THE YOUNG SOLDIERS  
and
   TOYOTA-7 


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Vol.2
Vol.3 

“トヨター7”と共に生きたチーム・トヨタの若き戦士たちの栄光と影!!


 TOP: Minoru Kawai and his TURBO TOYOTA-7

“栄光へ急ぎすぎた若きエース 川合 稔(Minoru Kawai)”
 “川合は、トヨタチームのエース・ドライバーとして張り切っていた。川合は、苦労して今日の地位を築き、スター・ドライバーの座をやっとの思いで掴み取った。また、69年のNETスピードカップレースでレース・クイーンをしていた小川ローザとも結婚し話題を振りまいてもいた。さらに、モデルであった小川ローザと2人でトヨタのポスターに登場し、トヨタ車のイメージアップに一役買っていたのもこの時期であった。

 Roza and Minoru in a commercial photograph of TOYOTA MOTOR Co,.Ltd.
Top two photographs : A special thanks  by  "BEANS".

そんな時、トヨタ自工の副社長であった豊田英二からカンナム挑戦の許可が遂に下りた。その吉報は、ちょうど鈴鹿で“ターボ・チャージド・トヨタ7”をテスト中の川合にも当時トヨタにいた加藤真から早急に伝えられていた。カンナムに行くとすれば、ドライバーは川合に決まっていたからだ。
 3時50分頃、細谷がピットインして、マシンを降り、フロントのブレーキ調整をしてもらっている間、ピット前に立っていると、丁度、川合のトヨタ7ターボが、ストレートをターボ独特のヒュ―ンというエンジン音を残して走り過ぎていった。凄い勢いで走っているなと細谷はその姿を見送った。その時ピットからは、次ぎの周にピットインする指示が川合に出された。しかし、川合のマシンは、そのまま2度と戻ってこなかった。”
 この一説は、グランプリ出版発行の「激闘 ’60年代 日本グランプリ NISSAN VS TOYOTA」の中から抜粋引用させて頂いたものです。さらに続きます。
“ 1970年8月26日、川合は鈴鹿の逆バンクからデグナー・カーブを通過し、ヘアピン手前の110Rコーナーでコントロールを失い、まっすぐにコースサイドの溝に激突し、マシンは大破して、同時にドライバーはマシンから放り出されていた。コース上にはブレーキがロックしてそのまま走り続けたことを示す2本のタイヤのブラックマークがその溝の手前までくっきりと残されていた。このブラックマークを見て想像出来ることは、この110Rを曲がった時、減速の為にブレーキングしたのだが、スピードがまったく落ちずに、そのまままっすぐにコースアウトしたように思える。スロットルが全開となり、ブレーキングによってホイールがロックしたのであろうというのが大方の見方だった。時速200キロ以上のスピードであったが、広いダートのセーフティゾーンがもしあったなら、スピードが吸収されて単なるクラッシュですんでいたかもしれない。ただちに川合は病院に収容されたが、ついに不帰の客となった。”
 川合稔は、他のドライバーたちと比べて下積み生活が長く、“トヨタ・スポーツ800”や“トヨタ 1600GT”を駆り、福沢や鮒子田らが“トヨタ2000GT”、“トヨタ―7”で活躍している時期にたえずサブ・イベントに参加し、地道にレースを行なっていたのでした。その結果、1968年度全日本ドライバー選手権では、同じトヨタ自販(福沢らは、ワークス・トヨタ・チームのトヨタ自工からエントリーしており、川合は、言わば2軍チームでありました)の高橋利昭に次いで、ランキング総合2位になることが出来ました。当時回りでは、川合のトヨタ自工のワークス・ドライバー入りは、時間の問題だと言われていました。
そして、意外に早くそれは川合に訪れたのでした。1968年暮れに行なわれた「日本CAN-AMレース」に、正式にトヨタ自工のファクトリー・ドライバーとして参加することになったのです。

レース・リザルト(A Race result of Minoru Kawai)

