皆様からの御便り紹介
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 皆さんのご意見を載せさせていただくコーナーを作りましたので、よろしくお願いいたします。
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鮒子田 寛 レーシング・ヒストリー 「Your messege 」を見る
 31/DEC/2001  M.Oさんから頂いたメール紹介 「くるま村の少年たち 感想」
 くるま村の少年たち たいへん懐かしく拝見いたしました。
膨大な量の資料をよくもここまでそろえてご開帳されているなーとただただ感動しております。わたしが興奮したヒストリーそのものです。私も22才のころですか日曜日の午後を巣鴨サーキットで過ごした経験があります。当時仲間内でGC in SUGAMOと銘うってマーチ、シェブロン、GRD−S74というクリアボデイを使いドライバー、マシンも富士そのままにというコンセプトでした。私は高橋国光選手のスリーボンドマーチ74Sでした。当時の巣鴨サーキットはあまりにバンクでの事故が多いということで逆周りつまりサーキットの出入り口のドアのほうが第1コーナーでした。
前座のレースはというとマルイのRX−3と240Zを使ったスーパーツーリングのレースをやってました。
毎レースごとに富士スピード300kmとかいって....
そんなスロット仲間たちとある夏のこと河口湖にキャンプに出かけました。2日目のことFISCOに程近い富士サーキットというカートコースで今で言うプレイングカートに乗りました。その晩のバンガローサイトでは酒を飲みつつ誰とはなしにレーシングカートをやる!という話が盛り上がりました。わたしはイヤーこれはすごいことになったなワクワクしましたが、東京に帰りいざその段その気になっているのは私一人だけ!根性のない奴らだなとガッカリ。こうなったら俺一人でやるワイと結局私だけが離脱してカートの世界に入ってしまいました。
まあ話は長くなってしまいましたがその後菅生でアイルトンセナの若いころと出会ったりひょんなきっかけからRX−3のピットを手伝ったりしました。
またそのうちにメールさせていただきます。くるま村の少年たちがんばってください。
 WEB MASTER : 
 M.O様、本当にありがとうございました。
巣鴨サーキットに通われていたとのこと、本当に懐かしい思いであります。
Oさんの通われていた当時は、すでに私はモデルカーレーシングからは遠ざかっており「永遠なれ!巣鴨サーキット」でも書いておりますが、いつ頃惜しまれながら閉鎖されたのかをもし御存知であれば教えて頂ければ幸いです。
それにしてもマルイのRX-3や240Zでレースとは素晴らしいですね!
これからも良きアドバイスなど頂ければありがたいです。
ありがとうございました。
 31/DEC/2001  mach-1さんから頂いたメール紹介 「楽しい時間旅行させて頂きました」
 始めまして、私はラジコンのお店をやっています、最近京商と言うメイカーミニッツなる物が販売されてブレイクしています。ボディーが今一つなので、何か良いものは無いかと悪い頭を捻っていたんですけど、そうだ昔スロットレーシングかーという物が有ったのを思い出しヤフーでスロットレーシングカーで検索してこちらのホームページに辿り着きました、正直なところスロットレーシングカーには興味が無かったのですが、ホームページを拝見しているうちに60年代の車の写真が載っているのを見て感激しました、昭和31年生まれの私にはすごく懐かしいものばかり写っていました。
日産R382やグロリヤのストックカーレースの事やら時間を忘れてしまいました、フレッツ回線で良かったです、当時は私も子供でクルマは好きでしたけれど詳しい事まではあまり解りませんでした、でもクルマの免許を取るときに乗った教習者がこちらで紹介されていた、角目のクラウンでした4枚ドアのクルマでしたけれど2ドアハードトップが欲しかったです、とてもスタイリッシュでした、でもとても買える値段ではなかったので、結局シュビック1200GLの中古でした何だか長くなっししまいすみません、でもあんまり懐かしいもんで、お聞きしたいのですがスロットレーシングのボディーは今も手に入るんですか?
ミニッツはちなみに1/24サイズなんですけど教えていただければ幸いです。
 WEB MASTER : 
 mach-1様、この度は私のHPにメールを頂き感謝いたします。
ところで、ラジコンのお店を経営されているということですが、私も10年前ぐらいにタムテックが流行っておりました頃に少々かじってみたのですが、タムテック自体が衰退してしまいいつのまにか忘れていってしまったということがありました。
ところで、お尋ねの1/24スケールのボディですが、すでに当時のものは不可価値が付き過ぎてしまいオークションでもかなりの額を出さなければ購入不可能だと思います。
しかし、御存知の通り沢山の1/24プラモデルが発売されておりますし、また、熱心なマニアが作り出したレジン製ボディが国内、国外問わずマニアックなものが発売されておりますのでそれらを購入すれば当時の雰囲気をだして楽しむ事が出来ると思います。
では、これからも時間がありましたら立ち寄ってください。ありがとうございました。
 23/DEC/2001  T.Iさんから頂いたメール紹介 「こんばんは」
 初めまして。こんばんは。私、楽しく拝見しました。
私、1947年生まれです。私も生沢徹選手が好きで、良くレースを見に行きました。高校の頃を思い出します。
御殿場腺で小山町駅まで行きバスで行ったことを思い出します生沢さんの活躍はしびれました。
当時は今のように雑誌などなく、たしかオートスポーツはまだ無くオートバイの本で結果を見た気がします。 
UKのF3の一ヶ月遅れのレースを胸がワクワクしながら眺めていました。 
帰国し日本グランプリの三菱F3の時も富士にいました。 速かったですね。
今の佐藤琢磨君に生沢さんをオーバーラップします。生沢さんにF1に乗せたかつた親父です。
子供は男だつたら名前は徹と決めていましたが女の子ばかりでした 今でもポルシエの音が聞こえそうでした。ありがとう----------------------。
 WEB MASTER : 
 I様、この度は、まだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂きありがとうございました。
モータースポーツ・ファンとして大先輩である伊波様からこのようなメールを頂きまさに主宰者冥利に尽きる思いであります。
生沢さんは、本当にカッコ良く、私にとって当時はまさにヒーローでありました。
時代を先取りしていたというか、活躍する時代が早過ぎたヒーローだったのではと思ってしまいます。
今であれば、本田やトヨタがバックアップしてF1に上り詰めることが出来たかもしれません。
これからもいろいろなアドバイスを頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。
 22/DEC/2001 tkyさんから頂いたメール紹介 「はじめまして!」
 
栄光のルマン」を初めて観たのはほんの先週。
「タワーリングインフェルノ」でマックイーンの男らしさに一目ぼれしてから、あらゆる映画をビデオレンタルしてる最中です。
実はレースのストーリーは女である私には何の興味もないストーリー。
ただただマックイーンの映画は可能な限り観たいという欲張りな性格で観たひとつに過ぎません。
でもここまで細かく画面上でマックイーンを表現されてるのに拍手します!!
途中で書かれてたようにこの映画はセリフが少なかったのが残念です。
・・・なんせカーレースには興味がないので・・・。
でもここまでマックイーン自身が注ぎ込んだ映画は観ていて私にも感じました。
終わった後、「ストーリーは興味深くなかったけど、マックイーンらしいな・・・」と感じてました。
今回、このページを読んで「やっぱり・・・」と納得。
やっぱり彼はすごいし、出来ればもっともっと生きて色んな映画に出演してほしかった。
マックイーンは一番好きな俳優ですっ!!

