1965年

 
1965年から丁度50年を迎える2015年。
日本のモータースポーツやスロット・レーシングを語る上で1965年という年は欠かすことの出来ない年だと思う。
あの東京オリンピックが開催された翌年ということもあり、色々な意味でカルチャーショックの多い年だったと感じる。ビートルズが日本でも人気爆発したのもこの年だった。しかし残念ながら当方はテケテケテケのベンチャーズに夢中だったが・・・。
 私はといえば、まだ幼い小学5年生。アトムや鉄人、そしてエイトマンのマンガ御三家に夢中の漫画家志望の少年であった。また、近所の模型屋(クラウン模型店)や駄菓子屋などを行き来する行動範囲が関の山の近所単位に生きる少年でもあった。しかしながら諸般の事情で私が通う小学校は町を越える越境入学であり、住んでいた板橋の東上線 下板橋駅から常盤台駅にある常盤台小学校まで通っていたという変り種少年だった。
下の写真は、1965年当時の常盤台小学校と現在の姿。(常盤台小学校のホームページより現在の写真を紹介させていただいています。)

そして、私は当時流行語になっていた「鍵っ子」であり、首よりヒモで家の鍵をぶら下げて通学していたのである。
常盤台といえば、今もそうであるのだが高級住宅地というイメージが強い。とにかく一軒家が多く、なんと言っていいか・・・とにかく道の舗装などがとてもおしゃれな感じなのである。
常盤台小学校の同級生は今考えてみると、共働きの両親を持つ私からすると随分と上流階級(!?)の家庭のご子息が多かったように感じる。
また、今思うと各学級にテレビがあり、東京オリンピックを教室で見たり、給食時には「桂小金治 アフタヌーンショー」「みんなのうた」「おはなはん」などを毎週見ていた記憶がある。当時としてはとても進歩的な小学校だったと思う。ただし、給食はまだ牛乳ではなく脱脂粉乳であったが・・・。
 当時とても印象に残っているのは、期末時の放課後に、珍しかったテープレコーダーでテレビ番組の主題歌を録音したものをクラスの皆に聞かせるという行事(!?)を必ず行っていたことだ。結構数十人が付き合ってくれていた。(録音は家のテレビに直接録音マイクを当てて録音するという旧態然とした方式であり、食器の音などが混じったりと今では笑ってしまうような内容であった)
録音内容は、TVマンガ主題歌や子供向け番組主題歌、そして時代劇主題歌などが主なものである。
「少年ケニア」「鉄人28号」「エイトマン」「アラーの使者」「風雲真田城」「少年探偵団」「進めシスコン」「隠密剣士」「忍者部隊 月光」などなどである。
そして、極めつけなのはクラスにはクラス新聞係りがいるのにもかかわらず個人新聞(ガリ版印刷)を書き続けていたことだろうか。「ホームラン・タイムズ」が私が書く個人新聞名であった。時代を感じる名前である。
内容は、実際に当時入団していた「カブ・スカウト」で出かけて行った小郷地ダムなどの感想レポートを書いたり、当時流行の怪獣について書いたりと結構凝った内容だった。そして、新聞には不可欠な4コマ漫画や連載小説などもオリジナルに拘った(!?)。冒険小説「ビーバー少年漂流記」や怪奇小説「悪魔の住むブナ屋敷」などは物語の終わり方が思い浮かばず苦労した思い出がある。また、マンガでは、ギャグマンガ「ガエル」(蛙でないガエル)や「まきの凡太郎」などをオリジナル漫画として描き続けた。
 当時の通信簿が傑作である。担任のW先生のコメント「勉強も新聞のように頑張ってください」と・・・・。

さて、1965年という年。ちなみにネットで探すことが出来る「1965年の出来事」より抜粋した出来事は大体次のような内容である。

1965年(昭和40年)出来事

■いざなぎ景気
■3C時代(車、カラーテレビ、クーラー)
■朝永振一郎氏、ノーベル物理学賞受賞
■プロレス中継が視聴率51.2%に
■日本サッカーリーグが開幕
■日本最初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』放送開始
■エレキギターブーム
■初の国産旅客機YS-11が就航
■国鉄がみどりの窓口開設

1965年(昭和40年)流行ファッション・髪型

■モンキー族
■パンタロン流行
■アイビー・スタイルが高校生から大学生の間に流行
■VANルック、JUNルック
■パンティストッキング

1965年(昭和40年)新商品・ヒット商品

■カセットテープレコーダー(アイワ)
■アイスノン(鎌田商会)
■玩具 スーパーボール(国際貿易)

