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皆さんお待たせいたしました(誰も待ってないか・・・)。久々の“企画ページ”のUPとなりました。
今回は、長年私の心の中で生き続けている“あるレーシングカー”について特集してみようと思います。 ところで“ローラ”というと皆さんは何を思い浮かべるのでしょうか。 最近の方なら、日本選手権の懸かった“F−3000”や“フォーミュラ・ニッポン”で活躍していた“ローラ”を思い浮かべることでしょうが、少々古い歌謡曲ファンの方でしたら、西城秀樹の大ヒット曲だった“傷だらけのローラ”を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうし、はたまた、かつての美人プロゴルファー“ローラ・ボー”なんかを思い浮かべる人もいらっしゃるのではないでしょうか。 しかし、私は、根っからの“レーシング・カー”マニアである関係上、1960年代に活躍した(・・・というよりも印象深いと言うべきでしょうか?!)あの“ローラT70”以外には考えられないのです。 あれほど日本に馴染み深い外国製レーシングカーがあったでしょうか。これを野球で例えるのなら、阪神タイガースで活躍した“バッキー(ちょっと古いかな?!)”や“あのランディー・バース”、はたまた、プロレス界において一時は、“魔王”と恐れられながら、後年“せんだみつお”らとバラエティ番組にまで出演し、日本中に親しまれた“ザ・デストロイヤー”とでも申しましょうか、とにかく私にとって忘れることの出来ないレーシングカーであったわけであります。 ところで、日本における“ローラ”の歴史は、私の資料の上では、1964年の「第二回日本グランプリ」で最初に日本デビューしたことになっています。 1964年5月3日、2回目を迎えた日本最大のレース・イベント「日本グランプリ」のメイン・レース“JAFトロフィー・レース”に初出場をしたのが“M.エバンス”が乗った“ローラMKIII F−J(ジュニア)”でありました。 決勝レースにおいては、ギヤ・トラブルの為、2日間で2レースを行なっていた当時のレースにおいては、第1日目のみの出場であったと記録されています。また、注目された“JAFトロフィー・レース”の予選結果は、下記の通りでありました。
上の写真は、1964年第二回日本グランプリ“JAFトロフィー・レース”でのショットです。 前から“デル・コンテッサ”と日本初お目見えの“ローラMKIII”。 |
私が初めて“ローラT70”の名前を知ったのは、1965年頃から日本中を席巻した“モデルカー・レーシング”ブームにおいてでありました。
当時の日本の各模型会社は、欧米の有名模型メーカーの主力車種をコピーしていることが多く、今回の“ローラT70”においてもしかりでありました。 私の知っている限りでも“緑商会”と“田宮模型”がキットを出しておりました。ちなみに、緑商会は1966年の4〜5月頃、田宮模型も同じ頃の発売と記憶しております。 それぞれ当時の販売価格は、モーター別(当時はこれが普通でありました)で、900円と1,000円でありました。 ローラがスポーツカーの世界で最初に名をはせたマシーンと言えば、1963年ロンドン・レーシングカーショーにデビューさせた“ローラMK6GT”が最初でした。エリック・ブロードレー率いるイギリスはスラウに本拠地を置く「ローラ・カーズ」に最初の成功を収めさせたのは、この“MK6”でありましたが、このマシンの素性についても私はモデルカー・レーシングから知ったのでありました。 下の画像は、アメリカの当時最大の模型メーカーだったモノグラム社が1965年当時発売した1/32スケールの“ローラGT”です。私もこれを買った覚えがあったのですが、良く考えてみるとそっくりこのモデルをコピーしていた三共模型製のゼンマイ式ローラGTを買っていたというのが真実でありました。 この三共模型についての解説は、別の機会に述べることにします。 突如エントリーした2台の“ローラT70MKII”!! 時1967年5月3日、新たに“富士スピードウェイ”にその場所を移して2回目に当たるのが「第4回日本グランプリ」でありました。 ところが、「第3回日本グランプリ」同様、ニッサン(前年優勝したプリンス自動車は、その年の暮れに日産自動車に吸収合併されていたのでした)とポルシェの対決だと思われておりましたところに、エントリー最終締切日の3月末日にアメリカから、突如“R.クラーク”という人物があの“CAN-AMシリーズ1966年総合ウイナー車”と同型車である“ローラT70MKII”でエントリーしてきたのでありました。 