皆様からの御便り紹介
 THE ROOM OF YOUR MAIL


IN THE YEAR 2002 

 皆さんのご意見を載せさせていただくコーナーを作りましたので、よろしくお願いいたします。

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 9/DEC/2002   T.Uさんから頂いたメール紹介「ご無沙汰してます」

 大変ご無沙汰しています。
相変わらずホームページの方は活発な活動・更新をなされているようで、楽しく拝見させていただいています。
今回、牧野さんが昔の大切な思い出として、幼少時の「ぼくら」の表紙を載せていましたが、先日その本(1964年4月号:ホンダS500)をオークションで入手し、あまりの嬉しさにメールを送ることとしました。
現在の牧野さんとだいぶかけ離れた感じがいたしますが、可愛らしい一面を拝見して感激しています。
 もう一つの話題として、念願だったイラストレーター「佐原輝夫」さんの「生沢 徹」のイラスト原画を購入したので、写真を添付いたします。
2年前の「トヨタ博物館」の特別展以来、探していましたが、やっと巡り会えました。生沢さんを物語調にしたイラストでとても楽しいです。
「トージズクラブ総会特集号」もやる気満々で出来が素晴らしかったです。
これからも「生沢 徹」を追いかけてください。

 WEB MASTER : 

 U様、こんにちは。そして、お久しぶりです。
クラブの方も会報誌が会報委員の努力と熱意で本当に素晴らしいものが出来て感謝しているところです。
若い力が今度の運営委員に入ったことは本当に良かったと思っています。若さって良いですね!
ところで、S500の「ぼくら」を購入されたと聞き驚き共によくまだその本が残っていたなと思っています。
そして、神保町などでみる当時の「ぼくら」の値段の高いこと、ビックリするような価格がつけられていましたのでオークションではどれほどの価格でゲットされたのかと思ってしまいます。
来年の総会で、もしよかったら内容をコピーさせて頂ければなと虫の良い事をお願いしたい心境です。
私が持っているのはなぜか表紙だけで中味は持っておりません。
当時はそれでも良かったのだと思いますが、今考えればすべて取っておくべきだったと後悔しております。
ところで、生沢さんを描いたイラストも本当に素晴らしいものですね!
それも原画を購入されたとの事、大事にしてください。
では、本当にありがとうございました。