それともし、ファーストネーム(テレンス)のスペルをご存知なら教えて下さい。
もっともっとマックイーンファンの為にページを続けて下さい!!

 WEB MASTER : 
 tky様、この度は、まだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂きありがとうございました。
マックイーンは、tkyさんと同様私も大好きな俳優です。というかヒーローですね!
「ブリット」もマックイーンのクルマ好きが随所に出てくる映画ですが、大ヒットした「大脱走」よりも私個人的には好きな映画です。
たまたま私がクルマについてのHPを作っているから「栄光のル・マン」を全面的に出しましたが、もし映画のHPを作っていたのなら間違いなくマックイーンの出演映画が一番多かったのではと思ってします。
「栄光のル・マン」の中で一番好きな場面は最初の回想シーンです。セリフなしですが・・・。
私の幼年期の頃、TVで「拳銃無宿(原題名 "Wanted : Dead or Alive"1958−59年にかけてフジTVで30分番組として78本が放送された)」というウエスタンが毎週1回30分ドラマとして放送されていましたが、まだ若かった頃のマックイーンはその頃すでに渋みのある演技をしていたなと幼心にも感じていたのを覚えています。
長くなりましたが、これからも宜しくお願いします。
ありがとうございました。
P.S.
 ところで、ファーストネームの件ですが、手持ちの資料にはスペルは書かれておりませんでした。
力になれなくてすみません。
 21/DEC/2001  K.Sさんから頂いたメール紹介 「拝見させて頂きました」
  内容満載のホームページ拝見させていただきました。かなりの量がありますね。
 僕もスーパーカーブーム時代に少年時代を過ごし、働き始めてからはくるま貧乏生活を送っています。
 最近の車は個性がなく、つまらないです。確かに60年代の車はかっこよかったですよね。僕の入っているクラブで、古い車を見ているとどこかひきつけられるものがあります。
 今後ともよろしくお願いいたします。
 WEB MASTER : 
 S様、早速HPを見て頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
まだまだ未熟なHPですが、少しでも喜んで頂ければ主宰者冥利に尽きます。
これからも宜しくお願いします。
 17/DEC/2001 H.Tさんから頂いたメール紹介 「私もその頃(60年代)、TETSUファンだった」
 '71富士マスターズに、私も現地で観戦してました。天気は雨ふりでしたよね。生沢選手は、ポルシェ917Kに乗ってて、順位は3位でしたっけ。牧野さんのHOME PAGEを見て、とてもなつかしく、なんだかうれしい気分で、メールを書いちゃいました。私は、1955年生まれなので、牧野さんとは同学年みたいですね。
10代、20代の頃は、RACE記事を手当たり次第に読みあさり、RACE観戦やイベントによく出掛けてました。牧野さんとは、同じ記事を読み、同じ場面を見ていそうですね。HOME PAGE、楽しみにしてます。
 WEB MASTER : 
 T様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
Tさんとは、正確に言うと1歳年上になるのだと思いますが、同年輩ですね!
当時、GCは雨の日が多く本当に観戦するのは根性がいりましたね!
生沢さん、風戸さん、そして、鮒子田さんは、私にとっては本当に当時ヒーローでした。
毎月のように彼らの活躍を心待ちにしてオートスポーツを買って読んでいたのを思いだします。
1昨年、生沢さんからHP宛てにお連絡を受けた時は本当に飛びあがる気持ちでありました。
丁度、33年ぶりにニュルブルクリンク24時間レースに出場される時で、あのホンダS800でクラス優勝された思い出のコースということで本当に盛り上がりました。
http://www.mmjp.or.jp/60srace/ThePageofTetsu.html
そして、昨年暮れにあの鮒子田寛さんより激励のお連絡を受け、それが御縁で「鮒子田寛レーシングヒストリー」HPを作らせて頂くことが出来ました。
http://www.mmjp.or.jp/60srace/HiroshiFushidaHPTOP.html
今だにお元気で、今年のル・マンに出場したベントレーの製作会社の役員をされてイギリスに住んでおられます。
では、これからもちょくちょく立ち寄ってください。そして、良きアドバイスを頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。
P.S.
 ところで、1971年のGCマスターズ250Kmレースにポルシェ917Kで出場した生沢さんは、ギヤ比が合わず惜しくも風戸選手についで総合2位でした。
 27/NOV/2001 Sさんより頂いたメール紹介 「富士スピードウェイ30度バンク情報です」
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~madhouse/11.18baisatu.html
 ここから、11/18のFISCOの模様がみれます。
プラモデルしかみたことない、トヨタ7と、2000GTもある〜!
 先日、このイベント開催した所に遊びに行ったのですが、あのトヨタ7は、レストアしたらしく、なので、写真でもぴっかぴかみたいなんです。
また、当日、展示されていた当時の写真も見せてくれて(その人の個人私物)白黒でしたが、ポルシェとかR380とか、トヨタ7とか、ダイハツP3とか・・、カンナムとか・・・、ハコスカまで・・・・。おそらく、日本GP1回目から・・・のだとおもいます。
貴重な写真でした。
 WEB MASTER : 
 S様、貴重な情報ありがとうございました。
細谷さんや大坪さん、当時からすでに30年以上たっているにもかかわらず、今直お元気そうで安心いたしました。
個人的には、この場に鮒子田さんがいらっしゃったらなんて思ってしまいます。
しかし、このバンクが無くなると思うととても寂しい気分です。
ということで、このURLを紹介させてください。きっと懐かしむ方がいると思います。
どうもありがとうございました。
 26/NOV/2001 神戸市にお住まいの外川さんより頂いたメール紹介 「楽しい話です」