1965.9.26  第1回ゴールデン・ビーチ・トロフィー・レース  TOYOTA SPORT 800  GT-7th
1966.7.17  第5回 クラブマン・レース鈴鹿大会 TOYOTA SPORT 800  DNS
1966.9.25  全日本レーシング・ドライバー選手権第4戦 TOYOTA SPORT 800  Class 1 1st(Overall 5th)
1967.3.2-3  富士24時間レース TOYOTA CALOLA  8th(T-1 2nd)
1968.4.7  第9回全日本クラブマン・レース富士大会 TOYOTA 1600GT  2nd 
1967.4.8-9  富士24時間耐久レース TOYOTA SPORT 800  3rd
1968.5.3  第5回日本グランプリ TOYOTA 1600GT  GT-2nd
1968.6.30  全日本鈴鹿自動車レース大会 TOYOTA 1600GT  DNS
1968.7.21  富士1000kmレース TOYOTA 1600GT  6th(TS2-2nd)
1968.8.4  鈴鹿12時間レース TOYOTA 1600GT   7th(TII-1st)
1968.9.8  第4回ダイヤモンド・トロフィー・レース TOYOTA 1600GT  GT-2nd
1968.10.20  第10回クラブマン・レース富士大会 TOYOTA 1600GT  GT-1st
1968.11.23  THE 1ST JAPAN CAN-AM TOYOTA 7(3000cc)  9th
1969.4.6  鈴鹿500kmレース TOYOTA 7(3000cc)  1st
1969.7.27  富士1000kmレース TOYOTA 7(5000cc)  28th
1969.8.10  NETスピードカップレース TOYOTA 7(5000cc)  2nd 
1969.10.10  '69 日本グランプリ TOYOTA 7(5000cc)  3rd 
1969.11.23  THE 2ND JAPAN CAN-AM TOYOTA 7(5000cc)  1st

 


 川合稔(かわい・みのる)は、昭和17年12月9日生まれの東京育ちであり、当初“役者”になりたい希望を持っていたと言われています。最初に紹介したように、当時のトップ・モデルであった「OH ! モーレツ!!」で有名になっていた“小川ローザ”と電撃的に結婚し、当時のトヨタ・コロナのイメージ・キャラクターとして、2人でポスターに登場するなど、川合はもう1つの夢“役者”をも手中に納めんかなという勢いでありました。
 そういえば、1967年に行なわれた「富士24時間レース」において、当時まだトヨタ自販チームに在籍していた川合は、“TOYOTA SPORT 800”でゴールをまじかに控え総合3位で周回していた時のことでした。トヨタ・チームとしては、当時流行していた“ONE TWO THREE FINISH !(A Ford GTMKII in Le mans 1966 and a Ferrari 330P-4 in Daytona 24hours 1967) ”を行なう為に、トップ2台の“TOYOTA 2000GT”と共に、川合に3台並んでゴールするよう指令が出たのです。当然その時ドライブしていた川合は、その指示通りにゴールするつもりだったのですが、なんとゴール直前に、スロットル・リンゲージが戻らなくなりコース上にあえなくストップしてしまったのです。
慌てたトヨタ・チームは、急遽他のSPORT 800を代理に仕立てて、なんとか3台並んでのゴールシーンを演出することが出来ました。しかし、その時コース上に止まってしまった川合は、ほとんど半べそ状態だったと言われています。
そんな川合が、その後、2年を待たずにチーム・トヨタのトップへと登り詰めたとは当時誰が考えたでしょうか。
また、当時の川合のある一面を表すエピソードがあります。それは、ちょうどニッサン・チームが排ガス規制対策のために“ビッグ・マシン”による“'70 日本グランプリ”不参加を表明した矢先のことでありました。再びグランプリ出版発行の「激闘 '60年代日本グランプリ NISSAN VS TOYOTA 」より引用抜粋させて頂きます。
 “1970年7月26日、富士1000kmレースには砂子義一とタキ・チームから再びニッサンに戻った長谷見昌弘のコンビでスカイラインGTRも出場していた。このファクトリーチームの監督として、青地康雄がサーキットに来ていた。
 パドックを歩いていると、トヨタ7ターボでのデモンストレーション走行を終えた川合稔と出会った。川合が青地のところに寄って来ていきなり言った言葉は「逃げないで、堂々勝負しましょうよ!青地さん!」であった。
青地は苦笑した。川合の気持ちは分からなくもなかったが、それは青地が決める立場ではなく、ましてドライバーがとやかく言う問題でもなかった。
「川合君、そんなふうに勝負にばかりこだわると危険だよ!」と青地は川合を気遣った。”
 それから丁度1ヶ月後の8月26日に、川合は逝ってしまった!!
 上の写真は、1970年7月26日「富士1000kmレース」のデモンストレーション後に普段着で細谷らとくつろぐ川合稔の最後の写真であります(左から、細谷、川合、そして久木留)。

A special demonstration in '70 FUJI 1000Kms race.