 8/DEC/2002   H.Nさんから頂いたメール紹介「はじめまして。鈴木誠一氏の件」

 初めまして。牧野さんのHPの「鈴木誠一さん」の【日本列島を駆け抜けたストックカー伝説】を見せていただきました。
私は、浜松市在住のH.N(70才)と申します。牧野さんは二輪のレースには、興味がおありにないのかもしれませんが、私と鈴木誠一さんとの関係を知って頂くため、お読みになってください。そして最後に若干のお願いもあります。
 1959年の浅間レース、1960年代ホンダ・スズキ・ヤマハの日本二輪車メーカーが、世界選手権ロードレ−ス(WGP)に挑戦を始めた「日本モーターサイクルレースの黎明期」に、私はスズキのレースエンジン設計担当をさせていただいておりました。そして1968年以降は他の技術部門に移りました。
1994年に退職して家庭に入り、インターネットを楽しむようになりましたが、当時のレース記事や記録は余り見あたらず、老骨に鞭打ちホ−ムペ−ジの作成を始めました。タイトルは『日本モーターサイクルレースの夜明け』と名付け、2年程前から公開しております。(http://www.iom1960.com/ )
 鈴木誠一さん率いる城北ライダースとスズキとは、1961年初めから深い繋がりを持つようになり、その後、彼やNO.2だったK.Kさんは、数多く浜松のスズキ本社に来社し、私といろいろ打合せも致しました。スズキ車に乗る城北ライダースはその後の数年間モトクロスレースで無敵を誇りました。
お二人には、スズキワークスマシンで何回かシンガポールやジョホールなどのレースにも出場して貰いました。
また、1962年(この年はスズキがマン島TTレース50ccで初優勝し、この年のメーカータイトルを獲得した私にとっても記念すべき年です)には、スズキワークスライダーの一員として、ヨーロッパでのWGP 50ccクラスのいくつかのレースに出て貰いました。第1戦目のスペインGPは、2週間ほど前のシンガポールGPでの転倒で痛めた足の怪我が癒えず欠場、第2戦のフランスGPではスズキ最高位の5位、第3戦のTTレースでは8位(このレースで Degner が優勝しスズキにWGP初優勝をもたらした)、第4戦の Dutch TT と第5戦のベルギーGPでは共にスズキ日本人ライダーの中では最高位の4位、第6戦の西ドイツGPでは5位と大いに活躍しました。このヨーロッパでの約3ヶ月間、私は鈴木誠一さんと起居、行動をともにしました。続いて、この年の11月の鈴鹿サーキットが完成しての初レース「第1回全日本ロードレース選手権」にもワークスマシンの50ccに乗り、4位の成績を残しました。
1965年から、スズキは「世界選手権ロードレ−ス(WGP)」に加え、「世界選手権モトクロスレ−ス」に挑戦することになりました。
1965年にはK.Kさん、1966年には鈴木誠一さんとK.Kさん、1967年も城北ライダースの誰か(記憶が定かでない)に出場して貰いました。日本人として、「世界選手権モトクロスレ−ス」に出場したのは城北ライダースの彼らが最初のことでした。
1967年をもってスズキは「世界選手権ロードレ−ス(WGP)」を撤退することになり、私は他の技術部門に移り、城北ライダースとのお付き合いは終わりましたが、スズキとレース部門との親しいお付き合いは続きました。
その後、鈴木誠一さんが四輪レースに転向され、活躍なさっていたことは、勿論記憶に残っていますが、資料は一切持っていません。
1974年6月2日鈴木誠一さん事故死の訃報が入り、私の日誌には、このことが記載されています。当時、私は二輪の商品設計部門におり、葬儀の日に丁度京都の三菱重工に4サイクルエンジンのバルブの打合せで出張になり、葬儀への出席は出来ず、浜松本社から列席する誰かにお香典を託した記憶があります。
もし、鈴木誠一さんの二輪レース時代の写真に興味がございましたら、お知らせください。
 私のHPはメニュー項目が多く、そして写真の掲載が多いため、「重い」ですから、鈴木誠一さんが掲載されているページのURL をお知らせいたします。

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 私のまだまだ未熟なHPに立ち寄って頂いただけでなく大変興味あるメールまで頂き感謝感激であります。
鈴木誠一さんについては、私が昭和29年生まれの48歳ということで4輪での活躍しか実際には知りませんでした。
特にストックカーレースにおいて無敵の活躍をされていたのを中学生時代TVでよく拝見させて頂いておりました。
中野様のメールを読ませて頂いた時に本当の鈴木さんのルーツは2輪だったのだと良くわかりました。
 鈴木さんは当時の私にとってはヒーローの一人でした。その鈴木さんがGC1974年第2戦で風戸さんと共に亡くなったことは大変ショックな出来事だったと今も記憶しております。
 同時に私にとってのヒーローを2人失ったのは本当に残念の一言でした。あえてその事はHP上には書いておりません。時おり「あのこと・・・とか、あのGC第2戦・・・とか」を書いていますが、いろいろSさんの問題とかが出てまいりますのでこれからもその事はあまり触れたくはないと考えています。
しかし、鈴木さんの活躍されたアメリカでのレースとかは将来的に続編として書かせて頂こうとは思っております。
 貴重な2輪モータースポーツの歴史をHPにされているのを拝見させて頂き、さすが当時ご自身も体験された実感が本当に伝わってくる素晴らしいサイトだと実感いたしました。
2輪も4輪も当時のことを書いているHPはほとんどありません。わずかに高橋国光氏の本とかがあるのみではないでしょうか。あまりお役にたてづすみません。
でも、これからもずっとHPを続けてください。そして、良きアドバイス等頂ければ幸いです。
本当にありがとうございました。

