェイズ・ムサシノや西荻窪にあった西荻サーキットに連日のように通い詰めておりました。
 当時から愛読する雑誌はCARグラフィック誌とAUTO APORT誌で、CAN-AMレースやプロトタイプ・スポーツカーレースの情報に飢えていたことを思い出します。ちなみにFISCOで開催された日本CAN-AMレースは2回とも観戦しました。初回はMダナヒュー選手が目の前でリタイアしたことが思い出されます。
 小生は2台のホンダS800を所有していて、1台のロードゴーイングヴァージョンは28年、もう1台のヒストリックカーレース仕様は17年持ち続けています。そして、そのホンダSシリーズのオーナーズクラブには創立当時から関わり、今年で25年になります。
生澤選手は2年前にツインリンクもてぎでフェラーリP4(究極の憧れですね)を駆られたところを拝見しましたが、小生にとってはS800を駆って英国やヨーロッパで大活躍された「アイドル」なのです。
 何か自分のことばかり書いてしまいましたが、そんな人間ですので貴サイトを拝見することは嬉しくてたまりません。どうか、この素晴らしい企画を続けられることをお祈りしています。
小生は資料整理が下手なのですが、当時の資料は残っているはずです。何かお役に立てることがあれば、ご遠慮なくお申し出ください。
暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。
 WEB MASTER : N様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き本当にありがとうございました。そして、メールまで頂き感謝しております。
 自分の長年の思いをHPにしたくCPを習い始め2年半前にやっとキーボードがなんとか打てるようになりやっとの思いで未熟ながら作ることが出来ました。
Nさんから頂いたメールを見ていると本当に作って良かったとしみじみ感じております。本当にありがとうございました。
さて、メールを拝見させて頂いていて素晴らしいなと思いましたのが、当時の全日本チャンピオンチームであった
チーム・武蔵野の本拠地であるレース・ウェイ・ムサシノに通われていたとのこと。当時のムサシノ製シャーシーは魅力あるものだったと記憶しております。

> 日本CAN-AMレースは2回とも観戦しました。初回はMダナヒュー
>     選手が目の前でリタイアしたことが思い出されます。
>
本当に羨ましい限りです。
私が実際にレースを見に行きましたのは私が高校生になった時の1971年富士GCが最初でした。
それ以前のレースは日本GPも含め、全てTV中継を見ただけでしたので、憧れのトヨタ7の優勝も含め実際に見に行かれたNさんの体験はすばらしい出来事だったのではと想像しています。

> 小生は2台のホンダS800を所有していて、1台のロードゴーイング
> ヴァージョンは28年、もう1台のヒストリックカーレース仕様は
> 17年持ち続けています。そして、そのホンダSシリーズのオーナーズ
> クラブには創立当時から関わり、今年で25年になります。
>
これまた羨ましい限りです。
先日(昨年)、フランスの“クラブ・ホンダS800&Z フランス”のPhillippe Lalanne氏から私のHP上にある生沢徹氏の67ニュルブルクリンク500kmのレポートを見てメールを頂き、それ依頼メールでのお付き合いをさせて頂いております。
特にフィリップさんは当時のRSCマニュアルをさがしているようでしたので、当時のオートスポーツ誌に出ていたRSC記事をコピーして差し上げたりしておりました。

> 小生は資料整理が下手なのですが、当時の資料は残っているはずです。
> 何かお役に立てることがあれば、ご遠慮なくお申し出ください。
>
本当にありがとうございます。
私も一様資料は持っておりますが、なかなか全部が揃わず時にはそれの真実を知るために数ヶ月も探しまわったりすることも度々ありますのでその時は宜しくお願いします。
ということで長々と書いてしまいましたがこれからもよろしくお願いいたします。
本当にありがとうございました。