ところが、1台だと思われていた“ローラT70MKII”がなんと最終的には2台だったと判明したのは最終締め切り後のことでありました。もう1台をエントリーしたのは、当初“ジャガーEタイプ”でエントリーしていた“安田銀治”がエントリー変更したのものでありました。 5.500ccのモンスター・マシンがエントリーして来たということで、優勝の行方は混沌としだし、プリンス自動車を離れ海外修行から帰ってきた我が“生沢徹”の“ポルシェ・カレラ6”と共に優勝候補の筆頭となったのでありました。 右の写真は、“R.クラーク”エントリーの“ローラT70MKII”であります。 実は、このマシーンの素性はというと、1966年の大人気だった“CAN-AMシリーズ”において、当時、アメリカのスーパー・スタードライバーであった“パーネリー・ジョーンズ”がドライブしていたものか、または同チームカーを譲り受けて持って来たことに間違いありません。 また、“R.クラーク”というドライバーについては、昭和59年9月に発行された「AUTO SPORT」400号記念臨時増刊号“衝撃のショット集 ザ・タイムトンネル・サーキット”に詳しくかかれておりましたので、またまた引用させていただきました。 |
“ドン・ニコルズという男”−日本のレース界の夜明けに暗躍した「影の政商」− “1967年の第4回日本グランプリといえば、富士スピードウェイの開設以来迎えて2度目のモーターレースの祭典だった。 その第4回日本グランプリを5月3日に控えた3月31日。東京・芝公園の機械振興会館にある日本自動車連盟(JAF)のグランプリ事務局に、1通の不思議な参加申し込みが舞い込んだ。 ■参加者:チーム・トロ ■運転者:R.クラーク ■車名:ローラT70 ■排気量:5,500cc ■連絡先:カルフォルニア州サンタフェスプリングス(USA) 「R.クラークって、一体何者なんだ?」 「それにしても、5,500ccのローラなんて、まるでオバケじゃないか?!」 たちまち、わが国のモーターレース界には、恐怖にも似た疑心暗鬼が渦巻いた。3月31日というのは、グランプリエントリーの最終締切日。出場をもくろむ各チームとも、お互いに手の内を見せまいと、参加申し込みは締め切りのギリギリまで控えているのが常だった。 そこへ、この“オバケ・エントリー”だったのである。 しかし、たとえ極秘情報といえども、すぐさま稲妻のように走るレース界のことだ。「R.クラーク」というのが、謎の在日米人、ドン・ニコルズとわかるまでに、そう長くはかからなかった。 「R.クラーク? それは私のレーシングネームです」 “ひげのドン・ニコ”は平然という言ってのけた。彼はやはり、ある企みを持っていたのだ。 「アメリカから絶対有利なビッグマシンを仕入れて、それを日本の金持ちドライバーに多額の金で売りつけるか、レンタルするかして、日本グランプリを席巻させたい」 これが“ドン・ニコ”の野望だったのである。だから「R.クラーク」というのは、あくまでも仮の名前。 日本の金持ちドライバーが確定次第、「ドライバーの変更届をだしさえすればよい」というわけだったのだ。 が、その彼のもくろみは外れた。ローラT70の到着があまりにも遅かったからだ。 狂気のようなグランプリ準備のすえ、ドン・ニコみずからステアリングを握って決勝レースの最後尾からスタートしていった彼のローラT70は、30度バンクに飛び込むたびにハラをこすって火花を散らすのだった。 それでも、60周レースの57周を何とか消化して7位にゴールしたのは、彼の執念といっていいだろう。” このローラT70MKIIは、写真でも分かる通りかなりオリジナルのボディーとは違い、大幅な改造を受けていることが分かります。下の写真は、もう1台出場した安田銀治のローラT70MKII”であります。 こちらの方は、もうほとんどオリジナルの影はなしといって良いほど改造を受けております。 なぜこのように改造をして出場をしなければならなかったかというと、当時の日本グランプリ車両規則は、F.I.A(世界自動車連盟)のグループ6・スポーツ・プロトタイプ規定に順じていた関係上、グループ7(排気量無制限・2座席フォーミュラ規定)に順じていた“ローラT70”等は、当然グループ6規定に改造する必要があったからでした。ウインドウは、ドライバーを覆っていなければならず、スペア―・タイヤも必要でありました。さらに、ヘッド・ライトも装着しなければならずこのような姿になってしまったわけでありました。 これこそが本当の“傷だらけのローラ”ではないでしょうか?! |
“2台のローラT70MKIIの行く末は・・・!?”