 8/DEC/2002   Sさんから頂いたメール紹介「レーシングカーを読んで」

 はじめまして、現在茨城県取手市に住む43歳のサラリーマンです。私がはじめて手にしたのは1967頃小学校2.3年で、そのきっかけは大家さんの息子さんが自家製レールを作ったからでした。しかも本体はダンボール、溝の両サイドは割橋状のバルサにアルミホイルを巻きつけたもで、接続部分はピックアップブラシを付け、レールの端には下敷きを30mm×50mmぐらいに切った物の上からビス止めしたものでした。そんなレールでもその当時は宝物でした。私をはじめこのアパートの子供たち5人がそれぞれレーシングカーを増やし、約3年間程度レースをしておりました。細かにご紹介いたしますと、大家さんの長男ケンちゃんが、このマンタレイー、GT30、ロータスフォード(ジャッキースチュワート)、チャパラル2c(ヘッドライト点灯)、手作りボディー(紙製フェラーリ風これが滅茶苦茶カッコよかった)の5台。 次男カズボウちゃんがフェラーリ158?ポルシェカレラ10・エルバーマクラ−レンの3台。従弟の辰美ちゃんがフェラーリ330P2・ロータス30か40・コルペットスティングレイの3台。優ちゃんがホンダF1・トヨタ800の2台。そして私が、GT40・ローラt70・ブラバム・フェラーリ・アルファロメオの5台だったとおもいます。
レース開催日は大家さんのおじさんがタクシーの仕事に行った時だけで週1度か2度程度で、家にいる時は絶対やらせてもらえず、いつも早く仕事に行けばいいなって思ってました。また行くとしても、どうゆう訳か決まって夕方3時頃から6時ぐらいの間で、また雨降りの時は絶対行かず、最悪は行ってから雨が降るとすぐ戻ってくる事でした。
そんな私の幼い頃の思い出が今目覚め、最近はyahooオークションにどっぷりハマリ、日々掘り出しスロットカーを物色しております。しかし1/24物は値段も高くなかなか手にいれられず、まだコグレのフェラーリ158とGT40(ボディーのみ)だけです。なんとか安く手に入れられる方法を考えておりますが、今のところ、ボディーとシャシーを別に買う方法ぐらいでしょうか?
 とにかくこれからもしばらくレーシングカーにこだわり、少しづつ集めていきたいと思っております。 以上くだらない昔話をながながと書きすみません。
今後もこの続きを楽しみにしております。

 WEB MASTER : 

 S様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂きありがとうございました。そして、メールまで頂き感激しております。
モデルカー・レーシングは年代に関係なく遊べる本当に楽しいホビーだと常々思っています。
そんなモデルカーレーシングの歴史があまりにも語られていないことに気づき、4年前にPCを習ったのを契機にこのHPを作り始めたわけであります。
もちろん実車の日本グランプリ等も同じ理由で私の当時の思い入れを書き綴っております。
しかし、当時のモデルカーは各自の自作の範囲が多く、施行錯誤でいろいろ試しては失敗、試しては失敗の連続でありましたがとても良い思い出となっています。
これからもぜひお時間がある時に立ち寄ってください。そして、アドバイス等頂ければ幸いです。
近々再現第4号モデル・スピードライフをUPいたしますので宜しくお願いいたします。
また、このMSLは、いろいろな皆さんのレポートや製作記などを載せて頂いてもいますので、何か面白い事がありましたらお連絡ください。
では、ありがとうございました。

 26/NOV/2002   S.Yさんから頂いたメール紹介「栄光の60年代オヤジです」

 牧野さん、はじめまして。
小生はK在住の51年生まれ、51歳のサラリーマンです。私と「モデルカーレーシング」との出会いは中学生時代でした。それはそれは衝撃的な出会いでした。初めて手に入れたのは(買ってもらったのは)記憶ではイマイ製のフェラーリ(1/24のF-1)だったと思います。近所の金持ちのお坊ちゃんが持っていたCOXの「シャパラル」は夢にまで見たものですが、HPで拝見したら当時で4000円もしたんですね。
いま残ってる残骸は、COXとモノグラムのシャーシー、それにゴーセンの改造ブレーキ(ご存知だと思いますが、ブレーキボタンを押すとコントローラーに接続したバッテリーからの電流でモーターを逆回転させるヤツです。一時は流行りましたネ。このおかげでカーブへの突っ込みがまるで変わりました)流付きのコントローラー程度です。

