The Special Report of M Speed Life 
I'm A BeLiever "CRAWN HOBBY SHOP".
私は忘れない!
「クラウン模型店」伝説
by Hiroshi Shirasaka with Hirofumi Makino.

TOP : The CROWN HOBBY SHOP at ITABASHI in 1965.
注)赤印は、凡太郎少年が住んでいた公団住宅
 昔、昔、東京の板橋というところに、「クラウン模型店」という模型屋さんがありました。
凡太郎少年は、模型好きのお父さんの影響で小学校低学年の頃からこの模型屋さんに出入りしていました。
公団住宅に幸運にも抽選で当り、幼稚園の時に豊島区からここ板橋区に引っ越して来てからすでに3年が経っていました。凡太郎少年の家には、沢山の模型達が所狭しと並んでいます。30円だった三共のピーナッツシリーズを買ってもらったり、ユネスコ村のプラモデルで、オランダの水車小屋を作ってもらったり、毎日が模型三昧のようでした。
お父さんは、今度は駅馬車のプラモデルを買ってきて、ライナーを切り離す前に、ピラーのカラーで筆塗りし始めています。ツヤがないのがなかなかリアルだなぁ〜と、子供心にも感じる出来映えでした。
お父さんは凄く早く作ってしまうので、次ぎは何かなと凡太郎少年は楽しみでしょうがありませんでした。
 特に、戦艦や戦車が好きだった凡太郎少年は、戦艦「長門」をおねだりしていました。
そして、知らないうちにガラスのショーケースが家に届いていました。模型たちを飾る為のもだと分かったのは、しばらくしてからでした。
凡太郎少年が、初めて自分で作った模型は、マルサンの1/100スケールシリーズ「海軍艦上爆撃機 “彗星”」でした。
それ以後、「飛燕」や「紫電改」なんかも作ったようです。
毎日「クラウン模型店」に通ううちに、店のおじさんとも仲良しになり、店の中にいる時間がだんだん長くなりってきました。
店は、すべてガラス張りで中が全て見えてしまう感じで、ウインドウにはいつも木製の「戦艦大和( or 武蔵)」が飾ってあり、まだまだ木製模型が大半を占めていました。
小学校4年生の頃、模型屋さんの前にある「板橋公園」では、今だに「吹きや」や「粘土型」のおじさんたちが羽場を効かせていていましたが、凡太郎少年は、もうそれらの遊びには興味がなく、新しく出た「プラモデル」たちに魅了されていました。
家に帰れば、それまで遊んでいた「Oゲージ鉄道模型」や「ミニカー」では、飽き足らず飛行機のプラモデルを片手に持って「ブゥ〜ン。ダ、ダ、ダ、ダ・・・」と当時お気に入りだったユンカースを低空飛行させたりしていました。
いつだったか、「クラウン模型店」のおじさんから、「プラモデル・コンテスト」をやるから出してくださいと言われて何を出したか忘れてしまいましたが、凡太郎少年は、無塗装の飛行機を出品して「参加賞」だけもらって帰ってきたそうです。
その頃は、まだまだプラモデルを塗装するなんて考えもしていなかったみたいです。
そんな頃、アパートの3階にいた遊び友達の“ヨッちゃん”が米沢か何か忘れましたが、HOスケールぐらいの楕円コースの溝に沿って動く自動車の遊びを買ってもらったというので凡太郎少年はすぐさま見に行くことにしました。
でも、期待したほど面白そうではなかったのか、すぐに帰って来てしまいました。
