2007-2008年度皆様からの御便り紹介

TOP : Hiroshi Fushida and his Toyota-7 in '05NismoFestival.
(C) Photograph by Bon Makino.
皆さんのご意見を載せさせていただくコーナーを作りましたので、よろしくお願いいたします。

1999年12月までの皆さんからのメール

2000年5月までの皆さんからのメール

2000年12月までの皆さんからのメール

2001年5月までの皆さんからのメール

2001年9月までの皆さんからのメール

2001年12月までの皆さんからのメール

2002年8月までの皆さんからのメール

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2004年12月までの皆さんからのメール

2005年12月までの皆さんからのメール

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11/SEP/2008  Kさんから頂いたメール紹介

 初めてメールいたします、実は私も1960年70年代(正確には1973年まで)のモータースポーツファンでした。
なぜ’73年までか?と申しますのも’63年の第1回日本グランプリに始まったモータースポーツ黎明期においてレースとは、レーシングカーとは何なのか、明確な情報、技術など何の知識も持たなかった『レーシング村の青年たち』(後の名コンストラクターの方々)が試行錯誤して作り上げた夢の形。
 純国産のしかも本格的レーシングカーが花開いた時期が1970年から73年のFJ360(FL500)、それと一部のFJ1300かと思うのです。
残念なことに、73年以降、純国産FJ1300に対抗すべく資金力に勝るチームがマーチだのGRDだのと高性能マシンをのべつ幕なしに輸入し私し的には興味が薄れるきっかけとなった訳です。 アンチ輸入レーシングカーですが、純国産マシンの礎となった葉巻型ブラマムフォーミュラーやポルシェ904.906.910.908やローラT70.160、そしてマクラーレンM12等、ニッポンのレーシング史の中でも燦然と輝くこれらの輸入レーシングカーたちは重要な役割を果たしたのではないかと思っております。実は’71.’72年と自分の父親がFL500のエントラントをやっていたのも純国産レーシングカーびいきなのかもしれません。

 前置きが長くなりましたが,この『くるま村の少年たち』を拝見し,懐かしくそして感動しています、今では伝説となたレーサー、マシン,名勝負、そして、そして当時は明かされなかった秘話、実話(自分が知らなかっただけ?)等々、知るたびに私の脳がアハ体験しているのです。
 こんな立派なサイトを立ち上げ、そしていまもなお育んでいらっしゃる。そのバイタリティーには頭が下がるおもいです。
私はといえば現在、懐かしのレーシングカーのその後と閉鎖されたサーキットについて興味があり色々調査中ですが只今、難航中です。
牧野さんに分けていただいた感動を糧とし、何とか現状を打破したいと思います。もし何か進展があればまたメールしたいと思います
 

WEB MASTER : 

 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
K様、この度はメールを頂いただけでなくHPにも立ち寄って頂き誠にありがとうございました。
そして、60年代から70年代初頭の日本モータースポーツを愛する気持ちがひしひしと伝わってくるコメントを頂き感激しております。
また、お父様がFL500のエントラントをされていたということ、なんと羨ましい限りです。
さらに閉鎖されたサーキットを探査されているとのこと、ぜひ何か分かりましたらお連絡頂ければ幸いです。
では、今後ともよろしくお願いいたします。本当にありがとうございました。
 

03/JUN/2008  Nさんから頂いたメール紹介「初めまして」

  「くるま」村の少年たち何度も拝見させて頂きました。
私は1950年生まれですので少し年齢は上なのですが全く趣味としてスロットレーシングとモータースポーツにのめり込んでいた時期があり懐かしくも嬉しくもあり機会がある毎にHP拝見させてもらってます。
 さてスロットレーシングなのですが私は大阪在住の為当時南区(今の中央区)にあったボウルコンパ内のサーキットに学校帰り日々通っていました。そこの社長がプリンススカイラインスポーツのましてオープンに乗っておられコンパの代表に選ばれて関西選手権等公式レースに遠征の際には憧れの車での遠征と言う思いでも残っています。残念ながら軽免許所得後はホンダN360に夢中になりスロットレーシングとは離れてしまいました。 その後ジムカーナ スズカのレース等参戦(成績は度外視)HPに出てくるなつかしのドライバー達を憧れの目で見ていたものです。
モータースポーツも体力の衰えと共に1999年のドラッグレースで終わってしまい今は月に一度近くのサーキットをロードスターで走るのが唯一の楽しみです。
そうそう先日スロットレーシング数十年ぶりに体験してきました。なんと我が家の近くにサーキットが出来ていたのです、まぁ昔とは大違いと言う事はさておき楽しく遊んできました。でも残念ですがのめり込む魅力がなかったのも事実です。
長々と本当に失礼致しました。今後ともより楽しいHP期待しています。
 