ストックカー、フォーミュラー(1/24と1/32)、GTの各クラスのマシンを引っさげて週末にはよく参戦したものです。しかし、所詮は中学生。資金力でも技術でも大人には敵わず、敗北の連続でした。
よく通っていたコース(錦糸町のボーリング場)で会うオヤジのアタッシュケースの中には、宝石のようなマシンがビッシリと詰め込まれていました。このときの無力感は今でも忘れられません。それでも、モーターを巻き直し磁石との隙間を詰めたり、タイヤのグリップ強化にラー油を揉み込むなど色々と努力したものです。
やがてブームにも翳りが見え出し、街のレース場から人が去って行った頃に、ニチモのホームサーキットをレーシングカーに飽きた友達から譲り受けました。これだけでも取って置けばと、後悔しきりです。
さて、その後は実車へ興味が移り16歳で軽免許を取得し、「エヌサン」と出会いました。
すっかり長くなってしまいましたが、同じ時代を生きてきた牧野さんのHPを拝見していて、様々な思いが自分の中に押し寄せてきました。どこかの映画評論家風ですが・・・「60年代ってほんとうに素晴らしいですね!」
取り留めのないメールで恐縮です。
これからも楽しみに拝見させて頂きますので、宜しくお願いいたします。
リンクページも拝見して、また感激しています(笑)、では。

WEB MASTER : 

 Y様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き本当にありがとうございました。
そして、メールまで頂き感激しております。
私より先輩でいらっしゃいます米本さんが体験された65年当時のモデルカーレーシングとは実感としてどのようなものだったのでしょうか。
私は小学校5年生の頃でしたから実際にモデルカーを手に入れたのは6年生の頃で、夢中になり出したのはすでに斜陽気味でありました1967年の頃からでした。
その後は実車の日本グランプリでのニッサン、トヨタ、タキ・レーシングなどの戦いをモデルカーレーシングに置き換えて友人と「TNTの対決だ!!」などとシリーズ戦を自分たちで作り、楽しんだものでした。
昨年、当時のチャンピオンでありました「鳥海志郎」氏や元祖モデル・スピードライフで製作記事を作られていた方などとHPを通じて光栄にも知り合うことが出来、今でもいろいろアドバイスを頂きながらHP作りを続けております。
近日中にそれらの方々を特集した再現第4号モデル・スピードライフをUPする予定ですのでお時間がありましたらまた立ち寄ってください。
では、これからも良きアドバイス宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。

 09/NOV/2002   Mさんから頂いたメール紹介「うれしかった事」
 
 イクザワテツという感じ。僕のイメージでは漢字では有りません。ネットをうろうろしていたら、ぶつかりました。帰ってきた徹。とても懐かしく、とてもうれしく、感激です。
僕がレースをよく見ていたころは、富士スピードウエイのメインスタンド裏バックストレートにスカイライン、セリカ、GTO、レビン等の改造車があふれていました。GCも見に行きました。F1にもいきました。当時僕はコロナ1700SLで,ホワイトレターを履いていました。HPを拝見したとたんに、18歳に戻ってしまいました。
ヘアピンサーカスも見たのが懐かしく想いだされました。これからも皆さんの活躍を影から見守ってゆきたいとおもいます。 
東京都 M(46歳)
 WEB MASTER : 
 
 M様、この度は私のまだまだ未熟なHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
 生沢さんは私にとってヒーローでした。そして、今も当時の活
躍をまるで映画のヒーローを見る感覚で捉えていたのだなあとしみじみ感じているところです。
このHPを初めさせて頂いてから生沢さん御本人からも感激の言葉も頂き、先日夢かなってお会いする事も出来ました。
これからも生沢さんの活躍されたレース等を書かせて頂こうと思っているいます。
では、これからも宜しくお願いいたします。ありがとうございました。
 02/SEP/2002 K.Mさんから頂いたメール紹介「初めてHP拝見させて頂きました」
 
 はじめまして、愛知県のMといいます。
HPを、楽しく拝見しました。
実は、2002年8月14日のレースをトヨタチームで、黒のセラのドライバーとして乗りました。車のオーナーのOさんの誘いで、レースに参加しました。大変有名なドライバーとの一日は、楽しいものです。
次の日に帰りに、元チーム・トヨタのO氏の宅にもお邪魔しました。
楽しい話を聞くことができ、感激しました。
とにかく、本当にすばらしい二日間でした。
これからも、HPを拝見さしてもらいます。
最後に、自分勝手な事を書いた事をお詫び申し上げて、失礼します。
 WEB MASTER : 
 
