The Legend Of Fuji Speed Way
1966-1973
富士スピードウェイと私
体験編

TOP : The Opening Race"the 3rd Japan GP" at Fuji Speed Way in 1966.
(C) Photograph by Naofumi Ibuki.


by Hirofumi Makino 
初体験!?
 
 私と友人Hはやっとの思いで御殿場駅に到着した。
時間は朝の8時半をややまわった頃だ。さあ、タクシーに乗りいざ出発!
タクシーの運転手さんが「学生さん、どこまで行けばいい?!」と問いかける。
すかさず私は叫んだ!!「富士スピードウェイに行ってください!」と・・・。
時、1971年8月15日。
今日は生まれて初めて富士にレースを観戦に行く日だ。それまでは全てテレビでの観戦だった私としてはまるで外国に行くみたいな気分でその日を迎えた。高校2年生だった私は中学生時代からの親友であるH君と一緒に出かける事となった。
当日は夏休み中とあって国鉄(当時今のJR)山手線はガラガラ状態であり小田急ロマンスカーが待つ新宿まで約20分で着いてしまう。
心配された天気はカンカン照りでまさにレース日和である。
さて、タクシーで富士に直行なのであるがそこまでの道のりがまた最高であった。真正面に見る雄大な富士山。そんな富士山麓にスピードウェイがあるというのが一層心躍らせる。そう言えばゴジラやラドン、そしてキングギドラもここで戦ったんだとつい思い出して(!?)しまう私である。さあ、早く着かないかなぁ〜!と心が躍ることしきり・・・。
そして、富士霊園横を通り、メインゲートに到着。タクシーではここまでで後は歩きだ。
すでに第1レースのツーリング・チャンピオンレースがウォーミングアップを開始しておりエンジン音とオイルの臭いがゲート近くまで漂っているのがなお一層気持ちを盛り上げる。
逸る気持ちを抑える事が出来ず歩調もなんとなく早足になってくる。
やっとの思いでメインストレートにたどり着いたころ爆音が突然響きだした。ツーリングカーレースがスタートしたようだ。
ガリ版印刷だが予選結果がパンフレットに折込されていたので良く見てみると予選1位が黒沢元治選手のサニー1200クーペでその後に星野一義選手のサニーが続いている。
今私たちはグランドスタンドに立っている。これが富士スピードウェイなんだ!と心の中で思いながらコース上を駆け抜けるツーリングカーたちを見つめている。レースは、サニーの黒沢元治選手がニッサン・ワークスの底力を見せつけて独走態勢を築いているようだ。
この日のために親にねだって買ってもらったカメラ用バックから愛用のペンタックスSPを取り出して「さあ、一丁撮ろうか!」とアングルを合わせるがフイルムを2本しか持って来てないのでこのレースは撮るのをやめようと決めた。
カンカン照りのこの日は絞りを開いて撮影が出来そうなのでやや安心である。この日のために親父から借りてきたタクマー200mmを装着して初体験の流し撮りに挑戦だ!
なんだかんだしているうちに第1レースのツーリング・チャンピオンAレースが終了した。結果は黒沢選手の圧勝。2位には中野雅晴選手のカローラが入った。
さあ、お目当てのグランチャン第3戦はいよいよこれからだ!
ところで富士のグランドスタンド裏にはいろいろな屋台が並んでいる。まずは腹ごしらいということでH君と焼きそばなんぞをほうばる。
学生の身分、お金はお互い少ない。事実、このレース入場券もオートスポーツ誌の招待券を当ててやって来ているほどだから・・・。
 午前10時半ごろ、いよいよグランチャンマシンたちがコース上に登場だ!
夢にまで見たマクラーレンM12とポルシェ908II。目の前に並んでいる。このレースは「富士500Kmレース」と言い、250KmX2ヒートで争われる。ちなみに500Kmという距離と8月のレースはこれ以降のグランチャンでは行われていない。
そんな中、初めて見るマシンがいる。田中 弘選手の“シェブロンB19/FVC”と高原敬武選手の“ローラT212/FVC”だ。
ビッグマシンを見慣れた(!?)私たちにとってこれら1.8リッターエンジンを積んだマシンたちはそれこそベルコ72Dやポルシェカレラ6、10などのクラスだと思っていたのだが・・・。
このレースには着実にステップアップしてきた期待の若手“風戸 裕”選手が参加している。風戸選手は、今年の(1971年)のCAN-AMシリーズに8000ccシボレーエンジンのローラT222で参戦している最中で、生沢 徹、鮒子田 寛に次ぐ世界的ドライバーとして大いに注目されていた。
 また、マクラーレンにはグランチャン第1戦であのローラT160で優勝したベテラン“タナ・ケン”こと田中健二郎選手とこれまたキャリアの長いアメリカンV8が一番似合う男 “酒井 正”選手が乗る。
レースの焦点は、この2台のマクラーレンM12と風戸 裕選手のポルシェ908IIの対決に沸いていた。
11時過ぎローリング・スタートで始まった富士500Kmレースはまず酒井選手のマクラーレンのリードで30度バンクに各車突入して行った。まだ、マクラーレンM12は完走した事が過去になくポルシェ有利の前評判であった。

