THE SPECIAL REPORT OF MODEL SPEED LIFE 
「くるま村の達人」
PART 2 
「鳥海志郎の世界」
THE MODELCAR RACING'S SPIRIT OF SHIROU TORIUMI 

TOP : The Winner Of Shiro Toriumi. At An All Kanto Districts Champion Ship In 1965( Leftside).
Comeback !! Mr.Slotcar's Master "Shiro Toriumi".

 60年代を駆け巡った日本モデルカー・レーシング界の達人 “鳥海志郎”氏の凄さを今あえて語る!!
 

 帰ってきた達人!!
 
 その日は突然やってきた。
 
 「突然のメールですが、今日インターネットの検索でたまたま「モデルカーレーシング」と入力したら牧野さんのページがでてきました。
私も昔々その昔熱中していた関係で内容の凄さと正確さにビックリしました。
もう、懐かしい名前の模型メーカーやら車の名前、模型雑誌の名前が出てきてうれしくてうれしくて大変です。
 私事ですが下記の名前でわかっていただけるかと思いますが、学生時代模型とラジオや模型と工作、モデルカーレーシングに記事や連載をしておりました事もあります。もう35〜6年前ですから‥・。」
鳥海志郎

 この感激のメールを頂いてまだ2週間もたっていないのに、話しがとんとん拍子に進み、今や伝説化していたモデルカー・レーシングの達人 “鳥海志郎”氏になんとお会い出来る事が出来る!!それもスロット・サーキットで・・・。
私の頭の中は、「1965年度第1回オール関東モデルカーレーシング選手権 1/32クラス優勝者」、「1966年全日本チーム対抗選手権 個人別ストックカークラス優勝者」・・・など数え切れない戦績の持ち主である鳥海志郎氏にお会い出来るという感激に真っ白な状態となっておりました。
 時、2002年1月27日、午後17時。
 さっそうとラフなセーター姿で現われた鳥海氏。いきなり人懐っこい笑顔で私に語りかけてくる。
私の第1印象は、とにかくガッチリとした体格で、まるでレーシング・ドライバーのような人だと・・・。

 鳥海志郎。1948年2月栃木県栃木市に生れる。そして、小学校5年の時に東京目黒区に移り住み現在に至る。
そんな鳥海氏の幼年期についてご本人にうかがってみた。
 
(編集長 以下MSL): 鳥海さんは何歳頃から鉄道模型を趣味とされていたのでしょうか。
(鳥海 以下T): 鉄道模型は、小学校5年生の頃だと記憶していますので11歳だと思います。Oゲージもありましたが、当初からHOゲージで始めました。
(MSL): 鉄道模型を始められる前には何に興味がおありだったのでしょうか。
(T): 小さい頃といっても小学校2年の頃ですが、プラモデルどころかセメダインもなく、楓の木を主体とした木製の模型で釘で組み立てたもので、戦車や船(軍艦)、飛行機を良く作っていました。その後セメダイン(今でも売っている懐かしい黄色いセメダイン)で接着し、トノコで溝などを埋めてサフェーサーで処理し、ラッカーを塗るという技術を学びました。家から10分位のところに塗装屋さんがあって、当時ですから直径80cm長さ1.5m位のコンプレッサーでガンを使用して模型を塗っていました。
塗装屋さんが可愛がってくれたとは言え、なんと小学生の3〜4年生の頃ですから今でもたいしたものだと思います。そして、よく1.5m位の戦艦武蔵なんか作りました。
ラジコン飛行機もやりたかったのですが、当時でも機体が2万円ほど、コントローラーも2万円くらいしていたかと思います。大卒の初任給が2万円位でしたから小学生の趣味というか、道楽ではとても買えませんでした。でも、母が理解があり、模型は沢山作ることが出来ました。特に、後半は戦車が好きで好きで、なんと言いましょうか、あのキャタピラーの動きが無性に好きでした。