 M様、この度は私のHPに立ち寄って頂いただけでなくメールまで頂きありがとうございました。
そして、エコランレースでチーム・トヨタと同じピットで走られていた黒いセラのドライバーの方だ在ると知り大変ビックリしております。
Oさんも最後の方に乗られていたようですが私は電車の時間が迫り失礼させて頂きました。
元チーム・トヨタのOさんには今度ぜひお会いしたいと思っております。
またぜひお時間がある時にでも立ち寄ってください。
ありがとうございました。
 23/SEP/2002  M.Kさんから頂いたメール紹介「レーシング・メイト、クラブレーシングについて」

 ども牧野さん、静岡に住む39歳のものです。
いつも車村のHPを楽しく拝見させていただいております。

わたくし、クラブマンレーシングに興味があり故浮谷東次郎さんや、生沢徹さんの記事は目にする機会はあるのですが、彼らがワークスの枠を破って作った、クラブマンのレーシングチーム(チーム?)RACING MATEについての記録が、メディアでも余り見かけません。60年代レーシングに詳しい牧野さんならご存知かと思い、メールをさせていただきまました。
一度、鈴鹿の特別番組で、レーシングメイトの船橋サーキットの映像を見たことがりますが、カッコいいのは、LOTUSの26Rだけでなく、応援にきていた彼女達まで、おそろいのTシャツ(VAN製)を揃えていて、粋でいて仲間同士がパドックで車を押し合う、そういう素敵な仲間達という感じがひしひしと伝わってきました。
メーカーがガチンコ勝負のレースも魅力ですが、こういうサンデーレーサー的なものも、非常に魅力です。
ぜひ、ぜひ、レーシングメイトについてのコンテンツをお願いします。

 WEB MASTER : 

 K様、この度はメールを頂きありがとうございました。
さて、レーシング・メイトについてですが、私にも詳しいクラブ活動についてはわかりません。
ただ、当時のトヨタのエースドライバーとして君臨していた式場壮吉氏(第2回日本グランプリGT-II優勝者)が先頭に立って活動していたことには間違いないと思います。
氏の友人でありライバルであった浮谷東次郎さんや生沢さん、徳江さん(モータージャーナリストの徳大寺氏)、ミッキーカーチス氏(ロック歌手)らと共に当時の流行の先端を走っていた彼ら若者たちがモータースポーツという世界の中でモータースポーツ後進国だった日本をなんとかヨーロッパ的に表現しようとした結果がレーシング・メイトの発足理由だったのではないでしょうか。
その後レーシング・ウェアやレーシング・ギヤなどを販売する会社「レーシング・メイト」を設立し、その片わら今の「カー・マガジン」とは違うベースボールマガジン社の「カーマガジン」の作成に関わったりとあらゆる面に進出して行ったようです。
しかし、1967年を最後にその活動は行き詰まり終焉を迎えることになりました。
その後のレーシング・メイトについてはあまり良くわかりません。
やはりそのサンデーレース的な活動はご指摘の通り1965年だったのではと思ってしまいます。
では、これからも宜しくお願いいたします。

 12/SEP/2002   Nさんから頂いたメール紹介 「初めてHP拝見させて頂きました」

 初めまして埼玉県に住んでいるNといいます。32歳男です。
以前プロダクションレースに関わっていた程度ですがモータースポーツが何より好きな者です。
HPの内容は感動しました、最近には無い熱い物を感じました。
今後も見させてもらいます。
以前から30度バンクに興味がありまして当時の写真や映像を探しています。自分が5歳の頃使用禁止になったらしくあまり情報を知りません。 映像見るのは不可能なんでしょうか?
来年末にバンク壊される話の確かな情報知っていましたら教えていただきたいです。
昔から最近までのどんな事でも良いので教えて下さい。
よろしくお願いします。

