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2023 映画・アニメーション グランプリ & 各賞 発表
映画・アニメーション データファイル主催のムービーアワード、2023前期グランプリ&各賞が2023年5月10日迄の集計により、5月27日発表となりました。 今回は「歴代ミュージカル映画」「ジュディ・ガーランド生誕100周年記念」をテーマに選出。詳しくは本賞頁をご覧下さい。
*[ 本年度グランプリ & 各賞 ]* *[ 賞の主旨・概要 ]* *[ 2023年度後期テーマの投票受付中 ]*




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◍ 東京リアル・モデル探訪 ◍

- Exploring Tokyo Real Models -



第1回 『ゴジラ』(1954) Part Ⅱ

Model - 1 “Godzilla” (1954) Part Ⅱ










↑ は1954年に制作された映画「ゴジラ」に登場した戦車&戦闘機の実物のリアル画像と、劇中に登場した同模型が映っているシーンの画像です(*画像はクリックするとサイズが拡大されます)。



≪2023.10.3 (火)≫

本記事は ↓ URL『第1頁』最後の ≪2023.10.2 (月)≫ からの続きになっています。

https://www.mmjp.or.jp/gigas/tokyo-real/Model1


豊島区の『巣鴨地蔵通り商店街 (Sugamo Jizo Street Shopping Street)』にある『ますや玩具店 (Toy Store Masuya)』(*英語においては又の名を、そのまんまストレートに “Masuya Ganguten” とも『カッコ良く』呼ばれている)の御主人=北澤輝之 (Teruyuki Kitazawa) さんは、1954年制作の映画「ゴジラ」に登場している(実際の撮影に使われた)戦闘機、戦車の模型を制作しておりまして、其のクオリティは劇中、多くの特撮描写の中にあって引けを取らず輝いていました。日本怪獣映画の元祖「ゴジラ」という作品を盛り上げる大変な功績に成っていると思っています。

・・・只、実は北澤さんは映画劇中ではノンクレジットであり、東宝の公式な関係資料 etc においても名前が挙げられていない・・・という複雑な事情がありまして(此れは今年の6月27日(火)定休日でありながら取材させて頂いた中から判明した話なのですが)此処からはネットの役割になるのかナ?と本記事の筆者であり、当サイトの代表&責任者である私めの判断で、当『東京リアル・モデル探訪』第1回の「初代ゴジラ」特集・立ち上げの発火点に決めた次第でして・・・

「ゴジラ」第一作目と云えば ↑ URL『第1頁』の文を全て読んで頂ければ察して頂けると思うのですが、日本怪獣映画の中で最重要な作品であり、云わば世界の映画史においても伝説の映画なのである。其の名画の重要なシーンのスタッフの一人が、子供の頃から知っている『ますや玩具店』の御主人だったとは今年の6月27日(火)まで露知らず。
北澤さんは今年92歳で実は今も『ますや』の店番をしている。私めが子供の頃店に行った時も店番をされていたので、多くの客は店番専門(?)の方・・・と思われているのではないのかナ?・・・しかし、全くソウでは無い。 “能ある鷹は爪を隠す” のことわざ通り、戦後のラジコン、模型界をクリエイター、職人、大会主催 etc として牽引して来たのが此の北沢輝之その人なのである。

・・・が、此の文を読んだ方が(仮に)巣鴨地蔵通り商店街の『ますや』に初めて足を運んで訪れたとしよう。恐らくそんなラジコン、模型界の権威で大物のお店という雰囲気が微塵もない、極々普通の 《こぢんまり》 とした玩具店の様相に先ず驚かれると思う。
実際は過去にも有名人が訪れていたりして、主に奥さん(北澤順子 (Yoshiko Kitazawa))が対応したツーショット写真が数枚存在するのを『内々に』拝見したのだが、店内は其れを誇る様な雰囲気も無く唯唯『模型&おもちゃ好きの人の為のお店』という形を崩しておらず、私めは今回取材をしていて(深い意味合いで)飾りの全く無い其処に一番感動してしまったのだが・・・

小生が子供の頃『ますや』に行っていた頃の北澤さんの様子はというと、時折フレンドリーに(?)戦争時の昔話、戦闘機の話題を繰り出して来る叔父さんという印象で、年輪を増した今回の取材中も其れは変わっていなかったので、先に『まるで時が止まっているかの如く』とも店舗を形容したが、御本人自体もソノ辺以前と変わりはなく。 北沢さん自体・東京大空襲の際に焼夷弾が近くに落ち、顔に大火傷を負った(*只、現顔の様子を見ると其の火傷跡は微塵もない)事もあり、奥さんに話を訊いていても『戦争がなかったら今の此の仕事はしていない』との事なので、直の戦争体験というのは『ますや』の今の形と大きく接合しているのかも知れぬ。

『ますや』のある巣鴨地蔵通り商店街も、空襲で見渡す限りが焼野原となり、其処からの立ち上げで今まで続けて来たのだから、正しく戦後殆どの何も無くなった状態から、此の地域に模型、玩具という形の “夢” を掲げて来た、其の志しの高さは計り知れない。
・・・細かい事を記すると『ますや』は『飛行機屋 (hikôki-Ya)』という愛称で呼ばれていた時期もあったとの事で、その名残りは今も店頭に吊るされている名機『メッサーシュミット (Messerschmitt AG)』のソリッド・モデル(実は今も飛行可能なラジコン飛行機)に顕れています。

個人的には、青空にある雲を突き抜け、その先にある大空の荒海の如き激動の戦後社会を飛んで来たのが『飛行機屋』 ⇒『ますや』であり、北澤さんとサポートして来た奥さんというイメージを(今回の取材で)持つ様になりました。



↑ 画像は『ますや玩具店』の看板猫であるチャチャ丸君(7歳)と、店をサポートしている奥様の北沢順子さん(*画像はクリックするとサイズが拡大されます)。





PS: 次の追記の予定は10月7日(土)になります。



≪2023.10.7 (土)≫

『ますや』というのは元から玩具店だったという訳では無く、元々のルーツを遡ると元禄時代(江戸中期 (1680〜1709) の約30年間)から始まる、徳川家お墨付きの今で云うアパレル関係の文化を担った商売をされていて、ソノ辺のエピソードも実は面白いのですが(今回、御主人の北澤さんから其の方面の話の掲載の許可を得られず)当記事内では書かず、可能なら又別の機会に。
玩具店として分家&再スタートしたのが昭和29年 (1954) だから、此の年は偶然にも本多猪四郎・監督の「初代ゴジラ」が日本国内で劇場公開された年で、図らずも『ますや』と映画「ゴジラ」シリーズとは刻の歩みを共にして来た事にはなる。・・・翌年の昭和30年に北沢さんは『東京コンドル・クラブ (Tokyo Condor Club)』というラジコン飛行機の団体を発足(会員数は約120人)。

此の『東京コンドル・クラブ』が戦後日本で初めて正式に発足されたラジコン飛行機の団体という事に成るのだが、当時のラジコン業界というのは今の感覚で云う其れとは異なり(一般の乗用車も当時は高価だったが)ラジコン模型は高級車と同等の価値があり、奥さんの話によると当時ラジコン業界は時代の先端を行っていた感覚があったという。
昭和32年には今も続いている『Uコン大会』(現:コントロール・ライン (Control Line))=飛行コンテストが開催され、数回目の東京の板橋~埼玉で田園風景が果てしなく広がっていた、まだまだ情景が全体的に “のどかだった” 頃(現:高島平団地が並び立っている地域)に行われたUコン大会の際、其の様子を(今上天皇である)徳仁が子供時代に見学に来られて、御自身の操縦でフライトテストまでなされていた程に、世間の話題に上がっていたとの事。
又都内で行われたUコン大会だと、米軍・横田基地の敷地を借り比較的大きい飛行コンテストが開催される事もあった。Uコン大会は他の団体においても盛んで、電波法が改正され(ラジコン業界 etc 無線全般に対しての)規制が厳しくなるまでは、此の様なUコン大会が日本各地で行われていた。