WEB MASTER : 

 この度は私のHPに立寄って頂いただけでなく、メールまで頂きありがとうございました。
私より先輩でありますN様のスロットレーシングとモータースポーツのお話をお聞きしているだけで大変羨ましくもうきうきするような気持ちにさせて頂きました。
当時(1965年ごろ)の2歳から4歳の差は大きく、小学校5年生でありました私は、中学生や高校生の先輩たちがスロットサーキットや実際のサーキットに出かけることが大変羨ましく感じておりました。
そして、1998年ごろからこのHPを開設させて頂いてから、ご縁あり、当時のドライバーの方々やモータースポーツに関わられた方々に出会うことが出来、また、スロットカーチャンピオンの方々などとも現在のスロットカーレースを一緒にさせて頂いたりと、幼年期の夢をなんとか実現させていただいていると言うのが現状であります。

 コンパという言葉はとても懐かしく感じました。コンパというクリヤーボディメーカーがありましたね!N様が言われていたサーキットのオリジナルボディなんでしょうか?
では、今後ともよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
 

 23/FEB/2008 Kさんから頂いたメール紹介「ファッション村の少年たちを見て」

 大変唐突に、しかも突然に失礼いたします。
私は今年、50歳に突入します。お察しするところ、お宅様は、53歳?ぐらいだなと思いました。年齢のことから入り申しわけございません。特に1670年ー1976年頃というのは、
黒のTシャツ・白のYシャツ+Gパン+黒・茶・紺のナイロンの薄手のソックス・ハイソックスを穿いて、サンダルや、ローハーの靴、スニ-カ-を穿いている18歳から20歳の若者男性は、沢山いましたね。私も、その様な服装にあこがれて、昭和52年以降したものでした。今も似たような服装をします。私は、中年ライダーですが、Gジャン+黒の綿素材のタートルネックセーター+Gパン+黒や茶のナイロン薄手のハイソックスを穿きこのような服装でバイクに乗ります。バイクに乗る乗らない関係なしに、このような服装をしている若者は、おおかったですよね。お宅様が着ていらした、ニコルのピチTシャツにもあこがれました。今でも同じような物は、あることはあるのでしょうが。
上記に書き記したような、写真を数多く見たいなと思った次第です。このような、服装をした、若者の写真を参考に見たいと思ったら、古本、古雑誌の中で、メンズクラブや男子専科30年前?40年前のものを探せばいいのでしょうか?
何か、ご存知でしたら、教えて下さい。「ファッション村の少年たち」に登場してくる20代の若者の服装を見て、私があこがれていた、服装をした若者がいましたので、嬉しく思いました。以上感想とご教示頂きたいことを、書き記しました。
以上、失礼申し上げました。お許しください。
また、よろしくお願い致します。

追伸=今でも、あの当時のファッションをはやらせることができたらと、大それたことを考えるこのごろです。それには、清潔感あふれる若わかしい、スマートな男性にならなければだめですよね。

 

 WEB MASTER : 

 K様、このたびはメールを頂き、さらに番外編として書かせて頂いた「ファッション村の少年たち」に立ち寄って頂き重ね重ねありがとうございました。
ご察しの通り、私は昭和29年生まれの53歳の中年オヤジであります(笑)。1960年代?70年代初期を日本グランプリやオートスポーツ誌、そして、スロットレーシングに明け暮れ、さらに1970年代中盤をヨーロピアン(コンチなどと当時は言っていましたが・・・)ファッションに夢中になり楽しい時代を過ごさせて頂きました。
当時のファッションに似たようなものは、仰るとおり現在でも探すことが出来ると思うのですが、時代背景がかなり違うので原宿を優雅に歩くなどと言うのはとても無理なような気がいたします。携帯電話のない時代。時間にゆとりがありましたね!ある意味ではもっと緊迫感があったような気もいたします。
当時のファッション雑誌等をさがすのであれば、東京 神保町の本屋街を探すしかないのではないでしょうか。
男子専科などはほとんど見ませんが、きっとあると思いますよ!後は当時の音楽関係の本を探すことも良いかもしれません。
デビッド・ボウィやTレックス、加藤和彦etc。シューズもロンドン・ブーツが懐かしい!!スーパーベルボトムやスーパースリムなんかに合わせてもう気分はデビッド・ボウィでした。
ということで、懐かしいお話ありがとうございました。
では、今後ともよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
 