TOP : '71 Fuji GC Round 3 Fuji 500Km Heat 1 Race Rolling Start.
(C) Photograph by Hirofumi Makino.

1周目のヘアピンに現れたのはやはり酒井の深いオレンジのマクラーレン。続いてタナ・ケンの青いマクラーレン。そして風戸のポルシェが続く。ところがその後にピタリと小粒なマシンが続いている。田中 弘のシェブロンである。今さらながら予選タイムを見ると1分52秒台でポルシェやタナ・ケンのマクラーレンと大差ないタイムを叩き出しているではないか。
軽量且つレスポンスが良いエンジン(当時のヨーロッパF2エンジンとほとんど変わらない)でビッグ・マシンたちをあおる姿は何か新鮮であった。
太陽はまさに真上に位置し、熱射病になってしまいそうな照りつけようだ。こんな日ドライブしているドライバーたちはきっと死ぬ思いでステアリングを握っていることだろう。
アサヒペンタックスSPでの流し撮りはなかなかうまくいかない。ちなみにH君はキャノンF1での撮影である。
長いヒート1レースがやっと終わった。合計6Kmフルコースを41周を2回行う耐久レースの第1幕が終わった。
ヒート1を制したのは不死身と言われている酒井 正のマクラーレンM12が1位となり嬉しい初完走となる。
しかし、ヒート1の表彰式で2位となったタナケンさんがマイクで話している。その時は良く聞き取れなかったのだがどうもヒート2を走らないらしいということはなんとか理解出来た。
後談であるが、その時タナケンさんは体力の限界を感じて引退声明をしていたんだと分かった。
ところで期待された風戸選手のポルシェ908IIはヒート1で痛恨のスピン、そしてその影響か足回りを傷めてリタイヤ。興味半減である。
さて、ヒート2までの間サブイベントのツーリングチャンピオンBレースが行われる。
スカGと新しいマツダ・カペラの対決だが今回はニッサン・ワークスは出場していない。
寺田陽次郎選手のカペラが強くそのまま独走して優勝。ロータリーエンジンの甲高い音を初めて聞いて正直言って驚いてしまった。
そしていよいよグランチャンヒート2のスタートが迫る!

