TOP : #1 Kenjiro Tanaka( LolaT70MKIII ) and a winner Hiroshi Fushida ( Toyota 7 ) at Fuji 1000Km in1968.
THE ROOM OF YOUR MAIL 
皆様からの御便り紹介



IN THE YEAR 2003 


 皆さんのご意見を載せさせていただくコーナーを作りましたので、よろしくお願いいたします。

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 20/SEP/2003   Dr.Qさんより頂いたメール紹介「Midori Lola」

 前略

楽しく時間も忘れ、拝見させていただきました。

私は年齢的にスロットカーの蜜月を経験してはいないのですが、プラスチックボデーに金属のシャーシにあこがれて、収集をはじめました。

ドイツ、STABOのキングコブラのボックスの写真など興味深いです。

ミドリのローラのTWINキットとローラのキットの写真送りますので、参考になれば幸いです。

TWINキットのローラはヘッドライト点灯可能でバルブもセットされています。
シャーシはアルミのサイドワインダーです。
同包のコブラも賞賛されているように、色、プロポーションとも私もすばらしいと思います。

一方のローラは所謂パイプシャーシのインラインです。こちらにはバルブはセットされてません。ただし特別にスポンジタイアが余分に入っています。
実践向きなキットと思われます。

それではまた楽しみ拝見させていただきます。

写真あまりよくなくてすいません。


TOP : Midori Shoukai's Lola 70 kits.
(C) Photographs by Dr.Q.
 WEB MASTER : 

 この度はメールまで頂きありがとうございました。
ミドリのローラの大変貴重なキットを見せていただき本当に感謝感激であります。
このようなキットがあったとは知りませんでした。
以前知人が外国からミドリのローラのジャンクを手に入れましたところシャーシがアルミでした。
当時のミドリのキットではパイプフレームでしたから、これは同社で発売していたクリヤーシリーズのシャーシを無理やりつけたのでは思っていたのですがこれでなぞが解けた気持ちです。
これからもどうかアドバイス等よろしくお願いします。
ありがとうございました。

 08/SEP/2003   S.Wさんから頂いたメール紹介「風戸 裕さんについて」

 はじめまして。
1991年からメチャF1にはまりF1関連雑誌も300冊位は持っています。
きっかけはセナです。
そんな私が昨日、何故あなたのHPにたどり着いたかと申しますと、そのF1雑誌で以前、風戸裕さん(連載3回)と桑島正美さん(連載4回)(現在どうしていらっしゃるのでしょか???)生沢徹さん(連載4回)の特集をされた事があって、それまでは名前も存じない風戸裕さんに大変興味を持ちました。
それから数年もう一度その記事を読みたいと思いましたが、何時頃のどの雑誌か曖昧で、膨大な雑誌の中から探し出すのは大変だと思い、もしかしたらひっかかるか
も?と 色々検索していて、あなたのHPへたどり着きました。
結局その雑誌は自力で探し出しました。なんと12年も前の物でした。日記のように書き残した物も載っていました。
もっと風戸さんの事が知りたくて、延々とYOUR MESAAGEのコーナー他を読み続けました。
某検索サイトのとある質問コーナーに「故、風戸 裕(レーサー)の店(飲食店)が都内にあると聞きました。奥さんが経営してるらしいのですが・・・?」
と言うのを目にし、私の中の風戸さん情報はその雑誌の連載のみなので、☆えっ?風戸さんって結婚していらっしゃったの???(?_?)と目が点になりました。
「風戸裕さんは結婚していらっしゃいましたか?」←(質問1)
いつか行ってみたいと思っていた甲府の風戸さんの行きつけだったメモリアルホールにもなっていたピットインは拡張工事で取り壊されたそうですが(YOUR MESAAGEで見ました)、展示してあった(ニュージーランドへ渡った車以外)風
戸さんの遺品は今どこかで展示されているのでしょうか???←(質問2)
お手数お掛け致しますがご存知でしたら教えて頂きたいです。
気になって気になってしょうがないのです。
風戸裕さんのHPって何処にも無いんです。
以前発売された追悼写真文集「レクイエム風戸裕」(絶版)見てみたかったです。
きっと風戸裕さんの事が沢山知る事が出来たでしょうに残念です。
沢山の事をご存知のあなたにお伺いするしかないと思いご迷惑でしょうがメールさせて頂きます。
出来れば風戸さんのフォトギャラリーとかアップしてほしいです。
もっともっと風戸裕さんという人を沢山の人の記憶に残したいです。
60年70年代の偉大なドライバーさん達を記録として残されるあなたのHPは素晴らしいです。見させて頂いた私は大切な記憶として残したいです。

 WEB MASTER : 

