TOP : The Lola-Aston Martin V8 and John Surtees. (C) Modeling, photograph by Masayuki Yamada. (C) Photograph by Joe Honda. |
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ローラT70MKIII というと皆さんは、何を思い出すでしょうか。
一番ポピョラーで今だに人気があるのは、1969年デイトナ24時間レースでキズだらけになりながらも優勝したマーク・ダナヒュー/チャック・パーソンズ組のスノコ・ローラT70MKIIIBシボレーではないでしょうか。しかし、私などはどうしても1968年第5回日本グランプリに怪鳥“ニッサンR381”に果敢に挑戦し、1度はトップにたったものの最後はリア・ドライブシャフトを折って無念のリタイヤを喫してしまう“怒る田中健二郎”駆る真赤なボディに白いVストライブのローラT70MKIIIが今だに最高だと思ってしまいます。 しかし、この1台を別として、実はもう1台忘れられないお気に入りの“可憐なローラ”があるのです。 それが今回ご紹介する“ローラ・アストンマーティン”なのです。 別名“ローラT73”と言われるこのローラ・アストンマーティンは、1967年ロンドン・レーシングカーショーで初めてその姿を現した純イギリス製マシンで、“ル・マン”制覇を最初から宿命づけられたイギリス期待のグループ6プロトタイプ・レーシングカーでありました。ちなみに、翌1968年から、シボレーエンジンを搭載して市販されることになる“ローラT70MKIII”とは根本的にこの“ローラ・アストンマーティン”は異なった目的で製作されたプロトタイプカーでありました。 1966年からFIA国際法典J項の改正に伴って、1967年までの2年間はまさにプロトタイプ戦国時代と言われる中でデビューした“ローラ・アストンマーティン”は、丁度フェラーリ対フォードの宿命の対決ムードの真っ只中に産み落とされた赤子のようでもありました。また、フォード、フェラーリ以外にもライバルは多く、ジム・ホール率いる“チャパラル”や今や格下とは言えなくなってしまった“ポルシェ”軍団。まさに、餌をあさるライオンたちに囲まれた“美少女ローラ”とでもいうような様相だったのではと想像出来ます。 そんな中、1967年4月8、9日に行なわれた恒例の“ル・マン テストディ”において、イギリスの威信を一心に集めて“ローラ・アストンマーティン”がさっそうと登場したのです。それは3年前にル・マン24時間レースに71年振りにル・マンに帰ってきた“ベントレー”がGBグリーンに塗られてデビューしたのに何か似ているように思われてなりません。(ただしアウディ配下のベントレーと違い、ローラ・アストンは純粋なグレートブリテンでしたが・・・) 実は、このローラとアストンマーティンの“結婚”には深い意味があったと言われています。当時、アストンマーティンは主力市販車“DB6”が不振でどうしても名声を取り戻す必要に迫られていました。その方法を模索する中でたどり着いた結論は、レースへの復帰でありました。元々アストンマーティンは、ル・マン24時間レースには欠かす事の出来ないメーカーであり、フェラーリがスポーツカーの王者になる前には、ジャガーではなく、このアストンマーティンがル・マンの主役であったからです。代表的な1台としては、“アストンマーティンDB4ザガート”などはその良い例であります。 |
ところで、1967年の「ル・マン テストディ」の詳細について、当時のオートスポーツ誌に注目すべき記事が掲載されていたことを皆さんは御存知だったでしょうか。
「福沢幸雄」。 この名前を知らない方はまずいらっしゃらないのではないかとは思いますが、60年代中盤からチーム・トヨタのワークス・ドライバーとして“トヨタ2000GT”や“トヨタ7”駆って、鮒子田 寛らと共に多くの優勝経験を持ち、その一方では、持って生れた甘いマスクでファッションモデルとしても活躍、さらに、当時大人気でありましたGS(グループ・サウンズ)のザ・スパイダーズのユニフォームなどを最先端のファッション感覚で手がけるなど、福沢幸雄の才能は他分野に及んでいたことがわかります。さらに、ファッションメーカーの「エドワーズ」社の企画部長としても活躍するという正に福沢はマルチ人間でありました。そんな彼を見て、当時の若者がその生き方について圧倒的に支持していたことは、当時の時代背景を考えると容易に理解できることだと思います。 その福沢幸雄が、チーム・トヨタ在籍中に、プライベート・ヴァケーションを取って実はこの「ル・マン テストディ」の取材をオートスポーツ誌の為に行なっていたのです。 それでは福沢幸雄が人気絶頂だった1967年に書き上げたテストディ取材記事を、1967年発行「オーツスポーツ」誌6月号より引用活用させて頂き紹介したいと思います。 |
“記録破りのスピードと死の ル・マン前哨戦!!”