 18/JULY/2001  Y.Sさんからのメール紹介 「はじめまして。そしてモデルレーシングカーの記事嬉しくなってしまいました。」
 初めまして。偶然このHPを発見して、あまりに懐かしく、また充実したコンテンツに感激して思わずメールを書いています。
申し遅れましたが、私は当年とって44歳となりましたSと申します。
 60年代日本グランプリ、日本カンナム、初期の富士GCシリーズ、酒井正、東京レーシングカーショー等々、どれを拝見しても当時の記憶が鮮明に蘇って来ますが、今回何といっても感激したのは、60年代モデルレーシングカーに関する部分です。
しかも私の大好きなストックカーや、当時の手作りシャシーの記事がこれほど充実しているとは思いませんでした。
しかも私が何台も作ったクライマックスのクリヤーボディの広告まで拝めるとは!
ちなみに1970年のアオヤギのカタログ、今でも保管しています。
それに当時作ったパイプシャシーや各種ホイールなども少し残っています。
 実は、私、小学生の頃からストックカーレースが大好きで、たまにTVで放映されるデイトナ500などを観ては、大興奮していたのです。
当時はフルサイズ7リッターの時代で、特にフォード系が好きだった私はH&Mのギャラクシーやウッドブラザーズの#21マーキュリー、#27のドニーアリソンなどを応援していたものです。
 これからもぜひ当時のモデルレーシングカーについて、コンテンツ充実していただけるようお願いいたします。
またいずれメールさせていただきますね。
 WEB MASTER :  S様、この度はまだまだ未熟な私のHPを見て頂くだけでなくメールまで頂きありがとうございました。
60〜70年代初期までのモデルカーレーシングの体験をもとに私の独断と偏見で作らせて頂いておりますので少々の間違いもあるかとは思いますがお許しください。
さて、クライマックスや青柳に関しては私もSさん同様とにかく思い出深いものでありました。
当時日本グランプリでのトヨタ7、ニッサンR382等との対決が盛り上がって実車とリンクしてモデルカーレーシングを楽しんでおりました。
また、70年代に入ってからのGCシリーズでのシェブロンやローラ、GRD等または、酒井さんのマクラーレンM12や生沢徹のポルシェ917などそれらに触発されてモデルカーも自作クリヤーボディなども含め楽しませてもらいました。
また、当時のCAN-AMシリーズに出ていた風戸裕のローラT222などは特に好んで自作クリヤーボディを作ったものでした。
それらに自作パイプ(その頃はピアノ線シャーシーが主流かな?!)にアングルワインダー方式でFT26Dを載せて走らせていました。
しかし、クライマックス社が斜陽となり、走るためだけの他社のリアル感に欠けるクリヤーが主流になるころには私は他のものに興味の対象が移りいつのまにかモデルカーレーシングから離れて行ってしまっていました。

> ちなみに1970年のアオヤギのカタログ、今でも保管しています。
> それに当時作ったパイプシャシーや各種ホイールなども少し残っています。
>
当時のパーツは本当に貴重ですね。私はホンダF1と同じホイールだったスピードホイール(元ゴーセン製)が大好きでした。その後ワイド化してカラータイヤ時代になりましたが・・・。いつか機会がありましたら、見せて頂ければ幸いです。

> 実は、私、小学生の頃からストックカーレースが大好きで、たまにTVで放映されるデイトナ500などを観ては、大興奮していたのです。
私も見てました!ケール・ヤーブローが優勝した時は興奮しました。当時のインディも今とは違って面白かったです。
タービンカーでのレース(1967〜68年)は特に印象深いです。
では本当にありがとうございました。また、立ち寄ってください。そして、アドバイス頂ければ幸いです。