 S.Wさん、本当にいろいろ私のHPを見て頂きありがとうございました。
女性の方はなかなかこの手のくるま物HPにメールを頂くなんてないものでうれしいです!!(笑)
以前頂いた方はやはり風戸さんと同じように亡くなった福沢幸雄さんのファンの方でした。
当時(1971年頃)高校生だった私は富士スピードウェイで人気だった富士グランチャンピオンレースをよく観戦していました。風戸さんは当時ポルシェ908IIを乗られてトップドライバーとして活躍されていました。
人気の点では生沢徹さんに及ばなかったものの日本人として初めてアメリカで当時人気のあったスポーツカーレース(カンナムシリーズ)に1971年全戦参加し、外国勢に混じってシリーズ総合11位を獲得し、一躍トップドライバーとなりました。
翌年舞台をヨーロッパに移しF1の登竜門だったF2シリーズに参戦。翌74年からはヨーロッパの有力チームだったシェブロンチームのエースとしてF2に出ることが決まっていたのですが、不幸にも富士での事故に巻き込まれて他界しました。
中島悟より確実に早くF1ドライバーとなっていただろう風戸 裕さんとはまだ独身でした。ガールフレンドとしては特定の方がいましたが・・・。
風戸さんのお墓は富士霊園にあるはずです。
風戸さんが日本で乗って活躍したポルシェは今はアメリカの方が買い取ってヒストリックカーレースに出ているようです。
風戸裕記念館なんていうところは残念ながらないと思いますが、「レーサー風戸裕」LPレコード、若原さんも知っている写真集などが主なものでしょうか。
写真集は持っていませんが、以前知人より拝借して見た事はあります。
アメリカのカンナムレースの模様、ヨーロッパF2シリーズに参戦した時の写真、日本でのレース(特にグランチャンシリーズ)の写真などと風戸自身のコメントもありました。製作はモータージャーナリストのビル大友氏、写真はジョー・ホンダ氏その他の構成でした。
また、現在も発売している臨月誌「ノスタルジック・ヒーロー」誌に2年ぐらい前まで「風戸裕の残影(・・・だったか)」というタイトルで何年間か続けて連載されていましたのでバックナンバーを探してみるのも手かと・・・。
私のHPのリンクのページにブックパワーRB
http://www2u.biglobe.ne.jp/~rb_/
にはたくさん古本としてあると思います。
知っていることでしたらお教えしますので遠慮なく言ってください。
では、これからもよろしくお願いします。

 08/SEP/2003   ANDAMANさんから頂いたメール紹介「楽しく拝見しています」

 はじめまして
三重県在住のANDAMANと申します。昭和33年(1958年)生まれです。
うれしいHP発見しました!!ありがとうございます。
風戸裕の大ファンでした。もちろんあのレコードも発売当時に購入していまだにもっています。
レコードプレーヤーを手放すときもカセットにダビングして今でも懐かしく聞いています。

三重県でしたから鈴鹿サーキットには数え切れないほど通いましたが、富士にいったのは、成人してからです。グラチャンは中島悟の最後のレースだけです。
富士の30度バンクを始めてみて驚愕し風戸のシェブロンBMWや黒沢のマーチを偲んだものです。富士霊園の風戸の墓参りもしました。
70年当時グラチャンはテレビで視聴しテレビの前にオープンリールのレコーダーのマイクを設置しそーお〜と録音していました。田中健次郎さんの永松びいきの解説が大好きでした。
鈴鹿500キロでの永松のロンソン2000(ローラーT290)の脅威のスピードは今も思い出です。
高原敬武、漆原徳光、木倉義文、中野雅治等の名前が走馬灯となって現れます。
河合 稔、福澤幸男、浮谷東次郎は写真でしかみてませんが、昔のレースは素晴らしかったですね。
まもなく鈴鹿にF1がまたきますが佐藤琢磨にも昔のグラチャンみてほしかったな〜。
なんてうれしい気持ちで長文になってしまいました。
これからも黄金期の日本のレース史をどんどん紹介してください。応援します。
長文乱文失礼いたしました。
恥ずかしいですが私のHpです 
http://home.att.ne.jp/grape/hito-911/hitoprqtis.html
鈴鹿の昔のレースなんかを紹介しています。
ご指導お願いいたします。

 WEB MASTER : 

 ANDAMAN様、この度はまだまだ未熟なわたしのHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂き本当にありがとうございました。
当時生沢さんのファンでありました私は71年GC最終戦で満を持して持ち込んだ生沢さんのパイパーおじさん917Kを見事に負かしてくれた風戸裕さんの908IIを随分恨んだものでしたが今となれば風戸さんの908IIの快心走りを見れたことをうれしく思っています。
現在鮒子田 寛さんのHPをご本人のご協力の上に書かせて頂いております関係上、当時のGCレースについての企画ページがどうしても鮒子田さん絡みの内容になってしまっておりますことをお許しください。
ところでHPを拝見させていただきました。
情熱を感じさせるサイトだと思いました。これからも好きなポルシェを書き続けてください。
では、本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。

 27/JULY/2003  Nさんより頂いたメール紹介「大ファンです」

 始めまして。 55才のおじさんです。  
パソコン始めたら息子が探してくれました。 嬉しかったー 。生沢さん大好きなんですよ。   
富士がオープンした時から通っていました。(もちろん独身)子供が3才になってからは家族で観戦!!
親の影響か息子もGCなどで生沢さんを応援していました。Tシャツ・ステッカー・ポスターなど私の宝物です。 
 S800 息子がプレゼントしてくれました。(ただ今作成中)

 WEB MASTER : 
 
 「くるま村の少年たち」および「帰ってきたTETSU」を主宰させて頂いております牧野です。
N様、この度は私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
N様はモータースポーツについては私の大先輩ですね!
私が生沢さんを生でレース観戦させてもらったのは1971年富士グランチャン最終戦マスターズ250Kmレースでした。
あのポルシェ917Kで雨のレース戦ったやつです。
あいにくギヤ比が合わなく風戸選手のポルシェ908IIに破れてしまいましたが本当に汗握るレースだったと記憶しています。
http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/71Fuji250km1.html
現在の生沢さんは仕事でイギリスと日本を往復されているようで昔と同じですね!
これからもぜひHPに立ち寄ってください。
では、どうもありがとうございました。
 17/JULY/2003 菊地 勉さんから頂いたメール紹介「その日は突然やって来た」