まぁ、ラジコン飛行機が最先端というのは何も昔の話では無く、ラジコンの異種進化形が『ドローン (Drone)』に辿り着いたと考えれば、如何に遠隔操作の小型無人航空機の有用性が現実的に高かったかが解るかと。
北澤さんは其の原点である『東京コンドル・クラブ』を戦後・日本初で主宰していた訳なのだから(奥さんが言われている通り)確かに時代のかなり先端を行っていたのである。



・・・と、此処まで書くと、無人航空機関係の専門家の話が主軸?という方向に特化してしまいソウだが、勿論ソレだけでは無く(*本企画のタイトルは『東京リアル・モデル探訪』なので)、ウチが一番に推したい話題は何と云っても北澤さんが『ソリッド・モデル (Solid Model)』(木材 etc を主材料とし制作する模型)の職人であり、今も現役のエキスパートという事なのである。
『ソリッド・モデル』は戦時中『實體模型 (Jitti Model)』『実体模型 (Physical Model)』という名称で呼ばれた事もあったが、敗戦後は何故か?GHQ (General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers) = 連合国軍最高司令官総司令部によってソリッド・モデル、要するに模型飛行機の販売が日本国内で禁止されたりもしたのだが(恐らく戦時中軍が推奨していた関連のモノは基本的に一旦禁止となったのだろう)、昭和23年には解禁となり1950年代には国内で最盛期を迎える。

・・・しかし、1958年末には国産初の『プラモデル (Plastic Model)』が発売され、其の後木製のモデルはプラモデルに圧され殆どが姿を消してゆくのだが、一部の愛好家は北澤さんの様に “自ら一から全体をプロデュース出来る” 木製モデルに対しての拘りがあり、今も根強く残っているのである。
只、其の制作過程は材料の準備&加工&各種部品の制作&組み上げ&断面形状までが自作であり、信頼できる資料が無い場合には、図面と写真から正しい断面形状を(自身の視覚と感覚で)読み取るという、機体細部を精密に再現するのには高度な能力と経験が必要となる。
又、航空機ではエンジンや爆弾などの武装を除き、装備は殆どのケースで資料が無い為、小物の部品まで殆ど全て自作で補うという、大変手間が掛かるのがソリッド・モデルというジャンルなのである。

・・・とはいっても、『ますや』の店舗が木製の模型しか置いていない、ソリッド・モデル専門店という訳では無い。今ではプラモデルも棚に置いてあるので、其処は誤解の無い様。只、当時は模型と云えば本当にソリッド・モデルが殆ど=シェアはほぼ100%に近かった訳で、時代によってこんなにもマーケット、文化、政況の様相は大きく変貌するモノなのだという事だけはお解り頂けると思う。



北澤さんが「初代ゴジラ」で提供した車両&機体は戦車『M24チャーフィー軽戦車 (Light Tank M24)』4両、戦闘機『三菱 F-86F セイバー (Mitsubishi F-86F Sabre)』1機。
・・・なのですが此れには更に裏話があって、北澤さん直々にインタビューした処、戦車『M24チャーフィー軽戦車』は『M41軽戦車《別名:M41ウォーカー・ブルドッグ》 (M41 Walker Bulldog)』の改造モデルで、戦闘機『三菱 F-86F セイバー (Mitsubishi F-86F Sabre)』の方も北澤さんが提供したのは今回の取材で『ロッキード』と言っていたので、恐らくロッキード社の『T-33 シューティングスター (T-33 Shooting Star)』辺りを改造したモデルで、ドウモ此の辺の話の感じからすると、円谷組は北澤さんのソリッド・モデル(今回話題に挙げている本車両&機体はラジコン仕様では無い)をどうしても劇中で使用したかったのが窺える。







↑ 画像は北澤さんが制作した戦車&戦闘機モデルと、劇中の実写シーン(*但し右の『三菱 F-86F セイバー』の実写画像だけは「初代ゴジラ」の続編にあたる「ゴジラの逆襲」(1955) からの引用・・・その理由は ↓ で解説します)。

『M41軽戦車』から『M24チャーフィー軽戦車』への改造は多少容易なのかも知れぬが、『T-33 シューティングスター』から『三菱 F-86F セイバー』への改造は大分難しソウなので、此処の職人技は(裏話を知っているだけに)かなり深くて凄い。
やはり此処は(先に触れた様に)昔ながらのソリッド・モデル制作者というだけあって、即座に高度で大胆な改変が可能だったのかも知れぬ。

現実の自衛隊(劇中では『防衛隊』という名称の実力組織)での背景を書くとすれば、『M24チャーフィー軽戦車』は多くに知られている通り米軍の払い下げで、戦後の『警察予備隊』が発足した昭和25年(1950年8月10日(木))の発端からM24の配備が決定されているので、戦後自衛隊に導入された最もポピュラーな自衛隊・戦車(当初は戦車では無く『特車』という呼称)だった。最終的な日本への供与数は238輌。

戦闘機『三菱 F-86F セイバー』の方は単なる払い下げでは無く、1955年から『ノックダウン生産 (knock-down kit)』(要するに米ノースアメリカン社の「F-86 セイバー」(North American F-86 Sabre) から部品のセットだけを輸入し、仕上げは日本で完成させる方式)で組み立て作業は三菱重工業が行い70機を完成させている。
・・・続いて国産の部品を組み入れた『ライセンス生産 (licensed Production)』で110機。同じく『ライセンス生産』でほぼ全ての部品を国産化した第3次生産で120機・・・1961年までに総計480機が三菱で製造された。

『F-86F』と「初代ゴジラ」の関係で云うとモウ一つあって、1955年に米軍からF-86F-25/-30が28機、F-86F-40が152機の計180機のF-86Fが直接供与されてはいるのだが、『ノックダウン生産』『ライセンス生産』時に生産された三菱のも勿論1955年以降なので、実はどの機体も「初代ゴジラ」が公開された1954年11月3日(水)に日本国内での配備が間に合っていないのである。

確かに1954年に誕生した航空自衛隊の主力戦闘機として、国会でF-86Fが導入される事は決定してはいるのだが、映画が公開された時点で日本国内の世間一般においては『未確認飛行物体』状態だったのである(此の件でも「初代ゴジラ」スタッフが随分先を見越して、高度な作品作りをしていたのが解る)。




PS:次の追記の予定は10月10日(火)になります。



≪2023.10.10 (火)≫

画面が暗くて分かり難いかも知れないが、↓が『M24チャーフィー軽戦車』(模型としては『M41軽戦車』の改造)のシーン。画像のM24は劇中において第49戦車隊の所属。












怪獣映画においての戦車は完全に “ヤラレ役” 専門なので、此の ↑ ゴジラが吐く核放射能の火炎が直撃し、爆発&炎上しているシーンはM24にとっての正に絶好の檜舞台(ひのきぶたい)という事もあり今回UPしました。

画像内でも何両かは退却しているのが確認出来ますが、此の場面の後に劇中では “警戒本部への無線で第49戦車隊が全滅した事が報告” されているので(*劇中では音声のみで映像では表現されていない描写)、観客はハッキリと状況を観られていない訳なのだから(あえて)解説するのだが・・・要するに此処は、ゴジラが 《退却したM24数両を執念深く追っ掛けて(一両も)見逃さなかった》 というのを、映像で全てを見せず一部音声のみで顕す手法(ナレーション効果)の応用を “無線の交信仕様” により強調しているのであって、ただ無軌道に暴れているだけではない、ある種のゴジラが呈した衝動の方向を印象付ける肝要な個所なのだナ。
まるで楽しんでいるかの如き戦車キラーぶり(戦車が大好きなのか?)な処を頭に焼き付ける、作家的な意図としては深い処で反戦的(?)というか、ある種の拘りのあるゴジラ自身の本領が見え隠れしているシークエンスなのであり。

只、M24の速力は全力で56.0km/hだったとの事なので、敗走している後退時のM24という事もあり(戦車は後退時の速力が大分落ちる)もしかかしたら初代ゴジラにとっては、そんなに一生懸命・追っ掛けなくとも第49戦車隊を壊滅出来たのかも知れぬが・・・因みに、今の陸上自衛隊の『90式戦車 (Type 90 tank)』だと速度70km/h(後退時は40km/h)と大分スピードアップして来るので、今の時代だと追っ掛けるのが(やや)大変だとは思う。

