and TOYOTA-7 Vol.1 “トヨター7”と共に生きたチーム・トヨタの若き戦士たちの栄光と影!! Shihomi Hosoya, Hiroshi Fushida, and Minoru Kawai TOYOTA-7(3000ccV8Engine) Driving by Sachio Fukuzawa Sachio Fukuzawa and Yoshio Ohtsubo at THE '68 JAPAN CAN-AM in FUJI |
プロローグ―「TOYOTA 2000GTの時代」(1966-1967)
1966年、チーム・トヨタは、「第3回日本グランプリ」に翌年販売予定のフロント・エンジン車「トヨタ2000GT」を2台エントリーさせたのでした。 しかし、このレースには、プリンス自動車が作り出した初の純国産プロトタイプスポーツカー「プリンスR380」が大挙4台出場しており、さらに滝進太郎の最新型「ポルシェ・カレラ6」、そして酒井 正の「デイトナ・コブラ」なども参加、純レーシングカーを持たないトヨタ自動車は、まともには勝負にならないと読み、無給油作戦を取り上位入賞を狙う作戦を取ったと思われます。そして、2台出場したトヨタ2000GTレーシングは、1台はリタイヤしたものの、細谷のトヨタ2000GTが見事第3位に入賞する事が出来、一応目標は達成したこととなりました。 次ぎなる目標にトヨタは、“国際スピード記録”に挑戦すること選んだのです。翌年に市販を控えた“トヨタ2000GT”をアピールする必要があったからでした。この時のトヨタ・チームのドライバーとして、後のエースドライバーとして活躍する “福沢幸雄” がいました。 福沢諭吉を曾祖父に持つ幸雄は、学生時代からレースに憧れ、あの浮谷東次郎が奇跡の逆転優勝を果たした全日本クラブマンレース船橋大会にも参加しており、生沢徹、式場壮吉らのスター・ドライバーたちからは少々遅れてレース界に入った天才肌のドライバーでありました。詳しいプロフィールは、「その昔、福沢幸雄という男がいた」をご覧ください。 ところで、当時のトヨタ・チームの主力ドライバーたちといえば、大坪善男(当時27歳)、細谷四方洋(当時29歳)、鮒子田 寛(当時21歳)、津々見友彦(当時31歳)、そして福沢幸雄(当時24歳)の若き戦士たちでありました。その中でもその後チームの主力となる鮒子田 寛は、まだなんと21歳という若さでした。 話しは戻って、トヨタ自動車は、国際スピード記録を塗り替えたトヨタ2000GTを使い、その勢いを駆って年1度の日本グランプリに全てを賭ける他メーカーとは違う方針を打ち出しイメージアップを図る作戦に出たのでした。それは、鈴鹿サーキットや富士スピードウェイを舞台に当時始まったばかりの耐久レースに積極的に参加し、耐久性のトヨタのイメージを作ることに専念する事でした。 ところで、チーム・トヨタの契約ドライバーの中で、異質な存在だったのは1936年12月19日生まれで最年長の津々見友彦でした(右写真)。津々見は、1963年に日本で最初に開かれた「第1回日本グランプリ」に“DKW”でデビューし、その後ニッサン・チームのドライバーとして、“ブルーバードSSS”を駆り、1965年に開かれた「全日本CCCレース 船橋大会」での優勝はもとより、数々の優勝経験を持ったベテラン・ドライバーでした。そして、諸事情により1966年にチーム・トヨタに移籍、前記したトヨタ2000GTによる「国際スピード記録会」のメンバーとして活躍しました。 しかし、1967年にトヨタ2000GTによる耐久レースでトヨタ・チームに貢献した後、オートスポーツ信者(!?)の方にはお分かりだと思いますが、AUTO SPORT誌、日本ファイアストン(なんとあのドン・ニコルズが当時社長だったとは・・・)、日本ペプシ・コーラ、そしてマリオ・アンドレッティが所属するアメリカのディーン・バン・ラインズ・チームのスポンサードによる“渡米レーシング・スカラシップ(アメリカのレーシング・チームの中で実地の勉強をする報奨制度)”に津々見が見事合格し、修行の旅に出かけたのは有名な話しであります。 