 16/JULY/2001  K.Kさんからのメール紹介 「モデルカーレーシング事情」その2
 拝啓、梅雨が早くあけてしまい、暑い日が続いております。
先日、名古屋に帰郷した際に、名卓サーキットの跡地と名古屋のモデルカーレーシングを探索してきました。
名卓サーキットは30年前の記憶をたどり、探しましたが、当時の建物は既になく、跡地であろうと思われるっところに住宅が建っておりました。
業務内容が変わっていても、建物だけは残っていることを期待したのですが、長い年月が全てを変えてしまったようです。
  ということで、気を取り直して、今でも元気に活動しているサーキットを訪問してみました。
名卓サーキットに近く、故・安西氏HPの「ウエスト工房」にリンクされてあった「トイ・スタジオ」にお邪魔してみました。
こじんまりとした店内には車のキットがぎっしりと並べてあり、狭い通路の奥にはサーキットコースが目に入りました。
私には15年ぶりの再会です。そこには中年?の方、二人がレーシングカーを走らせて、楽しんでおりました。
店長さんにお尋ねして、私が東京の方から来たことと、「ウェスト工房」から検索したこと、牧野さんと連絡を取っていることをお話したら、快く迎えて頂けました。
コースは狭いところを幾重にも曲げて(ヘアピンカーブ)、有効に作られていました。
「EXCITING]のメンバーの方も親切に話にのって下さいまして、安西さんのことNさんのこと、シャーシは国産でバンプロジェクト製でこれにプラモデルのボディをのせていること、モーターはマブチ製であることを話して頂きました。
店内の壁には「EXCITING]のメンバーの写真が飾られており、その中には故・安西さんも入っておりました。名古屋には他に「おもちゃの宝島」、「道徳模型店」と半田に「ディノ」があり、みんさんでレースを楽しんでいるそうです。
特に、「道徳模型店」は30年まえの初期の頃からあるそうです。
そして、故・安西さんの追悼レースがあるそうです。
約20分ぐらいでしたが30年前の感動がまた蘇ってきました。
再び、名古屋に来た時にはよらして頂くことを伝え、店を出ましたが、今度は「おもちゃの宝島」と「道徳模型店」にも行ってみたいと思います。
そして、東京では世田谷の「レーシングパラダイス」に行ってみたいです。
 WEB MASTER :  K様、名卓サーキット探究記お疲れ様でした。
中部地区は、60年代モデルカーレーシング時代においては特に独自で西日本モデルカーレーシング連盟(1969年)を作られたぐらいの熱心な地区だと記憶しております。
歴史的文化遺産を地道に守り続けていくというかとにかく東京や大阪と違い1つのものを大事にしていく市民性は尊敬に値するものだと思っております。

> 名卓サーキットは30年前の記憶をたどり、探しましたが、当時の建物は
> 既になく、跡地であろうと思われるっところに住宅が建っておりました。
> 業務内容が変わっていても、建物だけは残っていることを期待した
> のですが、長い年月が全てを変えてしまったようです。
>
そうでしたか。残念ですが、30年前ではしょうがないですね。
ちなみに私が幼年期を過ごしました東京都板橋区のアパートも昨年立ち寄りましたら、跡形もなく壊されておりました。
では、どうもありがとうございました。