ハンドルが付いた操縦機(当時は、鉄人28号の影響でしょうか、動かすものは全て“操縦機”と凡太郎少年は呼んでいました)でスピードを調整するリモコンみたいなヤツだなぁ〜と思ったようで、まだOゲージ鉄道模型の方が、家中にレールがひけるから面白いと感じていたようです。
でも、どうも自動車が気にかかるようでした。
小学校4年生の時に、事情で「板橋第4小学校」から「常盤台小学校」に転校した凡太郎少年は、4年1組に入ることになりました。そして、初めての凡太郎少年を見て、クラスメイトたちは興味を持ったのか、一学期の学級委員の投票でなんと途中まで凡太郎少年は、トップであったといいます。でも、結果は2位でした。しかし、それ以降、現在まで学級委員には一切なれなかったそうです。ちなみに、お父さんからは、「学級委員になったら好きな物を買ってやる!」と言われていたらしく、転校直後の投票最中に、凡太郎少年は買ってもらうプラモデルを考えていたといいます。
ある時、担任の先生だった太っちょの“鈴木先生”にあまりにもおっちょこちょいだった凡太郎少年を見て「こらッ!凡太郎!」と言われてしまったのが昨日のことのように思い出すと言っていました。
鈴木先生は、「凡太郎」の名付け親なんです!鈴木先生の愛車は、当時人気があった“スバル360”で、先生が乗ると重さで傾いてしまったと凡太郎少年は証言していました。
ある日、熱を出して早引きした時に、このスバル360で家まで送ってもらったことは今でも楽しい思い出だったと凡太郎少年は話していました。
 凡太郎少年が、小学校5年生になった時、世の中が俄かに動き出しました。ヴェンチャーズの来日、加山雄三の「若大将シリーズ“エレキの若大将”」のヒットなどで空前のエレキ・ブームの到来です。凡太郎少年も、少し大人になったようで、クラス・メイトの可愛い(!?)女の子にラブレター出したりして、色気づいて来たのもそんな頃でした。
そして、運命の出会いがやってきました。1965年の誕生日に、お父さんの友人からもらった誕生日プレゼントが凡太郎少年の未来を決めたと言ってもいいでしょう。
そのプレゼントとは、当時エレキ・ブームと共に、爆発的な人気となっていたアメリカから来た「モデルカー・レーシング」と言う遊びのニチモ製1/24「マンタレィ」でありました。
ところが、すぐさま、凡太郎少年がモデルカー・レーシングに没頭することはありませんでした。
凡太郎少年がついに爆発するのは、翌年になってからでありました。
1966年5月3日、運命の日。このエピソードは、すでに「モデルカーレーシング入門記」で書かれていますので、省略させて頂きます。
 凡太郎少年がモデルカーレーシングに目覚めて爆発した頃、クラウン模型店のおじさんから薦められて、お父さんに買ってもらったのが“ニチモ製モデルカーレーシング トラックセット”と“タイガー製 コントローラー”、そして、右の写真の“タイガー製パワーパック”であります。
その頃、後で登場して頂き「クラウン模型店」の思い出を語って頂く、スロットカーモデラーの“S氏”と凡太郎少年は、実は、当時お店で会っていたかもしれないのです。S氏は、“クラウン模型店”でなんとアルバイトをしていたと言うお話しを聞いたからです。実際、凡太郎少年が通っていた時期(1963〜67年頃)に該当することから、絶対にお会いしていると凡太郎少年は言ってました。
 「クラウン模型店」。本当に模型の楽しさを教えてくれた模型屋さんでした。改めて凡太郎少年が「ありがとう」と申していました。
生き証人 “白坂広史”氏の「クラウン模型店」の思い出話