1965年(昭和40年)新食品・ヒット食品

■オロナミンC(大塚製薬)
■チョコレートボール(森永製菓)
■ラミーチョコレート(ロッテ)
■ウィスキー ブラックニッカ

1965年(昭和40年)ヒット曲

1位 君といつまでも 加山雄三
2位 涙の連絡船 都はるみ
3位 涙くんさようなら マヒナ・スターズ
4位 兄弟仁義 北島三郎
5位 ねむの木の子守唄 吉永小百合
6位 愛して愛して愛しちゃったのよ 田代美代子
和田弘とマヒナスターズ
7位 赤いグラス アイ・ジョージ、志摩ちなみ
8位 知りたくないの 菅原洋一
9位 二人の世界 石原裕次郎
10位 女ひとり デューク・エイセス



 以上の中より記憶に残ることと言えば、下記の事柄である。
「プロレス中継が視聴率51.2%に」「エレキギターブーム」「モンキー族」「玩具 スーパーボール」などであるが、特にエレキギターブームについては特に印象深い。「エレキの若大将」の放映も手伝ってか同級生のY君が音楽室からシンバルと小太鼓を借り出して、盛んにバチ(スティックをそう言っていた)でシンバルをシャシャシャシャと鳴らしながら小太鼓をスネアドラム代わりにタタッタ、タタッタとベンチャーズサウンドに似せて叩いていたのを今でも鮮明に思い出す。
その後Y君が先生となってギターを教えてもらうこととなるのだが・・・。
それから2年後Y君と私とあと友人2人とで伝説の(!?)エレキバンド「ジ・エコーズ」を結成することとなる。

ジ・エコーズ(前列右が若き時代の当方)

 プロレスについては、私の親父が大のプロレスファンだったということで、好きになってしまったというのが実情である。当時ディズニー・ランドのTV放送と交互に放送されていたプロレス中継は私にとってはなんとも憎き番組であった。しかしながらBI砲(馬場、猪木のこと)全盛時代にはワールドリーグ戦戦績を知るためにスポーツ新聞を買いあさっていたぐらいのファンに変身していたのはどうしたことか・・・。
 いずれにしてもプロレス中継は忘れられない出来事である。

 玩具 スーパーボールについては、印象には残るものの特に遊んだ記憶は少ない。
1965年以前にも子供たちを夢中にさせた玩具は沢山ある。その1つが「ヨーヨー」だ。森永牛乳だったか森永製菓だったか忘れたが「森永コーラス」飲んで「ヨーヨー」を当てよう!!などというフレーズで一時期ブームになり、町でも良く見かけるようになった。1960年代前半の子供たちの代表的玩具と言えばプラモデルを別として「粘土型」「新聞紙で作った吹き矢」「コマ遊び(手乗っけ)」「ベーゴマ」「めんこ」「剣玉」「パチンコ(Y字にゴムをかけて石などを玉にして打つ遊び)」「銀球鉄砲(銃口より玉が出ず何故だと思ったおもちゃ)」「2B(蛙の口に入れて・・・)」などであり、ヨーヨーは新鮮に思えたものである。しかしながら当方の思い込みだろうか、プラモデルの方がもっと流行っていたように思うのだが、やはり大きなマスで見るとヨーヨーの方がポピュラーだったのだろうか。

さて、ここまで色々述べてきたのだが読んで頂いている方々からは「あれっ?!何か足らないのでは?!」と思われたのではないだろうか。1965年の出来事には書かれていないもっとも影響を受けた事柄が・・・。
まず子供心に思うカルチャーショックだった出来事の筆頭に上げられるだろうと思われる「スロット・レーシングまたはモデルカー・レーシングブーム」については一言も書かれていないことが納得できない。そして、諸般の事情で中止となってしまった「第3回日本グランプリ」の代わりに開催された「全日本クラブマン選手権大会 通称全日本CCCレース」についても触れられていない。
そして、忘れてはならないのが、当時は遠い世界の憧れのレースと思われていたF1グランプリレースに、参戦2年目の ホンダ F1が初優勝したことだろう。1965年度チャンピオンシップの懸かったグランプリレースの最終戦“メキシコ・グランプリ”に見事独走優勝を飾ったホンダは、その後、世界の自動車メーカーへと登りつめていくこととなる。