ル・マン24時間レースの前哨戦が、さる4月8〜9日の2日間にわたってくりひろげられた。名づけて<ル・マン・プラクティス>――その初日、はやくも昨年のラップ・レコードが5秒以上も短縮され、若いひとつの生命が“ミュルサンヌ”の直線に消えた。 快調のフェラーリ 第1日め――4月8日のテスト・ディは午前8時から始まった。6月10〜11日におこなわれる本番を2ヶ月も前にしてのテストだが、6月の第1週には公式予選がもう1度おこなわれて本レースでのスターティング・グリッドがきまる。 英国ブランズハッチでのチャンピオン・レースやジュネーブのオート・サロンなどを見て、プライベートなヨーロッパ旅行もほとんどすませた私は、ル・マンのテスト・ディを最後の楽しみにとっておいた。フェラーリとフォードの対決に加えて、ことしは特にアルファロメオ33やローラ・アストンマーティンなどの新型プロトタイプが出現するとあって、私の胸は期待でいっぱいだった。 朝5時にパリを出発。車はあらゆるチューン・アップをほどこしたミニ・クーパーS。ル・マンの町までおよそ300Kmの道のりを3時間たらずでスッ飛ばした。テスト・ディとはいえ、ル・マンはたくさんの観客でかなりごったがえしていた。本番の賑わいを想像して感心したり、おどろいたり。 ル・マン24時間を主催するACO(オートモービル・クラブ・ド・ウエスト)のはからいでパドック・パスにありつき、ピットに向かうころには、ちょうど午前8時のテスト開始時刻となった。 ル・マンの空は晴れて絶好のコンディションだった。 アメリカからのり込んできたフォード勢は新型マーク4の調整に血マナコ。それをしりめに、フェラーリのワークス・チームは快調なラップをかさねた。なかでも330P-4に乗るバンディーニは、1周13.48Kmのル・マンのコースを3分25秒7( 235.59km/h)のハイスピードでまわり、昨年ダン・ガーニーがフォード・マーク2で記録した3分30秒6( 230.14km/h)の最高ラップをかるく更新した。午後に入って、それがさらに3分25秒5( 235.81km/h)まで短縮された。2位は同じフェラーリP-4のマイク・パークスで3分27秒6( 233.43km/h)。 午前中の3〜4位は、ダナヒュー、マクラーレンのフォード・マーク2およびマーク4が占めていたが、午後になってからイギリスのニュー・プロト<ローラ・アストンマーティン>で登場したジョン・サーティーズが3分31秒9( 228.69km/h)のラップ・タイムをたたき出し3位についた。 ダナヒューのフォード・マーク2は午前中のタイムを3分32秒6(227.94km/h)まで縮めたが、ついにサーティーズのローラをしのぐことができず4位にまわり、マクラーレンのマーク4も、いぜん午前中の3分36秒1( 224/25km/h)のまま5位となった。 新型のミラージュで出走したアットウッドは3分38秒2( 222.09km/h)で6位。これにはフォードの4.7リッター・エンジンが積まれており、イギリスのジョン・ワイヤー・エンジニアリングからのエントリーで、ピート・ブロックがデザインした2座席レーサーの“ミラージュ”とは違うようだ。 by
Sachio Fukuzawa
TOP : Sachio visited to Brands Hatch for Tetsu Ikuzawa in 1967.( Leftside) (C) Photograph by Joe Honda. 上の写真は、ヴァケーションを利用して、当時イギリスで日本人として初めてF-3選手権に挑戦中だった生沢 徹の応援に駆けつけた福沢幸雄。福沢と生沢は、家庭環境も似ており理解し合える間柄だったという。撮影は、1967年、やはり日本人として初めて本格的なモータースポーツカメラマンとしてヨーロッパへ渡っていた若きジョー・ホンダであった。
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“死の高速ストレート”
初日のテストも終わりに近づいた午後3時頃、フランス人ドライバーのロバート・ウェーバーの乗るマトラBRMがミュルサンヌの直線(注 :当時は、何故かミュルサンヌ・ストレートと言われていたが、実はこのストレートはユーノディエール・ストレートと言うのが正式名だったことがわかるのは、70年代になってからだった)で急に車輪がロックでもしたようにもんどりうって3〜4度横転し、しまいには火炎に包まれてしまった。高速ストレートのミュルサンヌにはいって約2.5kmの地点、スピードは250km/hを超えていたはずだ。 ウェーバーは1日中フォード4.7リッターのマトラに乗っていたのだが、チーム・メートのマトラBRM2リッターと交替、その1周目の突発事故だった。ウェーバーは即死した。 彼は27歳のフランス人で、1964年にフランスのヌベール地方にあるマニクール・サーキットのウインフィールド・レーシング・スクールの卒業生。この私も同じレーシング・スクールの出身で、彼の方が半年ほど先輩だったらしい。 卒業後はフランスF-IIIチャンピオンシップの2位になったり、昨年はアルピーヌのファクトリー・チームに入り、ル・マンにも出場していた。マトラに入ったのは今年で、優秀なドライバーの少ないフランスにとって、最も将来を期待されていたタレントであった。私にとっても、何か身につまされる悲劇だった。 2日目の4月9日は朝から雨。この日はおもにタイヤのテストやドライバーの練習にあてられることとなった。 初日のほとんどをマシン調整についやしたフォード・チームの総師キャロル・シェルビーは、「明日になれば、きっとフェラーリの3分25秒を破ってみせるさ」と500ドルの賭けをしていたが、その徹夜の苦労も報いられることはなかった。 雨は昼ごろ一時晴れたが、この日のベスト・ラップはサーティーズのローラ・アストンで3分37秒8。ついでスカルフィオッティが乗るフェラーリP-4の3分44秒3。 フォードはこの日も気化気のセッティングや、ブレーキとかタイヤなどのテストに費やした。フォード各車には後輪トルクをはじめブレーキ・ディスクの温度やスロットル開度まで記録できる写真装置が搭載されていた。 |
The
Maximum Speed of Mulsanne Straight
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さて、1967年の参加マシンたちはどのようなマシンたちだったのでしょうか。
今回は、それら主な参加マシンをいつもお世話になっているモデラーの方々に編集長のわがままを聞いて頂き、モデルカーで再現してみたいと思います。それらは、短期間で製作をお願いした言わば”おねだりマシン”たちばかりであり、まさに編集長お気に入りの“ル・マン テストディ”専用プロトタイプカーたちばかりであります。 では、その素晴らしい出来映えの“ル・マン テストディ カー”たちをご覧ください。 GO
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(C) Photographs
by Joe Honda.
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