 その日は、突然やってきた。、、、、、、、、、
鳥海志郎、懐かしい名前が彼と同様にたまたまHPで見つけました。
彼とオール関東(中野サーキット)へ中目黒サーキットを代表して参加した事を思い出します。
余談ですが彼の優勝車に使用した後輪(COX1/24用)は、私が1/32F-1に使用してたもので私は、1/24GT参加の為貸し出した物です。
そんな私のシャーシーもレース数日前にある事情から秋山氏(オール関東科学技術館2位)に借用したものでした。
レース数日までは、COXのサイドワインダーそれがレベルのインラインに変更となりました。
当時は、ゴムタイヤを削る事は、大変な事で、1/24用を1/32サイズに自然にサーキットで走行し減ってから使用したものです。
私は、1年位しかスロットカーは、やってなかったのですが、彼の家に泊まったりとても懐かしい思い出です。

菊地 勉 
 WEB MASTER : 

 菊地様、この度はメールを頂き本当に有難うございました。
鳥海さんのお話をうかがっている時に当時のスピードライフ誌のオール関東記事を見ながら「菊地だ!菊地だ!」盛んに当時の事を思い出しておられました。
その菊池さんよりメールを頂けるなんて本当に嬉しいです。是非1度鳥海さんと菊池さんが久しぶりに対面出来る機会が持てましたら幸いなんですが・・・。
それからレース当時にいろいろなパーツのお話とても興味あります。いろいろあったんですね!
1度鳥海さんに菊池さんからメールを頂いたことを話してみます。きっと喜ばれると思います。

  01/June/2003   Y.Uさんから頂いたメール紹介「HPを拝見して」

 はじめまして。 
突然のメールお許しください。
 私は、'70sのモデル中心にHO SLOTCARやHotwheelsをコレクションしております、YUと申します。
いつも素敵なホームページ拝見させていただいてます。
私の好きなヒストリックなレーシングカー&レーサーの情報を沢山掲載されていて、リアルタイムな記憶に無い私も、大変楽しく拝見しております。
 私この度、初めてホームページを公開致しまして、以前から、牧野様にリンクはらせていただきたいと思いメール致しました。
 立上げ時からメールしたいと思っていたのですが、私のサイトなど大変恥ずかしく気がすすみませんでした。
そんな時、自己紹介のページを拝見していたら、なんと日工大の卒業生でいらっしゃる!
しかも機械科で直系の大先輩と知り、挨拶も兼ねてメールさせていただきました。
 私は機械工学科99年卒29期生の27歳です。牧野様は77年卒ということは7期生でいらっしゃいますでしょうか。
こんな素敵なホームページをつくられている方が、自分の先輩であったということに大変感激しています。

相互リンクなんてとても言えません。
こちらからのリンクをはらせていただけましたら幸いです。
もし失礼でなければ、ご返信頂けたらと思います。

それでは。

 WEB MASTER : 

 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
K様、この度は私のHPを見て頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
そして日本工業大学の卒業生とお聞きしてさらに感激しております。
99年卒業ということですが、卒業後はあまり大学に行ったことはありませんが、驚くほど大学はもとより杉戸(今は東武動物公園でしたね!)が変わってしまったことに驚いております。
私が通っていた頃は駅から大学までただの一本道しかなく、回りは畑とただの土地だけ。
ある店はレストランと思しき店や釣堀、そしてちょっと脇をそれると雀荘だらけというなんとも寂しい限りでした。
台風や雪がひどい時は歩けない状態だったのを今でも鮮明に覚えています。
砂埃がひどく、大学に付く頃には口の中が砂だらけ何てこともしょっちゅうでした(笑)。懐かしい思い出です。
機械科を卒業ということは就職先も機械関係だったのでしょうか?
私はまったくもって専門外の輸入服飾関係に入ってしまいましたので現在も洋服関係の会社におります。
大学のことはそんなところですが、小池さんのHP是非拝見したいです。
もちろんリンクはOKですよ!こちらもリンクさせて頂きます。
では、これからもよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

 01/June/2003   広島県呉市住在のMさんより頂いたメール紹介「はじめまして」

 はじめまして
The Naito Fan というHPの管理者のMと申します。
広島県在住の草ドライバー内藤源氏さんを応援するファンたちで作るサイトです。
皆、走るのが大好きな素人の集まりです。

実は、日本オートクラブ、ストックカーレースというところから、検索でやってきました。
私は30才代後半の女性でほとんどレースの知識はありません・・・(すみません)
が牧野さまのHPのすごさには感動します。

実は、まぼろしのサーキット野呂山スピードパークのことをここ1ヶ月取材しています。

NAC主催でストックカーレースがそのサーキットのオープニングイベント後、最初のレースとして行われたと聞いたものですから何かご存知のことはないかと思いましてぶしつけではございますが、メールをさせていただきました。

船橋サーキットの記事も読ませていただきました。とても素晴らしい記事で感動です。

私の方はまだ何も出てきていなくて悪戦苦闘中です・・・(笑)
遠地のことで何もご存知ないかもしれませんが・・・

1975年頃(開始年数すら確定できていません)日本で三番目に出来たサーキットと思っていたのですが船橋サーキットや他にもあったのかもしれませんね。

もう一件お尋ねしたいことは新聞の切抜でもと思って探していますが、新聞の切抜きや雑誌の切抜をもしも見つけることができたとしたら何か手続きとか許可とか必要なのでしょうか?雑誌が見つからないかと思って探しています。