 26/JUNE/2001  T.Oさんよりのメール紹介「はじめまして。恋のブガッティの件です」
 突然のメール すみません。
はじめまして!F1レースのサイトだったんですね。
じつは ずーーーーっと 探してたものの中にこの「恋のブガッティ」の日本人歌手版(本家のミッシェルフュガンは今でも持ってて、この日本人版は友達にかしたまま行方不明)のを探して どうしても聞きたいんです。
いろいろ当時(中学生)から音楽が好きでえらくませた曲ばかり聴いてました。
当時 我が事ながら、思いっきり暗い家庭の中で自分の逃げ道は部活と深夜放送、音楽鑑賞くらいだったのを思い出して、おかげで音楽そのものはロックやJAZZに形をかえましたけど、、。
御サイトには無関係の部類のことでしょう。
初めてのメールで あつかましいのは重々承知ですが、無理とは思いますが、もしよろしければ音源だけでもダビングか譲ってはもらえないでしょうか。
お礼はさせてもらいます。何とかお願いします。
 WEB MASTER :  O様、まだまだ未熟な私のHPを見て頂き本当にありがとうございました。また、メールまで頂き感謝しております。
ところで「恋のブガッティ」の件ですが、どうもO様のご期待には添えそうにありません。
私のHPは1960年代の日本のモータースポーツと同じく60年代に日本中をブームに包んだモデルカーレーシングについてのHPであります。
私の体験(と言ってもレーサーではありませんが、1人のファンとしてその時期青春を過ごしましたので・・・)と記憶、そして当時の資料を元に作成しております。
その中で、当時のレース・クイーンとはどういうものだったかというテーマで作りました企画ページがそれでありました。
その中の1人が「恋のブガッティ」を歌っていたわけであります。よって、私はその資料に基づきレポートさせて頂いただけで実物のレコードは残念ながら持ち合わせておりません。
本当に申し訳ございません。これからもお時間とご興味がありましたら是非覗いて見てください。
ありがとうございました。
 21/JUNE/2001 Tさんよりのメール紹介 「川合 稔」
 私も子供の頃、福澤、川合の2人は大好きでしたので、まさか2人共事故死するなんて思ってもいませんでした。   今、私の宝物は当時の各新聞と雑誌の事故の切り抜きです 昭和45年8月27日から今まで大事にとってあります。 だいぶ黄ばんできましたが、これからも大事にしていきたいと思います。
 WEB MASTER :  T様、この度はまだまだ未熟な私のHPを見て頂いただけでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。
福沢さんと川合稔さんの新聞記事をお持ちとのこと、1969年と翌70年は本当に色々なことがありました。特にビック・マシンの対決に沸いた日本グランプリでの日産とトヨタの戦い、そしてあっけなく両社の撤退で日本グランプリが中止となってしまった1970年。その間に短くも輝いていた福沢幸雄川合 稔。その2人の事故の新聞記事は当時の世論がどのように日本のモータースポーツをとらえていたかがわかる大事な資料です。いつまでも大事にしてくださいね。
これからもお時間がありましたら是非立ち寄ってください。
ありがとうございました。
 20/JUNE/2001  Kさんよりのメール紹介 「現代のモデルカーレーシング レポートPART 2」
 拝啓、お礼のメールが遅れて、申訳けございません。
フォーミュラの優勝者の写真は記憶にあります。特に2,3位のブラバムは当時、私はこれを参考に作製しようとしていましたからよく覚えています。
Nさんの優勝車は他のどれもシャーシが似ていますね。
速さの究極は同じところへ行きつくようです。フォーミュラにサイドワインダを搭載した車種は何でしょうか?
ブラバムではモータマウントしか入らないと思いますけど、やはりSTPスペシャルでしょうか。私がやりたかったことが諸先輩方?が早々におやりなって、優勝していたと思います。
   ところで、先日、巣鴨の「さかつう」さんに見学?に行ってきました。
現在市販されているモデルレーシングカーは輸入品のようで、30年前の1/24よりは小さく感じられました。(1台6,500円は高くありませんか?)ただ、チャパラルがあったのには感動しました。
   また、30年前のキットが3万5千円で売られているのには、懐かしさと驚きが一緒になって感じられました。
メーカは確認できませんでしたが、昔懐かしいFT-36モータが入っていたのには感動しました。
その高いキットが無造作にワゴンにほうり込まれたように置かれていたのは残念でした。
  そこで、現代のスロットレーシング事情とそれに変わる現代のモデルレーシングを探索してみました。
やはり、モデルレーシングと名乗る以上、モデラーの沿線上でなければなりません。
(持論ですが)  そうしますと、私は幼年の頃からプラモデルが大好きで、その延長上からモデルレーシングに入ったのですが、いつのまにか速さを追求するあまり、実車から離れていった気がします。クリアボディのチャパラル2Dにタミヤのダイヤキャストシャーシ、26Dモータで走らせていましたが、添付した「Model  cars」に記載のチャパラル2Dと比べるとずいぶん、違っているような気がしました。それに比べ、「さかつう」さんのチャパラルは実物に似ていました。
やはり、実車に近いものが完成し、その上でレースを行ったら、最高ですね。
  ご存知でしょうが、「Model  cars」2001.2月号に記載のスロットレーシングの記事を添付しました。
レーサは中年ですが、まだまだスロットが元気ですね。ただスロット人口が少ないのが難点です。
そこで、それに近くて、変わるものといったら、現代はRCカーになってしまいますが、最前線のRCカーはやたらと大きく、クリアボディやスポンジタイヤも使われており、モデルレーシングの技術が生かされています。(値段も高い)
ところが、「京商」で販売しているRCカーは1/28の大きさでモデルカーに近いものです。
コースも販売店に設置いており、レースさながらに走行しておりました。7月にはF−1も販売されるそうで楽しみです。バリエーションが増えれば、人気も上がったくると思います。
これは津田沼駅「ユザワヤ」で13,000円で売られており、価格も手ごろです。
  今回は、貴殿のHPで私の心に蘇ったモデルレーシングの興奮を癒す為、このような行動をしてみました。
