皆様からの御便り紹介
 THE ROOM OF YOUR MAIL 

 皆さんのご意見を載せさせていただくコーナーを作りましたので、よろしくお願いいたします。

1999年12月までの皆さんのメール

2000年5月までの皆さんのメール

2000年12月までの皆さんのメール

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 18/MAY/2001 名古屋の“名卓サーキットの狼K.K”さんより頂いたメール紹介「くるま村の少年たちのファン」
 拝啓、貴殿のHPを懐かしく拝見させて頂きました。私も貴殿と同世代の昭和30年生まれです。
当時は、私は名古屋に住んでおり、小学4,5年生の頃にモデルレーシングカーのブームがきました。
小遣いが少ない私にとって、800円もするキットはとうてい、買えるものではありませんでした。
実際に、のめり込んだのは、中学の1年のときで、そろそろ下火になりかけていた頃です。
貴殿の書かれたHPを読んでいますと、田宮製のキットや青柳製のパイプシャーシー、FT-26Dのモーター、ゴーゼン製のコントローラ(パワーブレーキに改造)、クリアボディー、全てが消されていた記憶が蘇ってきました。
当時は、名古屋市内の名卓サーキットをホームグランド(近くに住んでいた為)にし、中日シネラマ会館、名古屋スポーツガーデンと荒らしまわりました。
やはり、面白くなったのは、キットものの製作より、真鍮パイプでの自作シャーシがレースの主流になってからです。
自分の構想が次から次へと沸いてきて、速くするのはつぎのにここを改造しよういう意気込みが常にありました。
当然のことながら、勉強のほうはそっちのけで、いつも先生に怒られていました。そんな理由で、中2で止めてしまい、新シャーシは夢の中に消えてしまいました。
  数年前に、ビリヤードの流行と共にスロットレーシング(名前を変えて?)が一時、流行ましたが、私がやっていたものとはまったく変わったものになっていました。その時にはまったく興味が無かったのですが、貴殿のHPを拝見し、昔の夢のシャーシが蘇ってきました。
RCカーが主流である現在の子供が見れば、古めかしい、単純なものに映るかもしれませんが、できたものを購入するろり自分で製作したものがスピードを生み出すほうが価値が高いと思います。
今でも、再開されば、ぜひ私の夢を実現したいものです。
今後とも、さらにこのHPを増やしていって下さい。もし、この電文がお目に届きましたら、ご返事下さい。
                                                                  敬具


 18/MAY/2001  “名卓サーキットの狼K.K”さんよりのお返事メール紹介
 早速のご返事、誠にうれしく、たいへん興奮しております。
名卓サーキットは名古屋の中村区にあり、私が東京に出た後に、帰郷の際に見に行ってみたら、閉鎖してました。名卓サーキットの名は貴殿のHPの中で見つけ、心が躍りました。
当時、中学生であった私の仲間内では最も速いレーシングカーを持っていたと自負しています。そのためか「レーシングカー気違い」と言って、中傷するものがいたものです。
  さて、昨日のメールに続きがありまして、貴殿のHPにも記載されていました「モデルカー・レーシング入門」は私も持っていました。チャパラルの表紙が懐かしいです。あのチャパラルはドライバーが全身あり、ボディーが金属でできていたものと思います。高値の花であったようです。
更には、「モデル・スピードライフ」も愛読してました。レースで優勝したレーシングカーの作り方がよく掲載されており、参考にしました。貴殿のHPに載っていた雑誌の表紙は、全部覚えています。東京のサーキットには大車輪のように宙返りするコースがあるのだとびっくりしていました。レースの記事でも名卓サーキットの結果が時折、載っていたのを覚えています。
私は、後の方でレースに出ましたが、優勝するまでは行きませんでした。
当時の記事で、レース優勝者の製作記事で青柳製の26Dモータのマウント(サイドワインダー方式)を用いて、タミヤ製のダイキャストシャーシの如く、スプリングを付けて、サスペンション方式を作った人が居ました。
また、その後、重心を低くするためか?真鍮パイプでシャーシの両側を広く作り、重りをいっぱい付けた車が優勝したのも覚えています。
ところで、26Dモータの巻線はなぜか青色だったと思います。それまでの16や36は普通の茶色でした。私も26Dの蒔き直しにチャレンジしましたが、なかなかうまく行きませんでした。オリ
ジナルの方が速かったと思います。巻数と線径の選択が良くなかったのでしょうか。
26Dも出現の前あたりからレーシングカーブームが下火になってきたと思いますが、26Dの出現とクリアボディ、パイプシャーシの組み合わせで更に面白くなってきたと思います。去っていった人はキットもの存在しかしか知らず、また半田付けのできない人だったのでしょうか。
鉄道模型と比較されますが、鉄道模型は個人で楽しめ、今でも盛んですが、モデルレーシングカーは商業サーキットがどうしても必要になってきます。営利を考えたら、運命がここで分かれたかも知れません。
話を戻しますと「モデル・スピードライフ」も下降と共に、「模型とラジオ」に移ったのを覚えています。名卓サーキットではそのページのみを売ってましたので、その後も購入しました。
  私の係わった車種はタミヤ製のロータス40、ロータス30(1/32)、ダッチ・チャージャー、プリムス・フューリー。それから、クリアボディのブラバム(タミヤ性真鍮シャーシ改造を搭載)、STPスペシャル、フォードGTだったと思います。フォードGTを作った時に、先ほどの組み合せを搭載し、タミヤ製のサスペンション付きダイキャストシャーシより速いことが分かり、貴殿と同じ思いをしました。
  というところで、話題は尽きませんが、貴殿のHPの記録には驚いています。良くここまで残っていたのかと感心しました。
このHPを見てから、眠っていた私の心に火が付き、サーキットを探しましたが、千葉にある「南米フィッシュ」(熱帯魚屋)は今は、やっておりませんでした。「オジサン  プロスポーツ」は連絡がつきませんでした。
次は、「リバーサイド」(北千住)を当たってみようかと思っています。
ところで、貴殿の御幼少の頃の写真(ぼくら表紙、ボーイスカウト)を拝見しました。ずいぶんハンサムですね。
 WEB MASTER : “名卓サーキットの狼K.K”様、この度はまだまだ未熟な私のHPを見て頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
私も、名卓サーキットの狼K.Kさん同様、1966年から1973年頃まで夢中になり勉強そっちのけで自作ボディやシャーシを作りまくっておりました。
また、このHP宛てに当時のリアルタイマーの方々から沢山の励ましのメールを多々頂き本当に感激しております。
私は、ただ当時のあの熱狂的だったモデルカーレーシングの軌跡を20世紀の遺産として(ちょっとオーバーかも知れませんが・・・笑)残したいために作り始めたHPでしたので、反応がなかったらどうしようとか思っておりましたので、名卓サーキットの狼K.Kさんのような私とほとんど同じ体験をされた方からメールを頂き本当に主宰者冥利に尽きる思いであります。
そして、同じリアル・タイマーの方でも私は、どちらかというと名卓サーキットの狼K.Kさんと同じ、クリヤー・ボディとパイプ・シャーシで育った世代(!?)でしたから、何がなんでもプラボディのキットという方ではありませんでしたので、名卓サーキットの狼K.Kさんのメールを読ませて頂き本当に安心いたしました。
私は、当時東京都の板橋というところに住んでおりました関係上、近くの巣鴨サーキットが私のホームサーキットでありました。しかし、名卓サーキットの狼K.Kさんと違うところは、友人とニチモのホームサーキットを延長して、1周20mぐらいの長さのホームサーキットでシリーズ戦を行っていたことでした。
1966年以降の日本グランプリでの、ニッサン、トヨタ、そして、ポルシェの戦いなんかをクライマックス製クリヤーボディに青柳のパイプシャーシを付け、有名だったダイキャストホイール(ホンダF1のホイールと同じもの)なんかも装着して、レースを楽しんでおりました。また、マブチモーターはFT−36Dから26Dに移ろうかという時期で、タミヤサイドワインダーシャーシが遅く見えてきた時代でもありました。
同時に、小学生〜中学校時代ということで、見に行くことが出来ずTVで観戦していた日本グランプリや日本カンナムの後の70年以降に開幕した富士グランチャンピオンシリーズ初年度を友人と一緒に1973年までかかさず見に行っておりました。
そんな関係で、自作ボディ(クリヤー)を作りだし、モデルカーレーシングによる富士グランチャンなんかも毎月行なっておりました。シェブロンB19やローラT290、GRD、そして、当時のカンナムで日本の風戸裕が出場していたのに影響されてカンナムシリーズのマシンなんかも作り楽しんでおりました。
書き出しますと切りがなくなりそうですので、この辺にいたします。
“名卓サーキットの狼K.K”さん、今後も良きアドバイスお願いいたします。
本当にありがとうございました。


 (PART 2) 
 “名卓サーキットの狼K.K”さん、早速のお返事、そして、メール掲載の件了承頂き感謝いたします。
さっそく、2つのメールを合わせて掲載させて頂きます。
ところで、今年の2月に2年前から交流があった愛知県 半田市にお住まいの安西さんというモデラー(もちろん60年代のリアルタイマーで私たちと同年輩でクリヤーの時代までやられた方)が亡くなりました。
丁度私のHPの特別企画「くるま村の達人」第1回目に登場して頂いたばかりでしたので誠に残念でした。
http://www.mmjp.or.jp/60srace/PROSITE1.html
その方が1980年代から再びモデルカーレーシングの世界に戻られて、名古屋地区に今も素晴らしい活動を続けている「EXCITING」のメンバーとしてレースをされるいっぽうモデラーとして「ウエスト工房」という名前で1/24レジン製の60年代レーシングカーを作り続けておられました。
そのメンバーの中に、60年代後半から70年代にかけて私もよくモデル・スピードライフ誌で名前を見かけたNさんという後の全日本チャンピオンの方も1990年代の半ばまでは、このEXCITINGのシリーズ戦で現役を続けておられたと聞いて感激しておりました。