「雨」・・・といえば 
 
 ここでちょっと寄り道をさせていただく事にする。
富士スピードウェイと言うとすぐに思い浮かぶのは「雨」である。それも中途半端な雨ではない。豪雨と言ってもいいだろう。
そんな富士に私と友人H君は3度足を運んでいる。
1971年10月10日のグランチャン(以下GC)最終戦富士マスターズ250Kmレース、1972年3月20日、GC開幕戦富士300Kmレース、そして、同じく6月4日、GC第2戦富士300マイルレースだ。
特に72年開幕戦はひどかった。今でもそのレースで買ったパンフレットは雨でぐちゃぐちゃのままで固まっている。
そんな雨のレースでも私たちを富士スピードウェイに出向かせたものは全て“生沢 徹”と元チーム・トヨタのエースであった“鮒子田 寛”の参戦だった。特にTETSUの登場は当時の私たちを熱狂させた。
1971年10月10日のGC最終戦富士マスターズ250Kmレースは、そんなTETSUが初めてGCに参加するということでレース前からその動向が注目されていた。そして、当時のオートスポーツ誌にスクープされた「TETSUのポルシェ917K日本上陸」報道により'69日本グランプリ以来のパニック状態に至ったのである。これはまさに2年前(1969年のこと)の日本グランプリの不参加を帳消しするようなエポックメイキングな出来事でもあったのだ。(右の写真が私が撮影したTETSUの917K)
とにかくTETSUのポルシェ917Kが見たい。当時の最強マシンと言っても良い917Kが富士を走り、ドライブするのがTETSUである。
みんな熱狂した事は言うまでもない。ちなみにこのポルシェは69年日本グランプリをジョー・シファートが駆ったあの917と同じシャーシNO.917010であるという。オーナーがディビット・パイパーだということでまず間違いない。
つまりTETSUは、このレースのためにパイパーから917Kをレンタルしたというわけだ。
それを迎え撃つ日本勢は前2レースを連覇していて現在絶好調の酒井 正のマクラーレンM12ともう1台のM12(これにはCAN-AMドライバーであるトニー・アダモウィッツが乗る)、そしてCAN-AM帰りの風戸 裕がポルシェ908IIで出場。そして小排気量ながら侮れない田中 弘のシェブロンB19と高原敬武のローラT212が有力候補だ。前予想では風戸がCAN-AMで乗っているローラT222(8000ccV8)を持ってくるのでは言われていたが遂にそれはかなわなかった。
当時東京12ch(現在のテレビ東京)でGCは録画放送されていて特にこの最終戦は当日の夜9時から放送予定であり私たちは最終レースであったツーリングカーレースをそこそこ見た後すぐさまスピードウェイを後にするという慌ただしさだった。
「あ〜あ、なんでTETSUのポルシェは勝てなかったんだろう!?」それが当時の私の気持ちであり、ほとんどの入場者の気持ちだったと思う。
細かいレースの内容は「1971年富士マスターズ250Km」に任すとしてとにかく雨が富士スピードウェイの象徴であり勝利へのキーポイントであったのは確かだった。

TOP : TETSU and his Porsche 917K.
(C) Photograph and modeling by Osamu Aihara.

