★ 映画・アニメーション データファイル主催のムービーアワード、2023前期グランプリ&各賞が2023年5月10日迄の集計により、5月27日発表となりました。
今回は「歴代ミュージカル映画」「ジュディ・ガーランド生誕100周年記念」をテーマに選出。詳しくは本賞頁をご覧下さい。 |
今回スタートするこの企画は(実は)かなり紆余曲折がありまして、大元の発端は大分以前からになるのですが・・・ ・・・というのも、暫く前からウチの周辺(タイトル通り当事務所、自宅は都内に在るのですが)の模型、おもちゃ関連 etc 系専門店の閉店が相次いでいまして、此れはドウモ東京だけの現象という訳では無く “全国規模” という事らしく、イヤ、此処であえて細かく説明しなくとも、模型、玩具 etc 関係がお好きな方なら近年お気付きの方は多いと思います。 世間で比較的よく載るニュースで『本屋の相次ぐ閉店』という方向はそれなりによく目立つのだが、コッチの『模型、玩具関連 etc 系専門店の相次ぐ閉店』~となると今や世間では殆ど話題にも上がらない(?)始末なので(閉店が当たり前の様な印象で、ニュースを流す側であまり関心が無くなったのか?)事の経過をつぶさに見守って(?)来た身としては『此れは不味い事になるナ』と前々から受け止めていまして。 此の話はあくまでリアル店舗の話で、ネット通販のバーチャル店舗では模型、玩具関連の流通は健在で、ある種の《商売として問題が無いのなら良いのでは???》という考えも十分理解出来得るのだが、問題は町中にある庶民の文化としての模型店の話・・・という事なのであって、リアル店舗だったからこそ子供同士での実のある交流も出来たし、やはりスケールの質感等々、実感が掴める情報交換の場、社交の場 etc etc ... の灯が国内全体で消えてゆくというのは “日本文化にとって”と大袈裟に括りたくなる位に、あまりにも損失が大きいのではないのか?と。 ☆ 小生の拙い子供時代の話を書いてしまうと、主に男の子は大体プラモデル作りが趣味の一つ、又は同世代以前なら伝統的にも手作りで何らかの工作をするのは日常の当たり前で、こういう手探り&創造的な遊びで育った子供は自然に手先が器用と成りまして、全般的に立体的に物事を捉えるクセ、柔軟な発想も備わったという・・・かつて日本人が得意としていた良い意味での(先端テクノロジーの礎となった)繊細であり応用の効く技術、又は職人的な文化の基礎を築いた一端として、此の子供時代の《コウイッタ遊戯という形での》多彩な “ものづくり” 体験が大変重要だったのではないか?と昨今強く考えるに至り。 これからの新世代にとっては、出発から『バーチャル』『PC』『スマホ』方向に特化した発想というのも一つの手なのかも知れないが、個人的にはこうした手作業での工作等々におけるリアル体験がワンステップ、ツーステップ・子供時代に『有った』『無かった』では、大人に成ってからの差が大分生じてしまうと(周辺を見渡し&実体験からも)感じている次第で。 要するに・・・例えば(些細な事かも知れないが)鉛筆は電動鉛筆削り器を使うのでは無く、出来たら面倒でも直接手で(カッターを用い)削るとか、何事も(リセットして)1からReスタートする事が今の時代重要なのであって、バーチャル etc 応用の方向は其の後からでも遅くは無いという事なのだが・・・まぁ、初期の頃はパソコンも組み立て式で創意工夫が必須な処があって、インターネットも黎明期には工作の究極 ⇒ 延長線上的な感覚、発想があったのだが。 只、こういった文化は一旦消えてしまうと復興するのが非常に大変で(何しろ、先に書いた通り国内でリアル店舗が急速に消えていっている状態で)、恐らく世間を小生の子供~青年時代の状態にプレイバック(再生)させるのは、常識的に容易では無いのかナ?と考えたりもしている最中なのですが・・・(此処で冒頭に話が戻るのだが)さて、ウチとしては何から始めればイイものか?と長期間考えあぐねていたのですが、ある事が切欠で大きく事が動きまして、この企画をスタートさせる環境が整ったんですナ。 ☆ 昨年8月に長年続けて来たブログ書きの作業が諸事情で(一旦)一区切りとなったという事もあって、次に纏まった文章を載せる企画を・・・と色々考えている内に、既に一年経ってしまったのだが。 只、其の間何も遣っていなかった訳では無く、纏まった文章関連では『年越しクリスマス』と『オムニバス映画祭』の合わせ技で2022~2023・年末年始遣ったという事もあったのですが、其の2023年3月26日(日)~3月31日(金)追記の『赤富士』に関して色々な解説を載せた際、1954年制作の初代・ゴジラを監督した本多猪四郎と、本多監督が監督補佐で参加した1990年制作 黒澤明・監督作のオムニバス映画「夢」(2022年度・第17回ウェブアワード・グランプリ作品)との関係を書いたのが、本企画に点火させる本当に奇妙な(?)縁と成りまして・・・ https://www.mmjp.or.jp/gigas/GIGATALK-2022AWARDS-ANTHOLOGY https://www.mmjp.or.jp/gigas/GIGATALK-2023AWARDS-ANTHOLOGY 実は近頃、私めが以前住んでいた地域(東京都・文京区)辺りにお引っ越しをする計画が立ち上がって来ていまして、暇を見つけては当地の物件を色々見て回っていたのですが・・・そのついでに、何とはなしに子供時代よく行っていた(文京区とは隣の区の)商店街に寄ってみた処、昔馴染みの模型&玩具店が一件だけ《昔の雰囲気で》そのまんま(時が止まっていたかの如く)残っていたんですネ。