> 26Dも出現の前あたりからレーシングカーブームが下火になってきたと思いますが
> 、26Dの出現とクリアボディ、パイプ
> シャーシの組み合わせで更に面白くなってきたと思います。
> 去っていった人はキットもの存在しかしか知らず、また半田付けのできない人だったので
> しょうか。
> 鉄道模型と比較されますが、鉄道模型は個人で楽しめ、今でも盛んですが、モデルレーシ
> ングカーは商業サーキットが
> どうしても必要になってきます。営利を考えたら、運命がここで分かれたかも知れません
> 。
>
この辺の問題は、とてもむずかしいと思います。
まず、当時の環境として一番底辺として大事にして行かなければならなかった少年たち(小学生や中学生)がPTA等の圧力で営業サーキットに行けなくなってしまったことがあります。
そして、モデルカーレーシング協会(メーカーの組合)が下火になったころから積極的でなくなってしまったことで、対策がなにもされないうちに消えていってしまい、倒産するメーカーも出てきたことによる原因。コグレ等。
今でこそリアルなボディがどうのこうのという人がいますが、当時は、メーカー製キットでプラでありながら実車とは全然違うスタイルをしたプラボディを持ったキットが多すぎた。
いいかえれば、いい加減な外国製品コピーキットが実に多かったのではなかったでしょうか。それに対する失望も多分にあったのでは・・・。
それに比べると、初期のクライマックスやライト工業のクリヤは実にリアルだったのでは(当時のレベルで考えるとですが・・・)と思ってしまいます。
いろいろな原因があるとは思いますが、実車のレースでいうフレッシュマンレース、入門レースをもっと重要視して、底辺を固めていればまた違った方向に行っていたのではと思いますが、どう思われますでしょうか?!
あまりにもプロフェッショナルになりすぎてしまったのも1つの衰退の原因だったと思います。
では、“名卓サーキットの狼K.K”さんどうもありがとうございました。
 

 12/MAY/2001  J.Hさんからのメール紹介 「はじめまして」
 私、今年33歳になる建築家です。
初めてプラモデルを作った車がマクラーレンの70年代のレースカーだったのがきっかけで少し古い車・バイクの世界に中学のころ足を突っ込んでしまいました。
貴HPを拝見し、自分が生まれた頃のレースシーンにただならぬ興奮と興味を覚えることができました。有り難うございます。
 昨年の夏にたまたま友人のドカ仲間とFISCOに行った折りに、なんと未だにあの30度バンクが存在していることを知り、その圧倒的な光景に言葉をなくしました。
それ以来、色々映像関係をあたって見たのですが、手に入れられたのは77年のF1日本グランプリのみでした。
 是非ともあの30度バンクを命を掛けて爆走していた頃の映像が見たくてたまりません。そのような映像は存在しないのでしょうか?ビデオで発売されていてもおかしくないような気がしないでもないんですが・・・・
映像自体もあの74年の事故を境に封印されてしまったのでしょうか?
もし御存知でしたら御教示いただければ幸いです。
今後も貴重な資料性の豊かな貴HPの発展を期待しています。
突然のメールで失礼致しました。
 WEB MASTER : 
 H様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂き感激しております。
富士スピードウェイの30度バンクは、おっしゃる通り1974年のGCにおけるあの忌々しい事故により使用が中止されました。
1965年に完成された富士スピードウェイは、元々アメリカのオーバルコース(インディとかストックカーレース専用のコース)を真似て作られる予定でしたが、途中変更されてバンクを持つヨーロッパ風(F1等で使われるサーキット)サーキットとして生まれました。
当時は、イタリアのモンザ(今のF1で使われているサーキット、1969年まではスポーツカーレースなどでバンク付きのフルコースが使われていた)、そしてデイトナスピードウェイ(最終コーナーがバンクになっている)などと並んで数少ないバンク付き国際サーキットでした。
1969年の日本グランプリで5000ccトヨタ7がバンクを走る時、ドライバーが受けるGは、なんと5Gだったと言われていましたから、大変な重力がマシンとドライバーにかかっていたことになります。
特に富士の場合は、第1コーナーが30度バンクになっている関係上、フルスロットルでストレートを駆けて来たレーシングカーがそのままバンクに突入するわけですから、デイトナなどと違い事故の起こる確率は非常に高かったのではと想像出来ます。
1967年の酒井正(ポルシェカレラ6)のバンク上段でのリヤタイヤのバーストでのクラッシュ。
そして、1974年のあの事故も第1コーナーがバンクでなく今のような第1コーナーであればあれほどのスピードは出していなかったのではと思ってしまいます。
ところで、この当時の映像は市販では売っていないと思います。以前「60年代の日本グランプリ」という内容で1963年〜69年の日本グランプリまでを扱ったビデオが出てましたが、今はあまり見ることがなくなってしまいました。
Yahooオークションなどでも時々それらのビデオが出ているのを以前見ましたので、時々覗いて見るのもいいかもしれません。あまりご協力出来ずにすみません。
これからも、お時間がありましたら、是非たち寄ってみてください。
ありがとうございました。
 6/MAY/2001  Mさんからのメール紹介 「 なつかしい!レコード持ってます!」
 「くるま村」の映画館の「レーサー」みました。
いやーなつかしいですね。僕がまだ小学生の頃の映画ですね。映画館では見ませんでしたが、テレビ放映(だいぶ前だった気がします。)で見ました。ポールニューマンのファンなので。
それと、シングルレコード持ってますよ。ドーナツ盤です。
以前ステレオプレーヤーがあった時に、よく聞いてました。値段は400円。今ではコンポもプレーヤーもないので聞けません。たまには聞いてみたいです。今後もまた、気になる映画紹介してください。楽しみにしています。
 WEB MASTER :  M様、この度はHPに立ち寄って頂きありがとうございました。
映画「レーサー」は、当時今のようにリアルタイムでレースが見れない時代に生きた私にとってはとても貴重な映画でありました。
映画の内容は、当時としてはちょっと照れてしまうようなストーリーでしたが、大好きなインディカ―やCAN-AMカーがこぞって出場しており大変楽しんだ映画だったと記憶しております。
また、サントラ盤だと思いますが、当時のシングル・レコードもお持ちだとのことですが、実は私も持っていたのですが、ある事情で手放してしまい、今考えると残念でたまりません。ポール・ニューマンもスティーヴ・マックイーンと共に、プロ顔負けの腕を持っていた映画俳優として有名でした。デイトナを走るポール・ニューマンの姿が1990年代にはよく見られたものでしたが、今は現役を引退(!?)されており、何をされているのか興味があります。もちろん映画俳優はやられているのですが・・・。
では、これからもお時間があれば是非立ち寄ってください。ありがとうございました。
 6/MAY/2001  Hさんからのメール紹介 「ジム・クラーク掲載のお願い」
 たいへん 懐かしく思い ホームページを拝見させて頂いております。
年代的にほぼ同じ位の方と思います。(勝手に推測していますが)膨大な情報をお持ちの様ですので希望ですが、ジム クラークの特集記事 及び ストックカーの掲載 を お願いします。
勝手なお願いですがよろしくお願いします。
 WEB MASTER :  H様、この度は私のまだまだ未熟なHPを見て頂いただけでなくメールまで頂き本当にありがとうございました。
私は、昭和29生まれの46歳になるオタクおやじであります(笑)。
小学校6年生の時に、第3回日本グランプリをTVで見たのが発端で、モデルカー・レーシングと共に1966年から1973年頃までの約8年間の思いでを書き綴ったのがこのHPであります。
これからも、お時間があれば時々立ち寄ってください。また、良きアドバイスを頂ければ幸いです。
また、ジム・クラークについての関連企画ページもいずれ作らさせて頂こうと思っております。
また、ストックカーについては、先日UPいたしました、「再現第2号モデル・スピードライフ」において1960年代のストックカーについて、少々書かせて頂きましたし、当時の映画「REDLINE 7000」についても私なりに書かせて頂きましたので、よろしかったら立ち寄ってください。
また、日本のストックカーの歴史の触りを以前「日本ストックカー伝説」という企画ページでも書かせて頂いておりますので、こちらもお時間がありましたら立ち寄って頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。
 28/APRIL/2001  Fさんよりのメール紹介 「素晴らしいですね!」
 牧野様こんにちは。Fと申します。
私も54年生まれのイラストレーターです。
 ホームページを拝見して何から何まで“おおっ!そうそう!!”と余りに濃い内容に感激しています。
物心ついたころより乗り物が大好きで車の絵ばかり描いていましたが、小学校6年生の時にブームのスロットレーシングにのめり込み、親に「みんな持っている」と嘘をついてコグレの1/24セットを無理矢理買ってもらい(8800円だったでしょうか。当時としては高価なおもちゃです)友達を呼んでは毎日走らせて遊びました。
そうそう、“♪♪レーシングカーが当たるカネボウハリスガム……♪♪”なんてCMがありましたね。
 幼稚園前から作りはじめたプラモデルも次第にレーシングカーが中心となり中学になるとAS誌でレースにはまっていきました。テレビ番組でよく見ていたのは“VANスピードスペシャル”ですね。(もちろんチャパラルの大ファンですよ。)
日本GPや日本INDYをテレビで見て以来、現在に至るまで皆さんと同様立派なオタク親父になってしまいました。
 趣味が嵩じて本業でも車の絵を描いていますが(車と生き物の絵がメインです)ライフワークとしてレースの絵を少しずつ描きはじめています。
レースも見に行かなくちゃならないし、模型も作らなくちゃならないし、車趣味が広範囲で時間がいくらあっても足りません(笑)。
最近知ったPCのゲーム、“Grandprix Legends”にもハマり始めています。(ニュルの北コースが面白いです!)
 幸い同年代のレース好き、車好きに恵まれているのでこちらのページをどんどん宣伝させていただきますネ。
そろそろ茂木のCART。映画“DRIVEN”も本国では公開が始まったし楽しみです。
これからも素晴らしい充実したページにしてください。
 WEB MASTER :  F様、この度はこの未熟なHPに立ち寄って頂き本当にありがとうございました。そして、メールまで頂き感激しております。
Fさんのメールを読ませて頂きながら、60年代に起こりましたモデルカー・レーシング・ブーム、そして日本グランプリの興奮はやはり本物だったと再認識することが出来きとても嬉しかったです。
Fさんがおっしゃっていた

> 趣味が嵩じて本業でも車の絵を描いていますが(車と生き物の絵がメインです)
>     ライフワークとしてレースの絵を少しずつ描きはじめています。
>
は、是非続けていってほしいです。そして、先日縁があって私にとっては全て脳裡に焼き付いていると言っていいほどの影響力を与えてくれて、すばらしい写真を残して頂いたジョー・ホンダさんにお会いする機会がありその席上、「過去に貢献した日本のドライバーや不幸にも亡くなったドライバーを絶対忘れてはいけない。
今後の日本のモータースポーツを盛んにする為にも日本のレースの歴史を語りつづけなければいけないと思う。
私はそれらドライバーたちを写真展という形ではあるがこれからもどんどん続けていき、日本の歴史を作った人たちのことを後世に伝えていきます。」とおっしゃっていました。
だからこそぜひ、Fさんのライフワークをこれからも続けていってほしいと思いました。
では、どうもありがとうございました。

