1967年頃といえば、私が、「モデルカー・レーシング」の世界にはまりまくっていた頃でありました。ところが、日本におけるモデルカー・レーシング・ブームはすでに過ぎ去っており、あの田宮模型ですら“ポルシェ・カレラ6”を最後にプロトタイプ・カーの製品化を中止し、アメリカで当時流行っておりました「ストックカー・レーシング」のモデル化だけに的を絞る方針に方向変換していました。
「ストックカー」といえば、NET(現・テレビ朝日)等で盛んにアメリカのストックカー・レースを当時中継録画していたのを思い出します。このストックカー・レースとは、アメリカのフル・サイズ・セダンやハード・トップの乗用車をレース用に改造して、1960年代のアメリカを象徴するようなダイナミックなレースであります。バンク付きのオーバル・コースを何十台ものフル・サイズカーが互いにぶつかり合いながら争う格闘技的な要素を多分に持ったレースでありました。
しかし、私は、モデルカー・レーシングの世界では、最後までプロトタイプ・カーやカンナム・カーのレースに没頭しておりました関係上、ついにストックカーには手をつけずじまいでありました。
唯一、私が購入したモデルカー・レーシングにおけるストックカーは、長谷川製作所の1/25スケール「ビィック・ワイルドキャット」が最初で最後であります。ホーム・サーキットでレースを続けていた私達としては、ちょっと1/25のストックカーは、大き過ぎたのかもしれません。
 ところで、日本における実際の「ストックカーレース」の歴史は、1963年に開かれた「第1回日本グランプリ」が最初だと言われております。そのレースでは、今は無きプリンス・チームの“プリンス・グロリア”、日産チームの“セドリック”、トヨタ・チームの“トヨペット・クラウン”、そして、いすゞチームの“いすゞ・ベレル”などが雌雄を決してレースをしておりました。
ところで、“ストックカー”という言葉の由来は、アメリカのNASCAR(ナショナルアソシエーション・フォア・ストックカー・オートレーシング)が行なっておりますシリーズ戦“グランナションル・チャンピオンシップ”に出場しているフル・サイズカーを“ストックカー”という言葉で呼んだことが始まりだと言われています。また、市販の乗用車の意味で使われることもあるようです。ところで、世界的に有名なストックカー・レースと言えば、フロリダ州デイトナ・ビーチにあります“デイトナ・スピードウェイ”において毎年行なわれている「デイトナ500マイルレース」があげられます。このレースは、あの「インディアナポリス500マイルレース」と共にアメリカ・モータースポーツ界の頂点に立つイベントとして今も大変な人気を誇っています。
 今回の企画ページは、1960年代後半、日本グランプリとは異質の輝きを放っておりました乗用車のレース「ストックカー・レース」を取り上げてみたいと思います。1960年代から70年代初頭の短い間のシリーズではありましたが、当時大変な人気を誇っていたのはまぎれもない事実であります。そして、忘れることが出来ないのは、その中で抜群の強さを誇っていた1人のドライバーのことです。その名は、“鈴木誠一”。彼は、まさしく日本ストックカー界のスーパー・スターでありました。そんな彼の活躍もまじえながら2回にわたる特集企画で綴っていきたいと思います。
 “日本ストックカー・レース創世記”

 時代は遡って1963年11月6日、“105マイル・クラブ”の主催で、初のストックカー・レースが大井オート・レース場で行なわれました。このレースこそ、日本ストックカー・レースの歴史的第1歩でありました。
後に、“105マイル・クラブ”は、“NAC(日本オート・クラブ)”と名を変え1972年にJAFとのトラブルでJAF公認クラブから脱退するまでこの日本ストックカー・レースは、人気レースとして定着するのでありました。しかし、このJAF脱退劇によりJAF非公式レースとなってしまったストックカー・レースは、1973年をもって自然消滅してしまい、2度とレースが行なわれることはありませんでした。なんとも寂しい最後でありました。
 この日本ストックカー・レースは、1972年度までは、JAF公認レースとして行なわれており、レースも1969年から富士スピードウェイで年間4戦のシリーズ戦で行なわれました。