 05/DEC/2006 Sさんから頂いたメール紹介「HP拝見しています」 

  はじめまして、私は千葉に住むSと申します。牧野様のHPはかれこれ1年以上前から知っており、大変楽しく拝見させていただいております。私は昭和36年生まれの45歳ですが、それこそ幼稚園のころからの車好きで、レースの原体験はかつてTVでやっていた海外のレースを紹介する番組でした。このとき見た『チャパラル』の雄姿と、おそらくインディーで起こった事故で、バンクで何台もの車が弾き飛ばされるシーンが、今でも“白黒で”心に焼き付いているのですが、これが“世紀のデッドヒート”だったんだと、このHPで確認することが出来ました。

 牧野さんのHPにある出来事は私の原体験そのものと言ってよく、(あっ、でもなぜか船橋の記憶はないですね。日本のレースでは’68年日本グランプリが最初かなあ)文章を拝見しながら「そうそう、あった、あった」の連続です。(それにしても子供のころの記憶力ってのはすごいもんだと我ながら関心してしまいます。)

 本当はお話したいことがたくさんありすぎるのですが、私はPCに不慣れで、メールを打つのがめちゃくちゃ遅いのです。なので今日はお知らせしたいことのみを書かさせていただきます。

 それは『デイトナコブラ』のことです。この車、日本でナンバーがついて公道を走っていた事はご存知でしょうか?おそらく私が中3のころだから’76ころのことだと思います。
その当時はB5サイズだった『ドライバー』誌で、「あのデイトナコブラ発見」のような特集記事が出たのです。名古屋か京都か?で発見されたその車は、公道を走るためにオーナーがATに変換していました。で、その車を乗りにあの酒井正が訪れ、当時を懐かしむといった内容でした。確か白黒で2ページ程度の記事でしたが、トップには酒井が運転席に座りハンドルを握っている写真(だったかな?)に、同じアングルで、現役当時のコブラに座る酒井の古い写真を挿入した紙面には、こんなことが書かれていたと記憶しています。
「’67年、ポルシェでのバンク事故以来、自分はレースが怖くなってしまっていたが、そんな思いをおしてコブラでレースに出た。ハンドル、ブレーキ、何もかも重い操作を力でねじ伏せながらレースを進めたのだが、結局はその重さが恐怖感を消し去ってくれた。自分がレースを続けられたのはこの時のコブラのおかげだ」なにぶんこの雑誌が手元にないため曖昧ですが、おそらくこんな趣旨であったと思います。

 で、この記事の少し後、私はこの車を東京で発見します。場所は等々力で。そうその当時、私は実家の世田谷から自転車で『等々力スピードウェー』に通う“スロットカー少年”だったのです。

 時はスーパーカー時代、環8にあるその店には、確かポルシェの930ターボとアストンマーチンDB5?かなんかが一緒にありました。私は店の人に聞きました。「これってこないだドライバーに載ってたデイトナコブラですよね」「ああそうだよ」「これっていくらなんですか」「***万円だよ。でもこれ、外人が買ってったよ」

 この“***万円”は本当に残念ですが記憶していません。でも間違いなく当時のカウンタックよりは安かったのは記憶していますので7?800万程度ではなっかたのではと推測します(もしかすると4?500万だったかも!)。そして“外人が買ってった”。まあそれがキャロル・シェルビー本人って事はないでしょうが、こうして国宝級の車が海外へ流失したということを思うと、「あの時に戻れたら借金してでも絶対自分が買ったな」とアホなことを考えてしまいます。そういえば、あのイラストレーターの“BOW”氏が、むかし公道を走るデイトナコブラを見たことがあると雑誌に書いてあるのを読んだことがあるので、おそらくこのころではないでしょうか(等々力はカーマガジンの本社の側ですしね)。

 そんなわけでくだらないことを長々と書いてしまいました。また、メールをさせていただきたく何卒よろしくお願いいたします。

 そうそう最後に、私、’68年日本グランプリのレコード持ってますよ。なにぶん子供のころに買ってもらったものなので傷だらけで、何より今は手元にプレーヤーがないので聞けませんが・・・。