当時の初代ゴジラは『第1頁』の ≪2023.9.30 (土) 追記≫ で載せた通り全長・50メートルであり、其れに比べゴジラも今では(ハリウッド版も含め)大分巨大化してはいるのだが・・・参考までに映画「ゴジラ2000 ミレニアム」(1999) と「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」(2000) に登場した平成ゴジラの歩行速度が公表されていたので此処で書いてしまうと、ドチラも歩行速度は全力で40km/hという事なので、此れは恐らく1990年8月に陸上自衛隊に正式採用された90式戦車の後退時のスピード=40km/hに合わせたモノと考える。
・・・という訳で、ゴジラの歩行速度は其の時代時代の自衛隊戦車と密接に関係して来ているのが御分り頂けるかと。ソウ考えると『ゴジラ映画』と “ヤラレ役” の代表選手=自衛隊戦車というのが切っても切れない間柄だという事も併せて御分り頂けるかと。

此の北澤さん制作のM24は東宝内で評判が滅茶苦茶・良かったのか?コアな特撮ファンの間では(此のM24モデルが流用され)後の東宝特撮作品で度々姿を見せたとの事なので(*小生は今回、他の作品に出たのは確認出来ていないのだが)個人的にも見た目の完成度が素晴らしく思っておりまして、再登板を繰り返したという噂は頷ける話。

・・・因みに、Twitter上(現:X)で近年公表された初代ゴジラの歩行速度は45km/hと、まさかの平成ゴジラより(やや)素速い設定だった様なので(平成に巨大化&肥大化して動作が緩慢になっちゃった?)、此れを参考に映画を観直し ↑ の対戦車戦を考えるのも一興かも知れない。



PS:次の追記の予定は10月12日(木)になります。



≪2023.10.12 (木)≫

↓ は『三菱 F-86F セイバー (愛称:旭光)』(模型としてロッキード社の『T-33 シューティングスター』の改造モデル)シーン。









↑ はゴジラに向け『サイドワインダー空対空ミサイル (Sidewinder)』をぶっ飛ばしている最中の、F-86F前部アップの有名な画像なのだが、此のソリッド・モデルによる『F-86F セイバー』のコックピットと搭乗者の造形&機体表面の質感、光沢のある塗装具合、各処細部の再現度は本記事冒頭に載せた、実物の本物より本物らしい(?)臨場感を醸し出しており(劇中の此のシーンは逆光にした撮り方も最高に巧いのだが)先に書いた通り、まだ日本に配備されていないF-86Fを見事にモデル化している。

今回記事にしていて気付いたのだが、機体にペイントされているアルファベット『JADF』の位置や、此の角度から確認出来るラインの模様、日の丸の位置まで、後に配備された(*参照の実写画像 ↑ 映画「初代ゴジラ」続編の1955年制作「ゴジラの逆襲」に初登場した本物の実写F-86Fと)瓜二つと云ってイイ程ビッタリに踏襲されておるので、事前に航空自衛隊から詳細な資料を提供されていたか?、或いは、一部曖昧な処は北澤さんが制作したソリッド・モデルを参考に(1955年配備の)現実のF-86Fがペイントした可能性もある(何せ前年公開の「初代ゴジラ」は年を跨いで記録的な大ヒット中という事もあり、社会的な影響力も多大にあった為、後追いで参考にした可能性も無くは無い)。

此の件に関しては確かめ様がないので、此処で断定する事は出来ないのだが・・・其れだけ “北澤さんのモデルがかなり精巧だったから” という(言語で語るには大変な位に)高度なレベルの話で、本来なら此の辺は脇役的カテゴリィの小道具、ガジェット etc の類の領域の話なのだと思うのだが、初代ゴジラの場合は特別で『第1頁』で挙げた、品川駅の『EF5858形電気機関車』、浅草の『東武伊勢崎線隅田川橋梁』『高圧送電線式の巨大な鉄条網』『和光ビルの時計台』 etc etc ゴジラ以外の対模型(ジオラマ)の見せ場、名シーンばかりで此れらの模型群の作りを眺めているだけでも飽きない位なので・・・『ノスタルジーから』~という意味合いでは無く、当時の東京の雰囲気をリアルに味わいたい方なら本作と、『第1頁』でも挙げた本多猪四郎・監督&円谷英二・特技監督による「モスラ」(1961) がお薦め。

・・・因みに「モスラ」時にはまだ ↑ で挙げた軽戦車=M24が再登板していますが、もう此の時期になると戦闘機=F-86Fの方は旧式扱いで劇中には殆ど出て来ていない。代わりに後継機の『F-86D セイバー (North American F-86D Sabre)』(愛称:セイバードッグ (Sabre Dog)・・・日本での愛称は『月光』)が目立って登場。
此の時期の航空自衛隊の機種はどんどん入れ替わり、F-86Dも10年程で全機日本から姿を消してしまう。







F-86Dは(自衛隊初となった輸入・主力ジェット戦闘機である)F-86Fに似た外観を持つものの、機首に大きなレーダーカバーを取り付けているのが特徴で、此の機首のレーダーカバーが “犬の鼻” の様に見える処から米ではセイバードッグと呼ばれていた。此のレーダーと連動する全天候戦闘機は、コンピューターによる火器管制装置(FCS)を備えているという事もあって、F-86Dからは夜間&悪天候時での作戦行動が可能と成った。

では何故?そんなにも早く高性能のF-86Dが姿を消したのか?というと、原因は電子機器内に組み込まれていた真空管にあり、マニラ(フィリピン)並みに高温多湿な風土の日本において、特に湿度に弱い真空管が要因で他の電子系統にもエラーが起き、F-86Dが日本全国の航空自衛隊基地に配備中 (1958~1968年) 幾度も故障を繰り返した為であった。
更に追い打ちが掛かる様に1963~1966年には『ロッキード F-104 スターファイター (Starfighter)』(日本での愛称:栄光)で全7個飛行隊が空自に編成され、三菱重工業がライセンス生産を引き受けた事もあって、航空自衛隊においてノースアメリカン社のF-86シリーズは残念ながら此処で打ち止めに。

「初代ゴジラ」に登場した初の自衛隊ジェット戦闘機機(劇中では防衛隊機・初の)であり(先に書いた通り、映画公開時には『未確認飛行物体』状態)のF-86Fだが、東京湾に出現したゴジラに向け ↑ 画像のサイドワインダーを発射した後、他に何も無く無事帰還した様なのだが、続編の「ゴジラの逆襲」では大阪港に出現したゴジラを攻撃した際、1機がゴジラに撃墜され洋上に墜落している。

此の大阪港に落っこちたF-86Fなのだが、此の機体の模型は北澤さん作なのか?ドウか?此れも今となっては確認の仕様が無いので・・・
只、東宝特撮映画では其の後もF-86F(略:F型)が再登板し続け、「空の大怪獣 ラドン」(1956)、「地球防衛軍」(1957)、「大怪獣バラン」(1958)、「海底軍艦」(1963)、「モスラ対ゴジラ」(1964)、「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964)、「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」(1972)、「ゴジラ対メガロ」(1973)・・・と、現実の航空自衛隊での新鋭機F-86D(略:D型)が配備された同い年「大怪獣バラン」が制作された1958年以降も、F型が(東宝の銀幕の中でだけは)主力戦闘機を演じ続けた。

やはりD型ではなく、「初代ゴジラ」のファーストに颯爽と登場&去って行ったカッコ良さ、引き際の良さ、最新鋭 etc etc ... の印象が強かったのか?。其処は北澤さん制作のF型にロマンを感じたのは間違いない処だろうと。



PS:次の追記の予定は10月17日(火)になります。



≪2023.10.17 (火)≫

・・・此処まで長々2頁に亘って書いておいて何だが、実は本・新企画『東京リアル・モデル探訪』第1回目に予定していたのは、当初「ゴジラ」では無く、全く違う内容であって・・・関連して紹介する予定だった別の店舗とも(直接伺って)事前に話もしていて、ほぼ其方の方向で第1回を遣る事になっていたのだナ。