帰国後、チーム・トヨタを離れた後、1968年からは、いすゞ・チームに参加し、あの“いすゞR−7”を日本グランプリで走らせたりと健在振りを示しました。、その後当時の強力プライベート・チームであった「チュールド・ウォッチ・レーシング・チーム」の発足メンバーに参加、“ポルシェ・カレラ6”を駆って、数々の耐久レースに参加したことも忘れることは出来ません。そして、ベルコ72Dなどで富士グランチャン・シリーズなどに参戦して、現在はそれらの豊富な経験を生かした“モーター・ジャーナリスト”として活躍しておられます。 さて、話しを戻りますが、その後のトヨタ2000GTの活躍は、目を見張るものであり、下記の記録がそれを物語っています。なお、これらの記録は、手持ちの資料によるものですので完全ではない事を予め御了承ください。
Shihomi Hosoya and his 2000GT in the JapanGP of 1966. Driving by Sachio Fukuzawa at Suzuks in 1966. |
“TOYOTA-7” 登場!!(1968)
“セヴン”というと皆様は何を思い浮べられるでしょうか。 ある方は、絶対“コーリン・チャプマン”の「ロータス・セヴン」だという方もいらっしゃるでしょう。また、「007ジェームズ・ボンド」が元祖だという方ももちろんいらっしゃることと思います、いや「ウルトラセヴン」だ! いや「セヴンスター」があるじゃないかなどと・・・、しかし、当時はなんとこの「セヴン」を使用した言葉や商品等が多かったことか・・・。やはり“ラッキー・セヴン”の“セヴン”の恩恵を得たかったのでしょうか。 それと忘れてはならないのは、1966年より始まり、後に日本でも代表的なレース・カテゴリーとなるシリーズ、そして世界中のトップ・ドライバーが参戦して当時のF―1よりも人気があったあの「CAN-AMシリーズ」のことを忘れてはなりません。このレースに出場できるマシン・カテゴリーは、FIAスポーツ法典のグループ7(1966年当時)に属する排気量無制限の純レーシングマシンと限られていました。よって、このグループ7の“セヴン”と言う言葉も流行した一因だったと思われます。 そんな1967年後半、トヨタはそれまでのフロントエンジン市販車ベースのレーシング・マシン「トヨタ2000GT」のレース活動にピリオドを打ち、本格的レーシング・マシンの開発に専念していくのでした。 そして、翌1968年、遂にトヨタの日本グランプリ制覇の夢を託した「トヨタ―7(セヴン)」が発表されたのです。 しかし、V型8気筒エンジン、排気量3000ccのエンジンを搭載する予定だったこのトヨター7ではありましたが、発表当時のマシンには、開発が間に合わなかったのか、トヨタ2000GTで実績のある直列6気筒 2000ccのエンジンが積まれていたのでした。 A first impression of TOYOTA-7 at Suzuka in February 3rd 1968. |
“サチオという男”(Sachio
Fukuzawa)
レーシング・ドライバー。男性モードのデザイナー。ファッション・モデル。・・・・・・サチオは当時のアイドルだった。 “幸雄の肩書きはたくさんあった。まず、レーシング・ドライバー。そして、ファッション・メーカー「エドワーズ」の取締役・企画部長。さらに男性モデル。・・・・・・仕事の都合で夜遅くなることも多かった。 12月2日。午後2時からTBSテレビの「ヤング・セヴン・ツー・オー(ヤング720)」のビデオを撮る予定だったが、スケジュールが変更されて、午後9時からになった。 朝9時ごろ、東京の“前線基地”で目を覚ました幸雄は、遅い朝食をすませて、九段のトヨタ自販ビルの地下にあるトヨタ・モーター・スポーツ・クラブ(TMSC)の事務所へ向かう。足は“トヨタ2000GT”だ。地をはうようなスタイル。街の中を走っていると、通行人の視線が集まる。” これは、不幸にもテスト中にこの世を去った“サチオ”の記録と記憶を書き留めた三栄書房「AUTO SPORT」編集部発行の「コースのかげろう燃えて」より抜粋引用させていただいたものです。 