 27/APRIL/2001  山形にお住まいの五十嵐さん(53歳)からのメール紹介「私も見ました!」
 私もあの時、富士で今のかみさんと一緒に雨の中を疾走するグリーンのポルシェ917Kを観てました。VANのロゴ、丹頂鶴をイメージしたメット、なかなか完走出来ないマクラーレン、懐かしいですね。小生の青春の一コマです。もうすっかり忘れてましたけど、そうですか、風戸裕が優勝だったんですね。
今夜はとっておきの一本を開けてかみさんとあの頃にタイムスリップ。
 WEB MASTER :  くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
五十嵐様、この度はこの未熟極まりないHPに立ち寄って頂き本当にありがとうございました。そして、メールまで頂き感謝します。少しでも喜んで頂いただけでも作った甲斐があります。
あのレースは、本当に雨のレースで大変寒かった思い出がありました。愛用のペンタックスSPをタオルで隠しながらヘアピンカーブに陣取って生沢さんの優勝を信じて観戦していたのですが・・・。でも風戸さんはあの時はすばらしく速かったです。ですから、生沢さんが2位でも納得でした。
これからもいろいろ御意見やアドバイスを頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 21/APRIL/2001  横浜にお住まいのMさんよりのメール紹介 「はじめまして」
 前略
はじめまして、横浜市に住むMと申します。
貴HP拝見させていただきました。
本当に驚きました、レーシングカー(確かに当時はこの言い方でしたね)ここまで資料をお持ちでそれをご記憶と共にこのように纏めていらっしゃる方がおられるとは。
かく云う私も生まれ育った西荻窪で完璧にレーシングカーにハマった幼少時代をおくっておりました。(54年生まれですので主宰者様と同年齢ですね)
ニチモのホームサーキットから始まり、ブームが去りつつあった、もうほぼ熱心な子供(勿論大人も)だけがサーキット場に通い、そのサーキット場も次々に閉鎖される時代(67年頃?)まで夢中になっておりました。
 このサイトを拝見し次から次へと当時の思い出が蘇ってまいりました。その出会い、ニチモのホームサーキット(赤のフェラーリとシルバーのポルシェが付属してましたね)、タミヤのロータス30が登場したときの衝撃、ライト工業のクリア・ボディ、Coxのキットが欲しかったこと、モーターの巻き直しからオリジナル・シャーシの制作、バイブルだった「モデルスピードライフ」etc...いやはや、次から次ぎへと記憶が蘇ってまいります。このあたりはまた別の機会にじっくりお話させていただこうと思っております。

 私はレーシングカーとほぼ同時平行で音楽にも興味を覚え、以来この歳になるまで音楽との付き合いは続いている次第で、今回はHPで紹介されているレコード<THEPHANTOM SURFERS>について少しばかり知っていることがありますので、そのご報告をさせていただきたくメールをさせていただいた次第です(ここまでのイントロがあまりに長くなりました、お許しください)。
 本件に関する情報はもうすでに他の方から入ってらっしゃるかもしれませんが、と前置きをして以下述べさせていただきます。
 先ずこの<THE PHANTOM SURFERS>は90年代の現役バンドです。よってこの掲載されているレコードも93年頃の録音です。更にこのバンドは翌年の94年には来日をしておりまして各地のライヴハウスで公演を行っています。(再来日もあったかも知れません)
HPでお書きになられていた通り、その音はほぼ60年代のエレキサウンドを再現したものとなっておりますが、何故今そんな音を出すバンドが存在し、来日までしてしまったのか?
 先ずはその背景について簡単に書かさせていただきます。このような音楽は一般にSurfin& Hot Rod musicと云われておりまして、その起源は60年代の初めのアメリカ西海岸にあり63年から64年にはアメリカ全土のみならず、全世界にブームを巻き起こした音楽です。その立役者はギタリストのディック・デイル(Dick Dale)とボーカル物では云わずと知れたビーチ・ボーイズ。
 そのブームも65年には去り、以後マニア以外にはほぼ忘れ去られた過去の音楽となっておりました。その後80年頃にこういった音楽のマニアが結成したリバイバル・サーフ・バンドが何組か登場し一部ではこういった音楽も見直されました。
さらに90年代に入り映画「パルプ・サーフィン」が大ヒット。この映画に使われていた音楽が正に60年代のエレキギターを主体としたSurfin& Hot Rod musicだったのです。この映画のヒットはこういった音楽を一気に若者に目を向けさせるものとなっただけでなく、それまでは60年代の音楽マニアの間でしか語られことの無かった、創始者とも云うべきディック・デイルが急に同時代の音楽アーティストとして脚光を浴び始めたのです。(ディック自身は65年にブームが去った以降もリバイバル・ロックンロール・ショーなどで音楽活動は続けていましたが同時代性を持った活動ではありませんでした)
映画がキッカケとなって再び若者に見直されたSurfin& Hot Rod musicですが、この背景には音楽がビッグビジネス化しすぎたことへのアンチテーゼ、所謂ガレージ・バンド回帰的再評価という側面があったことと思います。そのような状況の中から出てきたのが、そのディック・デイル信奉者のバンド<THE PHANTOM SURFERS>です。その活動は80年代から行っており、アメリカのローカルバンドにすぎなかったバンドが、上記の状況の中、一気に注目を浴び一般にも(と、いってもガレージバンド好きの一部の人々の間であり、ヒットチャートを賑わすようなことはないのですが)知られるようになったバンドだと思われます。現在までに知ってる限り5枚のアルバムを発表しておりまして、最新作は昨年リリースされていますので、今も活動をしていることと思います。このバンドは単にブームに乗ったお気軽なバンドでは決して無く、心底60 ‘s S&H Musicを愛しているバンドだと思います。それは彼らの作るオリジナル曲のみならず、LP/CDのパッケージ・デザインからも伺えます。(ご紹介されていたLPのクレジットからオマケのチラシが正にそれですね)
因みにこのThe Phantom Surfersと同系のバンドはアメリカでも結構いますし、我が国にも来日した際に共演をしていたジャッキー&セドリックスとかメジャーからCDを何枚も出してるサーフ・コースターズなるバンドがいます。

最後に主宰者様が取り上げられているレコード「The Exiting Sounds of Model RoadRacing」についてですが、これはこのテの音楽とレーシングカーの全盛時代1965年にリリースされたThe Revellsの「The Go Sound of the Slots!」というLPを彼らなりに模したものと思われます。
(蛇足ですが、お気づきの通りこのバンド名はあのプラモデル・メーカー名からのイタダキですね)
このアルバムにもThe Phantom Surfersのアルバム・ジャケットに載っていたいたような<Model Car Racing Language>の一覧が載っていますし、ジャケットのイメージもそっくりです。ご参考までにこのアルバム・ジャケットのスキャンを添付させていただきます。(実はこれは当時の盤ではなく、CDで再発されたものです。ですが、デザインはそのままです。右写真)
以上、長々と書いてしまいました、一気に書いてしまいましたので読み難い箇所等多々あろうかとおもいますが、何卒ご容赦ください。
今後とも貴サイトには寄らせていただきますのでよろしくお願い申し上げます。
益々の貴HPの発展をお祈りしております。

PS:私もレコードのジャケットを掲載しているHP(本当にそれだけです)を開設しております。中にはこういったSurfin’ & Hot Rod〜エレキ・サウンドのジャケットも掲載しておりますので、ご興味お有りでしたらお寄りいただければ幸いです。
草々


MさんのWEB SITE 
 WEB MASTER :  M様、この度は誠に丁重なメールを頂き感謝しております。
まだまだ未熟極まりないこのHPを真剣に見て頂き主宰者冥利に尽きる思いです。
そして、私が分かりかねておりましたこの<THE PHANTOM SURFERS>について本当に詳しく解説して頂きやっともやもやが晴れた思いです。
同年齢ということでなんとなく分かり合えてしまう感じがして嬉しい気持ちでいっぱいです。当時の興奮はやはり何物にもかえがたいものですね!
ところで、先ほどMさんのHPを拝見させて頂きました。
あまりにもすばらしい内容だったので感激してしまいました。そして、よくこれだけの物を集められたものだと感心しております。ところで、橋幸夫さんが出されていた「ゼッケンNO.1 スタートだ」(これ曲名なんでしょうか?!)のレコードには驚いてしまいました。このレコードジャケットのレーシングカーのイラストはなんとなく「第2回日本グランプリ」での式場壮吉氏が乗って優勝したポルシェ904GTSみたいですね!
では、スロットカー昔話期待しています。そして、これからも是非いろいろアドバイスお願いいたします。
本当にありがとうございました。
 18/APRIL/2001 Iさんよりのメール紹介 「素晴らし、サイトを見させていただきありがとございます。」
 はじめまして 、私もおそらく、貴方様と同世代の人間です。第三回日本グランプリの日、小学校五年生の遠足の日だった事を記憶しています。急いで家に帰りテレビにかじり付くと、すでにレースは終了していた残念な想いが今でも鮮明におもいだされます。サイトを見させていただきR380やポルシェカレラ906の勇姿にわくわくしました。
 今私も細々ながらスロットカーのコレクションを何十年ぶりかではじめて、今ちょうどR380のカラーリングに悩んでいたところで大変参考になりました。ロータス30も懐かしく拝見しました。これからも楽しいホームページに期待しています。それでは失礼します。
 WEB MASTER :  I様、この度はまだまだ未完成な私のHPに立ち寄っていただくだけでなく、メールまで頂きありがとうございました。私は、1954年生まれの中年であります(笑)。
Iさんももしかして同年代(しかも1年上級生の先輩では・・・)ということで同じ思いを当時されたのではと思うと嬉しくなってしまいます。
1966年の5月3日は、友人宅でニチモのホームサーキットをひろげて、モデルカーレーシングGPを開催しておりました。
この模様は、HP上のモデルカーレーシング入門等の企画ページに書かせて頂いておりますのでお時間がありましたら立ち寄ってください。

> 今私も細々ながらスロットカーのコレクションを何十年ぶりかではじめて、今ちょうどR380のカラーリングに悩んでいたところで大変参考になりました。
タミヤのR380でしょうか?!
当時このキットを手に入れて、国際記録車仕様に塗装した思い出があります。
いつまでも続けてください。そして、製作記などのレポートをIさんが宜しければ送ってください。