 それでは。
 

 WEB MASTER : 

 S様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。
そして、本当に当時の国内外のレースがお好きだと実感出来る熱いコメントも頂き、このHPを作って本当によかったなぁ〜とつくづく感じている次第です。ありがとうございました。
最近イデア社より「レース100選」なるものが発売されていますが、5-6年前までは60年代の国内外のモータースポーツを扱う雑誌やウェブサイトなどなく、まして60年代に一世を風靡したスロットレーシングを取り上げるなど皆無に近い状態でありました。当時無職でいました私は何か自分に出来ることはないかと思いSさんと同じく幼年時代から好きだったこの題材をなんとかHPに出来ないだろうかと思いたち初めさせて頂いたというのが開設したきっかけでした。
さて、デイトナコブラの街道レーサーの件、私も色々な方よりその話をうかがいました。「ドライバー」見たかったですね!
そして、68年日本グランプリのレコードをお持ちとのこと、羨ましいですね!私はこのレコードだけどうして購入できませんでした。最近DVDでニッサンの資料を中心にした60年代日本グランプリが出ましたが、68年と69年のグランプリはかなり長い映像を見ることが出来て良かったですが、その他はニッサンが勝っていないのでなしというなんとも首を傾げてしまう内容でした。まあ、映像が見れるだけでも良いとしなければ・・また、発売されたというだけでも良かったと思うべきでしょうね!そういえばニッサンR383がレストアされて走ったようですね!
長々となりましたが、今でも等々力にありますレーシングパラダイスというスロットカーサーキットで定期的に60年代のCAN-AMとかル・マンとかのレースを仲間と一緒に(みんなオヤジですが・・・笑)行っています。
では、今後ともどうかアドバイス等頂ければと思っています。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。
 

13/NOV/2006  Tさんから頂いたメール紹介「F1 生沢号」 

 生沢さんの大ファンです。鈴木亜久里さんはF1チームを立ち上げ凄いですが興味はないです。生沢さんファンは生沢F1号がグリッドに並ぶことに支援や応援を望みます。それほど生沢さんは魅力的な国際的視野をお持ちの方で、何らかの形で生沢さんにグリッドに並んでほしいと思います。1960年代からの日本自動車工業会で彼ほどのカリスマ的存在感の方はいらっしゃらないし日本のトヨタや本田などは国際企業として世界を股に活躍された生沢徹さんを何らかの形で彼を支援してほしいです。トヨタと本田の現在戦うF1挑戦はカリスマ的人材が見当たらず魅力がありません。大人が選ぶF1に参加してほしい人NO1は生沢徹さん以外いませんし彼ほど絵になる、存在感ある方はいません。鈴木亜久里さんの次は生沢徹さんにF1グリッドに並んでほしいです。
小学生の時、生沢さんドライブのポルシェカレラ6がカッコよくて車が好きになりました。中学校に入りカレラ6のドライバーが生沢さんであることが解り、AUTO SPORTS誌を読み、初めて生沢さんである事を知りました。   
その時生沢さんはヨーロッパF2を転戦中で当時日本で一番生き方のかっこよく、憧れの大スターレーサーでした。あのころ世界を相手に外国で活躍してる方は見当たらず、単身ヨーロッパでF?1を目指した生き方に尊敬を持ちそれ以来ずーと生沢ファンです。
 現在鈴木亜久里さんがF1チームを立ち上げ活躍中ですが、僕が一番F1パドックに居てほしい方は、生沢徹さんです。……F2当時生沢選手は非力なエンジンで戦い、よく2位を取れたと思います。今を例えれば、佐藤琢磨さんが今年2位を取ったのと同じ価値 のある活躍ですし、当時マーチBMWが最強でそれ以外は勝てませんでした。
 生沢さんはLOUTSU69,GRD272,GRD273,でワークスBMWやワークスコスワースに挑みましたがプライベータではかないませんでした。もしマーチBMWを得ていたら数回は勝てたと思います。その後国内でGRDS74Fで79GCチャンピョンを取られ日本人では珍しいオーラを放つ魅力的なレーサーで今もおしゃれなジェントルマンでカッコイイ男性です。

WEB MASTER : 