 WEB MASTER :  K様、本当にモデルカーレーシング事情レポートありがとうございました。
Kさんのおっしゃっていることは本当に理解できます。
私も1985年頃約10年間遠ざかっておりましたモデルカーレーシングの熱き思いをモデルカーズの創刊により再び呼び起こされて現在に至っております。
さかつうさんがスロットレーシングに参入したのも丁度同じ時期でした。私も夢中になってさかつう製シャーシーを手に入れて当時発売されていた1/24プラモデルを購入し、そのシャーシーを付けて同じく当時手に入れたニチモ製ホームサーキットで走らせておりました。
丁度同じ頃発売され爆発的な人気となりましたタミヤ製1/24RC「タムテック」のポルシェ956、ランチャLC2などを自慢げに走らせていたのもそのころでした。
そしてそんな時期から約15年経った現在では40半ば過ぎの年齢になったからかも知れませんが60年代のあの懐かしいモデルカーレーシングを再度振りかえってみる気持ちが自然と沸いてまいりました。そして不完全な当時のキットでもそのオリジナルな雰囲気がなんともいえない味があるものだと最近思いはじめているところです。
そして、Kさんも体験なさっていたクリヤーボディについても、その時代があったからこそ今のスロット人生があるのだから、当時のスピード追求路線も悪いことじゃなかったんじゃないかと思っております。
リアルさに欠けていても十分カッコ良かったと今では思えるようになりました。
私はKさんが当時体験されたことは本当にすばらしいことだったと思えます。そして今でも誇っていいんじゃないかと思います。当時私はそんな人をみると「凄いなぁ!」と尊敬してました。
いずれにしましても本当に素晴らしいレポートありがとうございました。
それから、再びKさんのこの熱きメールをメール紹介ページに紹介させてください。お願いします。
では、失礼しました。
P.S.
サイドワインダー方式で当時走らせていたフォーミュラカーはクライマックス製クリヤーボディの「ロータス・タービン」が多かったようです。もちろん「STPスペシャル」もありました。
 15/JUNE/2001  Oさんよりのメール紹介 「久しぶりに拝見しました」
 こんにちは。
以前(1年半位前)感想をメールしましたOです。
最初に拝見後、本を探し出して当時のことを読み返してみると自分の記憶がいい加減なんだと良くわかりました。小学生だったと思いこんでいたのが中学生だったり・・・。
しかも実家に本を探しに帰ったらだいぶ無くなっており、がっかりでした。貴ホームページのいろいろな資料にはうらやましいかぎりです。
 生沢氏が確か時計のコマーシャルをやっていたと思うのですが、セイコーかシチズンですが、その当時、時計を買うとレコードがもらえるのを記憶してませんか?
友達がそのレコードを僕にくれたのですがそれも無くしてしまいました。
内容は三保敬太郎氏が生沢氏のことを語っておられたり当然生沢氏の肉声が収まっていたと思います。しかし何を話していたのか思い出しません。(三保敬太郎氏が「生沢氏はF1は無理だ」と話してたと思う)そのとき生沢選手のマシンはGRDだったはずです。だから1970年ごろか?
 自分は高校卒業後に某自動車ディーラーに就職しそのときルマンにもでられたO氏に富士の30度バンクでの事故の話等を聞いたことがありました。(GCドライバーが数名死亡した大事故で、それ以来バンクは閉鎖?)
子どもの頃の思い出から富士通いをしていたころと記憶がタイムトンネルのごとく前後してしまい、とりとめもなくすみません。
また、よらせていただきます。
 WEB MASTER : O様、お久しぶりです。お元気でしょうか?!
当HPもなんとか皆さんの御声援あって開設2年と3ヶ月を迎えることが出来ました。ありがとうございました。
ところで生沢徹の時計のCMは、スポンサーからしてセイコーだと思います。
その景品のレコードについては今大村さんからうかがって初めて知りました。是非聞いてみたいレコードですね!
時代からして今だったらCDかビデオとなるのでしょうが当時はレコードが最高のオーディオソフトだったことがわかりますね。
私のHPにも当時の日本グランプリ風戸 裕を扱ったレコードを紹介させて頂いておりますが、当時は音から入っていったのですね!
では、これからもお時間があるときに是非立ち寄って見てください。ありがとうございました。
14/JUNE/2001  K.Iさんよりのメール紹介 「おひさしぶりです」
 牧野さん、楽しいホームページをいつも見させていただき、ありがとうございます。
以前送っていただいた写真をもとにR380II型とブラバムBT20は、私なりのおかげさまで「完成」みることができました。仕事も小泉内閣の登場をもってますます、忙しさと厳しさの板ばさみにあいながらも、仕事も従来の趣味のフラメンコギターそこそこに大宮のオールドロコというサーキットに通っています。車もポルシェカレラ6、スカイラインGTR「GC10」、432R、R380、ホンダ272R、ブラバム、つくりました。
とても牧野さんにお見せできるものではありませんが、(「フォーミュラ」以外全部プラモデルからの流用です。)デジカメ派ではない私にも近いうちにフィルムスキャナーが手に入りそうなので写真、お送りします。
それにしても牧野さんのホームページは私の少年時代の思い出をよみがえらせて下さるのにはびっくりします。
映画「レーサー」当時横浜に住んでいた中学生の私が、はじめて一人で新宿のミラノ座へ見に行った映画で映画はもとより、大変懐かし映画でした。
これからもたのしいホームページに期待します。
それでは失礼します。
 WEB MASTER :  I様、お久しぶりです。
R380とブラバムBT20の完成おめでとうございます。
フイルム・スキャナーでスキャンした画像を楽しみにしております。わたしなど当時のやり方で作り続けておりますので、モデルカーズ等で作られているような立派なものなどほとんど作ったことがありません。どうか気になさらずに気楽に送ってくださいね。
オールドロコですか。懐かしいです。大宮でしたっけ!?1度だけ行ったことがあります。自前の青柳レバー式コントローラーを持って行って走らせました。
でも、最近のサーキットは、コース面が黒板塗料ではなくつるつるの加工がしてありなんとなく違うな〜という気がしたことを思いだしました。
では、これからも宜しくお願いします。ありがとうございました。
 
