Sakai Tadashi was the great "American V8's Specialist "!! The Special Report of '60s Racing Scene. TOP: Tadashi Sakai and his McLaren M12 at Fuji Grand Champion Series no.2 in 1972(Left side). (C) 18/MAR/2001 Photograph Hirofumi Makino このマシンで酒井は、北野元が1969年日本グランプリでニッサンR382を駆って樹立した6kmフル・コースレコードタイム(1分44秒77)を破る1分44秒63を出し、ビッグマシン・マイスターの名声を手に入れる。
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60年代日本モーター・スポーツを振り返ってみると、どうしても忘れられないドライバーがいます。 今回は、そんなドライバーの一人であり、唯一アメリカンV8に拘り続けた男、「酒井 正」を紹介したいと思います。 昭和17年東京生まれの酒井は、純粋の“江戸っ子”でありました。そして、“男は、黙って勝つ”を地でいく実力派のドライバーでもありました。 酒井の初参加は、手元の資料によれば、1964年8月16日、川口オートレース場で開かれた「第3回ナショナル・ストックカー・レース」でデビューし、見事2位でフィニッシュしています(右画像No.200セドリック)。そして、あの“浮谷東次郎”の伝説となったレースでもある1965年の全日本自動車クラブ選手権船橋大会では、当時所属していたNAC(日本オートクラブ)よりアメリカンV8 コルベット・スティングレイで出場して話題をさらい、その後の酒井の活躍は目を見張るものがありました。 今回は、1969年までの活躍を第1期として、1970年から、1974年に事実上の引退をするまでの期間を第2期として御紹介しようと思います。 第1期のハイライトは、やはり新設された富士スピードウェイで、1966年から1969年まで続いた“レーシング・スポーツカー”による「日本グランプリ」ではないでしょうか。 酒井は、当時日本における最高格式の国際レースであった“日本グランプリ”に連続して出場していました。さらに、出場したマシンを見ると1つの例外を除いては、これまた凄い“ビッグ・マシン”でありました。下の表は、その出場マシン一覧と成績であります(手持ちの資料ため不明瞭な点は御了承ください)。
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“「第3回日本グランプリ」 1966年5月3日 富士スピードウェイ 6kmフル・コース” 1966年に開催された「第3回日本グランプリ(60周360km)」に酒井は、1964年の世界マニファクチャラーズ選手権スポーツカーで総合優勝した“デイトナ・コブラ(V8 4700cc)”で、急遽エントリーしたのでした。 このレースは、前年誕生した国際級サーキットである富士スピードウェイにおいての初めての国際格式のレースでありました。それだけに、日本の各自動車メーカーの入れ込みは想像を絶するものがありました。特に、「第2回日本グランプリ」で式場壮吉のポルシェ904GTSに惨敗したプリンス自動車は、国産初のプロトタイプカー“プリンスR380”を開発し、なんと4台も投入するという力の入れ方を見れば明かです。 そして、国産最大手のメーカーであるトヨタ自動車も、来年に市販予定であったあの“トヨタ2000GT”をレース仕様に改造し、2台エントリーしておりました。 さらに、同年マニファクチャラーズ選手権用に、ポルシェが総力を上げて作り上げた最新型プロトタイプスポーツカーである“ポルシェ・カレラ6”がロータス・レーシング・エランで活躍していた“滝進太郎”によりエントリーされていた事がわかりると、俄然第3回日本グランプリは、異常なほどの盛り上がりを示していったのでした。 そんな中、グランプリを1ヶ月後に控えたエントリー締切り間際の4月、突如酒井正の名で、大排気量のスポーツカーがエントリーして来たのでありました。そのマシンは、なんと「デイトナ・コブラ」。その正体は、排気量4700cc 370馬力を誇る怪物マシンでありました。 そして、5月2日の予選当日は、後で富士スピードウェイの名物となる大雨であり、酒井は、このビッグ・マシンの本領を発揮する間もなく、最後尾に並ぶ羽目となってしまいました。 しかし、翌決勝日は快晴。スタートでこそ遅れたものの5〜6位で前半戦を通過、そして、後半の40周目過ぎる頃には、なんと2位まで順位を上げており、トップの砂子のプリンスR380に迫る勢いでありました。これこそビッグ・マシンの真骨頂だと言わんばかりの走りに観客はやんやの声援を送っていました。 ところが、47周目、酒井に不運が襲いました。エンジン・トラブルが突如この怪物マシンの息の根を止めてしまったのです(Nostalgic Hero誌2001年Vol.84の酒井正ストーリーにおいて、御本人が本当の原因はなんとガス欠だと証言されていました)。 TOP: Tadashi Sakai and his Daytona Cobra at Fuji in 1966. (C) 18/MAR/2001 Photographs by Naofumi Ibuki. TOP: Sakai with Cobra at Fuji's straight. |
“「第4回日本グランプリ」 1967年5月3日 富士スピードウェイ 6kmフル・コース”
翌1967年、酒井は、うって変わって今までのビッグ・マシン路線から、当時は主流でありました2000cc級プロトタイプ・レーシングカーを駆って、グランプリに打って出たのでした。 それも、前年滝進太郎の手で、無念のリタイヤを喫したマシンと同じ“ポルシェ・カレラ6”でありました。 そして、この年は、酒井以外にも2台のカレラ6が参戦していたのです。まず、プリンスを退社し、単独ヨーロッパ・レース修行に出かけていた“生沢徹”、そして、前年に引き続きエントリーしている滝進太郎のカレラ6の合計3台であります。 注目の予選は、生沢が富士スピードウェイで初めて2分を切る “1分59秒43”でポールポジションを獲得、酒井は、わずかの差で2位に甘んじる事となりました。そして、前年の覇者“プリンス”は、日産に吸収合併されたため、ニッサンR380IIという名称で、名手“高橋国光”、“北野元”らがステアリングを握り、前年同様4台参加となり、3台のポルシェといかに戦うかが焦点となりました。
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TOP: Start! Sakai dash! He had the 2nd qualified time. スタート後、1周目の30度バンクにて、酒井のポルシェを先頭に、安田のローラ、そして、生沢のポルシェが続く。 TOP: Crash !! The 46 laps, Sakai and his carrera 6 had a unlucky on the high bank. しかし、幸い致命的なケガには至らず。その後酒井は、“不死身の男”と呼ばれるようになる。 |
(C) 22/MAR/2001 Photographs by Naofumi Ibuki.
(C) 22/MAR/2001 Text reports by Hirofumi Makino.