 小学生時代から鉄道模型に憧れて、中学生時代には、東京港区の魚藍坂下にあった「カツミ模型」に出入りする常連となる。その頃のエピソードとして、ある日授業中に勉強そっちのけに鉄道模型雑誌を読みふけっていた鳥海少年に、いきなり隣りに座っていた同級生の女の子が「鳥海君、鉄道模型好きなの!?」と問いかけてきたのだった。鳥海少年はなんだこの女はと思っていたのだがよく事情を聞いてみると、なんとその女の子は、当時の鉄道模型関係出版社の社長の娘だったことが判明、それをきっかけにその日の内にその子の家に押しかけ、親父さんと親しくなってしまう。その後その出版社に入り浸りとなる日々が続いたことは言うまでもない。そこに当時の水道橋にあった鉄道模型社や神田須田町のカワイ模型などの老舗鉄道模型会社が集合し、鳥海少年の交友はさらに深まることとなった。
そんな1961〜64年当時を鉄道模型(HOゲージ)に熱中し続け中学生時代を過ごしていた鳥海氏に突然の転機が訪れた。
 それは、アメリカからやって来た“モデルカー・レーシング”という新しい遊びとの出会いだった。
当時銀座の天賞堂の2階にあり鉄道模型マニアの憧れの的だったのが、鉄道模型用のレイアウトだった。鳥海少年は当時の鉄道模型マニアの大人達に混じってここに通っていたのだ。そして、鳥海少年は、一早くモデルカー・レーシング(スロット・レーシング)キットを他の少年たちよりも先に触れる機会を得て、すぐさまそれに魅了されたのもいわば当然の成り行きだった。
とにかく初めて見る“モノグラム”や“レベル”のレーシングカーたちに鳥海少年の心は動かされてしまう。
そのボックス・アートの素晴らしさ!!そして、金属製のシャーシー。さらに、今まで見たこともなかった精巧なレーシングカーのボディ。
どれをとっても初めて見る感動の経験だった。まさにカルチャー・ショックである。しかし、一番心を動かされたのは、これらのレーシングカーたちがそれ専用のレーシング・サーキットで、思う存分スピードを争うことが出来るということだった。
特に鳥海少年のお気に入りだったキットは、モノグラム製1/32スケール「ポルシェ904」レベル製1/24スケール「ロータス23」である。
さらに驚いたことにそれらには日本製のマブチモーターがついていることを知り、鳥海少年は、日本におけるモデルカー・レーシング発展の可能性を同時に感じてもいた。
1965年になるとモノグラム、レベルの他に“COX”社、“K&B”社、“ストロンベッカー”社なども日本に輸入され始め、にわかにブームの兆しが見え始める。(コグレなど1部の国産メーカーもモーター・レスながらもこのブームをいち早く察知して発売を開始)
しかし、1ドルが360円の時代、モノグラムやCOXの輸入キットは当時の少年たちはおろか、大人達でさえ高嶺の花であり、まだまだ一般的ではなかった。
そんな中、当時、鉄道模型、Uコン、鉱石ラジオ、そしてラジコンなどを主に製作記事を掲載していた「模型と工作」や「模型とラジオ」などの各専門誌が一斉にこの「モデルカー・レーシング」を題材とした特集を組んで報道しだしたのだった。
 しかし、まだまだ国産キットは少なく、大体が外国製のキット紹介か自作シャーシー、ボディの製作記事が多く、少年たちの心を掴むまでには至っていなかったのが現状だ。
 今当時の製作記事を見ても非常に技術的に高度であり、(バルサ材を使ったボディの作り方やデファレンシャル・ギヤの作り方などは特に難しい)試行錯誤だった当時の状態を反映した製作記事に思われる。
 1965年も後半になってくると京都に日本初のサーキットが誕生したのをきっかけにして、毎週のように各地にモデルカー・レーシング専用サーキットが生れ、さらに国産メーカーからも外国製の模倣とはいえ、ぞくぞくとキットが発売されるようになり、800円前後の価格帯ということもあってか、少年たちや大人たちの心を掴み、歴史に残る空前のモデルカー・レーシング・ブームとなっていった。
モデルカー・レーシング連盟や同協会が発足したのもそんな頃だった。
そして、鳥海少年も例にもれず熱狂的な「モデルカー・レーシング」ブームに染まり、それまで熱中していた鉄道模型用のカツミモーターをモデルカー・レーシングに使えることを思い立つ。それが、カツミモーターとモデルカー・レーシングとの最初の接点となったことは余り知られていない。
すなわち鳥海志郎少年がカツミモーターを使ってレースに出場した最初の人となったのである。

