皆さんからのメールを紹介
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 皆さんにとっての鮒子田 寛についての思い出やエピソードなど、なんでもかまいませんのでお便り頂ければ幸いです。お待ちしております。
主宰者
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TOP : Hiroshi Fushida and his Mac's it special in 1970.
(C) Photograph by Joe Honda.
 22/APRIL/2002  王子にお住まいのMOROTOMIさんより頂いたメール紹介
「鮒子田選手の特集について」
 
牧野様

 先日「船橋サーキットのイベントについて」お尋ねしたMOROTOMIと申します。
先般は、ご丁寧なご返事を頂戴しまして本当に有難うございます。

 実はもう10年ほど前になりますか、私は縁あってTという会社に勤務、なんとそこにあの鮒子田さんがいらっしゃったのです。
当時、ご本人は、イギリスのノフォークへ殆ど行ったきりになられており、年に数えるほどしか東京には居られなかったので、私如きを憶えていらっしゃるとは思えませんが、「ゴーカートに狂っていた風変わりな奴」といえばあるいは憶えていらっしゃるかもしれません。

 私も牧野様の4歳年下ということで子供心に鮒子田さんや生沢さんは憧れの的でした。
そんなご本人達を目の当たりにすることがTという会社では頻繁にあったものでした。
それゆえ私自身ご本人達を目の前にすると、どうにもまともな会話にならず、きっと挙動不審な輩と映っていたに違いありません。

しかし、私のような平凡な人間にとって彼の地で全く新しいコンストラクターとしてスタートをすべくまさに孤軍奮闘なさっていた鮒子田さんのお姿はとても真似のできないものでした。風変わりな気難しい方と評する輩もおりましたが、私の知る「鮒子田選手」は、お会いする度に励ましのお言葉を掛けて下さる想像通り大変優しく情熱に満ちた素晴らしい紳士でした。

ベントレー、AUDIの活躍を耳にする度に「鮒子田さんのご尽力が一つ一つ形になってこられたなあ」と喜んでおりました。そしてまたこの牧野様のHPで鮒子田さんの近況や熱烈なファンの皆さんに接することができ大変感激しました。
まずは何より主宰者の牧野様に感謝の意をお伝えしたく再度メールをお送りしました。

 レーサーと称する果敢で偉大な冒険者を正しく評価する社会にまだ日本は発展途上であるとつくづく感じております。
ある高名な登山家が「自分の生命を山にそして神に託す人間こそが真に自由な人間である」と何かのインタビューに答えていましたのを思い出すたびに「ああ、自動車メーカーもJAFもマスコミも偉大な先輩の命がけの偉業を忘れてしまっている。なんと情けないことだろう」と感じるのはきっと私だけではないでしょう。

 日本のレース界の夜明けをまさに命がけで切り開いた偉大な先輩たちの存在を後世に(もちろん現在も)正しく伝えるためなら私(にできるなら)も出来るだけのご協力をしたいと思っています。
では、また。

 WEB MASTER : 
 MOROTOMI様、またまたメールを頂きありがとうございました。
そして、なんと奇遇なのでしょうか。
鮒子田さんがいらっしゃった会社にお勤めされていたということをお聞きして大変ビックリしているところです。
 鮒子田さんは、この「鮒子田 寛レーシングヒストリー」を作るにあたって本当に親身になって協力頂いておりまして、わたし如きが作りますアマチュアHPを本当に自分のことのように心配して頂いて、感謝感激しているところでした。
鮒子田さんとは定期的にお連絡させて頂いておりましたので、MOROTOMIさんのことは、お伝えしたところ、次ぎのようなコメントを鮒子田さんから頂きましたので、御紹介しようと思います。
 
 「諸富君は、トムスGBではなく、トムスの世田谷の本社の一部でカートショップを開いていました。 もちろん、覚えています。少し、ポチャッとした感じの好青年でしたよ。特に、仕事上のつながりはありませんでしたが、同じ建物の中でしたから、顔を合わせたり、話をしたりしたことはあります。」
鮒子田 寛
 