ぶしつけで申し訳ございません。よろしければ返信してやってください。

 WEB MASTER : 

 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
M様、この度は私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。

さて、御質問の件ですが、御察しの通り1970年5月5日に行われた西日本初のストックカーレースが「野呂山スピードパーク」で行なわれました。
野呂山は国立公園で呉市から車で40分のところにある海抜750m地点にあるサーキットであったと当時のオートスポーツ誌に記載がありました。
1周900mのコースでかなり4輪のレースには狭すぎる感があります。
当時のストックカーレースの常連である鈴木誠一氏(故人)、寺西孝利氏、田村三夫氏、津々見友彦氏らが招待されてレースが行なわれました。
優勝は寺西選手で真田選手、田村選手がその後に続きました。
また、当時のサーキットは鈴鹿、富士、船橋(67年で閉鎖)、筑波などでJAF公認レースが行なわれていました。
野呂山は日本で多分4番目に出来たサーキットコースで狭く長さが短いためその後はあまり使われていなかったようです。
ちなみに1972年7月2日にはやはりNAC主催のストックカーレースが東北地方初のレースとして出来たばかりのむつ湾インターナショナルスピードウェイで開催されています。このサーキットはその後閉鎖されました。新聞等の記事は国会図書館等にあるのではないでしょうか。
では、これからもよろしくお願いいたします。
Mさんが主宰されているHPは下記の通りです。どうぞ立ち寄ってください。新しい世界が見えることうけあいです!!
http://www.naito-park.net/

 14/MAY/2003   ハーフセンチュリーさんより頂いたメール紹介「田宮模型ボックスアートの秘密について」

 はじめまして、大変楽しく拝見させて頂いております。
私は1953年生まれのハーフセンチュリーと申します。まさにモデルカーレーシング第一次ブーム世代をタイムリーに過ごした生き証人の1人で、今でも数多くのコレクションを所有しております。モデルカーレーシングがきっかけでこの年になっても実際にサーキットを走り回っております。
さて、田宮模型BOXアートの秘密の中で、「誰がこのようなすばらしいアートを描いたのか・・・」とありますが、昭和51年3月1日発行の「基本・レタリング入門」と言う本の中にエルバマクラーレンの田宮模型BOXアートが紹介されています。私の記憶では他のイラストもこの時代のイラストは同じ作者の物かと記憶しております。著者本人の作品か、参考として掲載したかは不明ですが、ご紹介しておきます。
 著者:柏原博美(日大芸術学部、中略、終戦後、日刊新聞の広告から出発、印刷会社、出版社、デザイン社でデザインと平行してレタリングを学ぶ)、発行者:浅沼勝太郎、発行所:日本文芸社(千代田区神田神保町1−8)他のコーナーでCox社のチャパラルが紹介されていましたが、シャーシー及びホイールはアルミではなくマグネシウム合金のダイキャスト製法と記憶しております。本体は無くなってしまいましたが、なぜかフロントホイールが1個残っています。また、ホームサーキットですがバンダイ社製の1/32 8の字型¥4,700(昭和40年当時)を所有しております。詳細は屋根裏部屋を片付けてから報告いたします。

 WEB MASTER : 

 ハーフセンチュリー様、この度は私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、メールまで頂き本当にありがとうございました。そして、タミヤボックスアートについての詳しい紹介本当に感謝いたします。これで1つ勉強させて頂くことが出来ました。
ところで、1953年生まれということは、私よりも1歳先輩にあたられることになりますね!
それから今でもスロッターとして現役を続けていらっしゃるとのことですが、少しでもこのHPがお役立てればまさに主宰者冥利に尽きるというものです。
私も友人たちと共に「レーシングパラダイス」や「シャパラル」などで定期的にレースやOFF会などを行なっております。
もし、ご都合がつけばそんな時に遊びに来てください。
では、今後共良きアドバイス等お願いできましたら幸いです。
よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

 09/MAY/2003   O.Iさんから頂いたメール紹介「感激しました」

 牧野 様
はじめまして、京都のO,Iと申します。今日はF1スペインGPの情報を探していて、5月3日といえば毎年日本グランプリが待ち遠しかった頃を思い出していたらこの素敵なサイトに出会えました。
私のレースとの出会いは中学校の用務員室のテレビで日本GPを友人に誘われて見たのが最初です。
今の中継と違いカメラの数も少なく退屈なものでした。(怒られるので音を消していた) 興味を感じたのはその後見たカーグラフィックのルマンの表紙の号です。
何となく3〜5回の日本GPが自分の中で混同していたのが牧野さんのサイトを見て解きほぐれ鮮明に甦りつつあります。第5回GPはまだ火山灰の原野のようなフィスコを歩き回り30度バンクの横でマクランサが周をおう毎に波打つ路面にノーズがささくれてゆく音が思い出されます。町工場の小さなレーシングカーがサーキットに繁殖していく、また自動車メーカーが本気でレースに勝とうとしていた、そしてやがてそれが世界へ向かう時代に生まれたことをこのサイトで思い出させていただきました。
東京レーシングカーショウでは若き日の三村建治さんや由良拓也さんが自分とはあまり年が違わないなあと感じたことも。
R381を見た年はペーパークラフトボディにスイングアームの真鍮シャーシのスロットレーシングカーを分割可変ウィングを錘でばたつかせながら走らせていました。
あの頃の写真(引越しで紛失した)を本気で捜してみようと思っています。
林みのるさんのお宅の前にトラックに積んであったマクランサや楕円形のエキゾーストのトヨタ2000GTなど・・・。
しっかり見させていただきますのでよろしくお願い致します。
 