・・・今年の6月下旬の話。 その模型&玩具店と初代ゴジラ、本多猪四郎・監督との接点については追って書いて行きますが、兎に角、本企画の第1回を踏み切る切欠に至ったのは、偶然此の商店街に立ち寄り取材したのが起点であり、それは只の商店街では無く、昔馴染みの下町情緒あふれる商店街の地であったというのが、何とも偶然の上の偶然で。 日本国中・記録的な猛暑の中でのスタートとなりますが、残りの記事は過去の当ブログの形式を踏襲し、本頁内で不定期に年末まで追記して行きますので、ドウゾ宜しくお願い致します。(2023年8月24日(木)) https://www.mmjp.or.jp/gigas/movie/pocket1 ☆ ≪2023.8.30 (水)≫ 何故・本企画の記念すべき第一歩=第1回目が1954年制作の「ゴジラ」なのか???という事は・・・この先を読んでいけば解る様に(勿論)していきますが、ブログ時代にも前々から書いていた様に、「ゴジラ」と冠が付いた作品は数多くあれど、私めの考えとしては此の「初代ゴジラ」こそが必見なのであって、怪獣・モンスター映画史・・・イヤ、オールジャンルの映画史として世界中の洋画を入れた中でも “重要な一本” だったのだと事あるごとに云って来たつもり。 只、周辺で初対面の映画ビギナーの層に『映画で一番目に作られたゴジラ観た?』と訊いてみると、97%が『観ていない』と答えて来る感じで、残りの3%も初代ゴジラの容姿を断片的に散見している程度で、ドウモ映画本編・97分全てを観たという訳では無いのだろう。 此の反応は(個人的には)日本国内で結構~非常~に悲しい現状で、今や初代ゴジラに関してはアメリカや海外の映画ファンの方がよく観られている様なのである。 此れにはドウモ深い理由があるらしいのだが、趣旨が異なるので(其の『ワケ』に関しては)此処で詳しくは触れませんが・・・ 兎に角、初代ゴジラが制作された1954年は邦画界にとって当たり年で、昨年から今年にかけて当総合TOP・ホットフォトで連載した「七人の侍」の公開も此の年だった。 ・・・因みに此の年の邦画・興収ランキングはというと第1位は大庭秀雄・監督の「君の名は 第三部」、第2位は大曾根辰夫・監督の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」、第4位は萩原遼・監督の「新諸国物語 紅孔雀 第一篇 那智の小天狗」、第5位は木下惠介・監督の「二十四の瞳」、第6位は田中重雄・監督の「月よりの使者」、第7位は稲垣浩・監督の「宮本武蔵」・・・といった具合。 ・・・更に因みに、当時(国内・批評家における)評価面という事では第5位の「二十四の瞳」が断トツTOPで、第3位「七人の侍」と第8位「ゴジラ」は後々の再評価で(遅蒔きながら)最大級に絶賛されたという事に成っており、それだけ1954年の邦画界は大豊作で、業界全体の勢いも尋常で無かった事が窺える。 ☆ では何故?「七人の侍」「ゴジラ」が後々の世界的な評価に繋がったか?というと、(此れはあくまで筆者の見解だが)「ゴジラ」は1956年に「Godzilla, King of the Monsters!」というタイトルで、レイモンド・バー主演&テリー・O・モース監督作として制作された再編集版の個性が異様に濃く、此のVer.が全米で公開され大ヒットした事が(世界的評価の切欠としては)最も大きいと見ている。 「Godzilla, King of the Monsters!」は1957年に「怪獣王ゴジラ」のタイトルで逆輸入され日本でも劇場公開されたが、日本国内で此の「Godzilla,King of the Monsters!」を(多少でも)評価する人を私個人として未だ一度も見た事も聞いた事が無いのだが・・・ 確かに私めも正真正銘・日本人なので、国産のオリジナル版に気持ちが入ってしまうのは十分解るのだが、もしレイモンド・バーの日本発(米再編集)怪獣映画での(恐らく演じた本人からしてみれば『???』な部分が殆どな上での)大熱演が無かったら??? etc etc ... と考えると、ウチとしてはもう少しコッチの『米海外特派員から取材される怪獣JAPAN』版・初代ゴジラをモウ少し立ててあげたい気持ちも大分有りまして。 「七人の侍」の方は元々オリジナル版の評価が海外(特にイタリア等の欧州)で堅調だったのだが、第15回・ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を獲得した後、1956年7月に米ロサンゼルスの劇場でたった6日間だけ上映された際、俳優のユル・ブリンナーが同じ俳優仲間のアンソニー・クインに『凄い映画がある!』と薦められ、「七人の侍」をごく普通の劇場で鑑賞した事が大きかった様である。 