ということで、しっかりと鮒子田さんも覚えてらっしゃいました。
 とにかくベントレーレーシングカーの責任者として、今とにかくル・マンに燃えられている事が、文章を見ても感じることが出来て嬉しい限りです。
それから、またお時間がありましたら当時の鮒子田さんのことで、感じられた事やエピソードなどがありましたら是非お聞かせ頂ければ幸いです。
ありがとうございました。
 26/NOV/2001神戸市にお住まいの外川さんより頂いたメール紹介 「楽しい話です」
 ( PART 1)
 しかし、本当にやはりファンは生きてますね。私もオ−トスポ−ツを創刊から持っていますが、今のファンもいいですが、車もミニカ−で手元に置けるし幸せですね。(私も150台くらい持っていますが)生沢さんや風戸さんのGRD何ぞ、バルサ材で作った記憶もあります。しかしやはりあなたがおっしゃる写真は凄いですが、川合 稔のトヨタ7の後を走る、シファ−トはやはり今でも凄いと思います。時間の無いなか、予選などトヨタ、ニッサンの遥か下のバンクを通りながら、決勝では川合の7に、ピッタリ張り付いてバンク最上段を駆け抜けた、あのポルシェ917は今でも記憶に残っています。オイルで前も見えず(7もR382もオイルキャッチタンクが余りしっかりしてなかったのかも?)今でもポルシェに、日本で勝つのは難しいとレポ−トが残っているくらい、荒れたレ−スでしょう。ディビット パイパ-(生沢さんがロンドンから、グラチャンに持ち帰った917Kもこの時のポルシェですね)、ハンス ヘルマンが(908スパイダ−ですけど)頑張っても駄目だった、フジをものにしたのはシファ−トだけでしょう。
トヨタなんぞ、ビック エルフォ−ドの この車はいい、と言う一言で、シャシ−剛性の弱さを、過信してしまう始末、川合さんも苦労したことでしょう。しかし私はただ単なるファンであって、当事者ではないから偉そうなことは言えませんが、時効でと言うことで、色々とお話したいですね。
 勝手申しまして誠にすみません。ではまた!
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 ( PART 2)
 しかし思えば楽しい時代でした。車は毎年変化に富んだ車が出るし、ドライバ−も個性派揃い、個人的には、やはり生沢さん、クリス エモンさん、ですかね-!(この間も、生沢さんのジョ−ホンダさんの写真を3枚ミスタ−クラフトから購入しました。高額で、しかも嫁にばれて!) しかし、インタ-ネットっていいですね-、こう言う話が出来る。うれし−です。今後とも宜しくお願いします。(でもコンピュ-タ−の扱い下手ですから我慢して下さい) 
 鮒子田 寛さんは前半が大好きでしたね-、トヨタの大エ−スでしたものね−、川合さんがメキメキ頭角を現した時も、エ−スは鮒子田だ、も-んと思っとりました。
後半は、変な(失礼!)マシ−ンが多く大変だったと思います。しかし鮒子田さんと言えば、米山 二郎さんも思い出しますが、どうなさってるんでしょう。
しかし今は凄いですね−!佐藤さんはイギリスF3、福田さんはフランスF3、金石さんはドイツF3、それぞれチャンピオンになりましたね-、楽しみです。でもこれも先人あればこそですね。レクイエム的になるかもしれませんが、色々話ししていきたいですね。
 WEB MASTER : 
 ( PART 1)のお返事
 外川様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
外川さんのようなリアルタイマーの方にこのような暖かいメールを頂くことは、私のように好き勝手にHPを作らせていただくものとしては本当に主宰者冥利に尽きるというものであります。ありがとうございました。
当時の日本グランプリは私にとって忘れがたいものでした。
そして、レーシングカーそのものが珍しく、友人とスロットカーを楽しみながら実際のレースとリンクして楽しく過ごしていたのが懐かしいです。
昨年、当時のチーム・トヨタのドライバーであり、後のグランチャンのチャンピオンにもなられた鮒子田寛さんと御縁があり、それを契機に御本人にもご協力頂いて、今年の8月に「鮒子田寛レーシング・ヒストリー」HPを作らせて頂く事が出来ました。
そして、外川さんがおっしゃっていた通りの事も事実として教えて頂いたり、本当に楽しく作らせて頂いております。(まだこのHPは進行形ですが・・・)
これからも、是非立ち寄って頂き良きアドバイスなど頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。
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 ( PART 2)のお返事
 最近、私のHP宛てにプロショップの方から沢山メールを頂いております。
 外川さんのおっしゃるとおり、鮒子田さんはトヨタを辞められるまでエースだったと私も思っていました。
ところで、鮒子田さんの72年にチャンピオンになられたシェブロンB21Pをレストアされていて、将来手持ちのグラチャンマシンとともにヒストリック・グラチャンをサーキットで開きたいとか、酒井 正さんのマクラーレンM12が今ニュージーランドのマクラーレン・トラスト財団(ブルース・マクラーレンの奥さんがされている会社)でレストアされてミノルタ・マクラーレンの形のまま同国のヒストリックカーレースで活躍されているとか。
また、その財団では、デニス・フルムの20回忌にCAN-AMで活躍していたマクラーレンM8Dをレストアして、酒井さんの御子息と当時モデファイを担当したU氏と共を呼んでM12といっしょに走らせようとかしているみたいです。
さらに、故・風戸 裕さんのポルシェ908IIが日本からアメリカに売られてモントレーヒストリックカーレースに出たとか、いろいろな情報を頂いております。
また、先日、富士のあの30度バンク部分においてターボチャージド・トヨタ7やトヨタ2000GT、そして、当時のドライバーだった細谷四方洋氏、大坪善男氏らを招いたイベントも開かれ、実際に30度バンクを走られたとのことでした。
ということで、これからもどうぞ宜しくお願いします。
ありがとうございました。
 26/NOV/2001 Tさんから頂いたメール紹介 「日本のレーシングカーについて」
 