 ここで再び鳥海氏に当時のモデルカーレーシングについてお聞きする事にする。
 
(MSL): さて、いよいよモデルカーレーシングに熱中されるわけですが、鳥海さんが最初に作られてたスロットカーキットは何だったのでしょうか。
(T): 最初はレベルの1/24スケール「ロータス23」だったと記憶しています。2台目がモノグラムの1/32スケール「ポルシェ904」で、その次が1/24スケールの「ポルシェ904」でした。この1/24スケール ポルシェ904が私がカツミモーターを最初に乗せた車でした。
そして、セガ系サーキットでは連戦連勝でした(笑)。まだ、マブチモーターの巻き直し技術が台頭していない時期ですからモーターの差は歴然でした。余談ですが、ゴーセン系サーキットは、電圧・電流が共に弱く、カツミモーターには不利でした。
(MSL): 最初のレース参加はいつ頃だったのですか。
(T): 武蔵小杉サーキットかテアトル赤坂サーキットだったと記憶しています。誰でもそうですが、スタートまでの雰囲気や緊張がたまらなく好きでした。
(MSL): レーサーの生沢 徹さんに実際に指導されたことがあると言うことですが、それはどこのサーキットでしたか。
(T): ミッキー・カーチスさんがやっていた品川プリンスのサーキット(ミッキーズ・ミニ・スピードウェイ)とか原宿駅前にあった原宿サーキットと記憶しています。生沢さんはこの2箇所のサーキットに良く出入りされていました。日大の芸術学部の仲間ともよく来られていたと記憶しています。私は高校生でしたから生沢さんは年上のちょっと先輩でした。
(MSL): 鳥海さんが所属されたサーキットクラブの遍歴を教えてください。
(T): <武蔵小杉サーキット>→<赤坂テアトルサーキット>→<原宿サーキット>→<麻布サーキット>→<白金サーキット>だったと思います。途中が若干前後しているかもしれません。

さてここで鳥海氏の主なモデルカーレーシングレースの戦績をまとめてみた。
 

The Result of Shiro Toriumi
1965-66


1965.8.22 第1回オール関東サーキット対抗グランプリレース 東京 科学技術館
主催 モデルカーレーシング連盟
1/24GTクラス 総合2位(小杉サーキット所属)
(1/24F1クラスと1/24GTクラスの2種目を全国のサーキットチームが対抗戦形式で争う全日本選手権。
鳥海志郎は小杉サーキットに所属し、1/24GTクラス総合2位を得る。1/24GTクラス総合優勝原宿サーキットチーム、総合3位は、錦糸町サーキットチームだった。)
1/24GTクラス個人出場マシン ポルシェ904(モノグラム)+モーターカツミ6V

TOP : The 1st All Kanto Districts Champion Ship at Tokyo Kagaku-gijyutukan in 1965.

TOP : The Team Kosugi CK was 2nd place with Shirou Toriumi.

 
1965.11.28 第1回オール関東モデルカーレーシング選手権大会 東京 中野サーキット 
主催 全日本モデルカーレーシング協会 全関東サーキット場協会
1/32オープンクラス 総合優勝 出場マシン 1/32AMTインディアナポリス500+1/24F1COXシャーシー改+FT-16D巻き直し
TOP : The All Kanto Districts Champion Ship at Tokyo Nakano CK in 1965 and The Winner's Shirou.

 
1966.3.26-27 第2回オール関東モデルカーレーシング選手権大会 (東京タワーサーキット)
主催 全日本モデルカーレーシング協会 後援 日本モデルカーレーシング連盟
1/32オープンクラス 第3位 出場マシン 1/32インディ500(ライト工業クリヤーボディ)+緑商会シャーシー+FT-16巻き直し 
(参加者1/32 99名、1/24GT 116名、1/24F 74名、ストックカー 36名 計325名 決勝レースヘアピンカーブで他車に跳ね出され、順位決定戦で3位に入る。しかし、実力は一番だった。)

TOP : The All Kanto Districts Champion Ship at Tokyo Tower CK in 1966.
TOP : Shirou was 3rd in his 1/32 class machine's INDY 500 with MIDORI Flame for the 2nd All Kanto Districts Champion Ship at Tokyo Tower CK in 1966.


TOP :  DAYTONA STOCK CAR CLUB

1966.5.9 デイトナ・ストックカー・クラブ 第7回レース 赤坂テアトルサーキット
コンチネンタルクラス(1/24GT) 第3位 ストックカークラス 優勝 GT/ストックカー合計総合優勝
(53メートルコースと48メートルコースを相互に使用し、その合計で順位を決定)

TOP : The 7th DAYTONA STOCK CAR CLUB RACE.
Shirou gots a win in  the 7th Stock car class race.