 16/APRIL/2001  Yさんからのメール紹介「TOYOTA 7 拝見しました」
 前略 2000GTのKさんの紹介でホームページ拝見させて頂きました、Yと申します。
 とてもよく纏められていて感心させられました。当時私はまだ小学3〜5年といったところで専ら父の購読していた「モーターマガジン」誌のみが頼りで、拝見させて頂いたような感動的な写真を目にしたのは大学生になってから神保町に何度も行って各誌を買い集めてからです。
 鮒子田選手に関してはこのあとアメリカヘ行かれたりF-1にまで挑戦された記憶がありますがトヨタ一辺倒の私にとってはTMSC-Rのツーリングカーでいいのでトヨタ車ともっとかかわっていて欲しいと思っていた時期が有りました。今思えば海外ヘ進出できるほどの大物でいらした証拠でもあるのですが。その後Gr.CやGr.Aの時代に監督と言う立場でトヨタ系に”復帰”されたのがとても嬉しかった事は申し上げるまでもございません。
 
 福澤さんの事ですがVol.1で「Suzuka in 1967」 とあるのは1966だと思います。カーナンバー2でアルミボディーですので。
 Vol.2で2リットル(すぐに3リットルに)クローズド・トヨタプロト”JP-6”のところですが「this car that he was die in 1969」とありますが、私もそうでは?と思っていましたがOさんに以前お会いできたことがあって伺ってみたところ、普通の3リットル・オープンのトヨタ-7での事故だったとおっしゃるのですが・・・。この”JP-6”はBREで作られたこともあって、まだどこかにあるとか噂が絶えませんが。
 川合さんの広告のコロナ、1600DXですが父がまだ持っています。トヨタ好きのこんな私ですからSL仕様にしてしまおうと思った時期もあるのですが日本初の電子制御トヨグライド付き、それを表すE,A,T,のエンブレムが付いている事もあって、いじらずに今に至ります。ただ父が高齢のため運転を辞めると言い出し、かといって私には維持する時間、お金も難しくて2003年までにはどうするか決めなくてはなりません。車は動かさないと途端に調子が悪くなっていきますし。
 勝手な事も色々失礼致しましたまた。またゆっくり時間を取ってページ拝見させて
頂きます。 草々
 WEB MASTER : Y様、この度は本当にまだまだ未熟なHPを見て頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。そして、適切なご指摘を頂き大変感謝しております。なにせ、大雑把な性格でどうかお許しください。
早速、1967から1966へ書き変えさせて頂きました。
ありがとうございました。

> Oさんに以前お会いできたことがあって伺ってみたところ、普通の3リットル・オープンのトヨタ-7での事故だったとおっしゃるのですが・・・。
>
そうなんです。この点について参考にさせて頂いた資料は当時のオートスポーツ編集部が福沢さんの栄光等をまとめあげた本「コースにかげろう燃えて」からなんです。
“文省略・・・絶好のテストびよりである。コースには“かげろう”さえ燃えていた。・・・ヤマハ・テストコースでは、トヨタ自工のテストランがおこなわれていた。
マシンはトヨタ7。ドライバーは、チーム・トヨタの古参・Hと福沢幸雄のふたり。テストの指揮は、Kトヨタ自工第7技術部長代理がとっていた。
・・・しかし、よく注意して見ると、いつもと違っている点が2つあった。
その一つは、テストの舞台がつい数日前にオープンしたばかりの新しいコースだったこと。
もう一つは、テスト用のマシンが、それまでのトヨタ7と外観の違うクローズド・ボディだったことである。
・・・ともかく一瞬の出来事だった。クローズド・ボディのトヨタ7は右に流れ、ダートに突っ込み、頑丈な木製の標識に激突。・・・・。”
という文節がありましたし、当時のオートスポーツ誌でもやはりクローズドボディのトヨタ7と書かれておりました。
もちろん、Oさんのおっしゃる事ですから、嘘だとも言えないですが、この本の写真にも走っている白の“JP-6”が載っています。
推測ですが、この文章の内容が正しければ当日のテストは、細谷さんと福沢さんだけ。
当初テストに参加する予定だったFさんは風邪でこの日休んでいるんです。
・・・という事でHP上では、このクローズド・ボディのトヨタ7が事故を起こしたと断定する形をとらさせて頂いているわけです。

> 勝手な事も色々失礼致しましたまた。またゆっくり時間を取ってページ拝見させて頂きます。
>
こちらこそ宜しくお願いいたします。
まだまだ自分の好きなものだけ勝手気ままに作らせて頂いておりますので、是非気付いたことがありましたら、アドバイスお願いします。
ありがとうございました。

 5/APRIL/2001  芸文社「Nostalgic Hero」のWさんよりのメール紹介「ホームページ紹介依頼」
 芸文社NostalgicHero編集部のWと申します。次号でプリンスの特集を予定しております。その中のホームページ紹介で是非とも、「帰ってきたTETSU」の紹介をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。
ぜひとも許可をいただきたくご連絡いたしました。紹介はアドレスとトップページとその他のページ2画面のみです。何卒、よろしくお願い申し上げます。
芸文社NostalgicHero編集部 W
 WEB MASTER :  W様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPを弊社Nostalgic Here誌の中で御紹介頂けるとの事本当に感謝しております。
 私も40歳半ばの中年オヤジでありますが、1960年代の日本グランプリ等は、今だ熱い思い出でいっぱいであります。
また、生沢徹さんは、今でも私の中では最高のヒーローでありますので、この「帰ってきたTETSU」を紹介していただけることは主宰者冥利に尽きるという感じであります。
実は、このページは、実際に生沢さんの了解の元に作成しておリますので、生沢さん御自身もきっと喜ばれることと思います。ありがとうございました。
 24/MAR/2001  小原さんからのメール紹介 「懐かしくて、涙ものです」
(メールその1) 
 このHPを見ていると、本当に昔やっていたことが思い出されます。私は1958(昭和33年)生まれですが、ちょうど小学生の2、3、4年頃が自分なりのブームだったと記憶しています。
 このカマタグランドサーキットの第五回グランプリには1観客として同席していました。地元が蒲田だったのでしょっちゅう出入りしてました。ブームが去りそれでも好きだった私は、人っ子一人いないカマタグランドサーキットに何度いったことか。
そしてある時火事になり焼失した時はショックでした。焼け跡には焼け焦げたパーツ類がざくざくでした。
後日オーナーに道でばったり会ったのですが、再開は考えていないといわれ、考えた挙句、せまい等々力より長い白金サーキットにホームを移動しました。カマタは放火?(わざと火をつけた)との噂がたっていました。
 当時の店長の鈴木さんにいろいろ教えていただき、かなり充実したSレーシング時代をすごしましたが、本当にやっている人が少なくて、サーキットは汚くて、でも90mのコースは本当に長くて、思いで深い時代です。その頃に270sが発売になりました。
うだうだ書いてしまって申し訳ございません。つい懐かしかったもので。
 そのうちに白金サーキット閉鎖、最近?等々力閉鎖ととても暗い知らせがありがっくりしていましたが、なんだか昔と違うスロットレーシングを今はやっているみたいですね。スゴク速いんだそうですね。
 まだ、こんなロートル叔父さんでも、楽しめるサーキットはありますか。
カマタでやっていたストックカーレースは本当にかっこよく、小学生の自分はへばりついて見ていただけでした。いまなら出来そうなんですけど、ダッジチャージャーなんてものすごく高いみたいですね。プリムスヒューリーなんていうものありましたね。
 1/24のホームコースを買ってもらい、付属のロータス30 2台が初めての自分の車で、カマタに持っていって走らせました。
コースに座り外れたマシーンを取り覗くお手伝い?をやりながら早い車のメカを盗むのも面白かったです。

ア〜話しがつきません。ごめんなさい。もう終わりにしますが、どうぞ昔を楽しめるサーキットが東京近辺にあるのでしたら、教えていただけませんか。

(メールその2)
 カマタグランドサーキットと白金サーキットの事は、かなり詳しく知っています。レンタルコントローラーが鰐の口みたいなカッコウの物で、両手でパコパコやるんです。もちろんブレーキ(バッテリー)は付いてません。
電流カットボタンもついてないので、コーナーのかなり手前で両手を緩め、コーナーに少し入ったらだんだんぎゅっと両手で握ぎり加速するんです。ところでカマタのレンタカーなんですけど、マンタレイのようなカッコウをしていたんです。でも牧野さんのHPに出てくるマンタレイの画像よりぶさいくだった気もします。とにかく一般のマシーンと区別できるよう、黄色地に紺で斜めに線が入っていました。(ゼブラって感じです)

 毎週やっていたレース放送はいつもに見ていました。
ジャキースチュワート、ジョンサーティース、ブルースマクラレーン、ジムクラーク、グラハムヒル、マリオアンドレッティ、A.Jフォイト、...
もっと一杯いたような気がしますが。ストックカーレースがすごかったことを覚えています。ダッジチャージャー、プリムスヒューリー、フォードギャラクシー、う!いいです。
 シャパラルの標記をチャパラルに....なんて涙物です。
いつも羽(ウィング)が壊れるんですよね。オートマですし。だから何時も応援してました。チャパラル!大好きです。
ローラT-70はもちろん持っていました。たぶんクリアボディが一般的になる前は、ほとんど田宮のシリーズは所有したような気がします。
最初は本当にクリアボディの種類が少なくて、マクラレーンやフェラリー(当時はそう言っていた..恥)ばかり。シャーシーもほとんど自作でモーターマウントだけ買ってハンダでしこしこしてました。でも今考えると小学校4年生程度でハンダ小手もってよくやってましたね。私の子供は今度4年生ですが、ゾイドしか作れません。
接着剤を使った事がないです。(ちょっと父として反省)昔の方が不便なだけ工夫もいっぱいしたってことですね。

蒲田グランドサーキットはAコースとBコースがあり、中上級者はA、初級者はBと電圧の違いで別れていました。勿論今でもコースレイアウトもばちり思い浮かびます。
Aコースは10分100円、Bコースは15分100円だったかな。結構高いですね。あの1969年の時もとにかく物凄い人で、入るのも大変だった記憶があります。
 いろいろお話したい事があるのですが、長くなりますのでこの辺で失礼します。
何時もHPを見ては懐かしんでいます。がんばって下さいね。応援します!