ブリンナーは紆余曲折が多少あった後、「七人の侍」のリメイク権を(先に権利を獲っていたプロデューサーから)買い取る事になるのだが、ブリンナーといえば当時ミュージカル映画「王様と私」(1956)で第29回・アカデミー主演男優賞を受賞する等々、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気+ハリウッドきっての演技派であり、此れが後に「荒野の七人」(1960) というメキシコ国境を舞台にした西部劇に繋がる。 ブリンナーは自ら監督するつもりで権利を獲ったのだが、結局「七人の侍」で志村喬が演じた島田勘兵衛(しまだかんべえ)役を基としたキャラクター=(映画「荒野の七人」において十全な主役に格上げされているというのはあるのだが)クリス・アダムス役のクレジットのみに落ち着いた。 恐らく共同監督、兼・実質的なプロデューサーの仕事を熟し、+リメイク権を自らで持ってもいるのだが・・・というのは恐らくブリンナーらしい人徳なのだろう。此の日本発・時代劇リメイクの西部劇には最上級に優秀なスタッフ&キャストが集結し、映画は世界中の興行+批評面で大成功したのだった。 その代わり(こちらの話も日本国内の世間一般ではあまり語られていない様だが)「荒野の七人」のOPにはリメイク元の「七人の侍」脚本家三人(黒澤明、橋本忍、小国英雄)を原作者扱いで「AKIRA KUROSAWA」「SHINOBU HASHIMOTO」「HIDEO OGUNI」と大きくクレジットされていたので(*注・当時のハリウッドのメジャー映画で、日本人スタッフがこれだけ大きく扱われたのは恐らく史上初)此のブリンナーらしい “武士道精神” には感服するばかりだが、「ゴジラ」「七人の侍」共に世界中で愛されているのには、国境を超えた映画愛による処が大きいというのはお解り頂けるだろう。 ☆ ≪2023.9.3 (日)≫ 余談だが、レイモンド・バーは(往年のファンの方には)「ペリー・メイスン (Perry Mason)」(1957-1966) や「鬼警部アイアンサイド (Ironside)」(1967-1975) といったTVドラマシリーズの主演でお馴染みの方が多いのかも知れんが、いぶし銀ながら「陽のあたる場所 (A Place in the Sun)」(1951) や「裏窓 (Rear Window)」(1954) といった名画にも脇で出演しています。 私めのお薦めはというと、アルフレッド・ヒッチコック制作・監督のサスペンス映画「裏窓」の方で、レイモンド・バーは脇役といっても大変重要な役で出演していますので、御興味のある方は是非チェックしてみて下さい。 余談の中の余談だが、此の「裏窓」は1954年の全米&全世界の興収No.1を獲得しており(*日本での「裏窓」公開は翌1955年だったが、何故か圏外)批評面と併せてヒッチコック作品で最も成功した内の一本と云われています。1954年というと日本で「初代ゴジラ」が公開された年であり、レイモンド・バーにとっては代表作でかなり縁があった年=当たり年だった事になります。 ☆ ・・・と、此処からはオリジナル版「初代ゴジラ」キャストの話に移りますが、勿論、主演は尾形秀人(おがた ひでと)役の宝田明さん(*以下,敬称略)で、宝田は「初代ゴジラ」クランクインの初っ端に『主役の宝田です!』と撮影現場で挨拶した処、照明スタッフの頭領から『馬鹿野郎!主役はゴジラだ!』とゲンコツ付きで怒鳴られたんだソウなのだが、しかし一方逆に特殊技術(後の特技監督)担当の円谷英二からは『主役なんだから頑張りなさい!』と、ソンナ有り難くも優しいお言葉を掛けて貰えた・・・というエピソードを後々語っていた。 宝田明というと私めの世代では(どうしても)舞台のミュージカル俳優としての活躍という色が濃いのだが、物心つく前の東宝の舞台「マイ・フェア・レディ」では『1970』『1976』『1978』『1979 (3月)』『1979 (10月)』と5回もヘンリー・ヒギンズ教授を演じていたりと(*因みに同役での日本最多は草刈正雄の6公演)。日本初の本格派ミュージカル俳優として、1964年の舞台「アニーよ銃をとれ」のフランク役を皮切りに、「風と共に去りぬ」(1966),「キス・ミー・ケイト」(1966),「ファンタスティックス」(1971),「南太平洋」(1979),「Mr.レディ Mr.マダム」(1981),「ピーターパン」(1988),「 葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜」(2000),「34丁目の奇跡〜Here's Love〜」(2004),「タイタニック」(2007),「四人は姉妹」(2008),「ミー&マイガール」(2013) ... と多数の舞台に挑戦しました。 「ゴジラ」一作目に主演した事で『ゴジラ俳優の』~という前置きが出来、ハリウッド版ゴジラ ⇒ 1998年のローランド・エメリッヒ版や2014年のギャレス・エドワーズ版ゴジラのイベントや、国内プレミアに登壇したりと、昨年2022年3月14日(月)に逝去されるまでゴジラとミュージカル舞台は大切に考えられていた様です。 後のインタビューで宝田は『世界に向けて核廃絶を本当の意味で宣言できるのは、唯一の被爆国である日本しかない。その思いを込めて「ゴジラ」を作った訳です。ゴジラは単なる怪獣映画ではないんですね』・・・と、初代ゴジラを振り返ってソウ語っている。試写の後、宝田は一人号泣したという『ゴジラが本当に可哀想で仕方なかった。