日本モーター・スポーツ史の夜明け
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日本のモーター・スポーツ界において1963年5月3日と4日は、歴史的な“カルチャー・ショック”を受けた日と言っていいのではないでしょうか。ちょうど戦後の日本経済が“高度成長期”のピークにさしかかろうとしていた時期でもあり、何もかもが新しい出来事として日本中のモーター・スポーツ・ファン(当時はそう呼ぶことはなく、多分自動車愛好家とでも言ったのでしょうか)の目の前で展開され、大いに刺激を受けたのでありました。
私は当時小学校3年生でありましたが、親のおかげではあるのですが、苦労1つすることがなく、小学校時代を送っておりました。3年前より東京都板橋区の公団住宅に住んでおり、しっかり“テレビジョン”なるものや冷蔵庫、洗濯機、そして風呂も我が家にはありました。 ただ、当時多く宣伝され、TVCMでもよく放送されていた自動車なるものは唯一我が家にはまったく関係ないものだという認識で家族全員が思っていました。 当時、私のお気に入りの遊びというと、ダイヤペット(日本の代表的ミニカーメーカー)等のミニカーを両親に西武百貨店で買ってもらい、それを使ってボール紙を斜めにたてて上から転がして友達と競争すること、そしてプラモデルも私の父親が作ることが大好きだった関係上よく買ってもらいました。当時マルサン商店製などの第2次世界大戦で活躍した戦闘機や戦艦、そして戦車などを作ることも楽しみの1つでありました。 その後鉄道模型(ブリキ製三本レールのOゲージモデル)なるものも買ってもらい、家中にレールを繋げて遊んでいたことが記憶に残っています。 1964年頃になると、月刊漫画雑誌で人気だった「鉄腕アトム」や「鉄人28号」のTV放映などに伴って、自分で漫画を書くことにも興味を持つのでありました。そして、その当時誰もが体験した明治マーブル・チョコレートに付いていた“アトム・シール”、グリコ製お菓子のオマケであった“鉄人28号・ワッペン”、そして丸美屋製ふりかけに付いていた“エイトマン・シール”の収集に夢中になるのでした。 そういえば余談で申し訳ないのですが、小学校5〜6年にかけて私は“ホームラン・タイムズ”というクラス新聞を図々しくも発行(ガリ版印刷でしが・・・)しておりまして、将来は編集の仕事か小説家、または漫画家になりたいなどと夢みたいなことを思ったりしていたことを今思い出しました。 そんなまだ私が前も後ろもわからない頃に、すでに日本では「第1〜2回日本グランプリ」が開催されていたことには正直驚きを感じます。また、生沢徹、浮谷東次郎、そして、式場壮吉等伝説のレーシング・ドライバーたちもすでにこの時期には、鈴鹿サーキットや船橋サーキットで一流ドライバーとしてデッドヒートを繰り広げていたのもまた事実でありこれまた驚きを隠すことができません。 例えば、「第1回日本グランプリ」が開催された1963年といえば、私が小学校3年の頃で理科の時間に、竹に穴を開けて“水鉄砲”や“糸電話”なんかを作っていた時代ですから、知ろうはずがありません。わずかに覚えているニュースとしては、“J.F.ケネディ暗殺”のことを、なぜか鮮明に覚えております。 長い長い前置きで何が言いたいんだとお怒りの皆様、大変申し訳ございませんでした、今回の企画ページとして、ご紹介するのは、今まであえてひかえさせて頂いておりました“1966年以前の日本のグランプリレース”について御紹介させていただこうと思っております。 なぜひかえていたかと申しますと、以前にも他の企画ページで書かせて頂いたかとは思うのですが、私の“カー・レース”を認識した時期が1966年の「第3回日本グランプリ」からであります関係上、書かせていただいていた内容は実際TVで見て知ったことや、幸運にも実際のレースを観戦した経験があるものだけにあえて絞っておりました。ある意味ではポリシーにしておりましたので、控えさせて頂いていたというのが本音でありました。 しかし、60年代の日本のレースを主題にしていることや、最近、往年の名レーサーだった“浮谷東次郎”さんのオフィシャル・クラブである“TOJI'S CLUB”にも入会させて頂き多くの方々と接する機会が増えてそれ以前のレースのことを語る機会が増えてきたことや、我が尊敬する“生沢徹”氏御本人からHPについてお褒めのお言葉を頂くなどの出来事が続き、私としてももっとこのHPで日本のモーター・スポーツの原点について御紹介するのが務めではないかと思い始めたのが、今回の企画ページを作ろうと思いたったきっかけでありました。 |