そうそう私お弁当屋なんです。近くに来た時はお寄り下さい。全然更新していないHPですがご覧下さい。

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     鳥久のホームページが出来ました

          http://www.hat.hi-ho.ne.jp/torikyu/

   どうぞ一度いらして下さい。お待ちしております

 WEB MASTER :  小原様、この度は、この未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
小原様のメールを読ませた頂きながら、当時本当に熱中なさっていたことが手に取るように分かり、感激しております。
私は、当時(1966〜73年)友人とニチモのホームサーキットを15メートルぐらいに延長して、毎月レースをしておりました。
ですから、小原様のように、営業サーキットでレース等をしたことは、ほとんどありませんでした。
しかし、当時地元だった巣鴨サーキットには、毎週のように通っておりました関係上、オーナーの方と仲良くなって高校生の時代には、私と友人が作りました自作クリヤー・ボディなどを同サーキットで販売させて頂いくなど、今思えば楽しい思い出が沢山ありました。

> カマタグランドサーキットの第五回グランプリには1観客として
> 同席していました。
>
凄い!それでは、長谷見さんとか、北野さんにお会いしたのでしょうか?!
その時に、もう亡くなられた滝進太郎さんや望月修さんもいられたと思います。
望月さんは、実車の記事でも、よくモデルカーレーシングのことを取り上げていらっしゃいました。

> 昔を楽しめるサーキットが東京近辺にあるのでしたら、
> 教えていただけませんか。
>
今、昔ながらに楽しめるサーキットは、全国にわずかながら存在しています。
私のHP宛てに、いろいろな方からメールを頂きますが、その中でも今も熱心に活動されている方も沢山いらっしゃいます。
東京近辺にも、原宿などにあるようですが、ある方からの情報ですと・・・。

> お店の名前は「Traffic」で、
> 住所は
> 渋谷区神宮前2-3-24 TEL3402-4747
> です。
>
> 通常のスロット屋とはちょっと異質で(笑)、
> オタッキーな雰囲気はなく、
> 軽く飲みながらちょっとスロットで遊ぶというようなコンセプトの
> おしゃれな店です。
>
> 営業時間は16時か17時くらいから25時までで、
> 定休日は毎週月曜です。
>
> クルマでいらっしゃるなら、
> 246を、青山のベルコモンズの交差点で千駄ヶ谷方面に曲がって
> しばらく(500m〜1km?)いくと左側にローバーのショールームがあり、
> その向かい辺りの2階建ての白い建物の2階です。
>
> 電車だと、外苑前か、原宿あたりから徒歩ですが、
> けっこう距離はあります。
>
にあるそうです。
私もまだ行っておりませんので、どのような状態のお店なのかは分かりませんが、もし良かったら行って見て下さい。
では、どうもありがとうございました。
(メールその2)
今は、お弁当やさんをなさっているとのこと、人間再優先は食べ物ですから、小原さんの御職業は、すばらしいポイントをついていらっしゃるのではないでしょうか。
これからも、アドバイス等頂ければ幸いです。
本当にすばらしい当時のお話し、どうもありがとうございました。

 21/MAR/2001  Aさんからのメール紹介 「ブラシ!?」
 久しぶりに、拝見しました。長野の、Aです
そろそろ、老眼鏡をかけ始め、健忘症にもなりそうなオッサン達が、なぜこんなに過去のことを覚えているのでしょう。自分でも、不思議に思えます。
やはり、青春の1ページってものは、忘れようにも忘れられないものなのでしょう。
 全部のページを見ていませんが、ひとつ思い出したのが、スロットレーシングのページに、もしかして書いてあるかも知れませんが、あのブラシなのです。
当時、高崎には、北関東でも大きな方であった、全長60mのサーキットがあり、中学生だった私、向かい風にも負けず自転車をこぎ、通ったものです。
10分間50円くらいだったと思いますが、その10分が過ぎると、私のコルベットのブラシは真っ黒それも先端はスパークで飛び散り情けないような形になっていました。
たくさんの電流を吸い上げようと、次回にはブラシの先端をカットし、思いっきりほぐすように広げたような記憶が残っています。
 8コースのうち、外側2コースが回転コースになっていて、アクセル全開で30度バンクに、突入して行きました。
時々、自分が回転コースを走行しているものと勘違いして、アクセル全開でバンクに入って行くものですから、もろにオーバースピードで、外側にあった、うなぎの釣堀にマイカーをジャンプ、水没させてしまう人を何人か見ました。
今となっては笑い話でしょうが、当時お金の無かった我々にとっては、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのかも・・・・。
また、つまらないことでも思い出したら、書いてみようかと思っています。
しかし、皆さんよく覚えてますネエ!感心します!!
 WEB MASTER :  A様、お久しぶりです。
そして、貴重な体験記をお寄せ頂きありがとうございました。
私もガイドシューのブラシについては、Aさんの記憶通り黒くなった事がしょっちゅうありました。
タイヤのカスや、オイル(これは70年前後かな?!)によりたえず真っ黒になったものでした。ブラシも銅色のものもありましたよね!?
現在は、営業コースの電極(?!)ブラシは、スティール製でブラシとブラシが擦れる事はないのでしょうからこのお話しは、やはり60年代ですよね!
では、ありがとうございました。
 9/MAR/2001  Kさんからのメール紹介 「はじめまして」
 はじめまして。
 福沢幸雄の物語を読んで気持ちをお伝えしたくてメールをさしあげました。常々拝見しておりますが、素晴らしいHPだと思います。取り上げておられるドライバーへの思い入れがひしひしと伝わってきます。
これだけ読みごたえのあるサイトを作られるのには相当の労力をかけられたこととお察しします。
好きな世界とはいえ、同じひとりのエンスージアストとして敬服いたします。
 実は私も最近1/32専門のスロットカーのHPを作りました。
ぜひ当方のサイトにのそちらへのリンクを貼らせていただきたいのですがいかがでしょうか?
よろしくお願いいたします。
 WEB MASTER :  くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
 M様、この度は、私の未熟なHPに立ち寄って頂きありがとうございました。そして、メールまで頂き最高のお褒め言葉まで頂き、主宰者冥利に尽きる思いであります。
HPを作りましたのは、すでに40半ばの中年オヤジといたしまして、30数年前からの約7年間で経験しましたすばらしいモデルカーレーシングと日本モータースポーツの体験と記憶をそろそろ記録に残しておいてもいいんじゃないかと思い始めたのがきっかけでありました。
最近富みに少なくなってしまった当時の情報や記録された資料等の現状をみて、どうしても20世紀の遺産(オーバーかな?!)として残しておかなければという義務感(?!)に押し上げられるように作り続けているわけであります。(ちょっと自己満足ですが・・・笑)
そんな中、MさんのHPや御存知だと思うのですがTOMさんなどの努力で、現在進行形のスロットカー入門サイトが作られたということは、本当にすばらしいことだと思います。
先ほど、MさんのHPを見させて頂きました。本当にすばらしい出来のHPだと思いました。
私が、1965年に初めてモデルカーレーシングを始めた時に、バイブルの様に読んでいた「モデルカーレーシング入門」書(秋田書店発行)をつい思い出してしまいました。きっと、MさんのHPをバイブルとしておられる方々がたくさんいらっしゃることと思いました。
それから、リンクの件、こちらこそ宜しくお願いします。
こちらの方もリンクさせて頂いてもかまいませんか?では、どうもありがとうございました。
 7/MAR/2001  Sさんからのメール紹介 「懐かしい!」 
 懐かしいですね、私も見ていましたよ、富士で、&この目で!たしか、ヘアピンだったと思います。前回のGCで、スカイラインに虐められた?マツダは、大挙してエントリーしてきたと、おもいます。武智と黒沢のデットヒート(ぶつけあい)はすごかったですね。最後は、エス字で武智に押され、黒沢は転倒、車から降りた2人は、そのままコースサイドで殴り合いのケンカになりました。(後の12Ch のTV)
私は、31年生まれです。少し年下ですね、きっと。
 懐かしいGC カーも実は、何台か現存しています。私自信も、シェブロンを、富士で走らせております。柳田さんにもお世話になり、セントラル20からレースにでておりました。今はマーチ793、ダラーラ394を所有しておりますが、以前は、マーチ732ハートBDAをもっておりました。昨年念願の自宅を持つ事が出来、自部屋に33年分の、オートスポーツ、オートテクニックすべて並べる事ができました。
私以外の仲間は、すべて車関係に就職していきました。私は全く関係ない道に進みましたが、この様な熱烈なファンが存在している事は大変、感動いたしました。
 今も車趣味?はお変わりありませんか?これからも楽しい情報お願いいたします。
 WEB MASTER :  くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
S様、この度は、まだまだ未熟な私のHPを見て頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
私は、昭和29年生まれです。でも、ほとんど差はないと思います。
メールを拝見させて頂きましたところ、シェブロンに乗っておられるとのこと、すばらしいです!
私は、当時の日本のモータースポーツと60年代のモデルカー・レーシング(スロットカー)に今も夢中なオタクオヤジであります。
このHPも、3年前まではPCも出来なかった私ですが、どうしても栄光の60年代日本モータースポーツとモデルカー・レーシングの軌跡を後世に(ちょっとオーバーですが・・・笑)残しておきたいという私のワガママで幼稚ながら作り続けているというわけであります。
なにぶんPC操作が未熟な私ですが、これからもどうかよろしくお願いします。
ありがとうございました。
 5/MAR/2001  Hさんからのメール紹介 「はじめまして」 
 牧野さんと同じ1954年生まれの46才です。
このホームページを見て感動とともに感謝の気持ちで一杯です。私は子供の頃から車が大好きでした。
父親を早く亡くしたので中学1年の時に姉と一緒にFISCOへ初めてレースを見に行き、二ッサンR380、ポルシェカレラ6、等が走った日本GPでした。その時の感激は今でも忘れません。
この年はメインレースには4台のR380と3台のポルシェカレラ6、ローラT70、そして大京チェーンスペシャルと名付けられたローラの計9台でのレースでした。
それからレースは毎年見に行くようになり、R381,R382,トヨタ7、ポルシェ906、908、917、ダイハツP5、いすゞR7等の走る姿を生で見られた事を今では自慢にしています。
 富士での日本GPが終わった後も色々なレースを見に行きました。日本カンナム、日本インディ、GCシリーズ、富士でのF1等、今思い出してもわくわくするようなレースが沢山ありました。免許を取る迄は東海道線、御殿場線と乗り継いで行きました。
その頃はまだレース好きの友達がいなかったので一人で見に行ったものでした。車を持ってからはGCレースは毎年全戦欠かさず行きました。
又、オートスポーツ誌も72年からずっと読み続けVol80から全部とってあります。72年以降のレースデータは直ぐ分るようにしてあります。もし牧野さんのお役に立てる事があったらいつでも連絡下さい。
今日は自慢話しになってしまいましたが、これからも楽しみにホームページに立ち寄らせていただきます
 WEB MASTER : くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
 H様、この度は、未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。
 私は、'60s日本GP等のモータースポーツと同じく'60sモデルカーレーシングにより人生を変えられたといっても過言でもないぐらい影響されたと自負するオタクオヤジであります(笑)。
ところが、最近は、当時の日本GP等やモデルカーレーシングについて語られることもなくなり、とても淋しい気持ちなっておりました。
そんな時、体調を壊し会社を辞めたのをきっかけにPCを習い始め、遂に全くPC初心者にもかかわらずこんなHPを作り始めたという訳でありました。(現在は、社会復帰しております)
 H様のように、毎回日本GP等を見られた方というのはなかなかおられないと思います。とても羨ましい限りであります。
私も高校生になって初めてGC(1971年)を生で見る事が出来たときは本当に感激しましたが、日本CAN−AMやインディなどは、TV観戦だけでありました。そして、その時の出場車をモデルカーレーシングに託して友人とレースをしておりました。
どうか、お時間がある時にでも、その当時のレース場(富士)の雰囲気や気がついたことでもなんでもかまいませんのでお話しを伺いたいです。お願いします。
それでは、どうもありがとうございました。
 4/MAR/2001  Oさんからのメール紹介「HPを見させていただきました」
 私は、Oという名の43歳の男性です。
六本木の俳優座劇場で、夜、映画の上映をやっています。実は、完全なるpc初心者で、未だに恐々インターネットに接続している状況です。
 じつは、3月の17日から、24日までの間、記録映画の特集をやります。その中で、「スピードトライアル トヨタ2000GT」という記録映画を上映します。
大変めずらしい記録映画なのですが、宣伝期間がほとんどないのですが、一人でも多くの人に楽しんでいただきたく、悪戦苦闘しています。
 友人から、車の好きな人のホームページの掲示板に書き込みをしたらと言われ、恐る恐るインターネットの接続をした次第です。
しかし、掲示板等のことがわからなく、すごすご退散しようと思っていた矢先、トヨタ2000GTからの連想で、トヨタ7、そして青春の福沢幸男さんを検索して、貴殿のHPを拝見させていただきました。
 僕も福沢幸男という人間に魅せられている人間です。この映画の上映を考えたのも、最初に福沢幸男ありきという部分があります。
 3月20日、21日の夜9時40分。しかも2日間のみという悪条件ですが、もしお時間が合
いましたら、ぜひともご高覧いただきたく思います。
ご来場が無理であれ、情報だけでも 以下チラシの原稿を記しますので、何卒よろしく願います。
いつかお会いできる日を楽しみにしています。