ゴジラ自身も、人間のエゴイズムによる被爆者だからね』。 ・・・更に『海外のゴジラ・イベントで僕が “ゴジラ誕生の背景や意図” を話すと、当時原爆を落としたアメリカ、その後の世代のファンたちがきちんと耳を傾け、頷いてくれる。あの時の東宝の願いが、今に続いているのだと思うと嬉しくなる。一方で、核兵器禁止条約に参加しない日本の政治家たちには全く失望する。此の国を明るくする為に奔走してほしい』・・・と、日本国内の現状に釘を刺す事も忘れなかった。 初代ゴジラはあの時代だったからの良さもあった様で・・・『監督が出演者に 《あの雲がある位置にゴジラの頭があると思って!》 と指示を出す訳。その後、エキストラの演技指導をするんだけど、戻って来てカメラをセッティングしていると、当の雲が流れて無くなっている!(苦笑)全員が何処を向いて演技してイイのか分からなくなったり、試行錯誤の連続。CGにはないものづくりの醍醐味があったから、記憶に残るんだよね』・・・と、其の方面に釘を刺す事も忘れなかった。 ☆ (個人的には)本作でのモウ一人の主役と云っても差し支えない(?)と思うのが、芹沢大助(せりざわ だいすけ)役の平田昭彦。 芹沢の役職は薬物化学者=『芹沢科学研究所』所長という事で、ゴジラ殺害をも可能とする液体中の酸素破壊剤=『オキシジェン・デストロイヤー (Oxygen Destroyer)』を他の研究過程の実験中に偶然作り出してしまい、これを此のまま公表してしまうと世界の為政者によって(別目的の)大量殺戮兵器として悪用される事になる・・・との理由で、その存在が知れ渡る事を恐れ世紀の発明『オキシジェン・デストロイヤー』を世間に一切公表していなかった・・・という、世捨て人的に暗いバックボーンを背負った人物。 (芹沢がそこまで公表しない事に拘っていた『オキシジェン・デストロイヤー』だが、何故?そんなに危険なのか???という事を此処で要約し解説すると、先に書いた『酸素破壊剤』のワード通り水中の酸素を一瞬にして破壊し尽くし、周辺の全生物を窒息死させ液化させてしまう作用があり・・・もう少し詳しく其の恐ろしさを解説すると “微少化した酸素原子が物質を構成する原子の隙間に入り込んで破壊してしまう” という厄介な代物で、その威力は一単体で東京湾を生物のいない死の海に変えてしまう程であり、兵器として大量に転用されれば(水爆同様に)人類は必ず自らを破滅させる道を選ぶだろう・・・との結論に至ったという事なのである) 恐らく本多監督や制作陣は、此の芹沢というキャラクターを(*注・『ゴジラより』とは此処で書かないが)一番筆頭に据えて脚本作り&「初代ゴジラ」映画を制作したのではないのかナ?という印象もあって、口から放射能を撒き散らかす、憎むべき核から生み出された怪獣を倒す為には、更に強力な兵器を使うしかない!・・・と決断するに至る、メタファーとして人類究極のジレンマに陥る(当時から見ると近未来社会の=正に21世紀の現代代表としての)人物として登場させている訳で。 結局、芹沢は『オキシジェン・デストロイヤー』開発の秘密を唯一知る自らと共に “核の申し子である”(戦後社会をも象徴する?)巨大な亡霊と運命を共にする訳だが、筆者は子供の頃に此の「初代ゴジラ」をTV地上波『夏休み怪獣映画特集』(といった様なタイトルの5日連続の帯番組)の一本で偶然観て、ソノ人物描写、顛末にショックを受け『怪獣映画で何というシビアな締め方を・・・』~と(ソノ際はあまり意味が解っていなかったと思うのだが(苦笑))今になって思うと硬派なSF作品としても成立し得る、大変素晴らしい役割を持ったキャラクターだったのだと考えるように成った。 本多監督は芹沢一人にドイツ映画「ガリガリ博士 (Das Cabinet des Doktor Caligari)」(1919)で見られた歪んだ人物描写の役割を全て担わせている様で、ドイツ表現主義を意識して戦中に右目を失い、顔の右側に眼帯+其の下には大きな傷を負っている特殊メイクにしたソウである。 演じる平田昭彦も必要最低限の抑えた演技で、怪獣映画史上・最高のマッド・サイエンティスト人物像を(一見地味ながら)表現し切っていると思うので、もし本作を未見で此れから御覧になる方は(其の点も併せて)注目して観て下さい。 山根恵美子(やまね えみこ)役の河内桃子は1953年に東宝ニューフェイス6期生として東宝に入社。「ゴジラ」で共演した宝田明とは東宝ニューフェイスでの同期で、22歳の時に映画出演5作目にして大作「ゴジラ」のヒロインに大抜擢された。 只、特撮物はあまり好みでなかったのか?本作以外では特撮物のゲストや、カメオ出演も含めて完全に距離を置いて活動されていた様で、主に舞台やTVのホームドラマへの出演が多かった。その為宝田とは異なり生涯を通して『ゴジラ女優の』~という肩書きは殆ど付かなかったと記憶しているのだが、1995年制作の大河原孝夫・監督作「ゴジラvsデストロイア」には「初代ゴジラ」で登場した山根恵美子・役で41年ぶりに再出演している。 子供の頃(先に書いた通り)「初代ゴジラ」を偶然観て、ややトラウマを抱えていた小生にとって、此の 《新作ゴジラで山根恵美子、要するに女優・河内桃子が再登場》 のニュースを読んだ時は非常に驚いたのだが・・・ ・・・というのも、他でも無い「ゴジラvsデストロイア」は「初代ゴジラ」へのオマージュ色が濃く、先に触れた『オキシジェン・デストロイヤー』に再びフォーカスしている唯一のゴジラ作品なのである。