“「第1回日本グランプリ」”(近代モーター・スポーツ史の夜明け)
今回も1989年にテレビ朝日で放送された「カー・グラフィック・TVスペシャル」の“日本グランプリ特集ー懐かしきマシンたち”に当時の模様が詳しく語られておりましたので引用させて頂き進めていきたいと思います。 |
「カー・グラフィック・TVスペシャル」の“日本グランプリ特集ー懐かしきマシンたち”より
1960年代初頭。日本は戦後20年を経て、社会は大きな変貌を遂げようとしていた。 名神高速道路一部開通、東京オリンピック開催、東海道新幹線開通。そんな近代化の嵐の中、1963年、日本の近代モーター・スポーツ史の夜明けといえる第1回日本グランプリが華々しく開催された。 1963年5月3日〜4日、日本近代モーター・スポーツ史の夜明けといえる“第1回日本グランプリ”が鈴鹿サーキットを舞台に開催された。
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(インタビュー)
津々見(右の写真は、ダンディーな津々見氏): 今思えば、漫画だなと思うんですね。まず、まったくね、モーター・スポーツの知識、走りの知識がなかった。どのように走っていいかわからない。 実は、小林章太郎さんにね、ずいぶん教えて頂いたんですね。 カー・グラフィック・スタッフ(以下CG): そうですか。 津々見: あの、その頃モーター・スポーツに通じた方は少なくて、実際にレースをやっていた方は2輪の経験しかないんですね。4輪関係では、小林さんや数人の方しかいらっしゃらなくて・・・。 小林さんに教えて頂いたりしたんですね。 アウト・イン・アウトやスローイン・ファースト・アウトだとかトライしたんですね。でもね、FF車は、イン・インに曲がれるなんて噂があったりしてね。ずいぶんやってみたりしたもんでした。 とにかく、タイヤがなくて・・・。 CG: レーシング・タイヤがない時でしたからね。 津々見: それでタイヤを当時ダンロップさんで“ダンセーフ(?)”という特別ワイドなタイヤを作っていてくれたんでしたが、その“ダンセーフ”がほしくて言ったら「あなたのサイズはないと・・・」 CG: D.K.W用はないと・・・。 津々見: ないんですね。あれ15インチだったですね。しょうがないから、トラックのタイヤ付けました。 僕はレースにトラックのタイヤで走ったんですけどね。 (そこで画面が変わり、“ツーリングカー・レース 400cc〜700cc”のスタート場面が映し出される) 下の写真は、上位を独占する“パブリカ”艦隊。
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(再びインタビュー)
CG: 第1回日本グランプリということでお客さんも相当入ったんですよね。 津々見: 入ってましたね。とにかく、あのね・・・、凄い熱気があった感じがしましたね。 まだ、自動車というのはステータスの時代でしたからね。でも、自動車に対する憧れがあったんですね。 日本でモーター・サイクルのレースでホンダさんがマン島のT.Tレースに出ていたりしてモーター・サイクルの方からレースが浸透していたんですね。 そんな時、60年代のヨーロッパのミッレ・ミリアやル・マンだとか、そこでフェラーリ、ジャガーだとか、ロータスだとか、マセラッティとか・・・。モーター・スポーツの1つの良い時代だったですね。 4輪部門がね・・・。そういう意味で、グーンと4輪のモーター・スポーツの熱がね、湧き出してきている頃だったですね。すごくモーター・スポーツをオシャレだという感覚で受けとめていたんじゃないですかね。 ある意味じゃ、ものすごく楽しいレースだったような気がしますね。 CG: 華やかであり、親しみがある・・・。 津々見: とっても華やかだったですね。確か、生沢さんも出てたし、式場壮吉さんのような派手やかな人たちもデビューしましたしね。そういう意味で一番印象に残るのは第1回日本グランプリですよね。 (以上で津々見氏のインタビューは終わり、画面では、「ツーリングカー・レース(1600〜2000ccまで)」のスタートシーンが映し出されている)