おたのしみ!夜の岩波記録映画
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『SEX アナベル・チョンのこと』公開記念記録映画特集 1,000円均一3月17日(土)〜3月23日(金)(毎日夜9:40分開映/日曜休映)
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3/17(金)、19(月)(終了11:16の予定)
『不良少年』(1960/BW/91分/監督:羽仁進、原作:「とべない翼」地主愛子編)
久里浜少年院の少年たちを主人公に、ドキュメントタッチで描く羽仁進の出世作。鬼才武満徹の音楽と羽仁進の捉える生々しい映像が激突する。ドキュメント風ドラマの傑作として知られる1本。
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3/20(火)、21(水)(終了10:55の予定)
『スピードトライアル トヨタ2000GT』(1966/カラー/34分/監督:土屋信篤)
現在も、日本が世界に誇る名車として人気の高いトヨタ2000GT。この映画は66年に谷田部で行われた、2000GTの3つの国際記録樹立への挑戦のドキュメント。ドライバーとして故福沢幸男が登場する貴重な映像でもある。
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『ある機関助士』(1963/カラー/37分/土本典昭)
電化直前の昭和37年、上野〜水戸間を走るC62蒸気機関車が牽引する急行みちのく。現在では決して見ることの出来ない、機関車と男たちの緊迫したドラマがここにある。後年『水俣』シリーズで世界的に知られる土本典昭監督の初期の代表作。
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3/22(木)、23(金)(終了10:55の予定)
『恋の羊が海いっぱい』(1961/カラー/20分/監督:黒木和雄、脚本:羽田澄子、作詞:寺山修司、出演:ペギー葉山、久里千春、及川久美子
PR映画製作からの「逃亡」を図る黒木和雄の大胆な発想は、奇想天外なミュージカルへの飛躍を呼び、この隠れたる珍品映画を生み出した。出演はオールスター、解説は大平透、美術朝倉摂、衣装森英恵と、そうそうたるメンバーが脇を固める。
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『わが愛 北海道』(1962/カラー/49分/監督:黒木和雄、撮影:清水一彦)
アラン・レネ『24時間の情事』へのオマージュとして、黒木和雄が挑んだ愛の世界。
ナレーターに木村功を起用したこの意欲作は、その後「スポンサード映画」と「作家の主体性」という避けがたい争いを象徴する結果となった。


俳優座トーキーナイト 六本木・俳優座劇場内 03‐3401‐4073
営団地下鉄日比谷線、都営地下鉄大江戸線六本木駅下車・6番出口前(4番出口をご利用の際は東京三菱銀行3軒先)
http://www.haiyuzagekijou.co.jp/talkienight.html
 WEB MASTER:  くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
この度は、私のHPを見ていただくだけでなく、メールまで頂きありがとうございました。
Oさん、すばらしい記録映画の上映企画ですね!感動いたしました。
このトヨタ2000GTの記録会フィルムは、断片的にはいろいろなビデオ等で見たことがあるのですが、全てを見たことはないですので、非常に興味があります。また、当時のドライバーの皆さんの様子を見られるというのもすばらしい事ではないでしょうか。
是非、時間が許せばはせ参じたいと思っております。
どうもありがとうございました。
 25/FEB/2001 株式会社 インターウーマンさんよりの「リンクのお願い」 
 突然メール差し上げる非礼をお許し下さい。
私どもは女性向け総合ポータルサイトのインターウーマンです。
URLはhttp://www.interwoman.co.jp/です。
私どもではコンテンツの充実した良質のサイトだけを厳選して女性ユーザーの皆様にご紹介致しております。インターウーマンでは2001年3月号で「和紙」の特集を掲載することになりました。
本日は、貴サイト(shisaiga)を本特集のサイトとしてリンクさせていただきたくメールを差し上げた次第です。
尚、掲載にあたりまして費用などは一切かかりません。3月号は3月5日にアップロードの予定です。
何か不都合等ございましたら、お手数ですが、info@interwoman.co.jpまでご連絡下さい。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

               株式会社 インターウーマン
               インターウーマン編集部

 WEB MASTER :  株式会社 インターウーマン インターウーマン編集部様。「紙彩画」HPを主宰しております牧野です。
この度は、女性向け総合ポータルサイトのインターウーマンへのリンク依頼、誠にありがとうございました。
当方としては、亡き父「牧野成昭(なりあき)」のあみだしました「紙彩画」が少しでも皆様に見て頂く事が出来るだけで大変幸せだと思っております。どうかよろしくお願いいたします。
また、当方HPにもインターウーマン・サイトを出来ればリンクさせて頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 20/FEB/2001  “プロのレース・ファン”さんのメール紹介 「降参!」 
 初めまして。
デイトナのアクシデントをもっと知りたくて、いろいろ探しているうちに、“「くるま」村の少年たち”に出会いました。
うぉ〜っ! どうして今まで気付かなかったのだろか! と後悔しています。

あ、思わず興奮してスイマセン。
どこかの雑誌で私の文章を読まれたことがあるかもしれません。
滝進太郎さん(何度かゴルフをご一緒しました)の追悼記事の中に出てくる某雑誌は私の発明でした。
それはともかく。
 そもそも私のレースの基盤は、1960年代、それも日本の富士スピードウェイに根付いています。
CAN-AMが大好きでした。初めて現場で見たのが、1968年の日本CAN-AM、2度目が69年の日本グランプリの予選で、3度目が2回目の日本CAN-AMでした。
 ピットロードを走り去る川合稔を乗せたクラウン(だったと思う)のオープンカー。優勝パレードに向かうその車のそのリヤバンパーに差してあったイエローフラッグが、ポトリと落ちたのを覚えている人はいないと思います(いるワケない)が、実は、チェッカーの後にオープンされた現在のパドック裏の門から、川合選手のそばに駆け寄った私が、後ろから押された勢いで折ってしまって慌てて差し込んでおいたのでした。

川合選手の後ろに立ってるところがテレビで大写しになり、その日、町民運動会への参加依頼を、“大学の入試があるから”とウソを言って富士に言ったことがバレたのでした。
ちなみに、大学の入試は本当でした。通っていた高校から、それを受けるとエレベーター式に入学できる付属大学の内部試験の日だったのです。それを受けずに日本CAN-AMに行った私は、結局ニ浪しました。

あ、思わず、ツマラナイことを思い出してスイマセン。
ともあれ、私の青春は、あなた(牧野さん……?)のページそのものなのです。どの写真もいちいち泣けます。
それ以前に、“こんなもん”(失礼、でもホントでしょ?)、ここまでキッチリ作るアホ(失礼、でもホントでしょ?)が存在したことが嬉しかったです。
 素晴らしいの一言。もしかして、アナタやこのサイトの存在を知らなかったのは、レース界の中で私だけだったりするのでしょうか。なんだか焦ります。
多分、同世代(私は1951年生まれ=アンハートと同じです←関係ない)と思います。
これからもちょくちょく覗きに行きますので、頑張ってください!