はじめまして。VのTともうします。
フシダさんのインタビュウ読ませていただきました。
現在シェブロン21Pは私どもで復元しています。
完成の時には是非フシダさんに乗って頂こうとおもっています。
当時の車(GC)は手元に米山さんのB21高原さんのマーチ74SとMCS−1、知り合いの所にシグマMC73、川口さんの74SとB23。
近い将来富士スピードウェイでヒストリックグラチャンをやりたいと思っています。
その時は是非協力をお願いします。
 WEB MASTER : 
 T様、私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。
鮒子田さんが当時乗られていたシェブロンB21Pをレストアされていることは鮒子田さんからうかがっておりました。
素晴らしい事をされていると思いましたし、企画されているヒストリック・グラチャンも私たちにとっては夢のような企画だと思いました。
メールの内容を見ましたら、シグマMC73がありましたが、GCに出ていたGC73ではなく、鮒子田さんと生沢さんが日本人として初めてル・マンに出たMC73があるのでしょうか。このマシンがあること自体素晴らしい事ではないかと思っています。
私は、特に1971年から73年までのGCが一番心に残っております。
酒井正さんが乗られていたマクラーレンM12(GC初代チャンピオン)は今ニュージーランドのマクラーレン・トラスト財団が所有して、地元のヒストリックカーレースにその当時のスタイル(M8Dタイプのリア・ウイング付き)で活躍しています。そして、風戸裕さんの乗っていたポルシェ908IIも現在アメリカでレストアされてヒストリックカーレースに出ています。(ノスタルジック・ヒーロー誌にも出てます)
酒井レーシングにあったもう1台のM12(内容は、1968年のCAN-AM最終戦でクラッシュしたローサー・モッチェンバッハのM6B)は、これまた日本でレストア中だということです。
将来、Tさんの企画されている事が実現されるようご協力するつもりですので頑張ってください。
では、どうもありがとうございました。
 01/NOV/2001  Wさんより頂いたメール紹介 「はじめまして」
 鮒子田さんHPみました。
私はF1のファンなんで、もう少しマキF1のことを載せてもらいたかったです。
 あと日本人は中嶋を初のF1ドライバーといっていますが、鮒子田が日本人初のF1ドライバーであることを強調して頂きたいです。中嶋はあくまでも、日本人初のフルタイムF1ドライバー!高原は初めてF1ノンタイトルを走ったドライバー! もし、日本がイタリアだったら、鮒子田の認識はもっと変わったはず。
以前、深夜番組(F1が題材、M.S氏が出ていてなんも喋らなかった)に鮒子田本人が出ていたが、この人日本人初のF1レーサーなのに、なんて扱いと思ったのが思い出です!
 言いたいこと書いてすみません。とりあえずまだ30代なんでそのぐらいしか、思い出がありませんが、すばらしいHPだと思います。
 WEB MASTER : 
 W様、この度はまだまだ未熟な私のHPを見て頂いただけでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。
そして、まだまだ進行形のこのHPについてありがたい御意見も頂き感謝しております。
鮒子田さんのマキF1での挑戦についてはWさんがおっしゃる通り、日本人初のチャンピオンシップが懸かったレース参加ということで、記念すべきことだと常々思っております。
鮒子田さんのレーシング・ヒストリーはとても長く、そして、奥深いものがあるわけで、まだまだこのHPを完成させるには時間が必要です。
マキF1編についても将来的に必ず書かせて頂くつもりです。この点はどうか御理解お願いいたします。
鮒子田さん御自身と、たえずお連絡しながら進めてまいりますので、これからもこのHPよろしくお願いいたします。
それから、有名なル・マン24時間レースについても鮒子田さんは、日本人初の挑戦ですし、有名なCAN-AMシリーズやフォーミュラA(F−A)、そして、Trans-Amシリーズ(鈴木誠一さんは、デイトナだけの挑戦で、シリーズ戦参加ではない)などすべて日本人初の挑戦でありました。
そして、引退後は、チーム・トムスの監督として活躍し、その後は、今年のル・マンで総合3位に入賞したベントレーEXPスピード8の製作責任者として活躍されているわけで、Wさんのおっしゃる通り、もっともっと鮒子田さんが築いた日本モータースポーツにおける貢献度を皆さんに再認識してもらいたい限りです。
では、どうもありがとうございました。
 それから、Wさんのメールを見て、鮒子田さん御自身も感激して頂き、コメントを頂いておりますので、御紹介したいと思います。
 