 WEB MASTER : 

 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
O.I様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂き本当にありがとうございました。
O.Iさんのようにへたくそな私の文面で当時の熱き思いを思い出して頂いたとお聞きしただけでこのHPを作った甲斐があったというものです。本当にありがとうございました。
昔は今と違いなんと行動力があったのだろうと現在の時分と置き換えて反省しているところです。
実際にグランプリを見に行かれたということはO,Iさんは私より少々先輩かと察します。
私も後2〜3年早く生まれておりましたらきっとグランプリを生で見られたのではと少々O.Iさんが羨ましく感じました。これからも是非当時の記憶を教えてください。
よろしくお願いいたします。
では、どうもありがとうございました。

 10/APR/2003   Yさんから頂いたメール紹介「素晴らしい内容です」

 拝啓 牧野様 はじめまして、私 Yと申します。
スロットカーのページからこのホームページにたどり着きました。
鮒子田選手には思い出深いものがあります。といいますのも1976年に鈴鹿で行われたGCレースの招待券を彼からいただいたことがあります。
当時、鮒子田選手はエンケイのサポートを受けており、スポンサーサービスで愛知県豊橋市にありましたクロダパーツというカーショップに来られたことがあり、私はその時にそのレースの招待券とエンケイのジャンパーをいただきました。
そのレースでは鈴鹿CGに出走すると富士に出さないというおふれがでていたためか鮒子田選手も参加せずマシンをレンタルしていたようです。
レースは星野選手と桑原選手の争いでしたが桑原選手の優勝で終了しました。
その後、鮒子田選手はあまり国内レースには出走しなくなりました。
 当時は私は小学生でしたので、あまりその走り自体は記憶にないのですが、当時レースをやっていた知人の話ではトヨタのエースであり、いろいろなレースを経験し、排気量の大きなマシンも経験豊富で、かつ非常に安定した走りをしていた。高橋国光選手や永松選手のようにいつまでも激しくドリフトはさせず、タイヤにもやさしい走りをしていたといっておりました。
 私のヒーローでした。

 WEB MASTER : 

  Y様、この度は私のまだまだ未熟なHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂き本当にありがとうございました。
鮒子田さんは現在イギリスのrtn(レーシング・テクノロジー・ノーフォーク)の役員として活躍しておられます。ここは元のトムスGBをアウディが買収して現在ル・マンカーで活躍中のベントレーEXPスピード8を製作しているところです。鮒子田さんはトムス時代からそのままおられるわけです。
「鮒子田寛レーシングヒストリー」もご覧になったとは思いますが、60年代チームトヨタのエースドライバーとして活躍し、その後独立して鮒子田レーサーズを設立、海外国内の日本レーシングドライバーのパイオニアとして活躍されました。
Yさんも直接鮒子田さんから頂いたものがあるそうですが今ももし持たれていれば宝物ですね!
このメールを鮒子田さんにもお伝えいたします。
では、これからもよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

鮒子田さんよりコメントを頂きました。

 「その後、ふしだ選手はあまり国内レースには出走しなくなりました。」について
鮒子田: 81年までは日本でレースしていましたよ。
 「トヨタのエースであり、いろいろなレースを経験し、排気量の大きなマシンも経験豊富で、かつ非常に安定した走りをしていた。高橋国光選手や永松選手のようにいつまでも激しくドリフトはさせず、タイヤにもやさしい走りをしていたといっておりました。」について。
鮒子田: 正確な意味でのドリフトは、ハンドルを少し内側に切った状態で4輪がスムーズに滑っていく状態を言うので、リヤを激しく滑らせるのはカウンターステア(逆ハン)で、見た目は豪快ですが速く走るには逆効果です。低速や中速コーナーの出口でタイヤが負けて逆ハンを切ることはありますが、できるだけ早く4輪ドリフト状態へもていくことが重要です。タイヤにもやさしいとは当然で周回を重ねてもタイムの落ちが少ないのは言うまでもありません。
 「私のヒーローでした。」について。
鮒子田: 自分のしたいことを精一杯していたのですが、少々、恥ずかしいですが、嬉しいですね。

 09/APR/2003 Hさんから頂いたメール紹介「ストッカーレースサイト拝見しました」

 こんにちは。ストッカーレースのサイトを見ました。感動しました!!
私は、T.Hと申します。年齢は、4月で39歳になります。
 私の叔父である第7回の優勝の「S.H」の歴史を調べていたところこのサイトを発見しました。
調べるきっかけは、叔父の(10年ほど前に53歳で他界)の遺品のひとつに昔のストックカーレースのパンフレットを発見したためです。私が、赤ん坊のころに叔父や父に連れられてサーキットに出入りしていたようです。
きっと生沢さんや鈴木さんなどと出会ってのでしょうね。残念ながら私の記憶には残っていません。(笑)
叔父の遺品の中には、当時の優勝カップや写真などもありました。
私は、やはり車が好きで仲間とたまにツーリングに行ったりしています。
 これからも、ご迷惑でなければ情報交換して頂けたら幸いです。