 過去の日本ストックカー・レース戦績
1963年11月6日 第1回(大井オート・レース場) 優勝 ドン・ニコルズ(ベレル)
1964年3月20-22日 第2回(川口オート・レース場) 優勝 生沢徹(プリンス・グロリア)
1964年8月16日 第3回(川口オート・レース場) 優勝 生沢徹(プリンス・グロリア)
1965年3月28日 第4回(川口オート・レース場) 優勝 田村三夫(クラウン)
1965年8月7-15日(8月15日) 第5回(船橋サーキット) 優勝 大石秀夫(スカイライン)
1965年10月10日 第6回(川口オート・レース場) 優勝 生沢徹(プリンス・グロリア)
1965年11月21日 第7回(船橋サーキット) 優勝 本田正一(ベレット)
1968年8月4日 第8回(富士スピードウェイ) 優勝 伊能祥光(セドリック)
1968年11月23日 第9回(富士スピードウェイ) 優勝 鈴木誠一(セドリック)
1969年3月23日 第10回(富士スピードウェイ) 優勝 鈴木誠一(セドリック)
 この歴代優勝者を見て私は、正直言ってビックリしております。我がTETSUがなんと3度も優勝しているではありませんか。やはりTETSUは、強かった!
ところで、このストックカーレースは、1968年より「読売デイトナ・チャレンジカップ・シリーズ」として、年間2戦が富士スピードウェイが行なわれ、その内の1戦は、あの「日本CAN-AMレース」のサポート・イベントとして行なわれました。これら主催者の努力により、ストックカー・レースはますます認知度を増していくのでした。また、この年から、シリーズ優勝者は、デイトナ500マイルレースに派遣という特典もあり、初代王者となった“鈴木誠一”が晴れて初めての派遣選手となりました。しかし、実際には、NACの公約であった“グランナションル・チャンピオンシップ”の懸かった7000ccビック・ストックカー・レースであるの「デイトナ500」への出場は叶えられず、その代わりとして、サポート・イベントでありました“TRANS-AMシリーズ(5000ccエンジンまでのストックカー・レース)”に参加という結末となったのでした。
 “日本ストックカーの歴代マシン達”
 
上の画像は、1963年5月3日「第1回日本グランプリ」において、2000cc以下のツーリング・カー・レースに出場した“ドン・ニコルズ”ドライブの“いすゞ・ベレル”であります。
なんとも時代を感じさせるものです。まさに、市販車そのもので走っている感じでありました。
 ストックカー・レースとして確立したのは、なんといっても1968年8月4日に開催された「第8回富士200kmレース」からではないでしょうか。
このレースには、日本のメーカー系チューニング・ショップはもちろん、腕に自信のあるチューニング・ショップが一同に参加した記念すべきレースであったと記憶しております。

 上の画像は、1968年8月4日富士スピードウェイで開催された「第8回富士300kmレース」のローリング・スタート風景であります(バンクを使わない左回り4.3kmコースで開催)。
これまで、日本におけるスタート方式は、“スタンディング・スタート”や“ル・マン式スタート”が常でありましたが、NAC主催のストック・カー・レースにより初めてアメリカ式の“ローリング・スタート”が、日本のレース界に紹介されたことは特筆に値することであったと思います。
出場マシンは、今だ1963年以来の旧型マシンもあり、誠にバラエティに富んだ顔ぶれとなっておりました。

上のマシンは、米山二郎のドライブするプリンス・グロリアであります。彼のカラーリングとナンバーは、なんと当時のアメリカン・ストックカー界のヒーローであった“リチャード・ペティ”車そのものであります。
米山二郎は、その恩恵を受けて(?)このレースで、総合2位を得たのでありました。
上のマシンは、米山二郎が憧れていたアメリカン・ヒーロー“リチャード・ペティ”のプリムス(1968年デイトナ500マイルレースより)。
上の画像は、今や“パリ・ダカール・ラリー”における“カミオン(トラック)”クラスの日本における第1人者として有名な“菅原義正”がドライブする“ニッサン・セドリック”であります。1968年当時は、まだまだ少なかったこの横目型セドリックが後の日本ストックカー界を独占していくことになるのでした。
余談ですが、私が免許を取った時の教習自動車は、まさしくこの形のセドリックでありました。
 上のNO.84は、若き“鈴木誠一”のドライブするセドリックであります。
なんとも懐かしいこのスタイルは、どうも当時のタクシーを思い出してしまうのは私だけありましょうか。
しかし、なかなかのスピードで、70周のレースの内、なんと37周もトップを独走していたのでありますから、その実力は侮れないものがありました。そして、なんといっても鈴木誠一のドライビングに問うところも多かったのではないかと想像できます。
NO.36は、このレースに優勝した伊能祥光のセドリックであります。
当時のレギュレーションでの参加資格車は、国産2000ccクラスの量産車に限られており、セドリック、グロリア、クラウン、デボネア、そして、ベレルがこれに該当するのでありました。
エンジン排気量は、2000ccまででしたが、翌1969年からは、3000ccまでのエンジンであれば載せ変え可能という比較的自由なレギュレーションに変更されることになるのでした。
 “死闘!!鈴木誠一VSタイニー・ランド”
 