「かなり気合の入ったファンのようです。
以前にも書きましたが、やりたいことを、精一杯やった結果が、成り行きでそうなったので、意図して、初めてのF1ドライバーを目指したのではありません。でも、嬉しい限りですね。
何十年後の今、少数の人であっても、何らかの思いを感じてもらえるのは幸いです。」 鮒子田 寛
 13/SEPT/2001  柳江さんから頂いたメール紹介
 前略 柳江です。
 ホームページ開設おめでとう御座います。
 鮒子田氏の最近の御活躍ぶりは今年のル・マンでの輝かしい戦績などから、最近のモータースポーツ系誌面でもかなり有名になられていて喜ばしい限りです。
 ベントレーは、トヨタマニアの中にはTS020に似過ぎている、などという人もいてトムスGBからの経緯をよく知らない人たちも既に多く、ちょっと残念な面もあります。現在の御立場は早くから世界に目を向けられていた氏ならではのもの、という感じがします。
 鈴鹿12時間のレース解説、興味深く拝見しました。確かに当時細谷さんがリーダーでしたネ。ただ細谷さんにしても、発売を控えていた「1600GT」のことを考えると、絶対成績を優勝で飾らなければならないという責務のために、万全を尽くそうとされたのでは?1位及び飛ばしすぎてのリタイヤと、1-2フィニッシュとでは格が違いすぎます。
 私の鮒子田氏のイメージは、ビッグレースでは何か起こって勝てない(はっきり言い過ぎでスミマセン)というイメージはあまりないです。2000GT市販タイプ初のレース’67鈴鹿500Km優勝、3リッタートヨタ7時代には’68富士1.000Km(蟹江さん)、’68鈴鹿1.000Km(福澤さん)’69鈴鹿300Km、全日本クラブマン各優勝、と3リッター晩年の円熟期も大活躍!5リッターでも’69富士1.000Km(大坪さん)、NETで1位です。確かにGPと日本カンナムでの成績は残念でしたが、プラモにもなっている’67鈴鹿500Km優勝の2000GTと5リッターデビュー/優勝の富士1.000Kmは強い印象があります。
 それではまたゆっくり拝見させて頂きます。草々
 WEB MASTER :  柳江様、お返事ありがとうございました。
まだまだ未熟なHPでありますが、今後共御指導よろしくお願いします。
 柳江さんがおっしゃる通り、鮒子田さんは当時の日本におけるビッグレースではほとんど優勝されていますね!
ただ、なぜか日本グランプリなどの日本を代表するビッグレースでは御本人も遠慮がちに「運も才能の1つ」などとおっしゃっておりましたが、どうしても勝てませんでした。
ところで、鮒子田さんは、とてもフレンドリーな方でした。その点、生沢さんとは対照的な存在だと思いました。(生沢さんがフレンドリーじゃないということではないですが・・・、生沢さんはやはりカリスマだと思います)
では、本当にありがとうございました。
 28/AUG/2001  S.Yさんから頂いたメール紹介「鮒子田 寛氏のHP拝見しました」
 牧野さんの、労作!! 「鮒子田氏のHP」 拝見しました。
よくぞ、ここまで、まとめられたと、思います。
すごい、すごい!! パチパチパチ!!
ところで、チョッと、気になった部分「アメリカン・レースへの憧れ」の中、第1戦リバーサイドでの鮒子田 寛と彼のイーグル・プリムスのヘルメットの件ですが、AUTO SPORT誌 鮒子田 寛 独占手記の文面に「ベルのスタンドでわけを話したら、ベルスターの新品を提供してくれた。」とありますが、写真では、フル・フェイスでは無いので「ベル・スター」ではないですね。ジェット型なので、ベル社製だとすると、マグナムかな?当時のヘルメットは、いまでも 両方所持しております。
もう、昔の事なので、わからないですね!
すいません、余計な事を書いて、悩ませちゃいそうです。
 ところで、私は、昨日 毎年 恒例の富士スピード・ウェイでの、305に今年も自分の年齢も、考えずに、出場しました。また、また 最年長!!!リザルトを添付します。
また、ご連絡しますね、
 WEB MASTER :  Yさん、まだまだ未熟なHPに早速立ち寄って頂き感謝します。
そのヘルメットの件、そう言われればそうですね!
でも、当の鮒子田さんも30年ほど前の話しですから、御自分で書かれた手記なのに記憶が定かでないとのことで真相は不明なのが現状です。
しかし、写真のその他の部分は手記通りの修理がされているようですので、まず鮒子田さんが第1戦に乗られたものに間違いなさそうです。
では、これからも宜しくお付き合いください。
 