1967年「第4回日本グランプリ」は、晴天の富士スピードウェイで5月3日に開催されました。 予選1位は、前年プリンス・チームを離れ独自でヨーロッパF−3チャレンジをスタートさせた“一匹狼 生沢徹”のポルシェカレラ6でありました。詳しいレース内容は、我がHPの「第4回日本グランプリ」を見ていただくこととしまして、このレースでの2台の“ローラT70MKII”の活躍とその後の行く末を追っていきたいと思います。 ●ドン・ニコルズ(ジャパン・レーシング・リミテッド)のローラT70(クリックしてください!) (1)1966年CAN-AMシリーズ出場“パーネリー・ジョーンズ”使用車(または、同チーム車)を買取り、1967年「第4回日本グランプリ」に出場。予選9位(9台出場中)2分17秒79、決勝7位。 エンジンは、5,500ccシボレーV8であった。ムーン・チューンだと思われる。 エンジンは、シボレーV8 5,500ccスペレックス・チューン であり、前年のヒュ―ランド・ギヤボックス4段式から、MK3の5段に改められていた。 グランプリ後の消息は不明。 (1)購入先は、不明。 ・・・と書いたのでありましたが、なんと私に合わせて頂いたのかそうでないかは別といたしまして、三栄書房発行の「AUTO SPORT」誌 1999 12/22 No.787 の企画ページであります“塩澤進午”著作“実録 レース史・私の報告書 1967年、第4回日本グランプリレースの「男達」への賛歌。PART 1”において、安田銀治所有車の購入先が詳しく記載されておりましたので、またまた引用させて頂き説明させて頂きたいと思います。 “1967年4月19日の水曜日、昼食を終わった午後1時頃突然、安田銀治が私の事務所に現れました。ドン・ニコルズの所にローラT70が着いたから見に行こうというのです。私の所から車で5分はかかりません。虎ノ門の住友ハウスの駐車場にはドン・ニコルズが眺めている、彼の膝よりも低い金色のローラが置いてありました。 私は、今に至ってもこの車のオーナースポンサーが誰であったのか判りません。しかし、ドン・ニコルズのその後の動きと、このレースでローラでスタートした彼の「義務感」とから、絶対に影のスポンサーがいたと確信しているのです。 一方、このローラを見た安田は、ニコルズにこの車を売るように迫りました。この車は、インディ500マイルの優勝者の1人、パーネリー・ジョーンズが仕上げたすばらしい車だということでした。「ドーン」と一発、5460ccのV8エンジンをニコルズがかけました。「買った」と安田は言っています。ニコルズは私に、これを売ったら大変なことになると訴えるのです。この車は、アメリカとカナダで走っている、後に私が主催するワールドチャレンジカップで走るカンナムカーと呼ばれている、一見2座席の純レーシングカーで、グループ7に属している車です。ローラT70とは、タイプ70と表していたのです。従って、この年のグランプリレースの規定する、ストリートカーに近い、グループ6の車にするためには大改造を要します。 その作業は今すぐに待ってもいるのです。執拗に粘る安田に根負けしたのと、ビジネスに欲のあるニコルズが、ついに「OK、1000万円キャッシュ」と言いました。安田は自分で頼んでおいて、「NO,870万円しかない」と言うのです。ニコルズは、「さよなら」と言いました。 結局、クォーターのコインを投げる「賭け」で1000万円か870万円かを決めることになりました。住友ハウスの駐車場は1坪ごとにコンクリートがメジで仕切られていました。それを5つ分、約9メートル先のメジに向かって25セントコインを投げて、そのメジの線に近い方が勝ち、メジを越しても負けということになりました。 