・・・ところが、当記事『第1頁』の冒頭でも書いた通り、近く事務所を引っ越す予定があり、『どうせ引っ越すのなら』と、幼少~青年期に住んでいた東京都文京区の物件を、時間が空いた頃合いを見ては(足を使い)ぶらぶらと気楽な感じで探していた処、ふとした気まぐれで(文京区では無い)お隣の豊島区にある『巣鴨地蔵通り商店街』に立ち寄ったのが元々の切欠で、急転直下・見ての通りの内容に。

巣鴨地蔵通りを御存知の方は、今現在の世間的にはドウなのだろうか???少し前だとTVで紹介される事が大分多かった、所謂・東京下町の名所中の名所なのだが。小生は幼少~青年期に此の巣鴨地蔵通りの、まぁまぁ近くに住んでおって、よく遊び&買い出しに行っていたんですね(自宅から自転車で8分程だったと記憶している)。
当時の巣鴨地蔵通りは普通の本屋、古本屋、比較的大きいビデオレンタル店、ゲーセン等々と(其の時代時代のニーズに合わせた)お店がチョコチョコと合間に入っておって、小生の様な層の子供にとっても(まだまだネットの『ネ』も世間に知れ渡っていなかった頃には)重宝な商店街だったのだ・・・只、今現在の巣鴨地蔵通りはというと普通の本屋、古本屋、ビデオレンタル店、ゲーセン等々は全滅し、ほぼ全体が下町仕様に作られた奇麗な新店舗、飲食チェーン&コンビニ etc で固まった印象に落ち着いた・・・という処か(*昔は『まむし酒』の店とか古びた怪しい感じのが少し残っておって、古本屋も江戸時代以前の古文書も扱っておったり、埃を被っている位が真の魅力(?)という具合に、半ば和風インディ・ジョーンズ的(?)雰囲気もチョット有った商店街だったのだナ)。












・・・ソウソウ、古本と云えば(商店街の外れの方が中心ではあったが)一時期は古本屋の勢いが強く・・・(此処では詳しく書かないが)某有名な池袋~秋葉原のサブカル&同人&アパレル関連 etc の店舗、販売会社は、元々はというと此の商店街の外れ(正確に書くと外れの横道)で一軒の古本屋を細々と営んでいた事から始まっているのだナ。(さっきネット検索してみたのだが、此の話は他で一切無かった事になっている様)
拙者は二~三度位か?古本屋時代のソノ店に入った記憶があったのだが・・・ドウモ女の子が買う同人誌を高価買い取りしていた様で、其れ程広くない店舗はソッチ系の薄い本で犇めき合っている状態だった・・・今考えると『新古書店』形式の走りみたいなのを一店で遣っていたのだ。二~三度行った其の後は拙者の兄に紹介し、兄だけが向うと関わっていたのだが・・・(個人的には)あぁも波に乗って急成長するとは微塵も思わなかった。先の事は分からないモノで。(此れも 《他では誰も書かない?》 本商店街史の一つ)



・・・で、 “地蔵通り” と云うだけあって下町的な老舗の店舗は盤石に残っているのか?というと、実はそういう訳でも無く、TBS系で放送された2時間ドラマの舞台にもなり、地蔵通り・飲食店の顔的存在だった『東京すがも園 (Tokyo Sugamoen)』が2020年6月15日(月)をもって閉店してしまっている。
小生は此のすがも園の店頭で売っていた御土産品『開運 塩大福』(*塩大福は1パック5個で¥600 ← 此の価格は2020年の最終的に¥600だったという意味合いで記したのだが、小生の幼少~子供時代には¥500以下で、当初は¥430位だった記憶もあるのだが)~が大の好物だった・・・此の『開運 塩大福』は大サイズであり『開運』と謳っているだけあって、家族にお土産で買って行くと(当時ウチは5人家族だった事から)皆が必ず喜ぶ感じで、味の方は子供が食べても相当イケていた記憶が・・・まぁ、塩大福グルメという訳では無いのだが、此れまで食べて来た大福の中では、此の開運 塩大福の味が一番だったのかも知れん(ノスタルジー分評価が高目?なのかも)。

すがも園は何も塩大福だけを売っていた訳では無く、店内に入るとラーメン類やチャーハン、丼物、タンメン、五目ソバ、もやしソバ、広東麺、うどん、あんみつ、夏場はクリームソーダ etc の甘味物・・・~と主に麺類を中心としたメニューの食堂と成っていて、正に庶民の憩いの場という雰囲気を店舗で体現している感じだった。
↑ で触れた2時間ドラマ中のセットでは食堂内の其処を上手く再現されて・・・という感じでは(お世辞にも)無かったと記憶しているのだが。兎に角、本物の方は下町風に伝統あるイイ感じの店内の様相で、ウチの家族は何かあると食べに行っていた。・・・(コウイウ本題から逸れた食の話も、本記事内で少しは書きたく)



・・・話を又『巣鴨地蔵通り商店街』に戻すと・・・
巣鴨と一緒に “地蔵通り” と冠が付いている通り、お地蔵さん由来の云わば商店街全体が聖域へと誘導する形に成っていまして、中心は商店街ゲートから入って徒歩2分程で右側に見えて来る、『髙岩寺 (Koganji)』(通称:とげぬき地蔵尊 高岩寺 (Togenuki Jizoson Koganji Temple) (正式名称:曹洞宗 萬頂山 髙岩寺 (読み:そうとうしゅう ばんちょうざん こうがんじ 英:Sōtō school Banchozan Kouganji, 又は Sōtō-shū Banchozan Kouganji)))本堂に安置されている御本尊=(『とげぬき地蔵』という愛称で有名な) “延命地蔵菩薩 (えんめいじぞうぼさつ)” (英:Life-prolonging Jizō Bodhisattva (Enmei Jizō Bosatsu)) が全商店街の中心という事に成っています(*但し、此の延命地蔵菩薩は “秘仏 (ひぶつ)” つき非公開)。













延命地蔵菩薩の元々のルーツは、約370年前から長野県南佐久の古刹黄蘗宗(こさつおうばくしゅう)玉井山法城院に伝えられた地蔵菩薩で、昭和8年 (1933) に東京・文京区千駄木の『よみせ通り商店街』(よみせ通り商栄会)に移転し、其の後現在の豊島区巣鴨の今の形で安置・御祀りしているお地蔵様・・・という事になります。
此処で『とげぬき地蔵』『地蔵菩薩』etc の詳しいエピソードに関しては書かないが、高岩寺に参拝をすると、病(やまい)全般に対しての利益(りやく)があるとされ、現に21世紀に入って暫く経った今も、日本全国(近年では海外からも)参拝者が絶えない状況ではある。・・・因みに当の高岩寺・本堂は平成21年 (2009) 1月8日(木)に国の登録有形文化財に登録されている位なので、宗教・無宗教、仏教の宗派 etc に関係無く、足を運んで一見の価値は有る建築物ではあるのかナ?と。

・・・と、(長い前振りになってしまったのかも知れんが)外国人観光客が目立つ様になっていたり、昔ながらの店舗が消え去っている状況へと様変わりしておった『巣鴨地蔵通り商店街』に、今年6月末ブラブラとたまたま立ち寄った処、先に書いた通り『ますや玩具店』に繋がったという具合でして・・・

一部『第1頁』~本記事冒頭で書いた記事の内容と重複する部分があると思うのだが・・・確かに『ますや』は子供の頃に行っていて、御主人の北澤さんから話し掛けられたりと、若干のコンタクトはあったのだが、青年期には引っ越してしまい、その後は殆ど『ますや』に立ち寄る事も無かったのだ(*『ますや』は商店街の中でも奥の方に位置していまして、今考えると申し訳なかったと思っていますが)。
北澤さんが2メートルの精巧な戦艦大和の模型を一人で作り、其れが某落語家との関係でNHKの番組に取り上げられたとか、東映映画での話(事情により東映関連は此のスペースで詳しくは書かないが)、「ウルトラマン」の仕事は遣らなかった事や、某演劇の舞台での事等々、色々な話は今回(北澤さんの奥さんを交えた)取材している中で出て来たエピソードでして、其の中から『ゴジラの仕事はした』というのが本人の口から(チョットしたアクシデントで?)ポロリと漏れまして。