TOP : Tetsu and his GRD S-72 at Fuji in 1972.
(C) Photograph by Hirofumi Makino.
 上のマシンは、私と同じく熱烈なTETSUファンである相原氏が作られたポルシェ917K and TETSUである。1/43スケールで市販されているモデルカーキットを'71マスターズ250Kmレースに出場したTETSU仕様に改造してしまう熱意は素晴らしいものがある。
特にデカールの自作は苦労されたのではないかと想像してしまう。
下の#69 GRD S-72は、S字からヘアピンに向かうところでのショット。1972年の雨のグランチャンでの象徴的なシーン。TETSUはデビューしたてでまだまだセッティングが不十分なGRDを水澄ましのように操り観客を魅了した。私と友人H君は大粒の雨の中、タオルをカメラに巻き付けながら必死で撮影を続けた記憶が今鮮明に蘇る。
 ところが「雨」という言葉がただの1度も聞かれなかったイベントがある。「日本グランプリ」である。
富士での日本グランプリが始まった1966年5月3日「第3回日本グランプリ」から始まり、67年5月3日「第4回日本グランプリ」、68年5月3日「第5回日本グランプリ(68年日本グランプリともいう)」、69年5月3日「69年JAFグランプリ」、69年10月10日「69年日本グランプリ」70年5月3日「70年JAFグランプリ」、71年5月3日「71年日本グランプリ」、そして72年5月3日「72年日本グランプリ」・・・、すべて晴天であった。
富士GCにだけなぜか「雨」が付き纏う・・・。(私のレース観戦として一応1972年までとさせて頂くことをお許し願いたい。ちなみに1976年F1日本グランプリはなぜか「雨」であった)
話はまたまた変わって2年前(1969年)に移る。
この年、私はまだ中学3年生であり、レースに興味がない両親や兄弟がいない私にとってスピードウェイに行ってレース観戦などまさしく無縁であった。
そんな時同級生のK君が「明日の日本グランプリに行くんだけどパンフレット買って来てあげようか」と突然言い出したのだ。「くそ〜!!」と心の中で思いながらも「うん。買ってきてよ。写真も撮ってきて!」と引きつった笑顔で応対した記憶が昨日のことのように思い出される。
(注:その時買ってきてもらったパンフレットは今だ私の手元にある。また、HP上にある「69年日本グランプリ」のタイトルの写真はK君から頂いた写真そのものである)
前置きはこの辺にして、とにかくこの年の日本グランプリの盛り上がり方は異常そのものであり、過去現在通してこれほど日本中が盛り上がったことはなかったのではないだろうか。あの1980年代後半のセナ・プロ・マンセルF1ブームと比べてもだ。
 この年日本グランプリ以上に私の興味を引いたのは11月23日に開催された通称 日本CAN-AM「ワールドチャレンジカップ富士200マイルレース」である。このレースは世界的に当時大人気であったカナディアン・アメリカン・チャレンジカップ(CAN-AM)の出場ドライバーとマシンたちを日本に呼んでしまおうというイベントであり、これは1966年にやはり富士スピードウェイで本場アメリカのインディ500マイルレースを呼んで盛大に行われた「日本インディ200マイルレース」と基本的には同じようなイベントと言って良い。
前年に次いで2回目を向かえたばかりの1969年はトヨタニュー7の挑戦もありワークス・マクラーレンやポルシェの参加はなかったものの大変な盛り上がりをみせたレースであった。
チーム・トヨタは、エース鮒子田 寛がマクラーレンのシャーシにトヨタエンジンを搭載したマクラーレン・トヨタで、日本グランプリ3位の川合 稔やキャプテン細谷四方洋などはウイング付きトヨタニュー7で挑戦するという胸躍るレースとして当日の放送を心待ちにしていたものだ。さて、私と友人H君は11月23日にH君宅に集合し、モデルカーレーシングに夢中になりながらも午後1時30分(多分!?)になると4ch日本テレビにかぶりつきになりながら見ていたと記憶している。
ポールポジションを取ったジャッキー・オリバーのウイング付きオートコーストTi22と2位の鮒子田 寛のマクラーレン・トヨタを先頭にローリング・スタート開始。自然と鼓動が高まる瞬間だ。
スタートだ!! おっ!川合のトヨタニュー7が抜群のスタートを見せて第1コーナーに向かうがオリバーがなんとかトップを守り第1コーナーへなだれ込む。この日本CAN-AMは変則的な左回り4.3Kmコースを使う。スタートから第1コーナーまではやや登り勾配がありスタート直後は加速が鈍るようだ。
ところで鮒子田のマクラーレン・トヨタはエンジン不調でトップグループからだんだんと遅れていく。
さあ、頼みは川合 稔のトヨタニュー7だけとなった・・・。
そして、劇的な川合 稔の勝利。大興奮の1969年11月23日だった。

TOP : Jackey Oliver and Autocost Ti22 ( left side ). Hiroshi Fushida and his McLaren Toyota.
(C) Photographs by Naofumi Ibuki.
因縁の対決 
 