結局勝負はニコルズの勝ちとなり、安田はニコルズに全額払うこととなりました。安田はその日の内に改装のためにローラT70をデル・レーシングに搬入しました。 ニコルズは、同じ日の午後8時のパンアメリカン航空で、新たなローラT70の買い付けにロサンゼルスに飛んだのです。グランプリレースの予選までの日にちは、もう12日しか残されていませんでした。 デル・レーシングでは、ローラT70のオープンモデルをクーペに改装しました。チーフメカニックの藤田富雄の夜昼兼行の作業が続きました。フロントウインドウにはレーシングコンテッサのアクリル製の肉厚4ミリのリヤウインドウを使いました。両ドアは、ガル・ウイングで上に開きます。作業の過程で、5分程の距離にある六本木の東大第1生産技術研究所に自動車工学のオフィスを持っていた平尾教授に立ち寄ってもらい、今回のレースの主役の1台を十分に見ておいてもらいました(写真は、R.ダンハムのドライブするチーム・サムライのコンテッサ・レーシング)。 5月1日の公開練習日は雨になりました。その前日、ようやく完成した安田のローラT70クーペはレースコースに現われると3周程しただけで走行を切り上げたようでした。気になるドン・ニコルズはまだ影すらありません。その日の連絡ではコンテッサの市販のフロントウインドウを上下逆に取りつけている最中だと言っていました。” ということで、この2台ともドン・ニコが供給元だったことがはっきりいたしました。塩澤様、本当に貴重な情報、本当にありがとうございました。 (2)1967年「第4回日本グランプリ」に、安田銀治のドライブでエントリーする。スタート後、第一コーナー30度バンク突入までの間束の間のトップを奪う。しかし、最終コーナーでスピンし、日産チームを混乱させる原因を作る。予選8位 2分12秒41、決勝9位。 エンジンは、ドン・ニコルズ“ローラ”と同じ、5,500ccシボレーV8であった。 (3)チーム・ヤスダから、本来のグループ7レーシングカーの姿に戻り、1967年度国内レース8月20日「全日本スポーツカーレース 富士大会」に挑戦する。予選2位でスタートするが、酒井正の“デイトナ・コブラ”、田中健二郎の“ポルシェカレラ6”と3っ巴の戦いをするも田中に次ぐ2位となる。 (4)1968年5月3日、「第5回日本グランプリ」に、安田のドライブで再度出場、予選16位(2分03秒93)で、決勝はリタイヤに終わる。 エンジンは、トラコ・チューンのシボレーV8 5,500cc。 (5)1968年3月24日、「富士300キロレース」に出場、酒井のポルシェカレラ6、田中のデイトナ・コブラ、そして遠征組のJ.マクドナルド“ロータス30・フォード”などと戦うが、濃霧の為レースを途中で断念する。 チーム・ヤスダからは、エントリーの段階では、前年の「第1回日本CAN-AM」に“ペドロ・ロドリゲス”がドライブした“ローラT160”そのものが酒井正と安田本人のドライブでエントリーされていたほか、2台の“ローラT70MKII”が、真田睦明/伊能祥光組と勝常時/新井英雄組でエントリーされていた。 しかし、予選では、真田組のローラのみ現われただけであり、しかも伊能に変わり、粕谷勇がチームを組んでいた。 注目の予選は、“1分55秒79”で14位、しかし前年安田本人が出したタイムより8秒もタイムを伸ばしていたのには驚きを隠せない。 ちなみに、酒井の“ローラT160”は、シボレーV8 トラコ・チューン 7,600ccというモンスターエンジンで臨んだが、タイムは以外に伸びず“1分50秒81”で10位に終わる。 その後のチーム・ヤスダ所有の“ローラT70”の消息は途絶えたままである。 