 ( PART 1)
 しかし、本当にやはりファンは生きてますね。私もオ−トスポ−ツを創刊から持っていますが、今のファンもいいですが、車もミニカ−で手元に置けるし幸せですね。(私も150台くらい持っていますが)生沢さんや風戸さんのGRD何ぞ、バルサ材で作った記憶もあります。しかしやはりあなたがおっしゃる写真は凄いですが、川合 稔のトヨタ7の後を走る、シファ−トはやはり今でも凄いと思います。時間の無いなか、予選などトヨタ、ニッサンの遥か下のバンクを通りながら、決勝では川合の7に、ピッタリ張り付いてバンク最上段を駆け抜けた、あのポルシェ917は今でも記憶に残っています。オイルで前も見えず(7もR382もオイルキャッチタンクが余りしっかりしてなかったのかも?)今でもポルシェに、日本で勝つのは難しいとレポ−トが残っているくらい、荒れたレ−スでしょう。ディビット パイパ-(生沢さんがロンドンから、グラチャンに持ち帰った917Kもこの時のポルシェですね)、ハンス ヘルマンが(908スパイダ−ですけど)頑張っても駄目だった、フジをものにしたのはシファ−トだけでしょう。
トヨタなんぞ、ビック エルフォ−ドの この車はいい、と言う一言で、シャシ−剛性の弱さを、過信してしまう始末、川合さんも苦労したことでしょう。しかし私はただ単なるファンであって、当事者ではないから偉そうなことは言えませんが、時効でと言うことで、色々とお話したいですね。
 勝手申しまして誠にすみません。ではまた!
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 ( PART 2)
 しかし思えば楽しい時代でした。車は毎年変化に富んだ車が出るし、ドライバ−も個性派揃い、個人的には、やはり生沢さん、クリス エモンさん、ですかね-!(この間も、生沢さんのジョ−ホンダさんの写真を3枚ミスタ−クラフトから購入しました。高額で、しかも嫁にばれて!) しかし、インタ-ネットっていいですね-、こう言う話が出来る。うれし−です。今後とも宜しくお願いします。(でもコンピュ-タ−の扱い下手ですから我慢して下さい) 
 鮒子田 寛さんは前半が大好きでしたね-、トヨタの大エ−スでしたものね−、川合さんがメキメキ頭角を現した時も、エ−スは鮒子田だ、も-んと思っとりました。
後半は、変な(失礼!)マシ−ンが多く大変だったと思います。しかし鮒子田さんと言えば、米山 二郎さんも思い出しますが、どうなさってるんでしょう。
しかし今は凄いですね−!佐藤さんはイギリスF3、福田さんはフランスF3、金石さんはドイツF3、それぞれチャンピオンになりましたね-、楽しみです。でもこれも先人あればこそですね。レクイエム的になるかもしれませんが、色々話ししていきたいですね。

  WEB MASTER : 
 ( PART 1)のお返事
 外川様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
外川さんのようなリアルタイマーの方にこのような暖かいメールを頂くことは、私のように好き勝手にHPを作らせていただくものとしては本当に主宰者冥利に尽きるというものであります。ありがとうございました。
当時の日本グランプリは私にとって忘れがたいものでした。
そして、レーシングカーそのものが珍しく、友人とスロットカーを楽しみながら実際のレースとリンクして楽しく過ごしていたのが懐かしいです。
昨年、当時のチーム・トヨタのドライバーであり、後のグランチャンのチャンピオンにもなられた鮒子田寛さんと御縁があり、それを契機に御本人にもご協力頂いて、今年の8月に「鮒子田寛レーシング・ヒストリー」HPを作らせて頂く事が出来ました。
そして、外川さんがおっしゃっていた通りの事も事実として教えて頂いたり、本当に楽しく作らせて頂いております。(まだこのHPは進行形ですが・・・)
これからも、是非立ち寄って頂き良きアドバイスなど頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。
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 ( PART 2)のお返事
 最近、私のHP宛てにプロショップの方から沢山メールを頂いております。
 外川さんのおっしゃるとおり、鮒子田さんはトヨタを辞められるまでエースだったと私も思っていました。
ところで、鮒子田さんの72年にチャンピオンになられたシェブロンB21Pをレストアされていて、将来手持ちのグラチャンマシンとともにヒストリック・グラチャンをサーキットで開きたいとか、酒井 正さんのマクラーレンM12が今ニュージーランドのマクラーレン・トラスト財団(ブルース・マクラーレンの奥さんがされている会社)でレストアされてミノルタ・マクラーレンの形のまま同国のヒストリックカーレースで活躍されているとか。
また、その財団では、デニス・フルムの20回忌にCAN-AMで活躍していたマクラーレンM8Dをレストアして、酒井さんの御子息と当時モデファイを担当したU氏と共を呼んでM12といっしょに走らせようとかしているみたいです。
さらに、故・風戸 裕さんのポルシェ908IIが日本からアメリカに売られてモントレーヒストリックカーレースに出たとか、いろいろな情報を頂いております。
また、先日、富士のあの30度バンク部分においてターボチャージド・トヨタ7やトヨタ2000GT、そして、当時のドライバーだった細谷四方洋氏、大坪善男氏らを招いたイベントも開かれ、実際に30度バンクを走られたとのことでした。
ということで、これからもどうぞ宜しくお願いします。
ありがとうございました。
 13/NOV/2001  A.Hさんから頂いたメール紹介 「はじめまして」
 初めまして。
夕べ、MakinoさんのHPを見ました。
もう、感動で、感動で!
私が"福澤幸雄"を知ったのは、もう10年も前のことでしょうか。
自動車レースというものに、興味を持ったのは20年ほど前のことなんですが、関連の書籍を読んでいくうちに、"福澤幸雄"を知ることとなりました。
何度も、何度も、読み返したのは、「福澤幸雄事件」(青木慧著)でした。
もっと幸雄のことを知りたかったのですが、もう何十年も前に他界した人だったので資料らしい、資料も入手できませんでした。死後、出版された写真集を購入したくらいでした。
ある方に手紙を書き、幸雄について教えていただきました。
それが限界でした。
 幸雄が活躍した時代に、青春を過ごした人たちに「福澤幸雄って知ってる?」と聞いてもかえってくる答えは、私の知識の範囲でした。もっと、幸雄について、熱く語ってくれる人を捜していました。
私は、幸雄が持っていた"才能"がこの世から消えてしまったことが、ただ、ただ、残念で。
幸雄の才能を、知っている人に、当時の幸雄を語って欲しいのです。
 インターネットを始めたころに「福澤幸雄」と検索しても、幸雄に関する情報は無に等しいくらい、ヒットしませんでした。
ところが、夕べ、久しぶりに「福澤幸雄」で検索するとMakinoさんのHPに辿り付きました。
察するところ、幸雄と同年代の方なのでしょうか。幸雄をリアルタイムで、ご存知、と、感じましたが。
妹のエミさんは、お父様とお母様を支えて、デザイナーとして、活躍されているそうです。
 ご遺族のことを考えると幸雄のことを、蒸し返して良いのか幸雄のことを、いつまでも忘れないでいるのが良いのかとても迷うところなんですが、「福澤幸雄」という才能あふれる人間が、かつて存在したことは誰かが後世に伝えていかないといけないのでは?と思い続けた、この10年でした。
夕べの感動は、忘れません。インターネット上で、幸雄を見ることができて、嬉しかったです。
また、1960年代という年代も、"古き良き時代"のようで私は大好きです。
感動を伝えたくて、メールしました。
幸雄をインターネットで、紹介してくださって、本当に有り難うございました。
 WEB MASTER :  
 A.H様、この度はまだまだ未熟極まりないHPに立ち寄って頂いたばかりでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。
福沢幸雄さんについては、Hさんと同じく今だに忘れがたい存在であります。
レーサーというだけでなく、当時を代表するすばらしい若者として私もとても憧れておりました。
私は、当時は中学生の分際でして、1ファンとして福沢さんの活躍を見ておりました。
福沢さんの職業もレーシングドライバーだけでなく血筋とでも言ったら良いのでしょうか、海外での友人等との交流が大変多かったようで、当時のGS(60年代日本を席巻したグループ・サウンズ)ザ・スパイダーズの衣装の担当をしたり(またはファッション傾向を伝える)、福沢さんが所属していたチーム・トヨタのウェアを作ったりと、大変多彩な才能を持っていた方だったと思います。
当時の書籍で印象に残っているのは「コースにかげろう燃えて」三栄書房発行です。
これは、福沢さんが亡くなってから発行されたもので、第3者から見た当時の福沢幸雄を綴ったもので、レーサー福沢というその派手だった表向きと実際の幸雄との比較を綴ったものでした。
私のHPで当時同じチーム・トヨタで大変仲がよかった鮒子田 寛さんのヒストリーHPを縁あって作らせて頂いておりますが、その中でも、鮒子田さんは幸雄について語っておられるところがありますのでよろしかったら立ち寄ってください。
では、これからもお時間がありましたら、立ち寄ってください。そして、良きアドバイスでも頂ければ幸いです。
ありがとうございました。