最初ソレを聞いた時『何作目のゴジラですか?』と反射的に訊き返したのだが、北澤さんが『一番最初の』と答えたので、『え!?1954年のですか?』と訊き直したら、北澤さんは平然を装っている風でも無く極々自然に『ソウ』と返事をした・・・と、事はソンナ軽い感じから始まり・・・まぁ、コッチとしてもイキナリの事で(話を聞いている身としては)意表を突かれ正に仰天の展開だったのだ。

北澤さんとサポートしている奥さんも同様なのだが、此方が考えている程までは映画「ゴジラ」に対しての想い入れが無く、要するに戦車&戦闘機の模型を提供した後は、東宝に全てお任せ状態だった・・・と、ソウイウ事らしいのだ(今回小生から話を切り出すまで、「初代ゴジラ」なんぞ 《なんぼのもんじゃい!》 という気概、念いもあった様で、表情を読んでいたら聊か忘れていた(?)様な感もあり)。
小生が『1954年制作の「ゴジラ」は世界的にも有名ですし、私個人も映画史に残る大変な傑作だと考えており』とか『北澤さんの制作した戦車&戦闘機の模型も、世界中のファンの間で語り草に成っていると思います』・・・等々と、実際に映画のスタッフとして参加していた北澤さんに対し、世代遅れのファンの此方の方から一生懸命「初代ゴジラ」の偉大さをアピールしてしまったという・・・

今考えてみると妙な対話の構図だったとは思うが、此の遣り取りが取っ掛かりとなり、『東京リアル・モデル探訪』第1回が「ゴジラ」+紹介するモデル(模型)店も『ますや玩具店』へと急遽差し換えになった次第。



PS:次の追記の予定は27日(金)の予定です。



≪2023.10.27 (金)≫

何故?小生が1954年制作の映画「ゴジラ」に対し、そんなに内的化学反応を起こすのか?というと、詳しくは本記事冒頭でリンクを貼った『第1頁』の方を読んで頂けると大分助かるのですが・・・只、此処で『第1頁』の内容を此処で要約するとすれば・・・此の「初代ゴジラ」が作られた時代性というか、同年に作られた黒澤時代劇=「七人の侍」も同様、戦後の一時代の映画は作品全体に通貫している『何か?』があり、其れは何らかのテーマ性というよりは、其の『何か?』が本質的に後に作られた時代時代のゴジラ映画Ver.とは明らかに違うのである。

小生が「初代ゴジラ」を初めて観たのは『第1頁』の ≪2023.9.3 (日) 追記≫ 内で触れた通り『たまたま』の思い掛けない、所謂 “事故” みたいなタイミングで、見始めた際はモノクロ作品という事もあって特に『あぁコレ観たい』『実に面白そう』という気持ちも全く起きない=積極的に観る気が120%無かったのだ(当時は子供だったので仕方が無い)。
只、TV地上波・午後の夏休み特別帯番組というのもあって、前日の常識的な(?)怪獣映画の後という事もあり、其の流れでも何となく続けてブラウン管を眺めていたら、中盤からイキナリ後頭部を鈍器で叩かれた位の衝撃を受けてしまった・・・と、ソレ位にインパクトのある作品だったのだが。
後にも先にも此の様な怪獣モノ体験は無く。・・・其れというのも、「初代ゴジラ」という作品は他の怪獣映画のテイストとは間違いなく異なる、後になってから(年齢が増す度に)ジワジワと感慨が強くなる不思議な作りに成っており。

因みに同時期(「ゴジラ」という作品に最も影響を与えたとされる)アメリカ映画「キング・コング (King Kong)」(1933) も(「ゴジラ」の前か後だったかは忘れてしまったケドも)同じくTV放映での鑑賞が初で観ていて、此方は此方で子供が観ても大変楽しめる怪獣映画の大傑作なのだが、日本の「初代ゴジラ」は「キング・コング」の21年後に作られ全く次元の異なる進化を成し得た・・・というか、本質的には理屈では無い『何か?』が、日本発の怪獣映画の元祖にある種の化学変化を起こしており。

『第1頁』の ≪2023.9.7 (木) 追記≫ でも書いた領域で、其の続きではあるのだが、「キング・コング」が怪獣映画という名を借りた裏 “恋愛映画” だというのは(他方・過去多くの評論家の解釈と同じく)恐らく制作サイドの意図、大きな柱として考えられていたのは明白で、恐らく「初代ゴジラ」も其の方向でも「キング・コング」のポールをやや(?)踏襲していると考えるのだが・・・只、日本が生んだ「初代ゴジラ」の方は(偶然にも)制作直前の1954年3月1日(月)(現地時間では2月28日(日))に『第五福竜丸事件 (Daigo Fukuryu Maru Incident)』(*北太平洋の赤道域にあるビキニ諸島での米・水爆実験により、現場から160km東で操業中だった日本の『第五福竜丸』が被ばくした事件)が起きた事もあり、≪2023.9.7 (木) 追記≫ で載せた通り ⇒ 当時の社会問題である “核” “科学” を交えた恋愛映画へと変貌した形跡がかなり見えて来る。

制作の経緯を考えると、多分「キング・コング」が無かったら「初代ゴジラ」は生まれて来なかったのだと思うが、此の偶然にも時期が重なった『第五福竜丸事件』(劇中冒頭にも事件を模したシーンが出て来る)に重点を置いた点は見事で、其れに恋愛映画のテイストとサイエンスとを交えた方向というのは(当時の作品として)考えられない程、至極高度に練られた “未来的な” 発想によるモノだと。
『第1頁』の ≪2023.9.3 (日) 追記≫ で載せた「初代ゴジラ」主演の宝田明が生前言っていた通り・・・『世界に向けて核廃絶を本当の意味で宣言できるのは、唯一の被爆国である日本しかない。その思いを込めて「ゴジラ」を作った訳です。ゴジラは単なる怪獣映画ではないんですね』・・・という発言を残した意味合いは大きいし、当の作品自体が当時で云う近未来 ⇒ 正に今現在、21世紀におけるリアルタイムでの日本~世界の社会情勢を読んでいたかの如く、まず “核” “科学” から斬り込むに至った点も大変興味深い。
多少大袈裟かも知れんが(当時・偶然にも偶然が重なったとは云え)『大きな時代性によって作られた』+しかも『次の時代を読んだ高度な先見性』も有り・・・という側面も見受けられ、宝田さんの言われていた通り『ゴジラは単なる怪獣映画ではない』~の名言は全く以て間違いなく、(個人的には)其れに加え今現在観返してこそ意味のある作品と成っており・・・イヤ、本作は間違いなくフィクションであり、世間的には高尚なジャンルとは思われていない怪獣モノ&子供が多く観る特撮作品である事も間違いないのだが、「初代ゴジラ」だけは例外中の例外で、リアルな現実世界を巧妙に抽象表現している、ある意味では『映画を超えた映画』なのだと。



先に(「初代ゴジラ」は)『大きな時代によって作られた』と表現したが、恐らく監督した本多猪四郎や、特撮部分の監督を担当した円谷英二が当初想定していた以上に崇高に仕上がっていると思われるのだが・・・今観返すと冒頭の「ゴジラ」の大タイトルからスタッフロール+出演者の列挙(当時は全て手書き) ⇒ 水平線をバックに『終』のロゴが迫って来るラストまで、娯楽映画と云うよりは完全にアートの領域で、劇中で繰り広げられている内容はというと 《哲学》 & 《科学》 と人間との相関関係が主に語られている。
円谷監督による模型&ジオラマで再現された東京の情景を観ているだけでも『・・・』と言葉が無くなる程なのだが、此れも当時の時代だから可能だった、真に迫る造形美だったのだと思う。

本多猪四郎は「初代ゴジラ」後もゴジラシリーズを撮り続け、第15作「メカゴジラの逆襲」(1975) を最後に東宝を退職し、此れを契機に(劇場用映画に関しては)監督業も引退してしまう。其の後は ↑ でも触れた黒澤明が監督した「影武者」(1980) で監督部チーフ、「乱」(1985) と「夢」(1990) と「八月の狂詩曲」(1991) と「まあだだよ」(1993) の4本では演出補佐を担当し、旧友を支える形で黒澤組に参加した。