ところで、ジャパン・レーシング・リミテッド所有だったローラT70はいったいどうなったのでしょうか。 69年日本グランプリにエントリーしていたチーム・ヤスダの2台目の“ローラT70”がそうなのではと今さらながら想像してしまいますが、今となっては謎のままです。一説では、69年グランプリ前に、いすゞチームに買取られて、あの“いすゞR−7”のシャーシーの1部になったとか・・・。 以上が、手元の資料でわかる2台の“ローラT70MKII”の消息でありますが、もし情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひお知らせ頂ければ幸いです。 |
“ローラT70MKIII”登場!!
1967年1月「ロンドン・レーシングカー・ショー」において、エリック・ブロードレーは、世界マニファクチャラーズ選手権用プロトタイプカー“ローラT70MKIII ”を発表しました。当時すでに1967年度シリーズ戦は現に始まっておりましたが、ローラ・カーズとしては、その年の“ル・マン24時間レース”に標準を合わせた発表であったのでした。しかも、エンジンは、当初1950年代に活躍したイギリスの“アストン・マーチン”製V8エンジンで排気量は5000ccでありました。 フォードGTプロジェクト以来のローラのプロトタイプレース復帰でありましたが、名手ジョン・サーティースの腕を持ってしてもレースでの戦績は一向に上がらず1967年シーズンを終えることになりました。 このときローラ・カーズは、1968年シーズンから、プロトタイプカーのエンジン排気量規定が3,000ccになり、年間50台生産が義務づけられてはいるものの5,000ccまで許されるスポーツカー・クラスに興味を持ちついに市販に踏み切ることとなったのでありました。 エンジンは、CAN-AMシリーズで実証済みの“シボレー”エンジン搭載可能として、ユーザーへの配慮を施して1968年に市販が開始されたのでありました。 |
“滝進太郎(タキ・レーシング・チーム)の野望”
実際今回(第5回日本グランプリ)もそのタイムはすばらしかったが、2台ともレース中盤までに脱落してしまった(写真上は、車検時の長谷見昌弘が乗った#25ローラT70MKIII 、右の写真は、レース序盤トップの高橋のR381にバンクで迫る田中健二郎の#26のローラT70MKIII )。 英国、スラウのローラ・カーズで作られるシャーシー・ボディーはオリジナルのフォードGTを手がけたエリック・ブロードレーのデザインによるもので、基本的にはベースのMKII と変わらず箱形の2本のチューブを左右に通し、それをアルミとスティールの4組のバルクヘッドで結んだツイン・チューブ構成をとっている。 シャーシーは前ダルブ・ウィッシュボ―ン、コイル、後アッパーIアーム、ロアーAアーム、ダブル・トレーリングアーム、コイルというオーソダックスなレイアウトで、前後にアンチ・ロールバーを備える。ブレーキはガーリングの12.5インチ径という巨大なベンチレイテッド・ディスクで、リアのそれはハブキャリア内側の気流中に位置するのもMKII と同様である。ブリヂストンが援助している為タイヤは前5.80/10.80−15、後6.60/12.50−15というサイズのBSレーシングをはいていた。 アストン・マーティン・エンジン・モデルはル・マン用に数台作られたのみで、他はみなシボレー・エンジンだが、気筒容積やチューンには各種のバリエーションがある。 タキ・チームの車はもちろん2台ともシボレーOHV、V8つきだが、それぞれかなり異なっていた。長谷見の乗った#25は気筒容積6,300ccで(この数字は今回の出場車中最大であった)、チューンはニッサンR381と同じムーン、田中の#26は5,800ccでチューンは最もスタンダードなトラコであった。