> ところで、私は、昨日 毎年 恒例の富士スピード・ウェイでの、305に今年も自分の年齢も、考えずに、出場しました。また、また 最年長!!!

素晴らしい成績ではないですか?!
横浜までとなりに乗せさせて頂いた時の凄い印象はやはり本物の証明だったのではないかとこのリザルトを見て納得いたしました。
それにケーターハムの中ではわずか0.05秒差のでの2位!バーキンがなんで出られるんでしょうか?!それも同じクラスで・・・。
でもベスト5にはいるなんてまだまだ10年間は出来ますね(笑)。とにかくおめでとうございます!!
では、これからも宜しくお付き合いお願いします。

 28/AUG/2001  M.Hさんから頂いたメール紹介「HP拝見しました」
(その1)
 鮒子田 寛氏のHP拝見しました。最初に真紅の「フライングオンワードスペシャル(でしたよね?すこしあやふやです)」が登場して感動しました。実は72年の黄色に金と緑のストライプのカラーリングは私の記憶では鮒子田氏が信仰する近所の神社が決めた色だったそうで(かなりあやふやです)あまり私好みじゃなかったのです。
73年のB23仕様となった真紅のシェブロンはかっこよかったですね。
 HPの内容があまりに盛り沢山でしたのでもう少しじっくりと後で拝見します。鮒子田選手は確か74年に豪雨のグラチャンで白いB26仕様(?)のシェブロンで1勝挙げられたのが印象的でした。同じ年(だと思うのですが)米山二郎選手と組んで富士1000kmで優勝されたはずですが、実はその後の鮒子田選手のレースリザルトが全然記憶にありません。
HPの続編を楽しみにしています。
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(その2)
 @職場からメール(ここからはHotmailになります)を書いています。今日は仕事が比較的暇でしたので勤務中(内緒で)鮒子田選手のHPをじっくり拝見しました。鮒子田氏がマクラ−レントヨタについて語られた記事を拝見し納得しました。牧野さんだったらきっと鮒子田氏にあのマシンの裏話をインタビューされてると思っていましたので見つけた時は嬉しかったです。また面白いエピソードを教えてください。
 WEB MASTER :  H様、お忙しい中鮒子田 寛HPに立ち寄って頂き感謝します。
そして、勤務中(!?)も引き続き立ち寄って頂いたようでありがとうございました。
TOPページのシェブロンは、1973年GC第1戦の公式予選のときヘアピンで撮影したものです。
自分としてもペンタックスSPで写した中でもお気に入りの1つでしたので喜んで頂き嬉しいです。
この時の鮒子田さんのお話しでは前年のB21Pを多少いじったぐらいで他のマシンと比べるとかなり劣っていたとおっしゃっていました。
この年はあの黒沢元治選手がマーチBMWで挑戦して来た年でしたね!
1973年以降のGCも徐々に増やしていくつもりですので今後ともよろしくお願いします。
 27/AUG/2001   N.Yさんからの頂いたメール紹介
 こんばんは,Yです。
ご連絡ありがとうございました。大作の完成おめでとうございます。
できばえについては,私が拙いことばで表現するより,ご本人の言葉が十分に伝えていると思います。