 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
T様、このたびはまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
そして、熱意ある当時の思い出などを書いて頂き本当に胸を打つ思いであります。
生沢さんのHPを生沢さん公認のもと作らせて頂いている関係で生沢さんともお会いする機会があり、すでに還暦をすぎていらっしゃるとはとても思えない若さでお嬢様とも一緒に活躍されています。現在はマウンテンバイクの開発や自動車関係のパーツ開発などいろいろな分野で活躍されています。
モータースポーツについても谷さんがおっしゃっていることは少々違いますが、TEAM IKUZWAとして活動されています。生沢さん自身の行動をみますと、今後の人生を家族と共に楽しんですごして行きたいと思っておられるようにも感じられます。そんな生沢さんを私はとっても応援して行きたいと思ってしまいます。
そして、60年代を駆け抜けた日本人ドライバーの方々の活躍をこれからもHPという土俵の上で書き続けていこうと思っています。
では、今後ともよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。

 18/OCT/2006 Kさんより頂いたメール紹介「感激しました!」 

 牧野様、貴ホームページは数年前より何度も読み返しては感激しておりました。

特に、私の心の師匠、生沢徹氏に関しての記述は、私のノスタルジー及び私の車好きの原点をグリグリ刺激して止みません。当時は、私も小学生、記憶違いなどもありましたが確認することができました。2000ccで5000ccの車と対等に渡り合う、柔よく剛を制す。憧れました。
今ようやく、昔からやりたかった事を、ある種吹っ切れたように実行いたしました。
フロントボンネットにV字型の赤いラインを引いてしまったのです。この車で何度か、富士スピードウェイも走っております。バンクを走れないのだけが心残りですが・・・。

ところで、実は、私もいい歳になりながらこの度、ブログなる物を始めました。
前述の私の愛車の写真も載せてありますが、問題はこのラインについて今の若者が「アリナミンVですか?」とか「マッハ号だ」とか頓珍漢なことを言うばかりで、誰も生沢徹氏の事を知りません。

そこで、是非、貴ホームページへのリンクを私のブログに掲載したいと思い、メールした次第です。是非、宜しくお願いいたします。

私のブログはhttp://carlife.carview.co.jp/userprofile.asp?userid=231159こちらからご覧いただけます。
何卒、宜しくお願い申し上げます。

 

 WEB MASTER : 

 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
K様、お返事が大変遅れましてすみませんでした。
仕事で出張中のためPCをさがして今お返事を書いているところです。
そして、なによりも私のまだまだ未熟なHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂きありがとうございました。
生沢 徹のVライン見させて頂きました!!よくぞ!という感じであります。
リンクの件はもちろんOKであります。
生沢さんを知らない世代が多い今日。次世代に伝えることが使命(!?)かと勝手に思い込んだのがこのHPの原点でありました。
K様のように感激していただけたことがなによりの喜びと感じております。
では、これからもよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
 

 18/OCT/2006   Mさんから頂いたメール紹介「40年前」

 小学校5年生の時、白黒テレビで第3回日本GPを見た記憶が思い出されます。秋田書店発行の池田英三著「世界のレーサー」で当時の F1等の情報を得たものです。
ジム・クラーク、グレアム・ヒル、ジョン・サーティース。フォードがルマンを制し、ホンダが活躍してました。カレラが競争と言う意味を知ったことも。あれから40年、50の親爺は260馬力の車に毎日飽きもせず、安全運転の日々を送っています。
 

 WEB MASTER : 

 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
M様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、当時の思い出などもお寄せ頂きありがとうございました。
私も昭和29年生まれの51歳のオヤジでございます。
私も小学校6年の春に第3回日本グランプリをテレビで見てから現在までモータースポーツにドップリの人生を送っております。
どうかこれからもこのアマチュアのホームページを応援お願いします。そして、お気づきの点などご意見もお寄せ頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
 

 04/JULY/2006   茨城県にお住まいのSさんから頂いたメール紹介 「三村健二さんのマナ09」 

 こんにちは「くるま村の少年たち」を楽しく当時を思い出しながら拝見させていただきました。当時は本物のレースは出来ませんでしたが、12分の1のラジコンカーを楽しんでおりました。結局それに飽き足らず、42才の時に国家公務員を退職して、クラシックカーのお店を開いてしまいました。そして、今、税理士業務の合い間にクラシックレーシングカーのレストアをいたしております。
 其の内の1台がMANA09です、今年の11月のネコには走れそうです。
それから当時のGCマシンでシェブロンやローラとありましたがもう一つ嬉しいことを教えます、鮒子田様が乗っていたオンワードCHEVRON B21Pもレストアしております。
これからも楽しみにしております。
 