鮒子田 寛レーシング・ヒストリーHP

THE YOUNG SOLDIERS and TOYOTA-7の企画ページ

「その昔 福沢幸雄という男がいた」


 01/NOV/2001  あの見崎清志さんから頂いたメール紹介 「Old days 」
 ( PART 1)---------------------------------------------------------------------------------
 初めてMail致します。
小生、見崎清志と言います。
貴殿のSiteを友人から教えてもらいました。いつも、懐かしく拝見させて頂いています。
これからも是非続けて下さい。
楽しみにしています。
見崎清志
 ( PART 2)---------------------------------------------------------------------------------
 早速のMail有難う御座います。
はい。おっしゃる通りその者です。
先週の日曜日は、トヨタの技術会の企画により富士スピードウェイでトヨタ7をはじめ多くの古いレーシングカーを展示し、又、”Team TOYOTA”のドライバーも招待され、小生も行ってきました。とても懐かしい一時でした。
このような催しはトヨタでは始めての事で、これからもつずけていくそうです。
牧野さんのように昔を懐かしく思っている社内有志が沢山いるのを知り嬉しく思います。
日本では過去のものは忘れ去られてしまうのが現状ですが、小生も牧野さん、トヨタの有志の方々同様是非、残すものは残していきたい、と思っている一人です。
又、ちょくちょくお目にかかりましょう。
では。
 WEB MASTER : 
 ( PART 1)の返事--------------------------------------------------------------------------
 見崎様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き本当にありがとうございました。
そしてメールまで頂き感激しております。
ところで、違っていたら大変申し訳ございませんが、もしかしてレーサーの見崎様でしょうか?
あのマカオGPで優勝した・・・、そしてセリカに乗ったら誰よりも速く走られていたあの見崎様でしょうか!
そして、「ヘアピン・サーカス」の主演をされた見崎様でしょうか?
もしそうでしたら、こんな感激はありません!!
そして、いつも見て頂いているなんて私のような1レースファンの分際でかって気ままに書かせていただいおりますので、とても恥ずかしい気持ちです。
60〜70年代初期までは、私にとってまさに日本のモータースポーツに熱中した時代でありました。
その中で、生沢さんや鮒子田さん、そして見崎さん、舘さんなどのカッコいいレーサーに憧れ(といっても自分でレーサーになろうなんては思いませんでしたが・・・)その活躍に胸踊る気持ちで夢中になっておりました。
しかし、現在それらのドライバーの活躍により今の日本のモータースポーツの基盤が作られたのにもかかわらずなぜか、語られなくなったのはとても私にとってはとても悲しいことであります。
このHPを未熟ながら作らせて頂いている理由はぜったいにこれらのレーシングドライバーの方々を忘れてはならないという気持ちからなのです。
先日、鮒子田 寛さんや、ジョー・ホンダさんなどと幸いにしてお会いする事が出来、そして、鮒子田さんのHPを作らせて頂く事が出来ました。
少しでも、当時のことを今のモータースポーツファンに知ってもらいたい一心でこれからも皆さんの御協力あってですが、作り続けていきたいと思っております。
本当にメールありがとうございました。
これからも宜しくお願いいたします。
 01/NOV/2001  M.Hさんから頂いたメール紹介 「ジョー・ホンダさんのインタビュー記事拝見しました。」

 お元気ですか。ジョーさんの2回目のインタビュー楽しく拝見しました。
生沢選手がポルシェのワークスカーに乗れた本当の理由など今まで何処にも書いてなかったと思います。本人の手記では自分の腕が買われたからだと盛んに強調されていたように記憶していますが。
 私にとって60年代のモータースポーツシーンは69年だけがリアルタイマー(この年からオートスポーツの定期購読を始めました)でしたのでポルシェは908からしか知りませんし、フェラーリではP4以前は後から本で読んだ知識しかありません。
 ジョーさんの2回目の写真展はミスタークラフトから招待状が郵送されてきましたので仕事の都合がつけば是非行ってみたいと考えています。
 牧野さんが今回HPに掲載されたカレラ6と10がテールツーノーズでモンツァのバンクを疾走する写真は、大変印象に残った写真で、私もよく覚えています。確か69年のオートスポーツイヤーに載っていたものと記憶していますがこれもジョーさんが撮ったものだったのですね。

 WEB MASTER : 
 H様、お久しぶりです。
この度はジョーさんのインタビュー記事に立ちよって頂きありがとうございました。
 
> 生沢選手が
> ポルシェのワークスカーに乗れた本当の理由など今まで何処にも書いてなかったと思
> います。本人の手記では自分の腕が買われたからだと盛んに強調されていたように記
> 憶していますが。

 ジョーさんは当時ほとんど生沢さんと同行してレース取材してましたから、生沢さん本人とは違った見方が出来たのではないでしょうか。
生沢さんがスランプになったのはスウェーデンでのF2レースでピーターソンにぶつけられてからだとおっしゃってましたから、何か写真を撮っている立場から感じる事が多々あったのではないでしょうか。
かといって生沢さんに実力がなければハンシュタインの目にとまることはなかったと思いますが・・・。
 

> ジョーさんの2回目の写真展はミスタークラフトから招待状が郵送され
> てきましたので仕事の都合がつけば是非行ってみたいと考えています。

 ジョーさん、土日だったらいらっしゃるのではないでしょうか。
今回白黒の60年代スポーツカーだけのカレンダーがこの写真展で発売になりますが、P4なんかの写真がいっぱいだそうです。ただ3000円ぐらいするそうで・・・。
では、どうもありがとうございました。