 
1966.5.30 デイトナ・ストックカー・クラブ 第8回レース 白金サーキット
ストックカークラス 優勝 GT/ストックカー合計総合2位

TOP : Shirou gots a win in the 8th stock car class race again.

 
1966.6.13 第9回レースにて、上半期デイトナ・ストックカー・クラブレース終了。シリーズ上半期ストックカークラス総合チャンピオンを獲得する。

TOP : Shirou Toriumi had the Stock Car Class  Series Champion.( Rightside)

 
1966.7.10 日本グランプリ優勝記念 日本モデルカーレーシング連盟公認
第1回プリンスR-380レーシング大会 赤坂サーキット
シニアクラス(グループII) 総合優勝 (参加者120名)

TOP : The 1st PRINCE R-380 Racing Race at AKASAKA CK in 1966.

TOP : The Winner's Shiro Toriumi.( Leftside)
Why, Shirou is strong enough ?

 
1966.8.14 第2回全日本チーム対抗レース大会 東京 科学技術館サイエンスサーキット
種目別 ストックカークラス 個人優勝 
出場マシン ビュイック・ワイルドキャット(長谷川製作所)/タミヤモデファイドシャーシー/FT-36D巻き直し
チーム対抗 総合3位 赤坂サーキットデイトナチーム所属
(東京、大阪、名古屋から38チーム152名参加。チーム優勝 シブヤサーキットチーム218点
総合2位 グランプリオーサカAチーム211点 総合3位 赤坂サーキットデイトナチーム206点)
TOP : The 2nd All Japan Model Car Racing Team Title Champion Ship Race at Tokyo Kagaku-gijyutukan in 1966.

TOP : Team Akasaka Dytona gots a 3rd place.

TOP : The Stock Car Class Winner's Shiro Toriumi in the 2nd All Japan Model Car Racing Team Title Race.

 このリザルトは、公式戦の主な戦績であるのだが、鳥海氏の記憶では実に2年間で“88勝”を達成しているという。
さらに、鳥海氏の“ミラクル・アーム”はメーカーさえも注目していた。
もっとも多かったのは、田宮模型から依頼を受けていた試作品テストだろう。
あのダイキャスト・スプリングサスペンション・サイドワインダーシャーシーももちろん鳥海氏のテストを受けて開発されたものだった。
 
(MSL): では、タミヤの試作シャーシーテストのエピソードを教えていただけますか。
(T): 模型メーカーとしては量産して販売するわけですから、作りやすさも大きなポイントですし、まあ悪く言えば、そこそこ走れば良いという考えもあると思います。ただ、テスターの私は当然満足しませんから注文をつけることとなります。
例えば、スイングシャーシーのスプリングにタミヤは当時コイルスプリングを使っていました。本物ならともかくあのようなスピードで走るモデルカーではスプリングの振動や共振が命取りになりかねません。こういった点や重量配分などをアドバイスさせていただいたと記憶しています。

 さて、鳥海氏が作られたスロットカーは何故に速かったのだろうか。もちろん、その超越したテクニックによるものだとも言えるのだが、氏の製作技術についてもうかがってみた。
 

(MSL): まず鳥海さんが当時気に入っていたスロットカーメーカーはあったのでしょうか。
(T): ハードボディでは断然“タミヤ”で、当時からその精巧な作りにビックリしていました。金型の技術が昔から最高だったと思います。
クリヤーボディでは、品数と精度、耐久性(衝突時の)でなんと言っても“クライマックス”でした。エンビからポリへの変革の時で技術的にも大変だったと思いますが、内田社長が情熱を持ってやっておられたと思います。
(MSL): ところで、何故に鳥海さんの作られるシャーシーは速かったのでしょうか。作られる時のポリシーなどを教えてください。
(T): 私のポリシーは美しさ、バランス、精巧さに尽きると思います。ただバランスはボディの軽量化や空気抵抗などとの関係、モーターのトルクとか高回転型かとか、コースレイアウトによるギヤ比、タイヤの径や使い込み度などによって大きく異なりますので勝てるシャーシーは難しいです。
ちなみに、当時ライバルだった小西さんのシャーシーは本当に汚かったし、ちょっと曲がっていても平気でした。ただ、天性の感というか、ウェイトをチョコチョコ付けて走らせて調整すると凄く速くなってしまうという方でしたので何とも言えません。
“エピローグからプロローグへ” 
 1965年〜1966年と数多くの戦績を残した鳥海志郎は、突如モデルカーレーシング界から姿を消してしまう。そして、それ以後のモデルカーレーシングビッグレースに鳥海志郎の名を2度と見ることはなかった。
 それでは、この辺の事情も含めて鳥海氏にお話しをうかがってみた。
 