 WEB MASTER : 

 T.H様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ちよって頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
そして、第7回ストックカーレースの優勝者を叔父様に持つということをメールで拝見して大変驚くと同時に感激しております。
日本のストックカーレースは日本の4輪モータースポーツの夜明けを飾ったレースで今ではセドリックやクラウンなどのレースは無くなってしまいましたが当時はこのクラスの車は花形だったのだと思います。
当初はアメリカのフルサイズカーのレースを真似したのがルーツだと言われていますが、ベレットで優勝されていることからヨーロッパのレースからも当時かなり影響されていたのではないかと想像出来ます。
それとまだまだ日本のレギュレーションが確立されていなかったのも混合レースの原因だったのかとも思います。
では、これからもよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

 07/FEB/2003  Y.Tさんから頂いたメール紹介「生沢ファン」

 始めまして。私は53年生まれですから、ほぼ同世代ですね。
私が日本で一番好きなレーサー、生沢徹さんが気になって検索サイトから入って拝見しました。
F1ではジル・ヴィルヌーブ、ニキ・ラウダのファンで、その辺りまでは大好きだったんですがそれ以降はモータースポーツは実はあんまり見てないんです。

モータースポーツって、想像を超える体力と気力が要求されますよね。
生沢さんはあの甘いマスクでありながら、恐るべき集中力と勇気と冷静な判断で駆け抜けていたんですね。
当時のレーサー仲間が六本木で遊びまわっていても生沢さんはまじめ?だったらしいですね。
もう50代後半ですか。でも渋くてカッコイイですよ。スマートに、でもアグレッシブにドイツを走りきってください。
応援してます。

昔、生沢さんが246沿いでオフロードバイクの店をやっていた時、立ち寄ったことがあります。当時の私はモトクロスをやっていてちょうど店にいらした生沢さんとちょっとお話をしました。
あの時サインをもらえばよかったと後悔しています。
 

 WEB MASTER : 

 T様、この度はまだまだ未熟なわたしのHPに立ち寄って頂いただけでなくメールも頂き本当にありがとうございました。
私は同時に浮谷東次郎さんのクラブでありますTOJI'S CLUBの運営委員もさせて頂いておりまして昨年の総会で夢にまで見ました生沢さんにお会い出来本当に夢のような時間を過ごさせて頂きました。
東次郎さんと生沢さんは大の親友で、2人でヨーロッパに行ってレースをしようと誓い合った仲間でありましたが不幸にも東次郎さんは鈴鹿で事故死してしまいその分まで生沢さんは戦い抜いたのだと思います。
その生沢さんももう昨年で還暦です。
今はロンドンと日本を行き来していろいろなことをされているようです。
 先日模型メーカーのフジミ模型の依頼で生沢さんが1967年に日本人として初めて国際レースにクラス優勝した「ニュルブルクリンク500Kmレース」の出場マシン「ホンダS800」を光栄にも生沢さんのマネジャー役をやらせて頂き当時生沢さんの写真を撮りつづけられたジョーホンダさんにも協力して頂きながらプラモデル化することが出来ました。
まだまだ本当に未熟ではありますがこれからもどうか良きアドバイス等頂ければ幸いです。
では、どうもありがとうございました。

 06/FEB/2003   K.Sさんより頂いたメール紹介「初めての便りです」

 始めてお便りいたします。
私も浮谷東次郎さんのファンです。
貴殿の Home page の中に '65 年 Auto-Sport No.4 ( 三栄出版)の話題が上がっておりましたが、私もその No.4 を所有しております。
個人的な青春時代の思い出として所有しており、譲渡その他の考えはございませんが 何かの参考のためお知らせしておきます。
私が所有する No.4 の彼の”鈴鹿の走り方”のページには赤いボールペンで書きこみがありますが 当時のサーキット内のパドック側の Driver's cafeteria で英国から来たと・・・・名前を忘れましたがドライバーが書きこんだものだとの(おぼろげな)記憶があります。
Tojiro が書きこんだのであれば素敵なのですが、。
私は当時、彼の名を知りませんでしたが”カラス”と呼ばれた S600 を駆る日本人ドライバーがいたこと、ノーマル S600 で鈴鹿ですばらしい記録を出した(これも記憶があやふやなのですが、京都の学生とか・・。)ドライバーが居たとの記憶があります。

私は電子関係のエンジニアでありドライバではありません。

 WEB MASTER : 

 S様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
私は現在48歳になりますが、東次郎さんのことは当時知りませんでした。
たまたま生沢 徹さんのファンでそのTETSUさんの手記の中にたびたび浮谷東次郎さんの名前が出てくるのでいろいろ知りたくなり4年前にTOJI'S CLUBの存在を知り入会した次第です。
(現在クラブの運営委員副代表をさせて頂いております)
AUTO SPORT誌NO.4についても後で知ったことでした。現在縁あってお付き合いさせて頂いております鮒子田 寛氏(京都出身の元レーシングドライバーで現在ル・マンなどで活躍しているベントレール・マンカーを製作しているrtnの役員をされています)や童夢社長の林みのる氏らと共に京都学生トリオとして東次郎さんの「スズカドライブテクニック」を作られたメンバーでした。
S様のAUTO SPORT誌は本当に貴重なものだと思います。これからも末永くお手元に置かれることを望んでやみません。
では、これからも「くるま村の少年たち」共々TOJI'S CLUBのHPもよろしくお願いいたします。