 20/OCT/2001  KKさんより頂いたメール紹介 「初めてお便りします」
 
初めまして。私は熊本に住む29歳の浮谷東次郎の1ファンであります。
私にとって、東次郎はあらゆる意味でヒーローでした。
自分の人生はいかに生きるべきか?そんなテーマを、彼からはつきつけられている気がしました。
正直いって、20歳ころの私には答えなんか分かるはずもなく、随分と理想と現実の差に悩みました。
今は、実家にかえって(9年ぶり)、家から通える会社に通っています。家族と共に、というのがその答えなのかな?と思う今日この頃です。
いきなりこんなメールで申し訳ありません。トージズ・クラブの記事、大変興味深く拝見させていただきました。
ありがとうございました。
 WEB MASTER : 
 K様、この度はまだまだ不出来な私のHPに立ち寄って頂き、またメールまで頂きありがとうございました。
TOJI'S CLUBに入り、私もまだ3年目でありますがKさんのおっしゃる通り、東次郎の生き方に共鳴する老若男女が数多く参加して、年1度の総会は、とても熱気に溢れております。
また、東次郎さんのお姉様である朝江さんが健在で、東次郎さんの生き方をクリスチャンと言う立場で継承し、東次郎さんが自らの命と引き換えに人を助け、サーキットで絶命したその意志をクラブの人はもとより、世界に伝えています。
ちょっとモータースポーツという枠からははみでてしまったという見方も出きるかも知れませんが東次郎さんが生前言っていた「誰でも入ることが出来る大学」の設立なども考えておられるようです。
私などまだまだ東次郎さんの意志など十分に理解していない人間ですので、もしよかったらオフィシャルHP「TOJI'S CLUB」に立ち寄って頂きクラブに入会されてはいかがでしょうか!
四国、九州、そして北海道から年1度の当クラブに参加されている方もおります。
http://www.interq.or.jp/world/beat/tojiro.html
では、本当にありがとうございました。
今後共よろしくお願いいたします。
 18/OCT/2001  HTさんから頂いたメール紹介 「はじめまして」
 ( PART 1)

 初めまして、トージスクラブのHPから飛んで来ました、これだけスロットレーシングカーのことを詳しくまとめたホームページは無いのではないかと思うぐらいで、懐かしい思いで胸が一杯になりながら見さしていただきました。
田宮のレーシングカーは何台か持っていましたし、巣鴨サーキットにも良く通っていました、又、モデルカーレーシング入門も持っていましたし、模型とラジオも良く購読していました。ちなみに私も昭和31年東京板橋区生まれ、高校も都立工芸高校金属工芸科に通っていました、やはり小学校5年生の時にお年玉でたしか童友社製のロータス30を買ってからどんどんはまって行き中学生時代に絶頂期を過ごし高校に入った頃から少しずつ足が遠うのいて行ってしまいました、その頃のことは以前ライトニングと言う雑誌に投稿した事が有ります(1999年5月号)。
いまでも少しその頃のスロットカーがかろうじて残っていますがほとんどはどこにいったか分からなくなってしまいました、牧野さんのHPにはその頃のマシンや記事の写真をたくさん乗せていますが今でも当時の物を保存しているのでしょうか、だとしたらすごいですね、まだまだ語り尽くせませんが当時を懐かしく語る会みたいなのがあったら良いですね、またお便りします。

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 ( PART 2)
 さっそくのお礼ありがとうございました、都立工芸高校時代たぶん同じ校庭で過ごしていたと思います。
そして何よりびっくりしたのは私も美術部だったのです。
そして高校時代に部で会報を出していたのを思い出し押し入れの中からそれを探し出し懐かしながらページをめくっていたらなんと牧野さんの名前が載っているでは有りませんか、覚えていますか、美術部で会報(会報というよりもエッセイ集のようなもの)を出していた事、私が1年A科、HTで「平和とは」問いうタイトルで文章を書いており、その数ページ後ろに、「美術部改造論」と題した3年M科の牧野さんの文が載っていたのを、たぶん牧野さんのことだと思いますが本当にこのように出会えるとは不思議ですね。
ただし大変申し訳ないのですがどうしても牧野さんの顔を思い出す事が出来ません、あれから30年近くも経っているからでしょうか、確かその時の部長が2年D科のOさんという人だったと思います、それと私と同学年でかわいい女の子がいたという事ですがそんな人いましったっけ、少なくとも私にとっては同学年の女子は生意気な人ばっかりだったような気がします(笑)。
それと、巣鴨サーキット時代ですが私も初期の頃は田宮などのいわゆるプラスチックボディー物を持ち込んでいましたがその頃すでにサーキットではクリアボディーが全盛だったと思います、私もかなりクリアボディーやシャーシなどを買いましたが、コルトF2Dがあったのははっきり覚えていますが後は良く思い出せません、国産フォーミュラのボディーだったので珍しいなと思い記憶に残っています、私が夢中になっていたのはストックカーボディーであり、あまりフォーミュラーやGTボディーには感心がありませんでした。
本当に懐かしい思いでメールを書かせていただきましたが又お便りさせていただけたらと思います。
 

 WEB MASTER : 
 ( PART 1)のお返事
 T様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
ところで、板橋区にお住まいで巣鴨サーキットに通っておられたとのこと、そしてさらに都立工芸高校に通っていらっしゃったと聞いて本当にビックリいたしました。まさに、私の人生そのままではないでしょうか!?
私が昭和29年生れですから、Tさんは今46歳になられたころでしょうか?!
ということは、私が3年の時には同じ校庭にいたことになりますよね!?(今は考えられない狭い校庭でしたが・・・笑)(中庭なんていうのがありましたよね!)
私は、機械科1組通称M1です。担任は、T先生でした。金属科の友達もD君というのがいましたし、当時美術部だった関係で、Tさんの同級生だと思うのですが、1人可愛い女の子がいたような気がします。なにか不思議な感じですね!(笑)
ところで、巣鴨サーキットで1971〜72年頃、へたくそなクリヤーボディで「フェラーリ312P」「アルファロメオ33/TT3」、「シェブロンB19」、「GRD S72」、「ローラT290」、「コルトF2D」・・・なんか売っていたの覚えているでしょうか?!
価格が250円で、エンビ製ですからすぐぶつかると割れてしまうものでした。
もし買われていたらどうしよう!!(笑)
ということで、大変懐かしい気分になってしまいました。これからもどうか宜しくお願いします。
本当にありがとうございました。
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 ( PART 2)のお返事
 T様、本当に奇遇と言うか、不思議な事もあるのですね!
美術部だったとは・・・!!(笑)
「美術部改造論」。う〜ん。多分私が書いたものだと思いますが、不覚にも覚えがありません(笑)。いつか良かったらコピーでも頂けませんか?!(生意気だったですね!角栄さんの物真似か!?)
会報についてもかすかに覚えがありますが、3年の頃は受験なんかであまり部に顔を出しておりませんでしたからあまり記憶がないんです。
2年までは、夏合宿(!?体育会系のとは違い下田か何かに泊まりに行っただけですが・・・)などにいったりしてました。
そういえば、工芸祭の時に、油絵で「雨の富士を走る生沢徹のポルシェ917K」を描いて、出展してましたが・・・。
 
 私もかなりクリアボディーやシャーシなどを買いましたが、コルトF2Dがあったのは はっきり覚えていますが後は良く思い出せません、国産フォーミュラのボディーだったので珍しいなと思い記憶に残っています、私が夢中になっていたのはストックカーボディーであり、あまりフォーミュラーやGTボディ ーには感心がありませんでした。