 WEB MASTER : 

 S様、このたびはまだまだ未熟な私のHPに立ち寄っていただいただけでなく、メールまで頂きありがとうございました。そして、なんとも羨ましい!素晴らしい情報を頂きまして感激です!
マナ09、および鮒子田さんのオンワードスペシャルが現存しているとは本当に素晴らしい事です。
外国と違い、日本ではメーカーは別として当時活躍したマシンをレストアして再び走らすという事があまり無いように感じていましたから鈴木さんのレストアは本当に素晴らしい事だと思っています。
そして、ぜひ完成させて当時のドライバー(鮒子田選手や従野選手!?漢字まちがっているかなぁ?!)に乗って走らせて下さい。
当時のGCのマシンも各地にまだあるみたいなので、是非シェブロンやローラなども当時のカラーリング、そしてオリジナルなドライバーによるヒストリックイベントが出来たらと思っています。
 

 06/APR/2006   Kさんから頂いたメール紹介 「中年の独り言」 

 はじめまして小生1958生まれ当年とって48歳なるレ-ス好きな輩であります。貴殿のHP楽しく、懐かしく、拝見させていただきました。60〜70年代のマシンはすばらいですね!
私は1976〜1993年までは鈴鹿へ足を運んでおりましたが、最近のレ-スに興味が薄れご無沙汰しているしだいです。
 小生の趣味は1/43モデルを集めており老後はレ-ス名場面のジオラマを製作し写真に残こせれば良いなと考えております。
 *KPGC10(高橋、長谷見)の富士30バンク ランデブ-走行シ-ン
 *1969 富士日本GP #21R382 VS P917ヘヤピンシ-ン
 *1964 式場P904 VS 生沢54B 鈴鹿立体交差ヘアピン
すき放題勝手な事を書きましたがこれからも頑張って下さい。
 

 WEB MASTER : 
 
 K様、私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
確かに60年代70年代初頭の日本のモータースポーツは熱気が有り、ドライバー個人のスター性は今とは比べ物にならないほど高かったと思います。
特に日本グランプリでは今のF1よりも注目度は高かったのでは思ってしまいます。もし機会がありましたら久保田様の写真なども拝見させて頂ければと思っております。
では、これからもどうかアドバイス等頂ければ幸いです。
 ありがとうございました。
 30/JAN/2006   鷲巣さんから頂いたメール紹介 「福沢幸雄のトヨタ2000GT」 

 ほぼ同年代、しかも自分がモータースポーツに狂っていた頃に重なる話題ばかりで、楽しく拝見しています。今回は初めてのお便りながら、ひとつお尋ねします。最新号の模型自動車雑誌グラビアページを、ゼッケン17をつけた深緑の2000GT第3回日本GP仕様車のモデルが飾っています。本来福沢幸雄の乗る車だったとか。そう言えば幸雄、出てなかったなあ。その辺りの真相を御存知でしたら教えて下さい。もちろんウェブサイト上で結構です。

 WEB MASTER : 

 この度はまだまだ未熟なHP「くるま村の少年たち」に立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
早速ですが、福沢幸雄の深緑のトヨタ2000GTについてですが、MC誌ですね!
 1966年、出来たばかりの富士スピードウェイで行なわれた「第3回日本グランプリ」に出場するため、この年から正式に発足した「チームトヨタ」はプロトタイプクラスに翌年発売を予定していた「トヨタ2000GT」のプロトタイプを3台エントリーしていました。
                                      1)細谷四方洋 赤 
                                      2)田村三夫 シルバー
                                      3)福沢幸雄 ダークグリーン
 この内福沢幸雄は、この年にいすゞからチームトヨタに移籍した新人でした。そして、グランプリ出場をめざして富士でトレーニング中、ヘアピン走行中にガソリンがもれているのに気づいた福沢は、急いでピットに入り、キーをOFFにした時、ライトも消えたのでフラッシャーライトをONにしたとたん火花がガソリンに引火しトヨタ2000GTは炎上、そして、福沢は火傷で4週間入院することとなり第3回日本グランプリ出場は幻となってしまいました。というのが深緑のトヨタ2000GTの真相です。
では、これからも良きアドバイス等頂ければ幸いです。 ありがとうございました。