 01/FEB/2003   岡野さんから頂いたメール紹介「楽しく読ませて頂いています」
 
 初めてメールいたします。
1960代の車のレースに興味がありネットで探していたところ貴HPに行き当たりました。
非常に興味深く拝見させて頂きました。以前伯父の家で福沢幸雄の写真集があり何となく見たのがきっかけで幸雄で検索いたしました。非常に楽しいです。
しかしながら追憶の日本グランプリ後編等がまだ見れませんがどうしたのでしょうか?
楽しみに待っておりますので是非続編お願いいたします。
私のように続編等を楽しみにしている輩も多いと思います。お願いいたします。
                            
 WEB MASTER : 

 岡野様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
そしておっしゃる通り「追憶の日本グランプリ」の続きもまだ手につかず誠に申し訳なく思っております。
なにぶん個人で仕事の合間に作成しております関係上時間がある時に・・・と思っているのですがなかなか進みません。
私は小学校6年から高校時代にかけての第3回日本グランプリから69年日本グランプリ、そして富士ブランチャン創世記の一番面白かった時代を幸運にも体験することが出来ました。
五年前に体を壊し、その時まで触ったこともなかったPCを習い、仕事が出来ない時に一体私に何が出来るのかと考えた時にすぐに思ったのが「60年代の日本モータースポーツと60年代モデルカーレーシング」についてでした。これならば私にでもまとめることが出来そうだと思ったのです。
ところが、この栄光の60年代の事柄はなぜかあまり記録としては残されておらず私自身も歯がゆい思いがしておりましたので文章は大の苦手でしたがやってみようと思い出来あがったのがこのHPという訳です。
これからもどうかスローペースで生涯作り続けて行こうと思っておりますので末永くお付き合いお願い出来ましたら幸いです。
では、どうもありがとうございました。

 18/JAN/2003  K.Sさんから頂いたメール紹介 「読者より」

 東京世田谷在住のS(昭和32年生まれ)と申します。3年程前から牧野様のHPを拝見し、感激しているオヤジです。

 私が初めてレースを観戦したのは66年の第3回日本グランプリです。父親に連れられて、新宿から小田急線を乗り継ぎ、途中からディーゼルの2両編成で御殿場まで行ったのでした。
 出来たばかりのFISCOのグランドスタンドからの光景は、今もぼんやりと思い出します。
いくら自動車好きと言っても、当時小学校3年生でしたので、レースに関する事前知識はほとんど無く、自動車マニアだった父親の説明を聞き入っておりました。
父親はトヨタファンで、逆に言えばアンチ日産でしたが、プリンスは好きだったようです。とにかく目の前に登場した真っ白のポルシェカレラ6には大変に感動した様子でした。
しかし、滝進太郎選手のカレラ6は健闘むなしく敗れました。そして、レース観戦初体験の私は「この世にこんなすごいモノがあるのか」と感動しました。
その直後に、当時では350円と高価だったCar Graphicを初めて買ってもらいました。表紙は優勝した栄光の赤いR380です。
翌年も父親にねだって第4回日本グランプリを観戦、グリッドにはたった9台のマシーンしかなく、寂しい思いをしました。しかし3台のカレラ6がボンネットフードの色を変えて登場したとき、私はとても嬉しく思いました。「今年こそカレラが優勝して欲しい」と願い、若き生沢徹選手が優勝しました。
しかしゼッケン7番の酒井正選手は、須走り落としと呼ばれた30度バンクを飛び出し大破、父と私は現場近くまで見に行き、酒井選手が無事と聞いてほっとしたものでした。
 自他共に認める自動車少年となっていった私にとって、一番インパクトが強く記憶に残っているのは、その翌年の68年に行われた第5回日本グランプリであります。
当時は今よりもグランプリに対する国民の関心が強かったのか、AUTO・SPORTS誌などはレース前からグランプリ特集の増刊号まで出し、競馬顔負けのレース展開予想や出場マシーンについての情報などを、実に詳細に渡り掲載していました。
第一コーナーの30度バンクに進入する際の順番まで図解入りで予想していたのですから、素晴らしいとしか言いようがありません。私にとっては学校の教科書より貴重な内容でした。
更には、着々と力をつけたタキレーシングが輸入したローラT70MKIII は、テスト走行にてバンクでフロントが沈んで車体が路面を擦ってしまうなどというマニアックな話ができる同級生などは、当然おりませんでした。
 
私にとって、第5回グランプリでの大きな関心事と言えば、

1.ついにあこがれのトヨタ7が見れること。

2.トヨタ7のノーズが初期型より精悍で強そうなこと。

3.貿易商をやっていた父親の影響でファンになった福沢幸雄のマシンがゼッケン2番で深緑ボディ、上部に突き出した排気管が白、しかも福沢選手のヘルメットが赤で最高にかっこ良かったこと。

4.日産が自社エンジンでなくシボレーのエンジンを積むと発表したとき父親が「卑怯だな」と言ったこと。(いまにして思うと日産の関係者も悔しかっただろう)