そのコルトF2Dが私がへたくそでしたが、巣鴨サーキットのオーナーであった森下さんにお願いして委託販売させてもらった当時高校生の私が作ったものです。それ以外が前に名前を上げたボディたちでした。
一応完売してまずまず成功(!?)だったかなと自己満足しています。
 

 ただし大変申し訳ないのですがどうしても牧野さんの顔を思い出す事が出来ません、あれから30
年近くも経っているからでしょうか、確かその時の部長が2年D科のOさんという人だったと思います、それと私と同学年でかわいい女の子がいたという事ですがそんな人いましったっけ 、少なくとも私にとっては同学年の女子は生意気な人ばっかりだったような気がします(笑)

そりゃそうですよ!30年は人を変えさせるに十分な年数ですからね!
部長のO君!?思い出せないな!
それから当時の同級の女の子は大人っぽく見えましたね!名前が思い出せないな!
覚えているTさんのクラスメートの女の子の名前暇な時にでも教えてください。思い出すかも・・・(笑)。
いやはや懐かしい、懐かしい。本当に嬉しくなってきてしまいますね!
では、これからも宜しくお願いします。

 17/OCT/2001 Y.Tさんから頂いたメール紹介 「SNさんのメールにビックリしたな〜もう」
 久しぶりにメール致します。神奈川県のSNさんからのメールを拝見して、おどろきました。なぜならば、私の思いとまるで同じだからです。最初に目を通したとき『これって俺が書いたメール?でも 俺書いてないしなあ』と思うほどでした。本当にビックリだったり感激だったりです。GT40と330P4に憧れTOYOTA7をこよなく愛する47歳、違いは、ラリーを少々やっていたこととノアに乗っている事くらいでしょうか。
 牧野さんのホームページをとても楽しみにしています。御苦労が多々あると思いますが、これからも宜しくお願いいたします。   
 WEB MASTER : 
 T様、お久しぶりです。
そして今でも私のHPを見て頂いているとのこと本当にありがとうございます。
SNさんのメールは本当に感激する内容でした。
その当時をリアルタイマーで過ごされた方は、塚越さんを始め、やはり同じ気持ちを持たれている方が多いのではないかとメールを頂いて思いました。
最近縁があって鮒子田 寛さんのHPを作ることが出来ましたが、やはりトヨタ系ドライバーに対する思いは、ニッサン系ドライバーの方々とは違って特別の思いがします。
あまり泥臭い(!?)というか完成されたというかそういう印象はなく、何か洗練されていて個性がある青年たちという印象が私は強いです。何か人とは違った事をする個性人の集団だったような・・・。
ということで、これからもこのHP宜しくお願いします。
ありがとうございました。
 16/OCT/2001  N.Sさんより頂いたメール紹介 「お久しぶりです。」
 前略。

以前お知らせした、富士スピードウェイの30度バンクのイベントの告知がなされましたので、お知らせいたします。
下記URLを参照してください。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~madhouse/30b11-18.html

今回で、最後となるようです。
よろしければ、参加してみてはいかがでしょうか?

以上、情報提供でした。
 

 WEB MASTER : 
 S様、御報告ありがとうございました。
細谷さんがゲスト参加なさるんですか!!とても素晴らしいイベントになりそうですね!
先日もこのイベント(!?)に出場するという方からメールがきました。
私は現在足なし状態ですのでとにかくこのイベントが成功することを祈っています。
ではどうもありがとうございました。
 15/OCT/2001  Aさんから頂いたメール紹介 「御挨拶」
 まきの 様

初めてEMAILを出させていただきます、Aといいます。
貴殿のHPを見させていただいて、大変な驚きと同時に、モデルカーレーシングに関しての非常に詳しい情報に、今まで忘れていたものがよみがえってきました。
当方も、その当時、「模型と工作」及び「模型とラジオ」は愛読していましたが、これらの雑誌は私に多大なる影響を与えました。
記事中、「モデルスピードライフ」という雑誌及び「モデルカーレーシング入門」が有ると言うことは知りませんでしたが、当HPで、存在を初めて知りました。大変興味深い書籍というのを感じさせられました。
また、ニッサンシルビアについての記事がありましたが、当方も中学生2年頃(1965年)にモデルレーシングカーを購入し楽しんだものでした。
その購入したのがニッサンシルビアを購入したのですが、それについての記事が掲載されていましたので、懐かしいのと同時に大変記事の詳しく記述されておりその当時の時代背景や製品についての内容が大変参考になりました。
今思うと、購入した理由は、動力軸にボールベアリングついたということで購入したのを記憶しております。
モデルレーシングカーは一年で興味を無くし、その後はラジコンに興味が移ってしまいました。

その後はモデルレーシングカーからは遠ざかっていたのですが、今から10年位前に、模型店に立ち寄ったら、HOサイズのモデルカーレーシングセットが有ったので購入し、少しの間楽しみましたが、その後ごぶさたしていたのですが、貴殿のHPで又興味をぶり返したしだいです。
モデルカーに関しての沢山の切り抜きや関連書籍及び雑誌を所持しておられるのにはびっくりしました。
それと同時に、それらは大変参考になっております。特にニチモのレーシングカーセットの歴史は感動ものです。

当方、子供の頃、モデルカー、鉄道模型、ラジコンに関しての切り抜きをして記事を集めたのですが、全て親に捨てられてしまいがっかりしたものでした。

現在、時々国会図書館にいきます。
理由は、模型と工作の創刊号から廃刊まで全てそろっているからです。もちろん全ての特集号もあります。
モデルレーシングカーの1集から5集まで。大変参考になっています。
最近、「模型と工作」及び「模型とラジオ」を収集を初め大分そろってきました。 書籍も少しずつ集まってきましたので国会図書館にいかなくてもすみそうです。

またニチモのレーシングカーセットも最近入手しました。

今後もぜひとも新しい情報お願いいたします。
詳しいモデルカーレーシングに間しての情報有り難うございます。
今後もモデルカーレーシングに関しての記事も宜しくお願いします、楽しみにしております。
 