制作陣が河内を再登板させたのも『オキシジェン・デストロイヤー』の語り部としてであり、劇中の山根恵美子の台詞は大変重要なので、もし本作を未見の方は是非彼女の台詞に注目して貰いたいのだが・・・ ・・・要するに河内桃子が「ゴジラ」続編に出演した唯一の作品として、「ゴジラvsデストロイア」が「初代ゴジラ」へのオマージュであり(反戦反核の意志が故・大森一樹の脚本にあった事が)出演了解の大きな理由であったと考えると、河内桃子と山根恵美子のパーソナリティがかなりシンクロして来る・・・という訳なのである。(「初代ゴジラ」を特に崇拝する身としては、女優・河内桃子にシンパシーを感じる処もある) ☆ 山根恭平(やまね きょうへい)役は志村喬。 志村喬に関しては先に「七人の侍」の島田勘兵衞・役を演じていた事で触れたが、「初代ゴジラ」では ↑ 山根恵美子の父親で役職は古生物学者(元北京大学教授)という役処。 志村喬というと黒澤映画や多数の国内名画に出演し、ハリウッド・アクション俳優のスティーヴン・セガールも『三船敏郎と共に志村喬は私が尊敬する俳優』と熱烈的に挙げておる位なので、今も国際的に崇拝されている日本の映画スターの一人という事なのだろう。 1952年の黒澤映画「生きる」の渡邊勘治・役を演じた際はNYタイムズ誌に『世界随一の名優』と絶賛された等、歴代の出演して来た映画の評価も高かったが、志村が出演した作品のモウ一つの特徴として《特撮映画も多かった》というのがある。 只、志村出演の特撮映画で最後の作品はというと1974年の舛田利雄・監督作品「ノストラダムスの大予言」の病院院長・役なので、特に作品を選んで出演していた訳では無い(?)様でもあるのだが・・・東宝の特撮映画の傑作「モスラ」(1961) 等々、志村喬が出演していると作品全体が締まる感じがあるので、ウ~~~ン、でも、それは初代ゴジラ出演からの意識下の記憶が残っているのかも知れんケドも。 志村の映画「ゴジラ」シリーズにおける静の名演技は見事の一言で、荒々しいゴジラに対して名優・志村が登場すると「水戸黄門」の印籠的な趣もあるのだナ。 只、志村演じる山根恭平の初期の段階での設定では、自身の研究を優先させる剛情な人物として描かれていたソウで、準備稿からは分別のある人物に改められた。・・・脚本を手掛けた村田武雄は『ゴジラ自体がゲテモノの極みであるのに、山根博士まで江戸川乱歩の小説に出て来る様な変人では物語から浮いてしまう』と考え、香山滋・著の小説版(クレジットでは『原作』と表記)では庶民的思考の持ち主として描く事を、香山&制作陣に進言したというのだから、もしかしたら、初期段階では志村はキャスティングの予定に入っていなかったのかも。 完成した「初代ゴジラ」全篇をジックリと観ると、志村無しでは考えられない程、静と動全体のバランスが保たれている様にも思えるので、此処は脚本担当の村田の判断がピシャリと上手く行った様である。 ☆ 此処からは初代ゴジラのスタッフの話になりますが・・・監督の本多猪四郎は1951年の「青い真珠」で劇場用劇映画デビュー。尚、「青い真珠」のチーフ助監督は岡本喜八。・・・本作は特撮物では無く漁村を舞台にしたドラマ作品なのだが、漁村のロケ地が三重県の鳥羽市・石鏡(いじか)町と相河町、此の鳥羽市石鏡町と相河町は「初代ゴジラ」が日本初上陸した架空の島=小笠原諸島に位置する『大戸島』のロケ地としても知られている。要するに二作に登場する島のロケ地は意識的に同一にしているという訳。 「青い真珠」では漁村に住む海女と村民には伝承があり、真珠が眠る海底の井戸が其れなのだが、此の「初代ゴジラ」の『大戸島』にも村民に伝わる海神『呉爾羅』伝説が存在する(此れが所謂・怪獣 “ゴジラ” の直接的な語源となっている)劇中は巨大怪獣を発見した山根博士によって、此の島の伝承から『ゴジラ』と命名された事に成っているが、実は本多監督のデビュー作でその前振りがあったのだ。 ・・・只、「青い真珠」に出て来る島(志摩半島の先端にある孤島という設定で、島名は特に出て来ない)での伝承では幻の井戸=『大日井戸 (おおにちいど)』の中に秘められた真珠を見た村民(カップル)には “もれなく恋が成就する” ~という、半ば縁結び神社のキャッチコピー的な伝説なのだが・・・ しかし「初代ゴジラ」の『大戸島』の伝承に出て来る古来の神獣『呉爾羅』というのは其の真逆のトンデモナク・酷い暴れん坊で、 “普段『呉爾羅』は海の奥底で静かに眠っているのだが、一旦目覚めると近海の生物を食い尽くし、やがては陸に上って人を襲うようになった。その為、かつて大戸島では不漁になると『呉爾羅』復活の兆しと見なし、神への生贄として嫁入り前の娘を筏(いかだ)に乗せて海に流していた” ~というのが劇中・島の長老(*クレジットでは稲田 (大戸島村長、稲田村長):榊田敬二と表記)の台詞から明らかになる。 お気付きの方も多くいるとは思うのだが、何れも海底に眠る伝承を語っているのであって、映画「初代ゴジラ」自体も物語を短刀直入に書くと正しく・・・ “海底の洞窟に眠っていた巨大生物が水爆実験によって目を覚まし” ・・・というシークエンスから始まる、ソウイウ話なので(未見の方も多い様なので、大きいネタバレにならない程度に詳しくは書かないが、締めも舞台は海底で落としている)。 