 生沢 徹と酒井 正。当時の因縁のライバル同士である。
1967年5月3日、富士スピードウェイで開催された「第4回日本グランプリ」はニッサン・ワークス対ポルシェ・プライベート勢との対決に沸いていた。前年プリンスを辞めてイギリスF3修行に旅たったTETSUは、ニッサンとプリンスの合併の影響を受け、プライベートとして日本グランプリに出場しなくてはならない状態となってしまった。
しかし、出場までの道のりは厳しく何度か出場を諦めたほどであったが、日本人としては初めてTETSU自身がスポンサー集めに走り回ったり、当時レーシングメート社の式場壮吉氏やミツワ自動車などの協力を得てついに昨年(1966年)滝進太郎が乗ったマシンと同型のポルシェカレラ6をミツワ自動車から借り出す事に成功。念願のプライベーターとしての日本グランプリ参加を現実のものとした。
そしてエントリーを見ると滝、生沢、そしてもう1台のカレラ6がエントリーされていたのだ。酒井 正である。
アメリカンV8をいつも乗り回していた酒井がカレラ6でエントリーしたことによりニッサンR380IIの4台に対し、プライベート・ポルシェカレラ6は3台でワークスに挑む事になった。それにアメリカンV8を積む2台のローラT70MKII がどこまでその7台に対して底力を見せつけるかというのも焦点の1つであった。しかし、ローラT70はストレートだけが異常に速いがバンクとコーナーに入ったとたんに遅くなるのが当時の定説であった。「な〜んだ、なんて遅いんだろう!?」とため息がつくほどその時のローラはラップタイムが遅かった。
さらに当時のチーム・ヤスダ所属のローラは日本グランプリで必ず1周目にスピンをするのも定説(!?)の1つだった。67年の安田銀治、68年の酒井 正(ローラT160)しかり・・・。余談であるが、そんなローラを私は「いとしのローラ」と呼ぶ。
このレースもテレビでの観戦であったが序盤の高橋国光とTETSUの一騎打ち、その後の両者スピンによりTETSUが独走となるが後半酒井とTETSUの息詰まるデッドヒート。そして、あの30度バンクでの酒井のクラッシュシーン。私はその迫力に完全に魅了されてしまっていた。
結果はTETSUの独走でのチェッカー!!そして、その後のTETSUの躍進ぶりはご承知の通りである。
 この1戦を境にしてTETSUと酒井 正の因縁は続き、先に述べた1971年富士グランチャン最終戦「富士マスターズ250Kmレース」へと続くことになる。
「917にはきゃしゃな生沢じゃなくて、国さんや北野さんに乗ってもらってオレは争いたい。もちろん、生沢が富士を46秒台で回ったら意識するけど・・・」と当時酒井はTETSUを牽制していたことでもその心情がわかるというものだ。
JAF グランプリとTETSU 

