小学校6年生、5月のある日

 小学校の最終学年。ある女の子に内容は忘れてしまったが、ラブレターなるものを生まれて初めて渡してしまった。その子はクラスの中でも学級委員を務めたりと活発で意見をはっきり言う女の子であった。しかしながら臆病者だった私は、まずその子の妹が一学年下で同じ学校にいたので「ねえ、姉貴にこの手紙渡してくれる!?」と頼み込んだのだった。
そして、翌日、本人がクラスにいたにも関わらず妹よりその答えを聞くこととなる。
なんとその答えは正直今では覚えていないのだが確か「私も」だったか・・・。なぜかクラス中に噂が広がり、黒板には私とその子の愛愛傘マークがイタズラ書きされていたのが忘れられない。
その後今で言う付き合ったという感覚はなく、半年ぐらいはそんな感じでクラスではその子に対してどうも照れ臭く上手く話すことは出来なかったように記憶している。ただ、今も忘れられないのが林間学校(今もあるのだろうか?!)で日光に行った時のこと。夜、クラス全員での談笑会で各自が好きな歌うコーナーというのがあり、、なんとその子が「牧野君に 君といつまでも を歌って欲しい」とリクエストしてきたのである。いや〜参りました!そして、周りでヤンヤの声援を受け、遂に歌うことになってしまうのである。もちろんセリフ入りでのリクエストであったのは言うまでもない。

   

 大きく横道にそれてしまい大変申し訳ない。そんなことが起こっていた1966年。
日本モータースポーツ界(当時は日本レース界と言っていたような・・・)には新しい動きが起こっていた。
世界的にも珍しいバンク付き本格的高速サーキット「富士スピードウェイ」が誕生し、昨年中止となっていた日本グランプリが復活したのである。



TOP: 1966 Prince R380 driven by Tetsu Ikuzawa.
Tamiya's R380 base. Built by H.Makino.
 
 第3回日本グランプリについては、前にも述べさせて頂いたとおり、生まれて初めて見た自動車レースであった。
買ってもらったスロットカー「マンタレイ」を走らせるため、友人S君宅へ遊びに行った際に、偶然TV中継を見たのである。
上の画像は、その当時はプリンス自動車のファクトリードライバーとして活躍していたTetsuの愛車 プリンスR380である。
 同じ時期に田宮模型より発売された 1/24スケール プリンスR380 はその前年に国際スピード記録挑戦時のスタイルを再現したモデルで、第3回日本グランプリで優勝した時のスタイルとは似て似つかぬ物であった。
 当時のAUTO SPORT誌に掲載されていた田宮模型の広告では、さかんに日本グランプリ優勝車であることを強調して宣伝しているのだが、箱絵や両サイドにあるエアーインテークなどの形状も違い子供ながら不審に思った記憶がある。
 右下の広告は、1966年7月号AUTO SPORT誌に掲載されていたモーターファン誌&オートスポーツ誌とタイアップした田宮模型の広告とAUTO SPORT誌の懸賞広告である。懸賞の商品が田宮模型製プリンスGT R380のスロットカーでその懸賞クイズは下記の問題を解いて応募する内容であった。

問題 プリンスR380についておたずねします。それぞれ正しいものの記号でお答えください。

1-プリンスR380の排気量は?
A)=1996cc B)=4700cc C)=1982cc

2-エンジン形式は?
A)=直4OHV B)=直6DOHC C)=直6SOHC

3-優勝したR380のドライバーは
A)=生沢 徹 B)=大石秀夫 C)=砂子義一 D)=横山 達

4-この車が、昨年10月谷田部テストコースで樹立した日本スピード記録(JAF公認)は次のどれでしょうか?
A)=155Km(平均時速) B)=238.15Km(平均時速) C)=524.62Km(平均時速)

このクイズ、結構難しい内容だと思うが・・・・。
 
 
 その後スロットカーのバイブル的専門誌「モデル・スピードライフ」において、当時売れっ子モデラー 杉崎英明氏の田宮製プリンスR380の改造記事が掲載され、子供ながらカルチャーショックを受けたのを思い出す。
 そして、40年近く経ってようやく杉崎氏が当時改造されたような改造を施したものが一番上の画像の生沢仕様 R380である。

 「第3回日本グランプリ」では プリンスR380 と ポルシェカレラ6 に注目が集中しがちだが、他にも話題のマシンがあった。
それは、フェラーリ250GTOを見事打ち破ったスポーツカークラスの雄 「デイトナ・コブラ」と、トヨタが市販前提に開発したフロント・エンジン車 「トヨタ2000GT」である。
 デイトナ・コブラはNACに所属する 男は黙っての“酒井 正”がドライブする。そして、本格的にグランプリに参加してきたトヨタ自動車がまず送り出したのがこの トヨタ2000GT である。細谷四方洋と田村三夫がステアリングを握る。
当初、福沢幸雄もエントリーする予定であったようだが、テスト中の火災で負傷し、その姿を決勝で見ることはなかった。
細谷のマシンは、無給油で走り切り、プリンスに続いて総合3位に入賞したのは立派である。
そのマシンを須藤氏が1/32スケールで再現しているので紹介したい。



 
1/32スケール TOYOTA 2000GT 66' 第3回日本グランプリ
Built, photographs and text repor by Takehiko Sudou

 1966年。その後の日本モータースポーツ界に長く足跡を残すマシンが上陸している。
ご存知「Porsche 906」である。その車を日本に輸入させたのは 滝 進太郎 であった。

 それから1966年開催されたレースイベントで忘れてはいけないものがある。
それは、世界3大レースの1つでもある「インディアナポリス500マイルレース」が日本にやって来たことだ。
通称「日本インディ200マイルレース」である。
 当時自宅のテレビで観戦した思い出のレースだ。グラハム・ヒルやジャッキー・スチュアートなどの有名選手がトップ争いを演じたものの、ジム・クラークとマリオ・アンドレッティはマシントラブルで決勝レースには不参加となり、少々食傷ぎみでレースを見ていた記憶がある。
 このレースの残したものは後に開催された日本CAN-AMとは違い、今ひとつ日本レースファンや自動車メーカーに与えたインパクトは少なかったように感じる。そう言えば最近このレースの模様をYou Tubeで発見した。
この映像があることは非常に貴重である。
 



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