ともかく個人のサイトの域を大きく越えた素晴らしいページです。長年にわたる情熱の積み重ねなくしては決して作りえないものです。
 ご本人や本田博俊氏,林ミノル氏らのことばから私たちの知らなかった「人間・鮒子田 寛」が浮かび上がっています。
こういった読み物の場合,「そうだったんだよな」とか「そうそう」といった自分の記憶との接点をみつけて楽しむものになりがちですが(それはそれで楽しいのですが),このサイトは「そうだったのか」「えぇ〜?」「うぅ〜ん」の連続で,いかに限られた情報しか持ち合わせていなかったかを実感させられました。3Lトヨタ7のノーズが浮いていたワケがわかったり・・・・。
 牧野さんのおっしゃるとおり,生沢,風戸が語られて,なぜ鮒子田が語られないのか?と思っておりました私としては「とうとう出たか」の感です。

これからも牧野さんの蓄積された知識と情熱でさらに貴サイトが発展されんことをお祈り致します。

PS.1例のキスシーンは周りが呆れて心配するほど長〜いものだったようですね。
   そんな記事を思い出しました。
  2.大仕事を終えたばかりで恐縮ですが,いづれ田中健二郎さんについての記事を
   期待しています。
  日本のレース界における重鎮,破天荒なお人柄,様々な見せ場を作ったレースの数々。是非お願い致します。

 WEB MASTER :  牧野です。
Y様、早々とお返事メールありがとうございました。
まだまだ未熟で、HP自体としてはCGIも使っておらずあくまでもアナログ・タイプのサイトではありますが、あまり無理しても私自身の技術的問題もあり、こんな程度で御勘弁願えたらと思っております(笑)。
さて、これからいろいろ山ほどある鮒子田さんのヒストリーをどうやってこなして行こうかと嬉しい悲鳴を上げているところです。
 
> このサイトは「そうだったのか」「えぇ〜?」「うぅ〜ん」の連続で,いかに限られた情報しか持ち合わせていなかったかを実感させられました。
> 3Lトヨタ7のノーズが浮いていたワケがわかったり・・・・。

その辺ところ、特にYさんのような豊富な情報をお持ちな方にそう言っていただくだけで主宰者冥利に尽きるという感じであります。
 

> 牧野さんのおっしゃるとおり,生沢,風戸が語られて,なぜ鮒子田が語られないのか?
> と思っておりました私としては「とうとう出たか」の感です。

そう言って頂きありがたいです。もしYさんが私のようなHPを作られていたらきっと同じことをされたんではとふと思ってしまいました(笑)。
 

> PS.1例のキスシーンは周りが呆れて心配するほど長〜いものだったようですね。
>    そんな記事を思い出しました。
>   2.大仕事を終えたばかりで恐縮ですが,いづれ田中健二郎さんについての記事を期待しています。日本のレース界における重鎮,破天荒なお人柄,様々な見せ場を作ったレースの数々。是非お願い致します。

1の件は、江夏夕子さんのことですね!結構鮒子田さんは優勝した後ですし、かなり気持ちがハイだったのかなぁと思いました。
2の件は、将来的にはやらして頂きたい方です。実は、タキ・レーシングの全貌などは前からやってみたいことでしたが滝さんがすでに亡くなっているのでその辺当たりを田中さんにお聞きしたいなどと思っています。
では、本当にどうもありがとうございました。