Topleftside: A monthly magazine of PLAYBOY in 1970.
Topother: A present, text report by Minoru Kawai and his TOYOTA 2000GT.
 上の写真は、1969年「日本CAN-AM」を制したばかりの川合が、1970年1月15日発行「プレイボーイ 増刊号」において、同じく1969年「'69日本グランプリ」優勝者 “黒沢元治”と共に自らレポート記載した「黒沢元治 川合稔のウインタードライブ・テクニック」という企画ページであります。内容は、2人のドライブ・テクニックをドライバー自身のレポートで、読者に伝えようというものでありました。川合は、この時まさに“スター”でありました。
 また、この「プレイボーイ 増刊号」には、“クルマこそ俺の恋人 愛車へのラブレター集”と題された企画ページがあり、その中にも“生沢徹”、“滝進太郎”、そして“大藪春彦”らに混じって“川合稔”が登場しております。これは非常に興味深いもので、当時の川合の心境を知ることができる内容だと思います。
■川合稔・・・(チーム・トヨタ・レーシング・ドライバー)
ジャジャ馬 スティングレィ 7リッター
 まずは日本でCAN-AM優勝させてくれたトヨタを上げなくてはならないが、初恋のヒトは、ホンダS600だ。
2輪時代で転倒事故があってから、僕はなんとかホンダS600を買う資金稼ぎに陸送屋になった。ほれっぷりがはた目にも分かったのだろう。オヤジが「助けてやるよ」と足りないお金を出してくれた。
 この初恋のクルマで稼いだ賞金は、現在よりも多かった。そしていま、恋しているのは7リッターのスティングレィ。友人が持っていて時おり拝借するが、やたらにアクセルを踏むと、たちまちスピンする凶悪なクルマだ。
このジャジャ馬ぶりが気にいっていた。こたえられないのだ。
もし、お金がフンダンにあったら、フォードGT40を買いたい。キチッと背広を着て、このクルマで町を走る。カッコイイと思うなあー。
 「栄光に急ぎすぎた 若きエース 川合稔」 (完)
 “トヨタ・チームの変遷”
 トヨタ・チームに関して1970年に発行された「オートテクニック '70 12月号臨時増刊号 日本のグランプリレース」に紹介されておりましたのでそれを引用させて頂きご紹介したいと思います。
 “トヨタでは式場壮吉が第1回、第2回グランプリまでは重要な位置なあったが、彼の個人的な活動があまり喜ばれず、次第に多賀弘明を中心に固まるようになっていった。
 多賀弘明、浮谷東次郎、細谷四方洋、田村三夫らがメーカーと直結した主要メンバーで、浮谷が1965年8月、鈴鹿サーキットで事故死してからは、ファクトリー・ドライバーの統制が真剣に考えられ、より速いマシンの開発にも、積極的に彼らを起用するシステムが出来ていった。
 浮谷の死後、福沢幸雄がいすゞの準ファクトリー・チームから、津々見友彦が日産の準ファクトリー・チームから、それぞれトヨタ入りした。その後、ホンダの準ファクトリー・チームにいた鮒子田寛もトヨタに迎えられ、1966年のトヨタ2000GTレコードランにも彼らが起用されたわけである。
 トヨタ・チームは、よく知られているように自工チームと自販チームの二つがある。自工チームはもちろんメーカーと直結した活動を行なっており、自販チームは多賀弘明を総師に、市販車によるモーター・スポーツ活動を行っている。自販チームからファクトリー・チームへ昇格するチャンスがあるのは、日産などと同じシステムである。
 自販チームからは、大坪善男、蟹江光正、見崎清志、川合稔らが昇格したが、蟹江や見崎は1年で再び自販チームは戻ったし、大坪は69年に去り、川合は70年に鈴鹿で事故死した。
 津々見友彦は、67年に渡米して去ったし、福沢幸雄も69年ヤマハ・テスト・コースで事故死、田村三夫は日産へ移籍、鮒子田寛も70年初め、アメリカへ渡ってトヨタから去った。ダイハツとトヨタの提携で、久木留博之がトヨタ・ファクトリー入りしたのは69年だが、結局、現在(1970年現在)は細谷四方洋、久木留博之の2名だけがファクトリーに残っている勘定である。”  
 トヨタは、1960年代の販売業績では、遥かに日産を凌いでおりながら、何故か「日本グランプリ」での優勝が無いのです。
 「TOYOTA-7」は、トヨタが送り出したオール・トヨタ製の傑作マシンであり、最後までエンジン排気量を3リッターと5リッタ―にこだわり続けた傑作マシンでありました。それゆえに、この不出世の“トヨター7(TOYOTA-7)”は、時代の仇花ではありましたが、必ずや将来に語り続けていくと私は信じて疑いません。
また、この「TOYOTA-7」を操った若きトヨタの戦士たちの存在も永遠に私たちの脳裡に深く刻み続けることと思います。
(終わり)
END



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(C) 5/OCT/2000 Text reports by Hirofumi Makino
(C) 5/OCT/2000 Some photographs by Naofumi Ibuki
A special thanks by "BEANS"