06/JUNE/2001  Sさんよりのメール紹介 「ストックカー大好きです!」
 こんにちは!今年36歳になるストックカー大フアンです。いやあーいいですねぇ!
私は5歳くらいの頃からストックカーレースが好きで当時からテレビを観ていて、勝って貰うオモチャもだいたいがストックカーでした。
もちろん本場アメリカのストックカーレースが好きなのですが、昔の日本のストックカーも好きです。NASCARに関しては60年代〜70年代のストックカーが好きです。
日本のレースカーだとクラウンハードトップ(MS50系)、セドリックハードトップ(230系)のストックカーが大好きですねこれらの写真ももっと載せてください。
本場のアメリカンストックカーだと特に65年〜73年頃のマシーンが好きでプリムスベルベデアGTX、プリムスロードランナー、マーキュリーサイクロン、ダッジチャージャーRT、フォードギャラクシー、プリムスサテライトヘミGTX等が好きです。
 それでは楽しみにしていますのでがんばってくださいね。
 WEB MASTER :  S様、この度はまだまだ未熟な私のHPを見て頂きありがとうございました。
ストックカーについては、日本ストックカー伝説再現2号 モデルスピードライフの特集アメリカンストックカーの2企画で私の知る限りですが特集をさせて頂きました。
S様と同じように60〜70年代のストックカーたちは、モデルカーレーシングと共に私の脳裡に強く焼きついております。
さらに、当時はインディ500とともにデイトナ500がTV放送されていました。ケール・ヤーブローなどが優勝したレースなんかが特に印象深く記憶しております。
モデルカーレーシングにおいても、独特な雰囲気がして、私はこれぞ大人のスロットだと感じていました。(小学生から中学生時代にかけてですが・・・)
これからもお時間があれば是非立ち寄って見て下さい。ありがとうございました。
 06/JUNE/2001  S.Tさんよりのメール紹介 「はじめまして」
(その1)
 はじめまして S.Tと申します。 ニチモのマンタレイの記事楽しく拝見しました。
もし 御入用でしたら実車の写真(38号と同じ)と前期の完成車 後期のキットと完成車の写真スキャンとデジカメを用意出来ます。
 言い遅れましたがモデルカーズ38号のTです。MPCのマンタレイもクリアーですが出来いいですよ。
ニチモのロータスエランは発売されていません。広告用のサンプルはあったようです。シャシーは1/32のが使用予定と言う説が多いです。
では よろしく
(その2)
 Tです。
 1年ぐらい前に拝見させて頂いて 同じ時代を生きてきた方だと思いました。
スロットも 私はニチモのマンタレイ、ミドリのカング−ロ、タミヤのロータス30、レベルのラットフィンクと変わった物ばかりでした。今はその思い出を集めると言う名目でコレクターやっています。