 14/AUG/2001  鮒子田 寛さんからのメッセージ「皆さんこんにちは。」

 牧野さんとの出会いは、彼が主宰するホームページYoung Soldiers and TOYOTA 7を通してであった。この時、私は、おもしろ半分にYahooに鮒子田 寛と入れたのだった。検索で出たそのタイトルに興味を惹かれアクセスし、私は大きな驚きと同時に新鮮な衝撃を受けた。
そのページを読み始めて、私は記憶の片隅に追いやられていた「若き日の自分と仲間達、そして、あの熱く燃えた日々」へ、一気に30年前のあの頃へとタイムスリップしていた。
それにしても、あの頃の私のこと、或いは、仲間達のことをこれほど詳しく、まるで、その場に居合わせたように知っている人とは、いったい誰なのか、思いを巡らしてみたが思い当たらない。そのホームページを読み返した後、思い切って主宰者宛にメールを送ることにした。

「How do you do? This is Fushida」これが、私から、牧野さんへの最初のメールのタイトルであった。これほど詳しく私のことを知っている貴殿と私は面識はありますか? ほどなくして送られてきた牧野さんからのメールで、彼とは全く面識がないことが分かって私の驚きは更にました。
あれほど詳しく、そして、正確な内容を持つホームページを作り上げるには、絶対の信念と熱意、そして、それを実行する大変な努力と時間を要する作業であることは想像に難くない。彼のデータベースは、彼自身が実際にレース観戦に行った時の記憶と資料、当時の雑誌や新聞であるらしい。という事は、彼の頭の中には、当時のレース記事の切り抜きが、ラベルを付けられて、いつでも引き出せるように整理されて収められているのであろうか!?
 その牧野さんから、私のページを作りたいので協力して欲しいとの申し入れがあり、あくまでも、牧野さんが作る牧野さんの鮒子田像であればとOKした。
私自身ではなく、他人が私を見つめて作り上げる鮒子田 寛のページと言うのも、何んとなく妙な感じがする。
 
 60年代、僕達は輝いていた。人生を、力の限り、努力を惜しむことなく、額に汗をすることを厭わず、失敗を恐れず、目一杯生きようとした。
友人達、浮谷東次郎、福澤幸雄、川合稔もそんな若者だった。彼らは、与えられ人生を、強烈な個性で、自分自身を刻み込みながら、力一杯生き、猛烈なスピードで駆け抜けていった。青春をカーレースに託して。彼らを悲劇のヒーローとして語って欲しくはない。例え、悲劇的な出来事で彼らが人生の幕を閉じたとしても。
 彼らの生き様は、当時の記事や書籍を紐解けば探ることが出きる。現代を、この21世紀を生きる若者達に共感を与えることが出きるのだろうか、でも、彼らには、そして、60年代を彼らとともに生きてきた僕達にとっては、多分、無関係なことであろう。他人に共感を与えようとして生きたのではなかったからだ。そんな高尚なことを考えてはいなかったはずだ。自分のやりたいことに夢中になっていただけだ。でも、その生き様が、現代の若者の、或いは、年代を超えて、共感を呼ぶことがあれば、それは幸いである。

2001年8月  鮒子田 寛
 WEB MASTER :  鮒子田様、わざわざ「鮒子田 寛 レーシング・ヒストリー」の開設にあたってお忙しい中、コメントを頂きまして誠にありがとうございました。
 鮒子田さんは、1960〜70年代にかけての憧れのレーサーの一人であり、その御本人とこうしてお話が出来るなどとは夢にも思っておりませんでしたので本当に感激であり、また主宰者冥利に尽きる思いであります。
さらに、このような質疑応答的な場も作らせて頂くという幸運にも恵まれ正に夢心地気分であります。
 鮒子田さんは、現在もベントレーやアウディのレーシングカーを製作されている会社で役員をされており、60年代から一貫してレースに携わってこられたことへの驚き、そして同時にレース人生を今だ満喫されていることへの個人的なうれしさも加わり、益々このHPを作っていく意欲を掻き立てられております。
 また、これをご覧になって頂いた皆さんもぜひ何か鮒子田さんについてのコメントを頂ければ幸いです。
当時恋人同士で鮒子田さんが優勝された富士1000Kmレースを観戦された時の思い出とか、パドックで鮒子田さんと話された思い出があるとか、なんでも構いませんので御便りお待ちしております。

2001年8月 牧野弘文


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