(MSL): 今でも印象に残るレースを教えてください。
(T): 難しい質問です。結構小さなレースでも真剣でしたし、1戦1戦大切でした。先程も述べましたように緊張感がたまらなく好きでしたから、大きなレースでなくとも楽しかったと記憶しています。
もちろん当時はブームでしたから、多くの人とサーキットで交流したり、賑やかな雰囲気であったことが良かったのだと思います。
レースとしては全日本(第2回全日本チーム対抗 科学技術館)やオール関東(第1回オール関東モデルカーレーシング選手権)、そしてストックカーレースが面白かったと思います。
(MSL): 実車ラリーに興味を持たれたきっかけは何だったのでしょうか。
(T): 中学時代は鉄道模型と電気(電気部で中学/高校と部長もしました)、特にアマチュア無線にも凝っていました。ちなみに現在と言うかずう〜とオンエアしていませんが、コールサインはJA1NOQです。
 その後モデルカーレーシングを始めたわけで、まず車が好きだったのだと思います。
電気も好きでしたので、進学は武蔵工業大学電子通信工学部に行きました。免許を取って同級生のクルマ好きと話していたら大学のラリー(いわゆる学生ラリー)があるので出てみないか、ということになり一緒に組んだのが横山文一でした。彼は同じ学部学科で家も近かったのですが、初戦はメタメタでしたが結構面白いものだと感じました。(下の画像は、学生チームとして優勝してしまった記念すべきレース「第5回モーターファン&オートスポーツラリー(1969.8.2-3)」での喜びの鳥海志郎氏<右>)
2度3度と学生ラリーに出ているうちに、目黒通りの鷹番にある「稲葉自動車工業」の当時の若社長稲葉一義氏と知り合いました。車のチューニングやら実戦のラリーをナビゲーターを通じて学んで行く中で、のめり込んでしまったという訳です。
横山はその後、富士重工のスバルファクトリー、稲葉氏は三菱のファクトリーでしたからナビゲーターの私もメチャメチャ楽しく情熱的にやっていました。
サーキット・レースも興味がありましたが、お金が桁違いだと思っていましたし、ダートを走る醍醐味や景色が移り変わる様はレースにはない魅力を持っていると感じました。

TOP: The 5th Motor Fan & Auto Sport Rally's Winners Car SUNNY ( Leftside) in 1969.
The Winner's Fumikazu Yokoyama and Shiro Toriumi (Rightside).
(MSL): モデルカーレーシングから実車ラリーへの華麗なる変身について、お話しをうかがってやっと理解できました。
今日は本当にお忙しい中ありがとうございました。
(T): こちらこそありがとうございました。
 あの熱狂的な'60sモデルカーレーシングブームの最中、まさに主役として活躍された鳥海志郎氏はその短い2年間の間にあらゆるタイトルを掴み、そして、去って行きました。
私は、すでに伝説となっていた鳥海志郎氏にお会いして感じたことは、年をとられてもやはり心は少年だったということです。特に、モデルカーレーシングのことを話される鳥海氏は、とてもにこやかに、まるで昨日のことのように当時のレースでのシャーシーセッティングについて説明される様子は、まさに“くるま村の達人”と言って良いのではないでしょうか。
インタビューを終わらせて頂いた後、鳥海氏は秋葉原の電気街に「ちょっと覗いていくので・・・」と消えていかれました。
まだまだ電気好きの少年心をお持ちなんだと、しかと感じさせて頂きました。
私は、つい鳥海氏に、今流の理論に基づいてスロットカーを作って頂けたらと思ってしまいました。
そして最後に、いつまでもお元気で、今後はじっくりとモデルカーレーシングを楽しんでいただけることを切に思わずにはいられませんでした。
最後に、鳥海氏が当時のことを短く語られていますので、ご紹介させて頂き終わりたいと思います。
 
 今となっては本当に二年間ぐらいだったのかという気持ちです。
毎日、夜中の3時〜4時頃まで夢中で作ったりしていましたが、なんと充実していた毎日だったのかと思います。近々、またサーキットなどでお会いしたいものです。
鳥海志郎
主宰者

PART 2 へ続く


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(C) 09/APRIL/2002 Text Reports by Hirofumi Makino.
Special  Thanks Dr.K.