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当時を語るのに欠かせないプリンス自動車秘話について、グランプリ出版発行の「スカイライン伝説の誕生(桂木洋二氏著作)」に書かれておりますので再び引用させて頂き進めていきたいと思います。 “第1回グランプリレースのためにプリンスでは3人のドライバーと契約した。くるまの貸与とレース費用をプリンスが負担することが条件であった。 後にヨーロッパにレース修業に行き、1970年代まで日本のトップドライバーとして活躍することになる生沢徹もその一人だった。日大芸術学部の学生だった生沢は、2輪レース出場の経験を持っていたが、4輪の時代が来ることを見通し、レース出場を考えた。 彼がプリンスを選んだのは、1961、62年と2回にわたりヨーロッパのビッグラリーであるリエージュ・ソフィア・リエージュにグロリアが出場していたからだった。トヨタやニッサンはそれ以前にオーストラリアのラリーに出場してはいたものの、本場ヨーロッパの最高脈のイベントに出場するプリンスの心意気、誇りを生沢は買ったのだった。 プリンスに手紙を書き、レーシングドライバーとして採用してほしいと生沢は自分を売りこんだのである。面接と市街地の走行だけで生沢は採用されることになった。サーキット走行のタイムを計測して速いドライバーを選んだトヨタの態度を比較すれば、プリンスの対応は甘いといえるだろう。 結果として生沢は、ドライビングセンスがすばらしく、契約するだけの価値があったが、当時ドライバーとしての実績はなく、未知数だったはずである。 残る2名はクルマ好きの在日米軍人、R.ジョーンズとW.レイクであった。当時プリンスの嘱託をしていたドイツ人のエンジニアであるミューラーが、友人で腕のいいのがいるといって紹介したのである。この2人は生沢ほどのセンスはなく、第1回日本グランプリのみの契約で終わっている。 フェアレディ1500やTR4、MGBなどといったスポーツカーと同じレースで戦うスカイラインスポーツは、当時としてはかなりアカ抜けたスタイルをしていた。プリンスの誇りを象徴するイメージカーとして評判もなかなかだった。しかし、シャーシーはスカイラインセダンと共通で、外見ほどのスポーティさを秘めてはおらず、車両重量は1300kgと重かった。1862cc直4OHVエンジンの最高出力は94馬力で、当時としてはかなりなパワーであったものの、レース用にチューニングされておらず、パワーウェイトレシオでは他車に大きく差をつけられていた。 イギリスのスポーツカー優勢の下馬評とは逆に、決勝レースでは田原源一郎のドライブするフェアレディが、ぶっちぎりで優勝した。R.ジョーンズと生沢のスカイラインスポーツは、予選で10位と11位、決勝レースではジョーンズが7位、生沢が10位に入るのがやっとだった。 優勝したフェアレディはキャブレターを2個装着、エンジン出力は大幅にアップされていた。レース終了後、規定を超えた改造がなされているのではないかという抗議が出される一幕もあった。結局は、輸出仕様だからその改造はルール違反ではないと判定され、フェアレディの優勝は取り消されなかった。ブルーバードがVWビートルに破れたニッサンは、このフェアレディ優勝を大きく宣伝したのはいうまでもない。 プリンスが出場したもう一つのレースは、2000ccまでのツーリングカーレースだった。クラウン、セドリック、ベレル、グロリア、スカイラインといった、現在ではおおよそレースとは無縁そうな乗用車ばかりが走った。ナンバープレートや前後のバンパーまで付け、外観からしてノーマルのままであった。しかし、ロードクリアランスを下げ、サスペンションを固め、エンジン出力を向上させていたクラウンは、多賀弘明のドライブによって、他車を圧倒した。 