そして、スロットカーブームであるが、全体像から見るとスロット・レーシングもモータースポーツも当時は一部の人たちだけのものだったのかと思ってしまう。確かに当時の同級生50名(当時は1クラス50名は普通であった)中スロットカーを親から買ってもらっていたのは今思うと4〜5名だったと記憶している。さらに複数台所有するとなるともっと少ない人数になるかもしれない。スロットカーキット価格はモーターを入れて1台1,000〜1,500円ぐらいだったろうか、さらにアメリカ製の輸入スロットカーキットとなるとモーター付きで2,000〜4,000円ぐらいはしていた。
下の写真は、国産スロットカーでは一番少年たちの心を掴んでいた田宮模型の垢抜けた広告の一例だ。そして、マンガ家入門と共に当時の少年たちのバイブル書籍だった モデルカーレーシング入門 である。今も宝物である。

             

当時の少年マガジンやサンデーが50〜60円、ラーメンも50円、子供国鉄運賃1区間5円という時代(当方の記憶によるもので間違っていたらお許しください)、スロットカーキットの値段はまさに高嶺の花であった。このことから爆発的ブームと呼ばれながらもスロット・レーシングブームとはやはり一部の家庭の子供のみ遊ぶことが出来た遊びだったのか。さらに高額なホームサーキットセットを所有しいた同級生はもっと少なくわずかに2名程度だったように記憶している。私と同年輩でスロット・レーシングブームを体験され、現在スロットカーモデラーやカーモデラーとして活躍されている方々も当時スロットカーで遊ぶことが出来た数少ない子供たちだったかもしれない。
しかしながら当時当方は小学生。実際に全国営業サーキットを舞台に活躍されていたのは年上のお兄さんたち。少なくとも15歳以上の高校生・大学生、さらに趣味人成人男性の方々が楽しまれていたのではと想像する。経済力、行動時間範囲、そして、製作技術力などを考えると実際のスロット・レーシングブームを作り上げていたのは我々より年上の大人たちだったのではないか。そして、いつのまにか子供の遊びからマニアックな大人の遊びに変化してしまったのではないだろうか。
その教訓が現在の「ミニ四駆」に生きているように思えてならない。

そんな事情はあるにせよ、あえて「くるま村的1965年の出来事」を書かせて頂くとしたらこのようになってしまう。

モデルカー・レーシングブーム(スロット・レーシングブーム)
■第1回オール関東サーキット対抗グランプリレースが開催 1965年8月22日東京科学技術館
(スロット・レーシング初のビッグイベント)
■スロット・レーシング専門誌 月刊「モデル・スピードライフ」1965年11月号創刊

FIA フォーミュラ1世界ドライバーズ選手権 メキシコ・グランプリにおいて純国産のホンダF1が初優勝
全日本クラブマン選手権大会開催(船橋サーキット)
■天才レーシング・ドライバー「浮谷東次郎」8月21日他界
■エレキギター大ブーム(ベンチャーズやスプートニクスの来日)
■映画「エレキの若大将」放映 編入曲「君といつまでも 」加山雄三が大ヒット
■特撮映画「怪獣大戦争」が大ヒット キング・ギドラ、ゴジラ、ラドン、X星人、水野久美、宝田明
■プロレスブーム 力道山、豊登、ブラッシー、シャープ兄弟
■洋画「007/ゴールドフィンガー 」「マイ・フェア・レディ」
「サウンド・オブ・ミュージック」「ディズニー わんわん物語」などが大ヒット
■相次ぐTVマンガ放映 
・諸般事情での突然の「エイトマン」放送中止後「未来からきた少年 スーパージェッター 」が人気
・「宇宙少年ソラン 」「オバケのQ太郎」「ジャングル大帝 」(弘田三枝子のレオの歌がいい)の放送開始
■3C時代(車、カラーテレビ、クーラー)


こんなところではないかと思う。
まさしく1965年はエレキとスロットカー、そして、怪獣&SFマンガが私の最重要事項となっていたことがわかる。
もしもこの年実車の「第3回日本グランプリレース」が開催されていたならまた違ったかもしれない。
その“もし”を想像したフィクションを以前書かせていただいたことがある。
それが「1965」である。つまらない想像ではあるがこんなことももしかしてあったかも・・・という世界である。