 いつの間にかTETSUは、勝つ事を宿命付けられてしまっていた。
1968年の「第5回日本グランプリ」の前座レースとして行われた「スピードカップ・レース」にTETSUはタキ・レーシング・チームの一員として「ブランウン・ベア・スペシャル(ブラバムF3)」で出場することになった。本来は出場する予定はなかったのだが、テストで走ってみて以外に調子が良いので急遽片平 浩からチェンジして出場する事になったのが真相だ。(右写真(C) Photograph by S.Yagi
相手は三菱ワークスの「コルトF2B」である。しかし、1600ccロータス・ツインカムエンジンを積むTETSUのブラウンベアスペシャルはとても速く、レースはTETSUの独走で終わるかに思われた。しかし、あまりのハイペースに終盤ガス欠状態となったTETSUはガス補給をするため止む無くピットイン。しかし、エンジンを切らずにガス補給してしまい3位でフィニッシュしたものの結局裁定で失格となってしまう。
翌年、JAFの新しいフォーミュラ路線によって新たに5月3日に開催された「69年JAFグランプリ」にもTETSUは出場していた。しかも三菱チームの一員としての出場であり、日本人初のスポット雇われドライバーの誕生だ!
その期待に答えてTETSUは1600ccエンジンのコルトF2Cで排気量に勝るタスマン勢を尻目にポールポジションを奪取してしまう。
その時の興奮はビッグマシンのレースに慣れてしまった私たちに新しい世界をTETSUは教えてくれたかのようにフォーミュラカーレースは新鮮だった。
 しかし、期待に反してTETSUはマシントラブルでリタイヤ。富士に集結した何万の観客の大部分がこの時点で席を立ったほど当時のTETSUの人気は凄かったのだ。
そして、翌1970年「JAFグランプリ」にもTETSUは三菱チームの一員としてグランプリに参加している。
また、前年の1969年F1ワールド・チャンピオン“ジャッキー・スチュワート”が招待選手として同グランプリに参加した記念すべきレースでもあった。TETSUのコルトF2Dはスチュワートと同じブラバムBT30のシャーシを使用しているマシンであったが排気量の少ない1600cc三菱R39エンジンを積んでジャッキー・スチュワートのブラバムBT30/FVC 1800ccに次いで予選を2位で通過したのはさすがであった。
しかし、レースでは序盤ジャッキーの後を追って2位につけていたものの突然のエンジントラブルであっけなくリタイヤ。ジャッキー・スチュワートの日本におけるレース2連勝を許してしまった。(1回目は1966年の日本インディでの優勝)
この年(1970年)は、日本レース界にとっては転機の年として記憶されている。
JAFの発表で、5月は「JAFグランプリ」のフォーミュラカーによるグランプリ開催。10月はグループ7カー/プロトタイプカーなどによる「日本グランプリ」開催という構想でスタートしたのだったが、日産の排ガス規制問題を理由とした日本グランプリ不参加表明。トヨタ自動車も同理由と川合 稔のテスト中での事故死等の影響での撤退表明などにより事実上グランプリ開催が不可能となり、1963年より続いていたプロトタイプカー等による「日本グランプリ」は突然終焉を迎えた。黄金の60年代の終わりでもあった。
 このことにより1971年のフォーミュラカーによるグランプリは晴れて「71年日本グランプリ」として開催される事となったのだ。
TETSUは、当時前年のグランプリ時に問題となった「選手宣誓拒否」がまだ尾を引いており、日本グランプリ出場は微妙な状態であった。
しかし、日本のスポンサーの絶大な援助を受けているTETSUにとっては日本グランプリに出場する事は絶対条件。TETSUは自分の意思を曲げてでも出場しなければならなかった。JAFへの謝罪。これは今思うに屈辱以外の何ものでもなかっただろう。
 

日本グランプリへの決別

 TETSUは、71年も三菱チームからの参加を希望していた。しかし・・・。
1971年初頭、60年代後半あれだけ話題を作り上げていた“タキ・レーシング・チーム”が事実上消滅した。
そのため専属ドライバーであった永松邦臣が三菱・チームと契約。このことによりTETSUの三菱チームからの日本グランプリ参加は白紙となってしまった。
仕方なくTETSUは、ヨーロッパF2で使用している“ロータス69”を日本に持ち帰り参加することになる。
富士で行われたフォーミュラカーレースによる日本グランプリは将来のF1開催を目標にF3-F1まで参加OKというフォーミュラリブレレースであった。しかもフォーミュラカーレースとしては異例な30度バンクを使用するレースでもあった。
一方、三菱チームは、前年までの1600ccエンジン( R39)から2000ccエンジン( R39B)にスケールアップし、奇しくも同年コーリン・チャプマンが発表したサイドラジエターマシン“ロータス72”と同じコンセプトを持つ“コルトF2000”に搭載してエース永松が初の総合優勝に挑む。
TETSU 対 永松の対決は、グランプリを盛り上げたものの1800ccFVCエンジンのTETSUとレース用に開発された永松の三菱R39Bとでは戦う以前に勝負はついていたと言っても良い。(右の写真は、スタート前に米山二郎と会話を交わすTETSU。(C) Photograph by Naofumi Ibuki )
初めてTETSUはフォーミュラカーレースで完走を果たした。総合3位である。しかし、これがTETSUが出場した最後の日本グランプリになった。
さて、次回は「ストックカーレース」と「思い出の富士スピードウェイ回想ギャラリー」をお届けしよう!!


TOP : '71 Japan GP Start !!
(C) Photograph by Naofumi Ibuki.

PART 1 END
See You Next Time !!



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(C) Photographs by S.Yagi, Naofumi Ibuki and Hirofumi Makino.