いすゞチームの竹田監督はレースを知り、在日米軍ドライバーのつわものなどにベレルを託し善戦したが、わずかの差にクラウンには及ばなかった。スカイラインに乗る生沢は3列目8位からのスタートだったが、好ダッシュをみせて一時は3位まで上がったもののエンジントラブルでリタイアした。レース直前の練習走行でクラッシュしたため、急遽用意した中古のスカイラインでの出場だった。R.ジョーンズが同じくスカイラインで8位、グロリアでW.レイクが9位でゴールしたが、前にはクラウン、ベレル、セドリックと全ての国産メーカーのクルマが入っていた。 モデルチェンジされたばかりのグロリアがレースで負けるとイメージダウンになるから出場やめようという意見もあったが、結局は出場に踏み切った。パワーがなく、ストレートが長く感じられたという。レース中、ドライバーのW.レイクはラジオを聴きながら走ったという。ストレートではアクセルを目一杯踏んでもスピードは思うように上がらず、退屈であったからだろうが、当時オプション設定されることが多かったラジオをつけたままレースに出場したことは、プリンスがいかに性能向上を図らなかったかの証明になるだろう。 このレースをプリンスの常務である中川良一は、メインスタンドの観客席で見ていた。プリンス車が出場した二つのレースで共に惨敗するのを見て、やはり惨めな気持になった。負けることはわかっていたとはいえ、今されながら手をこまねいていたことが悔やまれた。しかし、すんでしまったことは取り返しがつかない。事前に手を打っていれば、他車に負けないだけのことがやれる自信があっただけに、後味の良いものではなかった。” 以上が当時のプリンス自動車がいかに他メーカーと比べて「第1回日本グランプリ」に力を入れていなかったということがわかる貴重な内容でありました。 |
国際スポーツカー・レース(5月3日、4日) 上の画像は、5月3日及び4日の2日間一度も首位を譲ることなく優勝したピーター・ウォーの“ロータス23” とGTクラスを争う“Jose Rosinsky”の#13“アストン・マーティンDB4ザガート”と“Pierre Dumay”の#12“フェラーリ250GT・SWB(ショート・ホイール・ベース)。 国際スポーツカー・レース(5月3日) 20ラップ 120.08km
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国際スポーツカー・レース(5月4日) 30ラップ 180.12km
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5月3日 国内スポーツカーレース (1300cc以下) 13ラップ 78.052km
ヒーレ―・スプライト、DKWスポーツクーペなどのGTに対して、特製の4段ギア・ボックスをつけた2台の“コンテッサ900”(ロバート・ダンハム#14、立原義次#15)がどんなレースを展開するかが興味の焦点でありました。 結果は、石津祐介の“ヒーレ―・スプライト”の圧勝で幕を閉じました。期待された“コンテッサ900”のR.ダンハムは、10周目転倒して惜しくもリタイヤしてしまうのでした。また、立原の#15コンテッサは3位となりました。 ところが、レース終了後、優勝した石津のヒーレ―のウインドウ・スクリーンが標準のものではなくレーシング・スクリーンだったことが判明し、あえなく失格してまったのでした。よって、順位が繰り上がり優勝は、“DKW”の井口のぼるが優勝をものにしました。なお、このレースのベスト・ラップは、コンテッサに乗る立原がだした3分28秒0でありました。
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5月3日 国内スポーツカーレース (1300cc〜2500cc) 15ラップ 90.06km