第33回・カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した「影武者」の際にはこんな裏エピソードがある。黒澤から本多に対し『監督を共同表記にしよう!』という(滅多に無い)提案が直々にあったらしいのだが、本多は此れを辞退している。よく無冠の巨匠と称される本多なのだが、黒澤映画の補佐に徹したのだから(共同監督に相当する其れだけの働きをしていたとしても)『それは出来ない!』と身を引くという、本多の人柄が偲ばれる美しいエピソードで、同時にゴジラという大傑作を生み出した張本人らしい英雄譚だと。

「影武者」という作品は無上に素晴らしいのだが、「影武者」の話をし出すと記事が相当長くなってしまう恐れもあり、此処で締めまして・・・此れからピックアップしたいのは1990年制作の「夢」というオムニバス作品で、本多は映画「夢」で先に書いた様に演出補佐を担当。
映画「夢」は日米合作のハリウッド映画で、オムニバスの構成は「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の全8話から成り、更に其の中からピックアップしたいのが第6話「赤富士 (Mount Fuji in Red)」。

当処では毎年歳末~新年に『年越しクリスマス』というWeb上の催しを遣っており、其の中で映画「夢」の第6話「赤富士」の解説を少し長めにしていたのですね。
先の『年越しクリスマス』は2022年12月3日(土)夜から始めて、「赤富士」の話は明けて今年の2023年3月26日(日)~3月31日(金)の追記内で書いていまして・・・

https://www.mmjp.or.jp/gigas/GIGATALK-2022AWARDS-ANTHOLOGY

https://www.mmjp.or.jp/gigas/GIGATALK-2023AWARDS-ANTHOLOGY

更に其の中の ≪2023.3.30 (木) 追記≫ 内で・・・

《 ・・・只、実は映画「夢」では初代・ゴジラを監督した本多猪四郎が演出補佐(という役職で)参加しており、正式にクレジットもされている。・・・因みにメイキング映像では初代・ゴジラ好きのマーティン・スコセッシ(第5話「鴉」で「フィンセント・ファン・ゴッホ」役として出演)が、撮影現場で本多監督に会えて喜んでいる様子が見られる。

映画「夢」で本多監督は何処まで任されていたのか?極秘扱いの処が多いので正確な記述が出来ないのだが、どうも実質的な第二班の撮影と、特撮シーンの演出は完全に任されていたとの事らしい。
本多監督は1985年の前作「乱」でも演出補佐として黒澤監督を支えたが、映画「乱」における一の城・炎上のシーンでは屋外に巨大で精巧な城のセットを作り、本多監督が単独でメガホンを取っていた(此方はメイキングが公開されており、確証の取れた情報)。

其の際、黒澤監督は本多監督に完全に任せ、撮影現場にも一切立ち会わなかったとの事なので、恐らく映画「夢」第6話「赤富士」のオプチカル合成 (Compositing) ではない模型個所と、エキストラの避難シーン etc も本多監督が演出したと睨んでいる。(富士噴火時の効果音の使い方 etc ド~~モ怪獣映画の臭いがプンプンしとるので) 》

・・・と、本多監督に纏わる他方では書かれていない(多少)大胆な推察をしていた事もあり、今年6月末にフラフラと特に用のない『巣鴨地蔵通り』に足が向き、「初代ゴジラ」特撮スタッフの一人であった北沢さん(*此の件は ↑ で書いた様に6月末まで全く以て知らなかった)が営む『ますや玩具店』に久々立ち寄ったというのは、何とも偶然過ぎる偶然で。
・・・此れだけでも客観的にかなり奇遇(不思議なめぐり合わせ)な体験なのだと思うのだが、更に奇遇な話を書いてしまうとすれば、2022年11月~明けて今年の2023年5月まで当総合TOP頁のコーナー=『ホットフォト』で映画「七人の侍」の連載を半年遣っていまして・・・

因みに ↓ はBBSで残しておった『ホットフォト』更新記録。

https://gigas1.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=11810020

https://gigas1.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=11846547

「七人の侍」は ↑ で触れた様に「初代ゴジラ」と同年公開(「七人の侍」の日本国内での劇場公開が1954年4月26日(月)。「ゴジラ」は1954年11月3日(水)公開)であり、監督は云うまでも無く世界の黒澤明。正しく映画「夢」を作り上げた布陣であり。 此の『ホットフォト』コーナーで邦画を正式に扱ったのは「七人の侍」が初だった事も有り(*忘れていたのだが、今調べたら邦画だと過去2019年5月~同年8月のまだまだホットフォトが試験段階の頃に「初代ゴジラ」だけ1本取り上げていた)此れだけ偶然が重なると、内心(僭越ながら)『本多監督にあの世から先導された?』と感じた面もあったのだが・・・

何はともあれ、本新企画『東京リアル・モデル探訪』を発進させる原動力と成ったのは「初代ゴジラ」であり、よくよく考えてみると、暫く前から(本企画を)遣る事が決まっていた気もして来る(ウチは映画分野の中でも比較的 “旧作” を扱う事が多いので、ある意味で逆に選ばれた?)。

・・・まぁ、↑ ≪2023.10.17 (火) 追記≫ で触れた様に、当初他の作品+店舗を扱う事で(準備も完全に整った状態で)ほぼ決まっていたのを、いささか強引に進路変更を余儀なくされた感もあるのだが、此れも『運命(さだめ)なのだろう』と、ちっとも逆らう事無く素直に従いまして!(苦笑)・・・
・・・で、唐突に此処で今後の予定なのですが、既に2023後期・ウェブアワードの選考に入っており、今は其方の方に専念したく。・・・ですから、(此れ以下の)本記事・追記をUPするスピードが少しの間干満になります・・・まだ本記事が終わった訳ではありませんので(気長に御待ち頂ける様)何卒ご了承下さい。



PS:次の追記の予定日は決まり次第ココに表記します。



≪2023.11.17 (水)≫

少しの間(?)記事の更新を中断してしまい、申し訳ありませんでした。
現在(先にも書きましたが)映画ウェブアワードの選考に入ってしまいまして、年末の師走前からウチでは何かとバタバタしております。

11月15日(水) 午前中に第19回ウェブアワードのコンペティション部門ノミネート12作品を発表致しました。ウェブアワードの開催は(今の処)12月下旬を予定しています。
ノミネート作品は本日から開催日まで数作を順次(同頁にて)リストに足す形で増やしていきますので、↓ 頁を時折覗きに来て頂ければ・・・と思っています。

https://www.mmjp.or.jp/gigas/frontier/movie-award2023b


ジャンルはファンタジー&ホラー etc で、劇場用・劇映画に限定。今年の前期と後期はジュディ・ガーランド生誕100~101周年記念という事で前代未聞の(?)ミュージカル映画大特集を進行中なのですが、前期は7月開催でミュージカル×ドラマ作品だった事もあり、後期のファンタジー&ホラー特集は(同じミュージカルといっても)180度異なる趣向に成ると思います。歳末の開催をどうぞ楽しみにして下さいませ。
・・・と、本記事の『東京リアル・モデル』、1954年の「ゴジラ」と全く関係のない話題を書いてしまいましたが(中断した理由を書かなくてはイケナイと思い)・・・

今年の後期アワードは毎年恒例の歳末~新年に催している『年越しクリスマス』内で開催の予定で、此の “年越しクリスマス” という企画は10月の段階から準備に入らないと間に合わない処もありまして・・・まぁ、色々此の時期は大変なのです(^^;)。

本記事は元祖ゴジラで進行中という事も有り、此処まで読んで下さった方向けに(少し早目ですが)今年のクリスマス・カードを特別先行公開しておきます。↓

https://www.z-z.jp/imgur.cgi?i=wHGTzqv.jpg
https://www.z-z.jp/imgur.cgi?i=vrdOJPj.jpg
https://www.z-z.jp/imgur.cgi?i=LX5csWU.jpg

後半2枚はゴジラというより、見様によっては(何だか)メカゴジラ風な仕様ではありますが、イルミネーションのテーマは “メカゴジラ” では無く正真正銘 “ゴジラ” が祝したクリスマスという事で、(下2枚は)映画フィルムで形作られたツリーに『どすこいッ!』~としているという、映画界から生まれ大スター=怪獣王・ゴジラらしく(?)映画愛に溢れたクリスマス・カードと成っています。