 翌1969年になると、ますます日本ストックカー・レースの人気は上がり、富士スピードウェイのみの開催だった今までの単発レースでは、将来が無いと判断し、NACは、他のサーキットとのジョイントでシリーズを戦う全日本ストックカー選手権シリーズ開催を決定するのでした。
 さらに、アメリカン・スタイルを参考に、エンジン排気量を今までの2000ccから、3000ccへとスケールアップさせダイナミックなレース展開を前面に出し、他のツーリング・カー・レースとの差別化を図ったのでした。
 その集大成的なレースが、1963年デイトナ500マイルレース優勝者“タイニー・ランド”を招待し、日本ストックカー・ドライバー達と対決させた1970年3月22日に開催された全日本ストックカー選手権第1戦「富士300kmレース」でありました。
このレースは、記録に残るほどの大レースとなり、その興奮のレース模様を当時のAUTO SPORT誌の記事を引用させて頂き書かせて頂きたいと思います。
“<全日本ストックカー富士300>はNACの主催により、3月21〜22日行なわれた。
今大会最大の話題は本場アメリカからやってきたプロ・ストックカー・ドライバー、タイニー・ランドのエントリーだ。
 22日の決勝レースには予選を通過した40台が出場。小雪の舞う中を午後1時11分、ローリング・スタートで開始された。1周目のトップは鈴木の#84セドリック。続いて#16田村、#00タイニー、#03鯉沼らのセドリック勢が一団となってスタンド前を通過。2周目に入ると#84鈴木と#00タイニーの猛烈な首位争いが始まった。12周目からは、この両者のシーソー・ゲームが続けられ、やがて30周目を過ぎる頃から上位陣の燃料補給が始まった。鈴木は約40秒、タイニーは約32秒でピット作業を完了。タイニー、鈴木の順で戦いが再開された。
 やがてレースも終盤を迎え、雪が一段と激しくなり、56周目、ペースカーが出動。各ポストにイエロー・フラッグが掲げられた。
 タイニーと鈴木のデッド・ヒートは依然続き、最終ラップのスタンド前では鈴木がトップ、2位タイニー。ヘアピンにさしかかったときにはタイニーが再びトップ。そのまま最終コーナーへ。ここでタイニーが一瞬ふらついた。そのすきに鈴木はスパートし、タイニーを“0秒28”後に退けて優勝を飾った。”
 わずかの差でもタイニー・ランドを押さえて見事優勝を勝ち取った鈴木誠一は、このレースにより自他共に認める世界的トップ・レーシング・ドライバーとして認識されたといっても良いのではないでしょうか。
その後この2人の2度目の対決が、早くも11月23日全日本ストックカー選手権 最終戦「富士200マイルレース(左回り4.3kmコースを75周)」で実現したのでありました。
このレースには、2人の対決の他に、話題が1つありました。それは、あのトヨタが日本グランプリ以来の“本気”でチューニングした“トヨタ・クラウン・ハードトップ”の出場でした。
 ドライバーは、ワークス・チームの蟹江光正。彼は、あのトヨタ7にも乗ったベテラン・ドライバーでした。
エンジンは、トヨタ・センチュリーV8・3000ccをベースに大幅にチューンアップされ、最高馬力245psを絞り出すといわれておりました。
ちなみに、全日本ストックカー選手権の規定では、どこのエンジンを載せてもかまわないという比較的自由な規約となっているために、このようなことが出来るのでありました。中には、クラウンにマツダ・ロータリーエンジンを積んだ車もありました。
 ところで、この「富士200マイルレース」の予選結果は、ポール・ポジションは、鈴木誠一のセドリック、そして注目の蟹江のクラウン・ハードトップが2位となり、3位には、2回目の挑戦となるタイニー・ランドが入りました。また、後に生沢や風戸の後をおってヨーロッパ修行に出ることになる“桑島正美”もセドリックで5位に入っておりました。
 23日の決勝は、予想通り“鈴木誠一VSタイニー・ランド”の一騎打ちでスタートしたのですが、35周目にタイニーがオーバーヒートでピットインし、さらにピット作業が遅れたため脱落、その後猛烈に追い上げを敢行したが6位に入るのがやっとでありました。
結局鈴木誠一が、第1戦以来の今期2勝目をマークし、1968、69、に続き3年連続で全日本ストックカー選手権王座についたのでした。
2位には、今後が楽しみな蟹江光正の“クラウン・ハードトップ”が入りました。
 次回「日本列島を駆け抜けた 日本ストックカー伝説」後編は、ストックカー界のスーパー・スター“鈴木誠一”がアメリカの“TRANS-AMシリーズ”に挑戦した記録と日本ストックカー・レースの終幕を特集したいと思います。
(つづく)

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(C) 23/MAR/2000 BY HIROFUMI MAKINO