 1965年の翌年1966年より本当の意味で日本モータースポーツが劇的進歩を遂げていくわけであるが、私が実車のレースを意識し始めたは実は1966年からである。しかもモデルカー・レーシングを始めてから初めて実車のレースのことを知ったのである。親父の知人より1965年の誕生日プレゼントとして日本模型製1/24スケール「マンタレィ」を頂いたのがそもそも興味を持ったきっかけで、それを作り上げて常盤台に住む友人S君宅にある日本模型製ホーム・サーキットで初めて走らせ、S君所有のレベル製1/24スケール「フェラーリ250GTO」を破ったのが今も続くホビーの始まりであった。その日は奇しくも1966年5月3日。そう「第3回日本グランプリ」の開催日であったのだ。
確かおやつか昼ご飯を頂いている時だったと記憶しているが、S君宅の白黒テレビでまさにその日開催されていたグランプリの生中継を見ることが出来たのである。かなり長い時間放送されていた記憶がある。まず、特殊ツーリングカーのレースでスタートよく飛び出した白いポルシェ911Sがトップで周回し、それをフェアレディが追う展開だったと記憶している。メイングランプリも放送されていたのだが、全てを見たわけではなくその時はスロットカーを走らせることが重要で最後まで見ることはなく、マンタレィを走らせていた記憶の方が多い。
 その後田宮模型より1/24スケール「プリンスR380」が発売されたのが私の気持ちに火をつけた。第3回日本グランプリに勝利したプリンスが作れる!しかしながらこのプリンスは優勝したマシンそのものの形ではなく、1965年に国際スピード記録に挑戦した時のR380であったのだが、当時はそんなことは気にせず(というよりは良く分かっていなかったのが真実)夢中となってこの年の誕生日プレゼントとして親に買ってもらったのである。

 その後のスロットカー熱は冷めることはなく続くわけであるが、同時に実車のレースへの憧れも増して行く中、日本グランプリの興奮は最高潮に達していた。また、世界のモータースポーツについてもAUTO SPORT誌に触発されますます深みにはまっていくこととなる。学校の教科書の内容は忘れてもAUTO SPORT誌のレポートコメントは今だ覚えている。

さて、1963年の記念すべき 第1回日本グランプリが鈴鹿で行われ、メーカー参戦が本格化した 第2回日本グランプリにより新時代の日本モータースポーツの扉を開いた訳であるが、国際化へと向かっていくターニングポイントとなったレースはやはり1966年にオープンした富士スピードウェイで開催された 第3回日本グランプリであろう。
その意味でも1965年という年は忘れてはならない年だったと思う。それは国内メーカーのレース部門への強化姿勢、そして、これから日本を背負うレーシング・ドライバーたちの台頭が明確になったことだ。
第2回日本グランプリまで2足のワラジ的に参加していたドライバーは引退し、本業とするファクトリードライバーと資金を持つプライベートドライバーがその後を担っていくこととなる。

 レーシング・ドライバーの確立

 浮谷東次郎をご存知だろうか。1965年8月21日に惜しまれながらこの世を去ったレーシング・ドライバーである。今思うと単にレーシング・ドライバーというには該当しない今で言う マルチな人間であったと思う。もし現在まで生きていたならきっとレーシング・ドライバーはとっくに引退し、慈善団体を立ち上げるリーダーか、代議士、または弁護士などになっていたのではないかと想像してしまう。それほど1つの規格に収まらない大きな人間だったと思う。浮谷のプロフィールなどは書籍やホームページに譲るとして私が東次郎を知ったのは実は没後相当経ってからである。
1965年当時をリアルタイムで過ごしたとはいえ、当時はまだ小学生の分際であり知る由もない。
東次郎を知ったのは日本レーシング・ドライバーのパイオニアである“生沢 徹”を知ってからその生い立ちにおいてTetsuがどうしても勝てなかった日本人ドライバーがいたということで知った次第である。
 浮谷東次郎と生沢 徹。今回、両ドライバーが駆ったレーシング・マシンたちを精魂込めて作り上げた臼井俊夫氏と須藤武彦氏、相原 修氏、そして、横川秀行氏のご好意で写真を掲載させていただくことが出来た。また、須藤氏の1/32スケールスロットカー作品は今回の企画ページ全般のシーンにご協力頂けることとなり、この場をお借りしてお礼を申し上げる次第です。

 浮谷東次郎が愛したレーシングマシンたち

 生沢 徹 才能が開花した第2回日本グランプリ


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