5.だけどあの可変ウイングは凄いと思いながら、父親には言えなかったこと。

6.私のヒーローである生沢選手が小さな2リッターエンジンのカレラ10で出るのを父親と一緒に心配したこと。

当時の5年生としてはなかなかのものではないでしょうか。

 この年は父が買ったトヨタ1600GT(RT55)でFISCOへ行ったのも思い出です。
レース当日、目の前のピットロードに、福沢幸雄選手のトヨタ7が停車しているのが見えたときの興奮は忘れません。車体は緑というより黒に近い色合いでした。
そして長丁場のレースが始まり、私はグランドスタンドの一番下までおりて金網に顔をつけて展開に見入ったのでした。
レースの展開は牧野氏のHPに詳しく紹介されておりですので、私の思い出を申し上げますと、圧巻はなんと言っても終盤になって、北野選手の黄色いウイングのR381と、生沢選手のカレラ10の一騎打ちとなったときのことです。
確かに場内放送で「生沢がトップに立ちました!」と放送され、午後も遅くなったグランドスタンドでは観客が総立ちとなり、私も一緒になって興奮したのでした。

 当時「怪鳥」と呼ばれたR381とカレラ10の最大の違いは、その排気量とエンジン構造に起因する排気音でした。
R381にはシボレーの5.5L、V8でOHVという当時典型的なアメリカンを積み、一方のカレラ10は空冷水対6気筒の2Lと、半分にも満たないエンジンでした。
R381は大排気量にもの言わせ、トルクフルな太く低い音を響かせ、カレラ10はR381より遥かに高い回転数から甲高い金属音を発生させていました。重爆撃機と軽量な戦闘機の闘いと言えそうです。
競技車両のカテゴライズやクラス分けの細分化が進んだ現代では考えられないことですが、当時はこのような車両同士が混走し、しかもハンディキャップなしで対等に戦っていたのですから、本当に面白かったし夢とロマンがありました。
クルマとクルマ、ドライバーとドライバーの命をかけた意地のぶつかり合いという表現がぴったりです。
目の前の直線を駆け抜ける速度は、排気量に物言わせるR381の方が速く見えましたが、ピットの向こう側に見える100Rからヘアピンの通過速度はカレラ10が勝っているようでした。
私の父親はひとこと「ポルシェの技術はすごいな、あんな小さなエンジンなのに。軽いボディとサスペンションが全然違うんだよ」と説明してくれました。これだけでも、ポルシェが好きになるに十分ではないでしょうか。

翌年の69年日本グランプリや68、69年の日本CAN-AMも、もちろん見に行きました。
68年のCAN-AMでは初めてレース後のパドックへ入り、父親の仕事の関係で、スエーデン人の元F1ドライバーであるヨアキム・ボニエ選手のピットにも入れてもらいました。レースで酷使されボロボロになった太いレーシングタイヤが転がっていました。
ボニエ選手はひげ面の優しい人で、プログラムにサインをもらいましたが数年後にルマンで事故死してしまいショックでした。

また、タキレーシングを創立された滝進太郎さんは、私の住まいの近くに引越して来られ、サインをもらいに行ったことも思い出されます。確かシルバー色の911に乗っておられました。

その他にも、スロットレーシングも含めて、たくさんの思い出がありますが、遠い記憶となっていて、牧野氏の力作を拝見するたびに「当時の自分」が思い出される次第です。
時代の背景や文化を知る上でも、牧野氏の記録は大変に貴重なものです。これからも心より応援申し上げます。

 WEB MASTER : 

 S様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂いただけでなく、なんとも羨ましいご体験のコメントまでメールで頂き感謝感激であります。
少しでも当時の素晴らしい思い出を思い出して頂いただけでもこのHPを作った甲斐があり、まさに主宰者冥利に尽きる思いであります。
 それにいたしましても第3回、第4回、第5回、そして、69年日本グランプリ、さらに68〜69年日本CAN-AMまでご覧になったなど私から見ましたら、まさにSさんは、60年代モータースポーツの生き証人ではと思ってしまいます。ほんとに羨ましい限りです。
そして、お父様は本当に素晴らしい先見の目を持っておられたのだと思いますよ!
私など小学校6年の時に友人宅でモデルカーレーシングをしていた時に偶然テレビで第3回日本グランプリを見たというぐらいで、69年の日本CAN-AMまでは全てTV観戦でした。
私が富士スピードウェイに初めてまいりましたのが、1971年のグランチャンでしたので、やはり家族の理解というかSさんのような環境でないと幼い少年にとって観戦に行くことは中々難しかったのではと思ってしまいます。
そして一昨年憧れの生沢さんからメールを頂き、そして今年浮谷東次郎のクラブでありますTOJI'S CLUBで初めてご本人に感激の対面をする事が出来、最近生沢さんのニュルブルクリンク500kmでクラス優勝したホンダS800のプラモデル化にご協力でき無事に発売することも出来ました。
さらに元チーム.トヨタのエースドライバーだった鮒子田 寛さん(現在ベントレーの車両開発会社rtnの役員)と2年前にお会いすることが出来、そして夢のような鮒子田さんのHPを作らせて頂く事も出来ました。今は本当にこのHPを作って良かったと思っております。
 本当にこの夢のような60年代日本モータースポーツを扱った書物もあまりなく、HP等もあまりなく、スロットカー等も含めてこの私が出来ることと言えば大好きなレースのことだけだと思い、どうしても記録として残したかった思いでPCを習いながらこのHPを始めさせて頂いた次第です。
これからもどうか良きアドバイス等頂けると幸いです。また、Sさんの体験されたことなどでまた違う角度からのコメントなども頂けましたら幸いです。
では、本当にありがとうございました。