このレースは田原源一郎のフェアレディ(USA仕様 1488cc SUキャブ 80HP/5600rpm )がトライアンフTR−3〜4、MGBなどの強豪を押さえて終始トップに立ち、2位のTR−4に1度すら追いつく隙を与えず完全優勝しました。 上の写真(左)は、独走優勝した#39田原源一郎のフェアレディ1500。写真右は、ヘアピン・コーナーで争い合う#26宇田川のフィアット、#29東郷のトライアンフ、そして#28R.ジョーンズのスカイライン・スポーツ(後ろは周回遅れのMG−A)。 なお、このレースには、先に紹介しておりました我が生沢徹がスカイライン・スポーツで参加しておりましたが、ほとんどノーマルなスカイラインで予選11位、決勝10位と振るいませんでした。TETSUが本当の実力を出すのは翌年の「第2回日本グランプリ」からであります。 国内スポーツカーレース 結果
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5月4日 国内スポーツカー・レース (2500cc以上) 20ラップ 120.08km
5月4日に行なわれた「国内スポーツカー・レース」2500cc以上のクラスは、特別参加の“アーサー・オーウェン”を含めて“Eタイプ・ジャガー”5台、英国人で日本在住の“エリック・バーレット”の“メルセデス・ベンツ300SE”、それに“ヒーレ―3000(6気筒2912cc)”と“ヒーレ―100(4気筒2660cc)”の8台がスターティンググリットについたのでした。 決勝レースは、“A.オーウェン”の“ジャガーEタイプ”が横山達のジャガーに8秒の差をつけてトップでゴールしました。しかし、A.オーウェンは特別参加だったため、優勝したのは横山達のジャガーでありました。 国内スポーツカーレース結果
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5月3日 ツーリングカー・レース (400cc以下) 7ラップ 42.028km
かつて日本においては公に国産車の性能が比較されることはまれでありこの意味で第1回日本グランプリのツーリングカー・レースの持つ意味はきわめて大きかったようでした。 一般的に高性能ないしはスポーツ的と思われていたものが大敗を喫するという意外な結果が随所に見られたのでした。 この400cc以下のレースも例外にもれず国産ミニカー中最強と見られておりました“スバル360”がバンから発展した“スズライト・フロンテ”に破れるというハプニングがありました。 ツーリングカー・レース(400cc以下)結果(13台中3位まで)
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5月3日 ツーリングカー・レース (1000cc〜1300cc) 12ラップ 72.048km
このレースは、いまで言う“ワン・メイク・レース”でありました。 “VWビートル”のためのVWビートルのレースでありましたが、わずかに“ブルーバード1200(420)”が2台参加していたのが例外でそれぞれ7〜8位と振るいませんでした。 ツーリングカー・レース(1000〜1300cc)結果(8台中3位まで)
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5月3日 ツーリングカー・レース (1300〜1600cc) 15ラップ 90.06km
このレースにより“式場壮吉”という輝かしい“スター”が誕生したと言ってもいいのではないでしょうか。 トヨタの援助を受ける式場壮吉の“コロナ・スタンダード”は、ライバルである“浅岡重輝”のドライブする“ヒルマン・ミンクス”や“ヴォクスホールVX4/90”を相手取り、スタート後の5周目の第1コーナーでトップに立つやその後1度もトップを揺ることなく15周のレースを終えたのでした。 ツーリングカー・レース(1300〜1600cc)結果
以上で「追憶の日本グランプリ」(前編)を終わらせて頂きます。 続きましての“後編”では、いよいよ我が“生沢徹”や“浮谷東次郎”、そして“式場壮吉”らが中心となる「スター誕生編」という趣で進めさせて頂きたいと思っております。 ありがとうございました。 御意見・御感想お待ちしています。
(C) 1999 BY HIROFUMI MAKINO
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