 WEB MASTER : 
 A様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
1960年代のモデルカーレーシングと同年代の日本グランプリ等のモータースポーツは、私にとって本当に替え難い影響を与えてくれました。
今の私を形成しているほとんどのものがそれらのことがほとんどではないかと思ってしまうほどです(笑)。
A様が、私のHPを見て再びモデルカーレーシングに対して興味を抱いて頂けたという事をうかがっただけでこのHPを作った甲斐があったというものです。まさに主宰者冥利に尽きるとはこのことだと思いました。
来月にはシリーズで続けております「再現 モデルスピードライフ第3号」をUPできる予定ですので宜しくお願いいたします。
また、ニチモのホームサーキットに関しては、私がHPに記載した以外にも2種類がでていたことが最近判明しております。
1971年ごろに1966年ごろに発売されたBRM F1のボディを使用した(シャーシーは別ものですが・・・)レーシングカーが2台付いて発売されておりました。
モーターは、初期型がFT−16仕様、後期型がFT−16Dであったようです。シャーシーはアルミのプレス。ホーム・サーキットの内容は、初代の内容のままです。
 私個人としては、ニチモが初期に発売しておりました「マンタレィ」が大好きです。事実当時小学校五年生の時に初めてもらったのがこのマンタレィでしたので、とても思い入れがあります。
では、本当にありがとうございました。
 11/OCT/2001 S.Tさんより頂いたメール紹介 「はじめまして」
 ( PART 1) 
 私は現在37歳で、このHPの中心となる方々より、一世代遅いモータースポーツファンです。
初めて見たレースが、1976年のF-1inJapanですから、日本グランプリのことは、切れ切れの情報として頭にあるだけでした。
でも、「くるま村の少年達」に辿り着いて、やっと全容を把握する事が出来ました。
しかも、思い入れたっぷりの文章と当時の写真などにより、とても楽しく見させて頂きました。
お陰様で、すっかりその頃のモータースポーツにも興味が湧き、次の車は、当時のモノにしようか?などと企み始めてしまいました。

しかし、懐の軽い私には、当然グランプリに出ていたような車は買えるはずもありません(笑)。
そこで、大変不躾な質問ですが、日本グランプリのメインレースの他には、どのようなサポートレースがあって、どのような車が走っていたのでしょうか?
そして、もし、マキノさんの記憶に残っているような車があったら、教えていただけないでしょうか?

実は、知人の開催で、11月に富士のバンクでイベントが行われます。
その時に、その手の車で参加出来たらいいなー、とも思っていまして・・・・

ご多忙の上、あれだけのHPを作られているわけですから、お時間を割いて返事を頂くのは難しいかもしれませんが、手が空いたときに、ご一報頂けると幸いです。

では、これからも頑張って下さい。
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 ( PART 2)  「GT-RvsRX-3ですね!」
 やはり、GT-RvsRX-3ですね。
というか、「GT-RvsRX-3」という図式は知っていたのですが、なんとなく時代がずれていました(笑)。
牧野さんは、GT-RやRX-3が、実際にバンクを疾走する姿をご覧になっているわけですが、その手のツーリングカーがあそこを走っている姿なんて、凄すぎて僕には想像できません。
トヨタS800とかも、走っていたんですよね。うーん、すごいです。
レーサーだから当たり前かもしれないですが、ものすごい勇気が必要だったように想像されます。

話が前後しましたが、いろいろな車名を教えて頂いて、ありがとう御座いました。
大変参考になりました。

教えていただいた中では、RX-3とトヨタ・スポーツ800、トヨタ1600GTなんかに、興味を惹かれますね。チェリーX1Rなんかも、マニアックな感じがして良いです。
もちろん、GT-RやZ432も好きですが、僕の懐具合では・・・・(笑)。

ひとつ気になったのが、外車は出場していなかったんでしょうか?
まあ、実際には、GT-R等のワークスマシンには到底かなわないということだったんでしょうが、へんてこな車とか出ていたら、面白いかな?と。

牧野さんからメールを頂いてから、昔買った「ザ・タイムトンネル・サーキット」というAUTO SPORT増刊号を引っぱり出して、読み返してしまいました。
お持ちかと思いますが、昔のグランプリの話題から、ちょうど高橋徹選手が亡くなったところまでの出来事が、いろいろとまとめてある雑誌です。
僕の1975年以前の知識は、もともとその雑誌に寄るところが大きかったのですが、牧野さんのHP、メールを読んだ後だと、更に面白く感じました。

この本や、60〜70年代のCGなどの記事から、風戸選手は、生沢選手と並ぶスタードライバーという認識が僕の中に生まれ、「本物を知らないファン」となっていました。
今回、牧野さんのHPで、風戸選手も若い頃はツーリングカーなどに出場していたことや、プライベーターとしての信念を持った生き方などを知り、感激しました。
あの「レコード盤/レーサー/風戸 裕」の記事も楽しかったですし、本当に亡くなったのが残念でなりません。
でも、風戸選手が乗っていたというマツダ・プレスト・ロータリー・クーペとは、どんな車だったんでしょうか?
もし、なにかしら画像があれば、また教えていただけると嬉しいです。

と、またまた取り留めもなくメールを続けてしまいます。
僕は、3Dコンピュータグラフィックスを生業にしています(まだ、食えているような状態ではありませんが、ははは)。
近いうちに、僕もHPをアップする予定なので、その時には、3DCGで作った当時のビッグマシンの画像などを載せられたら面白いかな?と思っています。
なにか、リクエストがあれば、おっしゃって下さい。あくまで、趣味の範疇ですから(笑)。

今後もHPを楽しみにしています(最近知ったばかりで、まだ全てのページは見ていないので、こちらもじっくり読ませて頂きます)。
お体に気を付けて、頑張って下さい。
 

 WEB MASTER : 
 ( PART 1) のお返事
 T様、この度はまだまだ未熟極まりないHPを見て頂いただけでなくメールまで頂き本当にありがとうございました。
60年代から70年代初期の日本のモータースポーツをどうしても忘れられなく、クラス会の幹事(!?)のごとく始めたのが2年前でした。
最近は、下手な文章でも読んで頂けているようでTさんのようにメールを頂けると本当に主宰者冥利に尽きる思いです。
ところで、御質問の件ですが、私が特に印象に残っているサブイベントのレースカーは、やはりスカイラインGT-RとマツダサバンナRX-3の激突に尽きます。
当時は富士グランチャンよりも人気があったと思います。高橋国光選手と北野元選手、長谷見選手、そして、黒沢選手のGT-Rと片山義美選手、縦野選手のサバンナの争いが今も焼きついています。
1966年、出来たての富士スピードウェイを走ったツーリングカーといえば、やはりプリンス・スカイラインGT-B、ベレット1600GT、ブルーバード410、そして、トヨタ・スポーツ800でしょうか。
1968年になると、スカイラインがトヨタ1600GTに王座を奪われて、GT-Rが出来るまで、トヨタ1600GTはトップを守るわけです。
1970年代になると、1200ccのニッサンサニー1200やチェリーX1R、トヨタカローラ1200などのレースも白熱してきて、とても面白い戦いを展開していました。
その後、1600ccクラスが出来て、トヨタ・カローラ・レビン、トレノ、ニッサン・サニー・エクセレント、そして、セリカ1600GTなどの登場により、ますますツーリングカーレースは白熱の戦いが続けられるのでした。
そうそうフェアレディ2000、そして、240ZG、Z432なんかも忘れる事ができませんね!
もちろんトヨタ2000GTもチーム・トヨタから出場して数々の耐久レースに優勝していました。
とにかく、バンク付きの富士を走っていたツーリングカーたちはとても輝いていました。
私が印象に残っている車は、こんなものですが・・・。少しでもお役に立てれば幸いです。
では、バンクを走るイベントが成功することを祈っております。
ありがとうございました。
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 (PART 2) のお返事
 
> でも、風戸選手が乗っていたというマツダ・プレスト・ロータリー・クーペとは、どんな車だったんでしょうか?