本多監督は「青い真珠」「初代ゴジラ」両作で脚本も兼任しており(「ゴジラ」では四作ぶりにあえて脚本を執筆)、明らかに「初代ゴジラ」は「青い真珠」という孤島(世界の中の日本という隠喩?)の物語を原点と意図しているのが分かるのだが、此の頁を書くまで「青い真珠」「初代ゴジラ」で出て来る島の伝承の『あまりの落差』については正直『???』だった。 何処の本を読んでも其の点についての解説は無いし、ネット時代に成っても誰も発言して来なかったと記憶している。 筆者も本企画・第1弾を「初代ゴジラ」にするにあたって、その点は意識して考えたのだが・・・(折角なので)誤解を恐れずに此の 《落差》 の点に特化した解説を此のスペースで書いてしまうと、恐らく本多監督は(先に触れた)薬物化学者の芹沢大助と、ゴジラとの運命的な結びつきの中での関係を、「青い真珠」の縁結び神社的な海底の『大日井戸』に喩えていたのではないのかナ?。 ある意味ではマッド・サイエンティスト=芹沢にとって怪獣『ゴジラ』はある種の “やっと出会えた理想の恋人” の様な存在で、ゴジラと共に溶けて同化する事が究極の縁結びであり、結納なのである・・・とソウ考えると、「初代ゴジラ」も「青い真珠」と同じく(芹沢とゴジラの)恋愛映画だった???という見方も出来なくもない。・・・まぁ、 “空想科学映画における奇矯な純愛映画” ~という注釈付きのラブストーリーという事になるが、しかし此の『ラブ』というのは意外に奥の深い(暗示的に科学と生物としての人間との関係性、一種哲学を提示した)側面が有ったので怪獣、反戦反核映画のみの枠に留まっておらず、今も世界中で観られている大きい理由(ワケ)なのかも。 本多監督自身も長年兵役に取られ、長編デビュー時には遅咲きの40歳だったという事もあり、芹沢の様に鬱屈した境遇は(よくよく考えると)本多の若き日の分身的な存在であり、ゴジラによって(やっと)『レゾンデートル (仏:raison d'être)』を実感出来たという点では正しく運命の人(?)が(皮肉にも)核によって生み出された神獣だったのであろう・・・と。 本多を映画の師と仰ぎ、晩年まで付き合いのあった大林宣彦によると、本多が晩年撮りたがっていたのは若い男女の『恋愛映画』だったという事なので、デビュー作から最期の最期まで恋愛物に相当強い拘りがあったのは確かな様である。 本多監督の長編二作目「南国の肌」(1952) も特撮物ではなく分類すると恋愛物になるが、此の作品の特筆すべきは何と云っても台風や山崩れのシーンで、後に数々の特撮映画でタッグを組む円谷英二が特撮を担当したという事で、いよいよ次からは特撮界のレジェンド中のレジェンド=円谷英二の話に移ります。 ≪2023.9.11 (月)≫ 国内は勿論・海外でも今なお有名な円谷英二(本名:圓谷英一)。円谷家は全員キリスト教・カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。本名の「英一」ではなく「英二」としたのは、兄のように尊敬する5歳年上の叔父の名が「一郎」だった為。 ・・・で、円谷の「初代ゴジラ」での役職は『特殊技術:圓谷英二』とクレジットされているので、円谷英二ビギナーの方にとっては 《ややっこしい》 事だろう。当時は『特技監督』や『特撮監督』という概念がなく、本編監督と実質的な二人監督制の特撮(今で云うVFX)部分の演出+アルファの強い権限を持っていたという事を顕しており、此の『本編監督』と『特技監督 (特撮監督)』とで役割を分けた二人監督制は、東宝のプロデューサー田中友幸、円谷特撮作品・全盛の時代に定着。実質的に起源は戦中に作られた1942年公開の山本嘉次郎・脚本&監督作「ハワイ・マレー沖海戦」(円谷は「初代ゴジラ」と同じく特殊技術の役職でクレジット)からと云われている。 因みに此の映画制作内で『本編』『特撮』の二人監督制をとっているのは世界広しと言えども日本のみで、かつて日本映画の代名詞の一つが “特撮王国” と呼ばれた時代からの名残りでもあるのだが、其の源流は正に円谷英二にあるという訳なのだナ。 「初代ゴジラ」と円谷の役職&クレジットに関してはモウ一つ・・・ウチの事務所の棚に本作の(世間的には)今は亡きVHS方式による『TOHO VIDEO』ソフトの現物が手元にあるのだが、其のパッケージに載っているスタッフ・リストによると『製作:田中友幸』と並んで、『制作:円谷英二』と表記されているので(恐らく)此れが東宝公式の正直な処だったのだろう・・・と。 ・・・(恐らく)今出ている他のどのソフト、データの載っている書籍 etc で円谷の「初代ゴジラ」役職で『制作:円谷英二』とは載っていないと思うのだが、実際の処『東宝撮影所』内に築かれた特撮専用スタジオの責任者として、当時の東宝・特撮王国の最高位に君臨していた訳で(当のソフトは1980年代中頃に発売)当時を知る社の(実質上の)正確な表記と考えられる。・・・円谷英二と「初代ゴジラ」&「ゴジラ」シリーズに関しては次の追記でもモウ一回書きます。 「初代ゴジラ」元々の企画の発端はというと、1952年5月・円谷が企画部に『クジラの怪物が東京を襲う』映画の企画を持ち込んだ事から始まる。 