共に4個のウェーバー・ダブルチュ―ク、ダウンドラフト・キャブレターを有しており、出力の数字ははっきりしないが、同じムーン・チューンのR381は5,500ccで450馬力だから、#25は500馬力前後、#26は470〜80馬力ぐらいであろう。ギヤボックスは両方ともヒュ―ランドの5段であった。車検時の重量は#25が876kg、#26が855kg。 なお最近MKIII (5,000ccV8つき)はグループ4としてホモロゲートされたが、今回のGPではスペア・タイヤ、トランクなどをはずしてより有利なグループ7車として出場した。” 以上の文章は、1968年に発行された「CAR グラフィック」誌6月号より引用させていただきました。 ある意味では、翌年行なわれた「69年日本グランプリ」よりも私は、タイムマシンがもしあったらこの「第5回日本グランプリ」をぜひ見たいと思っております。なぜならば、まだまだアマチュアイズムとでも申しましょうか、プライベターでもまだ活躍できた最後のレースのような気がするからであります。 |
“タキ・ローラT70の本当の活躍は?!”
1968〜69年におけるタキ・ローラT70MKIII の本当の活躍は、日本グランプリ以後だったのではないでしょうか。
また、逆戻ること3ヶ月前の7月21日には、耐久性に難があると言われていた“ローラT70”の定説が破れ、見事「富士1000kmレース」において完走、しかも終盤までトップでいながらミッション・トラブルに泣き、優勝した“トヨター7”に1周差の2位でゴールするという離れ業を演じたのでありました。 左の写真は、最終進化(?)形の“タキ・ローラT70MKIII ”であります。なんとも言えないデザインでありますが、予選タイムだけを見ると富士スピードウェイで、1分50秒83を記録しており、大幅なスピードアップにつながる改造だったと思われます。しかし、戦績は、全てリタイヤに終わり2年間に及ぶ活動も1969年日本グランプリを最後に引退ということとなりました。しかも、“タキ・レーシング・チーム”の活動も資金難のために終止符を打つこととなったのでした。 私にとっての“いとしのローラ”はやはり“ローラT70”であります。 特に、タキ・レーシング・チームの“ローラT70MKIII ”は当時田宮模型が出していた1/12スケールの同型車とリンクして私の憧れの模型であり、当時どうしても買うことが出来なかったプラモデルでもありました。 そして、もう1つ忘れることが出来ないのが、ジョン・サーティースの乗る“ローラT70MKII & III ”です。CAN-AM シリーズでマクラーレンやチャパラルがいくらすばらしくともやはり、この“ローラT70”あっての輝きではなかったのかとこの企画ページを作りながらしみじみ思うこの頃であります。 ところで、“ローラT70”に続くマシンとして、“ローラT160”が登場しましたが、このマシンも大好きな車の1つでありました。当時やはり田宮模型から発売された“ローラT160TS”は本当にすばらしい出来で、実車の戦績がよくなかったことが逆にローラらしく思えたものでした。 最近、すばらしい“ローラT160TS”を見つけることが出来ました。 それは、“ウエスト工房”という大変マニアックなレジン・ボディーメーカーから発売されていたものです。まさに、当時のCAN-AM シリーズの興奮が蘇って来るようでありました。 では、長々と私の企画ページを見ていただきありがとうございました。 御意見・御感想をお待ちしています。
28/NOV/1999 BY HIROFUMI MAKINO |