なんと優雅なサチオの生活なのでしょうか。これは当時の若者が憧れてしまう生き方だったのではないでしょうか。まるで、映画の一場面のようでもあります。しかし、これはサチオのほんの表面的な一面に過ぎなかったことがすぐに分かることになります。 ところで、サチオの日本グランプリ出場は、1968年「第5回日本グランプリ」が最初でありましたが、実はその2年前の「第3回日本グランプリ」に本来は出場するはずだったのでした。しかし、トヨタ2000GTの最終テスト中に炎上し、サチオは4週間の入院生活を送ることとなり、遂にサチオのグランプリ出場は見送られることになりました。 そして2年後の1968年、トヨター7の開発により、遂にサチオは念願だった日本グランプリに出場することが出来たのでした。しかし、その頃のトヨタ・チームの契約ドライバーの中では、サチオは“エース・ドライバー”の地位にはまだおらず、まさしくこの大イベントを契機に飛ぶ鳥落す勢いでサチオは、トップ・ドライバーへと登りつめていくのでした。 そして、惜しくもリタイヤに終わった「第5回日本グランプリ」後の彼の成績はまさしく輝いていました。
Left: Sachio Fukuzawa with TOYOTA-7 in the SUZUKA 1000kms race of 1968. Right: The winners was Sachio Fukuzawa and Hiroshi Fushida. Dead-heat between Sachio(#32 Toyota-7 overall 4th) and S.Pozie(#1 LolaT160 overall 2nd) at the 1st Japan CAN-AM in 1968. Dead-heat between Sachio(#2 Toyota-7) and Motoharu Kurosawa(#21 Nissan R380III) at the 5th JapanGP in 1968. そういえば、サチオと当時親しくしていた元ザ・スパイダーズのメンバーの“かまやつ・ひろし”こと“ムッシュー・かまやつ”氏が1970年に書き下ろした“サチオ”に捧げる歌がありました。
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“真のエースと呼ばれた男 鮒子田 寛(Hiroshi Fushida)” 鮒子田 寛は、何故故に大イベントに勝てなかったのだろうか?! 間違いなく、レースの実績では誰よりも上であり続けたのになぜか「日本グランプリ」では、勝利とは無縁でありました。そして、トヨタ2000GTの時代から、鮒子田はたえずトヨタの勝利に貢献し、日本グランプリの前哨戦となるレースでは、たえず圧倒的な強さで鮒子田は勝ち続けていました。 右の写真は、1969年11月23日に行なわれる第2回日本CAN-AMワールド・チャレンジカップ・富士200マイルレースに備えてテスト中の鮒子田 寛(左)と故・福沢幸雄(右)のツー・ショットであります。鮒子田とサチオは、よくコンビを組み富士や鈴鹿の耐久レースに出場し、数々の勝利を獲得した名コンビでありました。 鮒子田 寛の主な戦績
27回の上記レースのうち、鮒子田はなんと優勝11回、2位3回、3位〜9位、そして17位が各1回づつ、あとは3回のリタイヤという完走率89%、勝率4割7厘という野球で言えばイチロー真っ青な最強のバッターだったということがこの数字からも判断でき、当時の鮒子田の凄さを感じてしまいます。
McLAREN TOYOTA V8 5000cc in the 2nd JAPAN CAN-AM 1969. It was great !! Driving by Hiroshi Fushida. |
(C) 19/SEP/2000
A lot of photographs by Naofumi Ibuki
(C) 19/SEP/2000
Text report by Hirofumi Makino