> また、私の友人が先日オークションでMPCのマンタレイ
> を手にいれました。グッドコンデションのものでした。

クリアーとは思えないいい出来です。 色はメタリックゴールドとメタリックレッドがあります。

> そういえばHOT WHEELで出てますね!可愛いのが・・・。

あれ 良い出来ですね。 でも現行品は手を出さないようにしています。 ドンドン出てきて増えるので。

> ところが先日、ある方が当時このエランが発売されて
> いたという情報を頂きました。ホームサーキット
> 付属カーとしてあったということはなかったのでしょうか?!
そのような話は以前からよく聞きますが、実証物が出てこないのがね。 否定はしません。 タミヤのロータス40の試作みたいなモノを買った人もいますから。

 WEB MASTER :  T様、この度はまだまだ未熟な私のHPを見て頂いただけでなく、メールまで頂きありがとうございました。
MC38号というと私にとって忘れていたことを思い出させて頂いた記念すべき号でした。
そして、ニチモのマンタレイは、私にとって忘れられないスロットカー(当時は単にレーシングカーとかモデルカーレーシング何て呼んでました)でありました。そして、その実車の正体を明かしてくれたのが38号でした。
また、私の友人が先日オークションでMPCのマンタレイを手にいれました。グッドコンデションのものでした。そういえばHOT WHEELで出てますね!可愛いのが・・・。
 T様、エランについての情報ありがとうございました。
ところが先日、ある方が当時このエランが発売されていたという情報を頂きました。ホームサーキット付属カーとしてあったということはなかったのでしょうか?!
これからもどうか良きアドバイス頂ければ幸いです。ありがとうございました。

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