 小学校5年生の頃だったと思うから昭和でいうと35年ということになる。
板橋駅から少し離れたところにある公園の前にクラウン模型という模型店が出来た。僕はよくそこへ通っていたということを思い出した。常連だったのだ。
 初めてプラモデルを買ったのは、ラベール(レベル)のグラマンヘルキャット(マッチ箱ぐらい小さい箱のキット)だった。あれは小学校3年か4年だからクラウンでは買っていないはずだ。何を買ったのか思い出してみると、ポンコツシリーズのT型フォードがあったな。このホイールは後に1/32自作ドラッグスタースロットカーの前輪ホイールに流用したんだ。
スポークは赤い柔らかいプラスチックでセンターを黄色に塗ったのを昨日の事のように思い出した。外国製(たぶんエアーフィクス)のマーサ・レースアバウトに使用するために細めのホイルとタイヤを買ったのもクラウンだ。
 社長のKさんは模型屋さんとしては気さくなおじさんだった。おじさんがちょっと用事があって出かける時などよく店番を頼まれたものだった。店番をして、お客さんに「ありがとうございました。」と言うことと、包装紙のきれいな包み方を覚えたんだ。
おじさんはラジコンの飛行機が得意だった。よく店に作った飛行機を持って来ていたし、大人の人とラジコンの話をしていたんだ。タクシーの運転手もよく来てたむろしていた。
多分おじさんの前の仕事がタクシーだったんだろうと思う。
 プラモデルメーカの日東ともおじさんはつながりがあったようだ。6年生か中学1年の頃だったと思うが、展示会用にプラモデルを作ることを頼まれたことがあった。内容はあまり良く思い出せないが、日東の1/48ー0戦52型2機・紫電改または疾風2機・魚雷艇PT-109を2台といったところで6個から8個ぐらいあったと思う。これらを全部作って1000円くれるということであった。
「塗装しなくちゃいけないの?」と聞くとそりゃ−プラモデルは塗装しないとね。必要なプラカラーでも缶スプレーでも、持っていっていいよ。とKさんがいうので、僕はオリーブドラブの缶スプレーを3個プラモデルといっしょに家に持って帰ったんだ。作り方はかなり速かったが、荒かったな。部品がランナーについている状態でつや消しのオリーブドラブをパー吹きしてから一気に組みあげる。
次の日おじさんできたよと言って持って行ったんだ。
「もう出来たのか?」とおじさんは言って驚いたんだけど、出来上がったプラモデルを見ているうちに少しがっかりした顔になっていたんだ。 もっと丁寧に作れば良かったと思った。
 渋谷のデパートで行われた模型競技会に参加したのもクラウンのおじさんが誘ってくれたからだった。
その競技会はいろいろなカテゴリーがあって、例えば戦車の風船割り・戦車のスピードレース(これは戦車だから大きな山を登らなくてはならない)・プラモデルの自動車のドラッグレースと色々あった。
僕が出場したのは自動車オープンクラスの10周回転レースだった。
このカテゴリーはプラモデルでもよし、木製で自作よし、プラモデル改造よし、つまり自動車であれば何でもOK、但し電池は4個までというもので、車体に2メートル程のタコ糸を付け、反対側に金属のリングがついている、そのリングを鉄製のプレートに垂直にたてられている鉄筋に引っ掛けて、その鉄筋を中心に10周回るタイムを競うレースであった。 
僕は10cm角の枋の板に単3・4連の電池ボックスを取り付け、前輪を取り付けるためピアノ線2本で10cm程シャーシをのばした。そのピアノ線の上側に交差させて真鍮パイプをハンダ付けし、そこに前輪のシャフトを通した。
ボディは軽量化の事を考えてバルサを削って赤く塗ってセメダインでシャーシ版に接着した。   
かなりカッコが悪い。スピードの為だと自分に言い聞かす。ピニオン10枚スパー40枚でギャー比4対1。プッシュ式のスイッチを取り付けてテスト走行する。
速い。 かなり速い。シェイクダウンテストではかなり興奮したのでした。又、路面のデコボコの振動により電池が浮いてしまうことが判明した。これはゴムバンドで押さえるという方法で解決し、新たに本戦用の新品の電池4本を購入して万全の体制で競技会に臨んだのであった。  
しかし結果は惨澹たるものであった。スタート時の車体の角度がわるかったのか、スピードが速すぎたのか、車はきれいな円周走行せずに路面によるつき上げの為いろいろな方向に情けなく向きを変えて行き、挙げ句の果てに糸が絡まってしまい、車は止まってしまった。 3周もできなかった。
 クラウン模型がいつなくなった(引っ越しした)か思い出せないので、ある友人に電話して板橋でいつまで営業していたか尋ねてみた。彼もずいぶん前の事ではっきりしてはいないが、二人の記憶をあわせて辿ってゆくと僕が小学校5年から高校1年まで、すなわち昭和35年から昭和40年の6年間がクラウン模型の板橋での営業期間というこになる 
 この時期は木製の模型キットからプラモデルへの移行が終わった時であったが、クラウン模型のガラスのカウンターケースの中にはまだ、小さな錨・鎖・ハトメ・高射砲といった木製の軍艦用の部品が並べられていたのである。
 小学5年生であった私はカウンターケースの中の高射砲を指でさして「4個ください」と言って買った。  
 Kさん、「何を作っているんだい?」
 私、「ただちょっとほしいだけ」
 それからKさんの高射砲についての解説。今はもうあの高射砲はない。

 Sさんの“「クラウン模型店」の思い出”を読ませて頂いているうちに「クラウン模型のガラスのカウンターケースの中にはまだ、小さな錨・鎖・ハトメ・高射砲といった木製の軍艦用の部品が並べられていた・・・」で忘れていたものが蘇ってきました。そうです!!高射砲や鎖、そして、錨(いかり)。ありましたね!!そして、買いました!小指の先ほどの大きさだったかなぁ〜。何に使ったんだっけなぁ〜。思い出せない・・・。
本当に、Sさん思い出をありがとうございました。
編集長

私は忘れない!板橋「クラウン模型店」伝説!!
END


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(C) 13/APRIL/2002 Text Reports by Hiroshi Shirasaka and Mbontaro.