2024年は辰年ですので、新年の年賀状もゴジラで続けて行きます。



PS:次の追記の予定日は決まり次第ココに表記します。



≪2023.11.22 (水)≫

此処からは『第2頁』のラストスパートになるのですが、本記事冒頭 ↑ ≪2023.10.3 (火) 追記≫ の話に戻りたく。

1954年制作の「初代ゴジラ」に登場していた戦闘機、戦車の模型を制作していた北澤輝之に関連した話なのですが、北澤さん主宰の『東京コンドル・クラブ』時代&北澤さん若かりし頃&ミニSL(蒸気式レールトレイン (Steam Rail Train))に乗っかって御満悦な北澤さん etc ... の貴重な御写真を提供して貰いましたので、早速 ↓ でUPします!。









↑ 画像の『東京コンドル・クラブ』時代の写真は基本的にラジコン飛行機の『Uコン大会』時のモノなのですが、中に一枚『ラジコン・ボート大会』時のモノも混じっています。
ラジコン・ボートの方は、文字通りラジコン飛行機専門の『東京コンドル・クラブ』の延長線上で開催されていた様であり、北澤さんの今は亡き息子さんが大会に出場し優勝していたという(特別な想い入れもあっての)事でした。本頁でもコラージュの内ではありますが特別扱いで混入させましたが・・・

こういったミニチュア・サイズの飛行機、ボート大会は写真の通り盛況で、大会の趣旨としては今で云うミニ四駆 etc 人気の走りだったとの見方も出来るかと。
本記事の大元であるタイトル『東京リアルモデル(探訪)』というのも、今の時代に “実体の有るリアル方向を探求する” というのが裏テーマなので、(疑似ではあるのかも知れぬが)戦後の大衆娯楽=モデル(模型)文化が、こういった大きなライブ感の在るイベントから再出発していたのは、かなり意義があったと感じている。



PS:次の追記の予定日は決まり次第ココに表記します。



≪2023.11.23 (木)≫

北澤さんと奥さんは1954年から『ますや玩具店』をスタートさせたのだが、当初『ますや』は『飛行機屋』という愛称もあり、↓ の『ますや』関連の画像を見て頂いても先に触れた『東京コンドル・クラブ』からの名残りがあるのが解ると思う。









奥さんからの話によると、ラジコン飛行機のUコン大会には開催可能な広い敷地を、短期でも完全に押さえる必要があり、電波法の改正 etc 色々なマイナス要因が重なり、徐々に各団体の解消状態になっていった・・・という事なのだが、要は次の時代に移ったという事なのだろう。

Web上においては他で殆ど語られていない様なのだが、秋葉原の『ラジオ会館』『東京ラジオデパート』等々、『ラジオ』と名が付く関連のコンテンツ、etc の由来は主にラジコン、無線機系列の領域をルーツとしており、実際、戦後ラジコン業界の拠点は(『東京コンドルクラブ』後の流れになるのだが)主に秋葉原であった。(云うなれば)アキバ文化の原型というか、発端&ルーツは東京コンドル・クラブの様な有志の会に在ったと云っても過言では無い・・・という訳なのだナ。

まぁ、『ラジコン (Radio Control)』のままでは分野が狭まるので、何処かの時点で『ラジオ』や無線関連全般から発祥したという、どうとでも取れるアイコン(記号)に着地させた人間がいて、秋葉原は別に『ラジオ (Radio)』機器発祥の地という訳でも無く、特にラジオのパーツ販売、修理で広く知られていた訳では無かった(*一部ユーザーや専門家の間では秋葉原高架下に、電子部品の販売がされていた事が知られていて、露店商、闇市から始まったと考えると古くから在るのだが、正確に書くとすれば、特に全般としてラジオ(又は鉱石ラジオ)専門の展開という訳では無かった)。

・・・であるから、場合によっては『ラジコン会館』『東京ラジコンデパート』(長い?)等々 ... と、秋葉原の様相も今と少し異なっていいた可能性もあったという事で。



PS:次の追記の予定は12月3日(日)の予定です。



≪2023.12.3 (日)≫

11月30日(木)に当サイトでは毎年歳末恒例の『年越しクリスマス2023(歳末版)』をスタートさせましたので、宜しければ覗いてみて下さい。↓

https://www.mmjp.or.jp/gigas/tokyo-real/2023AWARDS-MUSICAL


昨年からウェブアワードと連動して仕様が大分変わりましたが、基本はブログ時代からの筋道を踏襲していますので・・・まぁ、ブログ時代も歳末にウェブアワードの話題はしていたと記憶していますが、昨年からはモウ少し強めに『映画祭』としての要素を+した・・・と、ソウイウ事でして、詳しくは ↑ URLの記事内で説明していきますので、其方を読んで頂ければと。

当『東京リアル・モデル探訪』という企画は、先ず仕様を見て頂ければ明々白々なのだと思いますが、ブログ終了後に臨時的に(要するに当初は『仮に』という事だったのだが)やむなく急遽発進させた『年越しクリスマス2022~2023(特設版)』を源流としておる理由から、切っても切れない間柄なのであり・・・何故?『東京リアル・モデル探訪』が出来たのか?を深く理解する為には、昨年末から再スタートした『年越しクリスマス2022~2023(特設版)』の全2頁の全文をチェックして貰うのが何よりの早道かと。



此処で話を又『ますや玩具店』に戻して・・・

此の玩具店は御主人の北澤輝之さんと、サポートしている奥様の北澤順子さんの二人三脚で69年間の此れまで続けて来て、北澤さんは職人肌で口数が少ない分、奥様の順子さんの内助の功が素晴らしく、今回取材していても奥さん無しでは(本記事自体が)成り立たなかった程の貢献度で、内心『あぁ、此処は奥さんの人間力が相当強いのだナ』~と一日目で『ビビッ』とハッキリ気付いた。

何しろ北澤さんはマスコミの取材に殆ど対応しないらしいのだ。奥さんからの話によると、今回ウチで直々にインタビューさせて貰えたのが(かなり)珍しいらしく、他メディアからの写真撮影も本人から必ずNGが出るという具合で、此の記事の様な形にOKが出たという事自体が尠からずレアという事らしい。
此処までの本記事を全部読めば、日本国内のエンタメや模型&ラジコン etc 業界に対しての北澤さんの貢献度は(かなり)高いのが解ると思うのだが、Web上で殆どと云ってイイ程『北澤輝之』の名が挙がって来ないのはその為で、要するに(大袈裟にでは無く)正真正銘・本物の生ける伝説の人物なのであるという事なのだが・・・

因みに世間、所謂・業界全体で『ますや玩具店』が完全にアンタッチャブルで、スルー状態なのか?というと、全くソウイウ訳でも無く(巣鴨地蔵通りに店を構えているという事もあり)今も有名人が時折店に訪れる。↓







↑ 画像は左から俳優の志垣太郎、元SMAPの香取慎吾、ネプチューンの堀内健(ホリケン)、くりぃむしちゅーの有田哲平 etc 。

・・・此方も貴重な御写真をお借りしまして(本邦初公開で)掲載させて頂きました。・・・イヤ、香取慎吾の写真は某・雑誌に掲載された際のカラーコピーで、堀内健&有田哲平はTVバラエティー出演時の画面をカメラで撮影した写真らしいので、此れらは本邦初公開と云っても『Web上では初』という注釈付きにはなりますが・・・恐らく昨年2022年3月5日(土)に心不全で亡くなった志垣太郎と奥さんとのツーショットの生写真(フイルムからプリントした写真の事)だけは正真正銘・メディア初公開に成るかと。

他にも数々の元ジャニーズ歌手やら、アンガールズの田中卓志、TV時代劇「新・必殺仕事人」(1981) からの必殺シリーズで三味線屋の勇次を演じた某・俳優の話やら etc etc ... 各エピソード付きで有名人の面白い話を色々と伺い(掲載の許可も頂いたのだが)此の辺を書いていくと長くなっちゃうので(記事の趣旨と異なる為)割愛しますが・・・

中でも私めは偶然にも(個人的に)子供の頃からの志垣太郎ファンだった為、本写真を拝見した時は『!!!』と物凄く驚いた。奥さんも以前から志垣太郎が大好きだったソウなのだが、其の大好きな本人がアポイントメント無しに突然来店し、例の声の調子で『写真を一緒に撮りましょう!!』~と、『パッ!』と来て『パッ!パッ!』と(*何も買わず?)風の様に去って行ったとの事で、来店した有名人の中でも著しく印象が強かった様。