書き忘れておりました。
マツダの富士SW登場に際して、それ以前より海外のレース特にニュルブルクリングやスパ・フランコルシャンの耐久レースに積極的に参加していたマツダ・ファミリア・プレスト・ロータリー・クーペが富士に初参戦してきたのは1970年5月3日のJAFグランプリでありました(マツダはこの年のスパ24時間耐久レースでBMW、アルファ、フォード・カプリなどの強豪に交じり、終盤までトップでいたが最終的には5位となる)。
片山義美、武智俊憲らの手によりツーリングカーの王者であるGT−R(高橋国光、黒沢元治ら)に初挑戦し、富士のストレートではGT−Rを圧倒しながら、コーナーで追いつかれるというデッドヒートを展開し、3位に初入賞しました。私は、このプレスト・ロータリーはRX−7より好きでした。
その後マツダ(当時東洋工業)は、関西のマツダ・ファクトリー(片山率いるチーム・木の実)と東京マツダ・オート(寺田陽次郎)の2チームからの挑戦が始まるのでした。
1971年にプレストに変わる主力車種として、当時発売されたマツダ・カペラ・ロータリーが登場、富士GCのサポート・イベントでGT−Rに挑戦したがかなわず、遂にその年の後半には最新のRX−3が登場ということになるのでした。
 

> ひとつ気になったのが、外車は出場していなかったんでしょうか?

 1966年の日本グランプリには、特殊ツーリングカーレースにポルシェ911が出場していました。そして、ミニ・クーパーSなども出てましたね!それから1967年の日本グランプリにはグランド・ツーリングカーレースにロータス・レーシングエランがフェアレディ2000とデッドヒートを続けていたのも忘れる事が出来ません。
1968年の日本グランプリ クラブマンレースにはフィアット・アバルトが出場しており、1969年のミニ・クーパーSを最後ぐらいとして、外国製ツーリングカーは姿を消してしまいました。
 

> 近いうちに、僕もHPをアップする予定なので、その時には、3DCGで作った当時のビッグマシンの画像などを載せられたら面白いかな?と思っています。
> なにか、リクエストがあれば、おっしゃって下さい。あくまで、趣味の範疇ですから

 素晴らしいですね!大変楽しみになってきました。
頑張ってくださいね!私に出来ることでしたらなんなりとおっしゃってください。
当時のローラT70なんか3DCGで特集したら面白いのでは!?
では、これからも宜しくお願いします。

 08/OCT/2001  神奈川県のS.Nさんから頂いたメール紹介 「大感激!!」
 牧野さんはじめまして、茅ヶ崎に住んでいますNと申します。47歳、職業は建築の設計をしています。
何気なく、トヨタ7で検索したら!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!
大大感激で有ります。小学校4年で運転をはじめて以来のトヨタファン、47年生きてきて本当にずっとトヨタファンでよかったと思いました。
私は60年代から70年代前半のモータースポーツをこよなく愛するものです。部屋の壁にはフェラーリP3・フォードGT49・チャパラル・トヨタS800・・・・・・・・・・・・・、などの写真やこの前車馬鹿の友人の佐々木から借りてきた第3回日本グランプリが載っているカーグラフィック他があります。
何と言っても大感激していたのは福沢幸雄が乗って袋井のヤマハテストコースで事故死してしまった3リッタークローズドボディーのトヨタ7です、この写真はオートテクニックに載っていたものでしょうか、探していた写真を見つけて本当にうれしかったです。大ファンだった幸雄に会えたような気がしました。その他の写真も最高です。
このころのボディーなんて、風洞テストもせずによくやってたものですね、まるでレーサーは特攻隊ですよ、今とは大違いですね、あの頃のオートスポーツ・オートテクニックが懐かしいです、週刊号になったオートスポーツは最低!250円でも高いくらいです。三栄書房のオートスポーツが懐かしいです、ぜひ復活してほしいのです。
トヨタ7の5リッターターボのボディーを昔何かのショウで触りました、ぺらぺらでした。
私は、今から30年前に初めてレースに出ました、サマーランドで開かれた、レーシングカートのレースです、結果はリタイア、その後カーレルというメーカーチームの2軍にいました。
今でも虫が騒いでレンタルに乗りに行きます。夢はカートのサーキットを作るか、1600ぐらいのスポーツカーを作って見たいです。
もちろんホイールはワタナベのBタイプがいいなと考えています。今乗っているのは仕方なくハイエースです、欲求不満になるとダートに言ってハイエースでカウンター切っています。
宝物は、ホンダのモンキー(初期型と2代目)です、モンキーだけはライバルのホンダであっても大好きなのです。
話が感激のあまりめちゃくちゃ(いつもめちゃくちゃ)ですが、また、メールおくります。今日はトヨタ7の夢をみて、幸雄に会って、福田良がトヨタF1に乗れるようにお願いして見ようと思います。では、おやすみなさい。
 WEB MASTER : N様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂き本当にありがとうございました。
Nさんは、私と同じ47歳(私は昭和29年12月生れですが・・・)ということですね!同じく輝く1960年代をリアルタイマーとしてすごしていらっしゃったわけで、HPにより少しでもあの良き時代の日本グランプリ等を思い出して頂けたことで私もこのHPを作った甲斐があったと思いました。本当に主宰者冥利に尽きるメールを頂いて感激しております。
ところで、先日縁があって福沢さんととても親しかった同じくトヨタのドライバーだった鮒子田 寛さんと知り会うことが出来ました。
その後私からなんとかお願いして鮒子田さんのHPを開設する事が出来ました。
もし、お時間がありましたら「鮒子田 寛レーシング・ヒストリー」HPに立ち寄ってください。
では、本当にありがとうございました。
 01/OCT/2001 Tさんから頂いたメール紹介 「質問です」
 はじめまして、私 T と申します
以前私は横浜で13年ほどシェルビーコブラの輸入販売の会社をやっていました。現在は、静岡の裾野市にてコブラやGT40などの輸入販売の会社を今年スタートしました。
あなたの HP を見て感激しました。
ところで、デイトナコブラが側道に突っ込んでしまっている写真がありますが、あれは何の時のものですか?
おわかりでしたらご連絡ください。
 弊社の HP も是非ご覧下さい。
www.tenmagallop.co.jp
 WEB MASTER :  T様、この度はまだまだ未熟極まりない私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
長年コブラ(シェルビーですか!!)の販売をされていたとのことですが、まさに、歴史の遺産を継承されているのですね!!
ところで、御質問のデイトナ・コブラの写真ですが、この写真は、1965年に放映されたアメリカ映画「レッドライン7000」(ストックカーレースを題材にした傑作映画・・・と私個人は思っておりますが・・・)の中で、登場人物の1人が自家用車代わりに(!?)乗っているという設定の中(凄い事ですが!!)で、途中事故でわきに落ちてしまうというところの場面なんです。
レッドライン7000の映画も企画ページにしていますので良かったら立ち寄ってください。
これからもどうか良きアドバイス等お願いします。また、御商売が上手く行く事をここから祈っています。
ありがとうございました。