 WEB MASTER : 
 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
N様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂きまして本当にありがとうございました。
私よりも一世代半も違う年齢だとは思いますが、モータースポーツは世代を超えて素晴らしいものだと思います。
富士の30度バンクはトヨタ自動車が富士スピードウェイを買収し将来のF1開催の為に来年ぐらいからコースを作りかえる予定です。
よって、すでに使われなくなっていた30度バンクは取壊されてしまいます。
30度バンクは、1974年6月に開かれた富士グランチャンピオンシリーズ第2戦で起きた大事故以来危険ということで使用されていません。
1965年に完成した富士スピードウェイは当初アメリカのナスカーレースを開催出来るようにとお結び型のコースとして計画されたのですが、富士地所がオーナーとなってからヨーロッパ型のテクニカルな部分とアメリカのオーバルバンクコースをミックスした新しいコースとして作られました。
翌1966年、第3回日本グランプリがスズカより移り富士のオープニングイベントとして開催されました。
それから、1969年まで開催されたプロトタイプカーおよびCAN-AMカークラスを中心としたスポーツカーレースが主にこのバンクを使用して開催されました。
しかし、アメリカのデイトナスピードウェイと違い富士のバンクは表面がとても荒れており車線もある一車線しか使うことが出来ずとても危険でした。また、ストレートよりもスピードが出たといいます。
画像としては私のHPに何場面か有りますので紹介します。
http://www.mmjp.or.jp/60srace/Record2.html
http://www.mmjp.or.jp/60srace/GreatSakaiStory.html
http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/69JAFGP.html
以上が主なところです。
では、これからもぜひお時間がある時はぜひ立ち寄ってください。
ありがとうございました。
 12/SEP/2002   H.Tさんより頂いたメール紹介 「鳥海志郎さんが懐かしい」

 初めてお便りします
60年代の鳥海氏全盛のころモデルカーレーシングに没頭していた者の一人です。
やぁほんとに懐かしいモデルスピードライフも愛読していました。
たまたま、ネットでくるま村を発見し「鳥海志郎の世界」なる文字を見たときは懐かしさで思わず「おー!」と叫んでしまいました(笑)。
 あの当時オール関東に出場した鳥海氏や小西氏は別格で我々一般人には雲の上の存在でした。とにかく1/32インディ500の走りは凄かったです。
細かくテールを振りながら強烈なスピードで走り抜ける様はまさに超人(鳥人)(笑)的で今でもはっきり覚えています。
氏の回想を聞き今更ながら天才の技術に感銘を受けることしきりでした。
とにかくどーやったらあんな走りが出来るのか、どこに秘密が隠されているのかを日夜研究し深夜まで車作りに没頭したことを思い出して思わず笑ってしまいました。
 私は鳥海氏よりは少し後の時代、往年の等々力サーキットのメンバーでしたが、レースにはとんと弱く(笑)いつも予選敗退常連組でした。
ただ一度12時間耐久レースで他の方2名とチームを組み優勝したのが唯一の戦績です。今は懐かしいく誇らしい思い出ですね。
 くるま村の記事はなんと膨大でまだちょこっとしか読んでいませんが、これからもちょくちょく見せて頂きますので頑張ってくださいね。
 とにかく懐かしい記事を掲載して頂いて本当にありがとう。
これからも何が出てくるか楽しみにしています。
 

 WEB MASTER : 
 くるま村の少年たちを主宰しております牧野です。
T様、この度はまだまだ未熟な私のHPに立ち寄って頂き、さらにメールまで頂きありがとうございました。
当時のリアルタイマーの方にメールを頂くことが出来て本当に感謝しております。
鳥海さんの現役当時はわずか2年あまりだったんだと編集しているときにわかりました。
鳥海さん御自身もたった2年か・・・と熱中した時代を思い出されていました。
しかし、その専門的な技術力もさることながら当時のマブチモーターや田宮模型にアドバイザーとして新製品の開発に従事されていたと聞いてなおさら当時の鳥海さんの凄さを今さらながら実感している次第です。
あの田宮のサイドワインダースプリング・サスペンションダイキャストシャーシは鳥海さんのテストあっての製品だったんですから・・・。
とにかく1965〜66年はモデルカーレーシングにとって本当に日の出の勢いがありましたね!!
これからもどうか当時のことをぜひコメントとして頂ければ幸いです。
また、アドバイス等頂ければありがたいです。ありがとうございました。


 後日談となりますが、メールを頂いたT氏はなんと私が67年当時遂に作ることが出来ず今だに最高のモデルカーレーシングシャーシーと思い続けている元祖モデル・スピードライフに掲載された「全輪サスペンション・シャーシー」生みの親であったことが氏のお話でわかりました。
そして、このシャーシーは今でも現存することも同時にわかり私はパニック状態となったのでありました。
このシャーシーについては近日中に特別企画として取り上げるつもりであります。