UPした画像を見て貰えれば解ると思うのだが、有名人との写真に写っているのは全て奥さんで、当の北澤さんは全く写っていない!(苦笑)。事程左様に以前から役割分担がハッキリしているとの事。
奥さんは頭の回転が物凄く早いし、店内で取材している最中も(御客が来ると)即座&機敏に客対応に走っていくという具合に、実にフットワークが軽いので、一人で何人分の働き+有名人に対しての対応も手慣れた感じと見受けられた・・・

更に+して、(本来は此の方面が一番重要なのかも知れないが)おもちゃ業界や映画・アニメーション関連、昨今の時事問題 etc etc ... に関しても相当詳しいので、雑談雑じりに話していても此方が舌を巻く程。

・・・傍から見ると、奥さんの内助の功があってこその『ますや玩具店』というのが、物凄く解ったというのが今回 “最大の取材成果” だったのかも知れないが。



PS:次の追記は15日(金)にUP予定。



≪2023.12.15 (金)≫

↑ ≪2023.10.17 (火) 追記≫ にコラージュ仕様で『巣鴨地蔵通り』を紹介した画像をUPしたのだが、其れを奥さんにWeb上でチェックして貰った処『コロッケのコロッケは美味しいのヨ』~とおっしゃいまして・・・

此の方面の業界に疎い方には『???』なのだと思うのだが、(最初の)コロッケとは『ものまねタレント』のコロッケさんの事で、彼プロデュースのテイクアウト専門店=『コロッケのころっ家/巣鴨地蔵通り店』がコロナ禍真っ只中の2021年12月20日(月)から商店街に参戦しており、奥さんは暗に其の『コロッケのころっ家』がコラージュ内に入っていない・・・という事を指摘したのだった。

まぁ、実は最初10月17日のコラージュを作成した時、私めは(個人的に)『コロッケのころっ家』に対しあまりイイ印象をもっておらず、特に店のイメージキャラクターとして設置されている、岩崎宏美さんの “悪意ある” 顔マネは(ジョークとしても)かなり酷いと憤慨しておったのだナ。
・・・であるから、当然ながら『コロッケのころっ家』はコラージュ内に入れるべきではない!・・・と判断しての事だったのだ。

『更に』なのだが、私めは(実は)歌手としての岩崎さんの随分前からのファンでありまして、元々芸能人・コロッケ本人に対して良い感情を持っていなかった・・・のだが、まぁ・・・しかし、奥さんが言われている通り『コロッケのころっ家』は商店街の中でも大分好調の様で、ご主人の北澤さんも『九州仕立ての薩摩芋コロッケは美味い!』と持ち上げている事もあって(岩崎さんには大変申し訳ないのだが)追加で差し込んだコラージュでは『コロッケのころっ家』も商店街の “顔” の一つとして加える事にし、現在では画像で見る事が出来ます(興味のある方はコラージュ内のコロッケ屋を探してみて下さい)。

やはり、此のコラージュは商店街のありのままな様相を顕した(グラフィックデザインの)方向なのであって、(私めの)私情(?)は可能な限り(?)を挟むべきではない・・・と。此のグラフィックはある意味で古きモノと新たなモノ、伝統と未来(テクノロジー)、多種多様な文化が入り混ざった混沌を顕すのが趣旨でもある訳で、元から『コロッケのころっ家』を外してはいけなかったのだ。(*しかし、出来たら岩崎さんの顔マネ・キャラは止めてほしいのだがナァ…という意味も含めて此処の文を書きました)



PS:明日16日(土)も此の続きを書きます。



≪2023.12.16 (土)≫

コウイッタ日本国内の芸能人関連の話を(柄にもなく?)書いているのは深い理由(ワケ)があって、地蔵通りと芸能界とは切っても切れない深い深い関係があるだナ。

古くはもっとあるのだろうが、比較的近年の話題になった有名人&芸能人×地蔵通りの話を書くとすれば・・・先ず、漫才師の春日三球が1989年5月18日(木)に『健康肌着の店/春日三球の店』という今で云うスリーマー、女性下着を扱った店舗で商店街に参戦している。
店舗のキャラクターや宣伝の巨大看板には山藤章二による似顔絵が使用され、一時は山手線の巣鴨駅ホームから山藤章二・画の大看板が見られた位なので、かなり盛況だったと記憶している。かつて 《ババシャツ・ブーム》 というのがあったのだが、当時TV等で紹介されていたのは主に此の『春日三球の店』だった(当の春日三球は今年5月17日(水)に死去している)。

正確な時期は分からないのだが、80年代の一時期にプロレスラーのアントニオ猪木が現役時代(副業で)経営していた『アントンリブ』という、スペアリブ専門店を此の商店街に出店していたのだが、此方はあんまり上手く行かなかった様で、短期の運営で撤退している。
・・・只、本店は六本木にあったとの事で、東京以外でもチェーン展開されていたソウだから、此方で思っていたより当たっていたのかも知れないが・・・巣鴨の『アントンリブ』は『ますや』の近くに出店していた事もあり、当時・時折様子を見に行っていたのだが、いつ行っても殆ど客が来ている感じが無く、開店時から閉店するまで閑古鳥が鳴き捲っていたと記憶している(開店時も猪木本人は来なかったのではないのかナ?)。
そんな鉄人・アントニオ猪木も昨年10月1日(土)に死去。

今や地蔵通りの『赤パンツ』『赤い下着』 etc と云えば大分有名だが、其の『赤いシリーズ』を売り出した最初の頃は其れ程でも無く、今の様に全国的に知られる様になったのは女優の藤原紀香がテレビで紹介した事が切欠とされている。
何でも当時の藤原紀香はいつも赤いショーツをはいていたとの事で、2009年1月2日(金)にフジテレビ系で放送された番組『新春大売り出し!さんまのまんま』内では、当時の夫・陣内智則にも “赤いパンツを20枚くらいプレゼントしちゃった” ~と臆面も無く公言しており、少なくとも此の頃まではマイブームが続いていた様だ(今現在はドウなのか?昨今の藤原紀香・情報が全く出て来ていない様なので分からないが)。
何でも赤いモノを身に付けたり持っていると 《幸運が訪れる》 《病が去る》 と祖母に教わったとの事で、ドウモ(その時期は)風水にかなり凝っていたのも相俟って、熱心に『赤』『赤』と発信していた様である。

本商店街は映画やドラマのロケ地としてもよく利用されており、私めが子供の頃初めて直に見たロケは(此処でたまたま行なわれておった)テレビ朝日系のドラマ「あばれはっちゃく」シリーズ第1弾=「俺はあばれはっちゃく」(1979) の撮影だったのだから(苦笑)よくよく考えてみると、あの偶然出会した見学の体験が色々な意味合いでのファーストだったのかも知れん。
当時の商店街は今よりも下町色が濃かったので、監督:山田洋次&主演:渥美清の寅さんシリーズのロケ地としても違和感は無かったと思うのだが、其れも其の筈、記念すべきシリーズ第1弾の映画「男はつらいよ」(1969) 初の啖呵売 (たんかばい) シーンは他でもない地蔵通り商店街(正確に書くと、現在における『高岩寺』敷地内の位置)で撮影されており、正に48作、26年間も続いた長期映画シリーズ=「男はつらいよ」という映画作品は此処から始まったと云っても過言では無く(*『アントンリブ』の様な例もあるが)有名人&芸能×という形ではホント・強力なパワーを秘めた(?)大変縁起の良い地なのだろうと。



・・・と、有名人&芸能人と地蔵通りの話を書いていくとキリが無いので、此処で止めますが・・・。
本記事自体はモウ少し続く予定なのですが、事情で年内は此処までとし、続きは年明け=2024年1月中旬~下旬に再開します。何卒ご了承下さい。

年内は ↑ ≪2023.12.3 (日) 追記≫ でお知らせした『2023年越しクリスマス (歳末版)』の記事 etc に専念しますので、もし宜しければ(総合TOPを含めた)其方を覗いて下さい。












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