 WEB MASTER :  くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
“プロのレース・ファン”さん、この度は、まだまだ未熟極まりない私のHPを見ていただくだけでなく、メールまで頂き誠にありがとうございました。
さらに、プロのジャーナリストの方にこのように大変喜んで頂き、主宰者冥利に尽きる思いです。
私は、昭和29年生まれの46歳になるオタクオヤジであります(笑)。
ということは、“プロのレース・ファン”さんの方が、3年先輩となります。
この時代の3年間の差は、実に大きいです。
私も、日本カンナムを見たかったです!!鮒子田さんのマクラーレン・トヨタが今だに見てみたいです。
 私は、小学校6年生の時に、'60sモデルカー・レーシングと第3回日本グランプリにより、モーター・スポーツに目覚めて依頼、“プロのレース・ファン”さんと同じように、勉強もせずにAUTO SPORT誌を暗記する様に読み漁り、今だに「なんで、チャパラル(どうしても今だに、チャパラルと呼んでしまいます)は、日本カンナムに来なかったんだ!」だとか、「ジョー・シファートは、なぜポルシェ917PAで'69日本グランプリに来なかったんだ!」などと思い続けております(笑)。さらに、「なんでTETSUと組まなかったんだ!」なんて今だに愚痴っている私がいます・・・。
それから、すばらしい画像ありがとうございました。
マーク・ダナヒューのスノコ・マクラーレンM6Bは、TV中継しか見てませんが、速かったですね!
タキ・レーシングのローラT70MKIIIがおもちゃにみえましたから・・・。
チャパラル2J。外で、空調の吸入部(プロペラ部)を見ると今だに2Jだと言ってしまう私、そして、オープン2座席レーシングカーを見ると“グループ7”と言ってしまうのも私です(笑)。
“プロのレース・ファン”さん、どうか今後共よろしくお願いします。
ありがとうございました。
 13/FEB/2001  All About Japanさんからのメール紹介
 突然のメールで失礼いたします。
当サイトでは、さまざまなジャンルの専門家が、150〜200の分野におけるテーマのサイト編集長(ガイド)となり、興味深いと判断したサイトにリンクを張らせていただいて、ユーザーの方々にご紹介するというサービスを提供いたします。
 サービス開始は2001年2月15日からとなっております。
今回は、HIROFUMI MAKINO様のホームページを『ガイドおすすめのサイト』としてご紹介させていただきたく、ご連絡差し上げました。
ご紹介させていただくテーマと、リンクを希望するWebページURLは、
■「ヒストリックカー」のサイト
http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/HPcarscity2.html
となっております。
 弊社のサービスは、例えば「ヒストリックカー」
というキーワードから派生する、さまざまな情報を求めているユーザーの皆様に、できるだけダイレクトに必要な情報を提供したいという主旨から成り立っております。
通常、リンクはトップページに張らせていただくのが慣習ではありますが、上記のような主旨から、あえてサイト内の各ページへリンクを張らせていただくことがございます。
 このサービスは、インターネットに慣れておらず、サイト内の移動も難しいと思っている方や、なるべく早く必要な情報にたどり着きたいと考えている方など、現状の検索サービスに満足されていないユーザーの皆様に「人がナビゲートする、人に優しいインターネット」を提供したいという考えから行っており、ご理解頂ければ幸いです。
All About Japan
 WEB MASTER :  くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
この度は、All About Japanのオープンに際し、私のHPを選んで頂き、ありがとうございました。2月15日を楽しみにしています。
なお、私のHPのトップ・ページは、下記の通りですので出来ればこちらを載せて頂ければ幸いです。
 このトップページには、日本のモータースポーツの創世記を作り上げた伝説のドライバーである生沢徹氏の為に作った私のサイトや故・浮谷東次郎氏のオフィシャルサイトへのリンク、そして、フランスのクラブ・ホンダS&Zの情報サイトなどもあります関係上、こちらから入って頂くことが出来れば本望です。
では、宜しくお願いします。
http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/
 11/FEB/2001 「開運!なんでも鑑定団」鑑定士の前野さんより頂いたメール紹介
 web拝読させて頂きました。私は《開運!なんでも鑑定団》という番組の中でスポーツ・アメリカ文化物を担当する鑑定士の前野重雄と申します者です。
大変素晴らしい出来映えのHPに感激しました。
ただ今原稿締め切り数本抱え、ゆっくり時間とって後ほど、ご褒美として眺めさせて戴きたいと存じます。
 モデルカーレーシングについては後年の「スーパーカーブーム」と非常に似通った温度、響度のブームであった…はずなのに、何故かこうしてきちんとした記録に残す方がおらず、日に日に遠ざかって行くのを残念に思っておりましたが、何分にも当方には資料類が手元に無いためただ、思い出だけを温めるのみでした。
そうした意味で非常に文化的にも意義のあるページです。どうか更新されなくても構いません(笑)、web上にいつまでも残し、閲覧できますようお願い致します。
かくいう私も、コグレがスティングレイを発売した当時が小学6年か中1、という時代でした。
 通ったサーキットは近所の町屋サーキットを根拠に、千住C、浅草C、浅草楽天地ボウルC、(有楽町交通会館内の)銀座C、と転戦し、最終的には白金Cで(現役生活の)最期を迎えました。
 自分も、ゴムタイヤ(日模)に凝り、表面を削って面取りして「子供の部」から、フレッシュマンクラス…と工夫凝らしながら、ステップアップして行ったものでした。
 タイヤでは苦労しました。衝撃的だったのはCOXが柔らかいコンパウンド(1/24は抜群)で、加工の必要なくいきなり「レースに勝てるタイヤ」であったことで、金持ちの大人がズラリCOXで制していた(一時期だったけど)現実でした。
 モノグラムも高嶺の花でしたけど、ディテールが良い割に原始的(コグレ程度日模以下)で遅かったですね。タイヤは滑ってケツ振るし…。あとここのはドライバーが頭部タテ半分割りー貼り合わせなんだけど、そこへは二通り=普通のドライバーの顔面と、ガイコツの顔面と、一個選べるようになってたのにはちょっと違和感有りましたね。アレでレース前車検落とされた奴とかいましたかね?。
 なお、お尋ねの日模のロータスエランは、自分も注目していましたが発売されませんでした。
どうして判るかというと、町屋サーキットではカウンターで市販キットの販売をしていましたが、こちとら常連ですのでたまに「オーナーの”ご飯交替”」で店番をして上げていたこと等があり、「在庫管理」していましたから…。
おそらく、あの当時ともなるとあちこちでレースが盛んになり、あの小型エランであの形状ボディではせいぜいが各サーキットの(気の毒な)レンタル用に落ちぶれるのが見えてきてしまった=ユーザーは手を出さない?と、セールスマーケティングに不安が生じたからではないかと思います。童友社じゃないんだから…。
 デイトナコブラでさえ、よくコーナーでコケたし…ローラだって…安田銀次だってグリッド並んでいるのに、スタートさえできなかったんだから(笑)カブっちゃってあれ、ミッションすっ飛ばしたんだっけ?。
 この頃の本物レースの裏話はF1解説今宮さんの弟さんが詳しくて、また消息を片っ端から知っておられるので面白いですよ。先方も「そんな昔の事よく憶えてるなあ…」って喜んでくれますし、「菩武波佐栄」って日本の草レース出てたガイジンご存知ですか?あと、「フォーミュラみたいな」(笑)上州国定スペシャルって車のオーナー”その後”まで知っていたのには大笑いしちまいました。
今度、同好の士を集めてみましょうか。
 それから次に来る「スポンジタイヤ」「同カラー色分けタイヤ」「サンドゥイッチタイヤ(自作)」まで、結局はレース必勝法というと【1に「タイヤ」、2に「(当たり)モーター」、3に「ギア比」…】でしたかね。
プラボディを軽量化の為に必死で削り、セロファン一歩手前までこぎ付けたり、クライマックス社のタイヤのパフォーマンスが良い為、同社全焼の後、あちこち遠征して探し回ったり、本当に良い時代でした。
キット入りのノーマルタイヤで、コグレ製に入っていたタイヤがブリジストンだったのにエラく感動したものです。
記憶が正しいかどうかチェックしてくれますか?列挙してみますね。
Cox=Firestone(BRM F-1にはDulopだったかも知れない)
Revel=GoodYear
モノグラム(グンゼ買収以前)=GoodYear
日模=Dunlop
タミヤ=スポンジ(ゴム時代は参入なし、いきなりモーター横置き=Coxのサイドワインダー方式+スポンジで来た!)
たしか国産のものはほとんどがDunlopだったのではないでしょうか?
なあんだ、ピレリだのミシュランなんてオレ達に比べればまだまだ駆け出しのヒヨっ子よ。
 HP拝見していて笑っちゃいましたけど、どこのサーキットにもボクら子供にも親切に教えてくれる(巣鴨のランニング着用)オヤジって居ましたね(笑)。あと、暗い学生なんだけど”メチャ速い”とかね。
でも、不器用だった私がこの趣味に没頭していたおかげで器用な手先になったことだけは確かです。
近所(=町屋)にもこのHPの存在を教えてくれた同好の士(お互い47歳)がおり、(こいつは未だに一家のヒューズが飛んでも修理できないままですが)いつかお目にかかって昔話に花を咲かせたいですね(資格=酒を呑めること)。
このお仕事に敬意を表します。
前野 重雄 拝
WEB MASTER : くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
前野様、この度は、私の未熟極まりないHPを見て頂き、さらにメールまで頂き感激しております。
前野様が出演されております「開運!!なんでも鑑定団」も毎週ではありませんが、いつも面白く拝見させて頂いております。そして、スポーツ・アメリカ文化物鑑定士という肩書きをお持ちのプロの方に、お褒めの言葉を頂くなんて、本当に主宰者冥利に尽きる思いです。
私などは、当時の思い出だけで作らさせて頂いておりますただのオタクオヤジです(笑)。
それにしましても、前野様の御記憶というか60sモデルカーレーシング・リアルタイマーの貴重な体験談など、本当に楽しくメールを拝見させて頂きました。
> どうか更新されなくても構いま
> せん(笑)、web上にいつまでも残し、閲覧
> できますようお願い致します。
>
もちろん続けさせて頂きます。最近は、仕事の関係でHP更新がなかなか出来ていませんが、今も続きを作っているところです。
それでは、今後もどうかよろしくお願いします。
本当にありがとうございました。
 11/FEB/2001  Nさんからのメール紹介 「HP拝見しました」 
 前略、
HP拝見させていただきました。
 トヨタ7で検索してこのHPにきました。
私は昭和32年生まれで、クルマに関心があったのは幼稚園からですが、小学生時代に日本GPを見たときは興奮しました。
今にして思えば、69年GPでした。当時からトヨタファンファンだった私は、一生懸命TOYOTA-7を応援していました。
あとで、トヨタが5000ccで日産が6000ccと聞いて、日産はずるいと思い、前年のGPでも日産のエンジンはシボレーと聞いて余計に良かった思い出があります。
トヨタ7では特に日本CAN-AM使用のウイング付が大好きで、数年前にアムラックスで見たときは感激しました。この頃の、レーシングカーは今見ると非常にシンプルですが何か温かみがありました。
  栄光のルマンも感激した映画で、私の中ではベスト1です。
人間ドラマがはいって、クルマの映画化、恋愛映画化わからない中途半端な映画が多い中でレースの中継を見ているような興奮を与えてくれました。
 この映画の影響で、私のお気に入りのレーシングカーはトヨタ7に並んで512Sと917Kになりました。
しかし最終ラップでミュルサンヌの名物の6kmのストレートで(当時は雑誌を見てもユノデェールなんていってなかったような気がするのですが)512Sに対して一気に差を詰める917のシーンは今になれば非現実的ですが。あんなに速度差があれば、追いついたらすぐ抜けるだろうと思いますが抜けないがえいがです。
 いろいろと書き出すときりが無いのですが、これからも時々、拝見させていただきますので宜しくお願い致します。
 
早々
 WEB MASTER : くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
 N様、この度は、まだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き誠にありがとうございました。
'60s日本グランプリ、そして'60sモデルカー・レーシングは、私にとってはかけがえのない宝物です。
しかし、N様のようなリアル・タイマーの方が数多くいらっしゃるはずなのに、現在ではその当時のことの文献や、記録ビデオ等、そしてそのことを語る方もあまりいらっしゃらないように思えます。
そのような理由と私の青春時代を飾った熱きモータースポーツとモデルカーレーシングをまだボケないうちに(笑)20世紀の遺産として(オーバーですが・・・)残したい一心で作り始めたのがこのHPなんです。
当時私は、実際の日本グランプリ等があると、すぐにモデルカー・レーシングで同型車を作り、友人と1/24スケール日本グランプリを楽しんでおりました。
 この2つは私にとって価値は同等なんで、どちらが欠けても不完全になってしまうのですね。
「栄光のル・マン」も今のように、リアルでTV中継される時代ではありませんでしたから、この映画は本当に貴重です。何も知らない映画評論家が、この映画をコケおろしているのを当時よく聞きましたが、私もN様と同じで、本当によく作ってくれたとマックイーンに感謝したい気持ちです。でも、この映画が発端で、マックイーンは以後大変財政的に苦しくなるのですが・・・。
長くなってしまいました。これからも時々立ち寄ってください。ありがとうございました。
 7/FEB/2001 長野市にお住まいのS.Aさんよりのメール紹介「ずっと続けてください」
 こんなに素晴らしいホームページはないですね。
私も1952.5.2生まれ おっさんです。
近所の、元レースを建ってたオッサンと楽しませていただき、懐かしんでいます。
 マイナーではあったけれど、船橋サーキットのことも載せてください。当時TBSで日曜日に放映していたような記憶も・・・・。
 中学時代、モデルカーレーシングでは1/32 コルベットスティングレイにFT−16仕様でしたが、シャシーを改造して、FT−36Dと積んでました。ストレートでは早かったのですが、コーナーはちょっと・・・・?
でも、周りからは、驚異の目で見られていました。書き始めると、止まりそうもないので、この辺で。
頑張ってください
P.S.
当時の写真をゆっくり眺めたいと思います。
サーバーの関係もあるでしょうけれど、大きな写真を見たいと思うのは私だけでしょうか・・・。
WEB MASTER :  くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
A様、この度はメールを頂き本当にありがとうございました。
このような励ましのメールを頂くことが今の私にとってこれ以上もない喜びです。
 '60s日本モーター・スポーツとモデルカー・レーシングは、私にとってはかけがえのないものでした。
しかし、今21世紀となってそのことについて書かれた文献も少なく思い出話しでたまに書かれるくらいの本当に淋しい状態が現実です。
そんな事が、きっかけで4年前から習い出したPCを駆使(?!)して作り始めたのがこのHPであります。ですから、あまり難しい技術は出来ませんがなんとか皆さんの御支援で、3年目に入る事が出来ました。

> マイナーではあったけれど、船橋サーキットのことも載せてください。
> 当時TBSで日曜日に放映していたような記憶も・・・・
>
近いうちに、何か企画ページという形で作らせていただこうと思っております。
コンテッサ・クーペとMINIのレースなんて良いですね!そして、NAC主催のレースとか・・・。
私は、1954年生まれでしたので、青山さんが2年先輩になります。この2年というのが以外に大きいと思ってます。
モデルカー・レーシングが日本でブームとなったのが1965年ですから、その頃の2年間はとても大きいです。
コルベットをお持ちだったそうですが、その頃が一番モデルカー・レーシングの絶頂期だったのではないでしょうか。

> 当時の写真をゆっくり眺めたいと思います。
> サーバーの関係もあるでしょうけれど、大きな写真を見たいと思うのは私だけでしょ
> うか・・・
>
そうですね!これからは、文章もそこそこにして、写真も大きく載せていきたいと思っています。どうもありがとうございました。
これからも時間がおありでしたら、是非立ち寄ってください。

 16/JAN/2001  沼津にお住まいのM様よりのメール紹介
 はじめまして、Mと申します。
 ホームページ拝見させていただきました。
日本グランプリや「栄光のル・マン」など、貴重な資料の宝庫に感動しております。
 日本グランプリのレコードがあるなんて初めて知りました。音は聞けなくても、LPジャケットの写真を見てるだけも当時の盛り上がりが聞こえてきそうです。
 今はなき30度バンクを走る日本グランプリカーやグラチャンマシンの映像で見たいと思っているのですが、今となってはなかなかないものですね。AUTOSPORT誌に時々掲載される当時の写真を見て、想像したりしています。
 「栄光のル・マン」は当時、映画館で観ましたが、貴殿のHPにはそのときの指定席券や撮影時の裏話が掲載されていることにまたまた驚きました。当時はナショナルのラジオのCMにも使われていましたね。ラジオのカタログに掲載されたマックイーンの写真を切り抜いて、カードケースに入れたりしていました。ビデオやレーザディスクはもう何回も見ましたが、クラッシュシーンが代車であることを知ったのはつい最近でした(笑)
 グラチャンの記事はこれかも追加されるのですか? 開幕当時のレースをFISCOでご覧になったとは、羨ましいかぎりです。
 私がFISCOで見たグラチャンは30度バンクが使われなくなってからです。30度バンクが使われていた頃のグラチャンは当時東京12チャンネルの中継や録画で見ていたことは記憶しているのですが、覚えているのはあの悲惨な大事故のみです。
 長くなってしまいましたが、これからも更新を楽しみにしております。
では。
 WEB MASTER : くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
M様、この度は、まだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。
1960年代半ばから、70年代前半までが、私にとっての本当に熱い青春時代でありました。
その中でも、日本グランプリ、モデルカー・レーシング、そして、富士グランチャン創世記は、特別な思いがありました。そんな思いから、時代の波に忘れ去られて行くことだけはさせたくないという一心で作り始めたが発端でした。

> 日本グランプリのレコードがあるなんて初めて知りました。
> 音は聞けなくても、LPジャケットの写真を見てるだけも
> 当時の盛り上がりが聞こえてきそうです。
>
見て頂き、そのような御感想を持っていただけたのは、本当に主宰者冥利につきます。ありがとうございました。
また、マックイーンの「栄光のル・マン」は、これまた今のように、ライヴ中継などされていなかった時代ですから、本当に興奮いたしました。
マックイーンは、この映画を作って精魂尽き果てたらしいですが、映画評論家たちが酷評する中、私は当時えらく憤慨したのを覚えております。

> グラチャンの記事はこれかも追加されるのですか? 開幕当時の
> レースをFISCOでご覧になったとは、羨ましいかぎりです。
>
初めて実際に見ることが出来たレースですから、今でも興奮が醒め止みません。ビック・マシンが一緒に走っていた初期のレースは、特に印象深いです。

> 覚えているのはあの悲惨な大事故のみです。
>
どういうわけか、私は、1973年をもって一時期モーター・スポーツ関係に興味を失いまして、あの悲惨な事故は、見ていません。後で、新聞や雑誌で知ったぐらいでした。

> グラチャンの記事はこれかも追加されるのですか?
>
1973年のレースに関しては、追加しようと思っています。
また、HP製作に関して言えば、私一人ではなく、このHPでお知り合いになった方々の御協力で、ここまでやって来ることが出来ました。アドバイス等ございましたら、是非お願いいたします。
これからもどうかお付き合い宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。
 

 10/JAN/2001  東京都にお住まいのY.S様よりのメール紹介「初めまして」
 はじめまして、Sと申します。突然のメールにて失礼致します。
車関係のHPを検索していたら、ふと気になる名前があったので、びっくりしました!私の父、T.Sの名前を見つけたからです。
私は現在25になりますが、恥ずかしながら現役だった頃の父を、余り知りません。
彼も昔の事を、余り喋らない性もあるかと思いますが・・・。このHPをみて、何となく若き頃の彼を見る事が出来感謝しています。
私も物心つく頃に、『大きくなったらレーサーになる!』っといった所、母に大反対された記憶があります。
その頃から、余りレース関係の事を口にしなくなったような気がしますが。でも、父がくれた私の名前は『Y』です・・・。(笑)どんな意味があるのやら。
牧野様のHPには、私も見た事の無い写真やチケットなどあり、機会があったら父に見せてあげたいと思います。
先年、往年の『マクラーレンM12』を見てきました。
場所は山梨にある、ピットインR(レストラン)です。オーナーの方からご連絡を受け、レストランを閉店するとの事で最後にガラスケースに入ったマクラーレンを見に行きました。話によるとM12は現在、ニュージーランドのブルース・マクラーレン・トラストに引き取られ現役で活躍しているみたいです。オーストラリアで開かれた、草レースではなんと優勝したそうです。
これからも頑張って、HPでの活動をしていって下さい。
長々と失礼致しました。
 WEB MASTER:  くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
Y.S様、この度は、まだまだ未熟なこのHPに立ち寄って頂きありがとうございました。
そして、何よりも感激しましたのは、あの“T.S”さんの御子息様だったと言うことです。
私が初めて実際にレースを見に行きましたのは、1971年の富士グランチャンピオンシリーズの第3戦「富士500kmレース」でした。
その時、優勝したのが何を隠そうY.S様のお父様だったのでした。
太陽が照りつける真夏の8月のレースでした。お父様のマクラーレンM12が風を切るように富士スピードウェイのストレートを駆けぬけて行く様は、今も忘れられません。
その野太いアメリカンV8エンジンは、「ド、ド、ド、ド・・・」という感じで耳に焼き付いております。
お父様は、60年代から排気量の大きなレーシング・マシンを得意としていらっしゃったので、特に66年の「第3回日本グランプリ」(この時は、私が小学生だったのでTVで見ました)で乗られた「デイトナ・コブラ」の印象が強く、T.Sさんといえば、「デイトナ・コブラ」と「マクラーレンM12」だというふうに私の頭の中でイン・プットされているくらい印象深いです。いやいや、話し出すと止まらなくなります(笑)。
オーストラリアでM12が活躍しているんですか?!凄い!!
昨年、某自動車雑誌で、T.Sさんの当時の思い出などをおりまぜた特集記事を拝見いたしましたが、その後のM12がまだ現役だとはうれしい限りです。これからもお父様を大事になさってください。
そして、お父様にどうか「青春時代の興奮を与えて頂き、本当にありがとうございました」とお伝えください。