其の後、特殊技術で参加した戦記映画「太平洋の鷲」(1953) で再び本多猪四郎とタッグを組む事となった。「太平洋の鷲」は1953年の邦画・国内興収No.3位となるヒットと成り、其の勢いもあって円谷は再び企画部に『インド洋で大蛸(おおだこ)が日本船を襲う』~という怪獣映画の企画を持ち込み、此れが「初代ゴジラ」企画Goの決定打と成った様である。 1954年早々、円谷53歳時に田中友幸によって極秘企画『G作品』が起こされ、それから同年1954年11月3日(水)に国内・劇場公開と成っているので、あれだけ力の入った大作を一年未満で???と多くの方は思われるのかも知れない。・・・恐らく当時の東宝、円谷特殊技術研究所の体制だから可能だったと思われる神業で、今観直しても怪獣映画としての完成度は完璧ではないだろうか?。 只、円谷自身の考えとしては “当初「ゴジラ」は一作のみで終わらせ、他の怪獣物は此れ程沢山作るつもりは無かった” ~と後に述懐している。 円谷は元々がSFや「かぐや姫」等のおとぎ話、航空機物、ハリウッド製の人形アニメと実写の合成 (後の『ダイナメーション (Dynamation)) 作品 etc に憧れて映画業界の扉を叩いたのであって、人気が爆発した怪獣物と自身の理想とする方向とは乖離が生じていた様である。 筆者としては米メジャーの『コロンビア』と東宝との合作で制作された「モスラ」(1961) は本多&円谷タッグの大傑作で、「ゴジラ」シリーズ以外の円谷怪獣物の一つの頂点と(ブログ時代に大きな特集を組んだ位に)大称賛していまして、子供ながらに(*TVでの鑑賞が初見でありながら)アート面の素晴らしさを怪獣物で感じた初めての映画でもあった。・・・だからといって「初代ゴジラ」と「モスラ」だけ作れば良かったとは思っておらず、色々な怪獣物を作る過程で「モスラ」も作られたという訳なので、其れで十分なのだと思うのだが・・・ ・・・しかし、世間では『怪獣物の円谷』『ゴジラの円谷』と何かというとソウ言われる事に対し、本人は相当嫌がっていたソウなので、其れだけ志しが高く無ければ「初代ゴジラ」「モスラ」の域まで達せられなかったのかも知れない。 只、SF方向に関しては(先で触れた様に)「初代ゴジラ」でSFセンスの良さは十二分に生かされていると感じるし、特撮ファンの間で人気が高い「妖星ゴラス」(1962) や「海底軍艦」(1963) etc ... の劇場用SF作品よりも(個人的には)監修のみで参加したTV作品「ウルトラセブン」(1967) で花開いた印象が強く、晩期になった此の時点でかなり成功している様に見受けられる。・・・恐らく円谷特撮の集大成であり、本人のSF本気度が一番出ていたのが此のTVドラマシリーズだったのは(何話か続けて観れば)一目瞭然。 もし、劇場用映画で「ウルトラセブン」テイストを(シリーズ物では無く)単品2時間で完全完結する作品として纏める事が出来たなら、本来SF志向が強かった円谷英二の遺志を継いだ事に成るのかも。 ☆ ≪2023.9.24 (日)≫ 其の後(「初代ゴジラ」での名シーンの一つに数えられる?)、防衛隊(要するに自衛隊)が5万ボルトの電流を流した高圧送電線式の巨大な鉄条網を東京湾沿岸に張り巡らせ “ゴジラを感電死させる計画” を立ち上げるのだが(*恐らく当時観ていた観客としても一人として『成功するだろう』とは思っていなかったと思うのだが(^^;))国会内に特設された『ゴジラ対策会議』でも即座に承認され、東京湾沿岸(実際に網に掛かったのは東京・芝浦海岸地区)に其の巨大施設が築かれる事とある。 此のシークエンスは今観直すと『ゴジラ』vs.『電気』という、ナカナカに皮肉な図式が1954年時点でビジュアル的に示されていた訳だが、発想電分離(『送配電』の自由化)の遥か以前に怪獣相手という事なら、こんな高額で大掛かりな “高圧電流装置” の案が(容易)に国会で通ってしまったという・・・深読みなぞせずとも、此の本多&円谷の仕掛けは(21世紀の)寧ろ今の方が際立って来ているのかも知れない。 よりによって核により生み出された『ゴジラ』を “高圧電流で即死させよう” という発想自体に(立体的に思考出来ない)酷い愚策を繰り返す体制批判の際たる描写と受け取ってイイのだろう・・・ 此の二度目の本格的な日本上陸により、核の申し子ゴジラは高圧電流架線を切断し、数々の鉄塔群を押し倒し、 野砲 (M114 Howitzer)、戦車砲の砲撃を物ともせず、 放射能火炎を吐き出しながら更に勢いを増し、破壊の限りを尽くす事と成る。 ・・・よくよく考えてみると、此の上陸時の描写が『ゴジラ映画』、強いては『日本怪獣映画』の上陸 ⇒ 都市破壊の原点と云うべき描写となっているのだが、本多&円谷は此の記念すべき(?)スタートの時点で送電線から、変電所へと高圧電流が流れるシーンで(流れる様に)繋がれています。要するに、電気の流れを映像として組み合わせ、所謂 “モンタージュ化” している訳なんですネ。 劇中に原発のシーンこそ登場して来ないが(*「初代ゴジラ」公開時には日本における原発数はゼロ)日本における原子力発電の起点は、1954年3月に『原子力研究開発予算』が国会に提出された事から始まっているので、先を見据えての(かなり意図した)描写と見てほぼ間違いないかと。 ☆ ≪2023.9.25 (月)≫ 「初代ゴジラ」において大きな要素である “戦争を想起させる描写” について考えるにあたって、実は本多監督以外のスタッフは劇中で戦争を連想させる描写をコミットさせるのに、当初あまり真剣に考えていなかった形跡がある。 プロデューサーの田中友幸は兎に角、先行して制作されていたハリウッド映画「キング・コング (King Kong)」(1933) と「原子怪獣現わる (The Beast from 20.000 Fathoms)」(1953) に準じた日本版・怪獣映画を作る事を念頭に置いていたのは明確で、此の二本以上のテーマ性は蛇足と考えていた節があり、其れは円谷英二の怪獣映画=「初代ゴジラ」に対する基本姿勢もほぼ同様であった。 特に田中が当初考えていたタイトルは『海底二万哩から来た大怪獣』(*企画書におけるタイトルのみ)であり・・・恐らく1954年12月23日(木)にウォルト・ディズニーが北米で公開を予定していた(日本では丸々一年遅れの1955年12月23日(金)に公開された)SF映画「海底二万哩 (20000 Leagues Under the Sea)」に併せた、前のめりに(?)娯楽色の強い怪獣物に専念したかった気持ちに(企画のタイトルからして)溢れており。 作品の方向性が一気に変わったのは、偏に水爆実験への恐怖と危機感であった。1954年3月1日(月)には『第五福竜丸事件』が起き、同年5月からは日本各地で雨の放射能濃度の検査・測定が行われ、核の恐怖は(被爆国の日本にとって)関心事の最筆頭となったのだった。 此の事態は当然広島・長崎の原爆投下時の記憶、追っては十年前の戦争の記憶をも生々しく想起させる事になり・・・ ・・・只、そうであっても「初代ゴジラ」に被爆と空襲の記憶が濃厚に反映されているのには、本多監督と脚本の村田武雄(本多は共同脚本も兼任)の意向がかなり大きかったようである。 劇中にはこんなシークエンスが登場する。ゴジラ対策本部の中に臨時に作られた救護施設では子供の泣く声、負傷者の嗚咽、呻き声、行方知らずの子供を訪ね続ける肉親の叫び声が救護所中に響いている。 河内桃子・演じる山根恵美子の目前で、か細い少女が放射能濃度測定の検査を受けている。其の少女に向けられたガイガーカウンターの音は無情にも激しく反応し、観客には少女が強い濃度で核の被爆を受けたのが一目瞭然に映し出される・・・しかし、少女は其のガイガーカウンターの反応の意味には気付かず、キョトンとしているのみ。恵美子は此の無垢な少女の将来を慮り思わず目を逸らした・・・ 此のシークエンスの詳しい説明は劇中(ナレーション etc で)皆無で、注意して観ていないと素通りしてしまう方も(今となっては)少なくなくいるとは思うのだが、こう文体として解説すると(本多監督の本作に託した)一種祈りにも似たテーマが浮き彫りに成って来るのが御分り頂けると思う。 確かに「初代ゴジラ」には第二次大戦の東京大空襲や其の後の火災の様子が大きく反映されてはいるのだが、此の少女とガイガーカウンター&恵美子の描写を観ていると、其れ以上に(先に触れた『ゴジラ』vs.『電気』と同じく)寧ろ未来の日本と核との関係を(高度な先読みで)象徴的に示唆=警鐘を鳴らしていたと感じられるのだ。
☆ ≪2023.9.30 (土)≫ ゴジラは東京・品川駅を急襲した際『EF5858形電気機関車』を銜えたり、銀座『和光ビルの時計台』を破壊したり、『国会議事堂』(北側の参議院棟)を破壊したりと、東京の名所、公共の施設を次々に破壊しておるので、本記事の総合タイトル=『東京リアル・モデル探訪』という点ではピッタリといえばピッタリ。 特に銀座『和光ビルの時計台』の際は円谷英二の 《和光ビルの時計台を壊そう》 ~という鶴の一声で、それに見合うゴジラの全長・50メートルという設定も決まったとの事で、此の破壊シーンは取り分け重要なシーンなのだナ(*本記事・冒頭でも和光・時計台と初代ゴジラが仲良く(?)並んだ画像で始まっているのは其の為)。 因みに・・・今でこそ(ハリウッド版も同様なのだが)名所やショッピングモール etc がゴジラに破壊されると “宣伝になるからイイ” という風潮に変わったが、当時は其れ程・作品自体に理解が有ったという訳でも無く、ゴジラの吐く放射能により炎上した銀座・松坂屋デパート&先に触れた和光・時計台の関係者に関しては『縁起が悪い』という理由から東宝に猛抗議があったという。・・・まぁ、しかし、此れに関しては(もしかしたら?)当時の世間一般の(ややヒステリックな?)時代感覚の方が半ば正しかった・・・というか、逆に正気だったのかも知れん。 今ではゴジラが幾ら放射能を吐こうが、東京のどの名所を壊そうが其の方向の感覚が殆ど麻痺してしまっていて、何の啓蒙にもなっていないのである。・・・それだけ「初代ゴジラ」+核のインパクトは熾烈で、テーマ性、実在の建築物の(本物と見紛う)模型を作ったというのも質実共に見合った(対象の関係者が激怒する程に)真っ向勝負の本気の怪獣映画・・・イヤ、だからこそ真を突いた(直に核の辛酸を嘗めた)日本発ならではの(世界に誇る)真の日本映画に成り得たという事なのだが・・・ 「初代ゴジラ」は特撮怪獣映画の元祖・・・という呼ばれ方をされる事もあるが、元祖は元祖でも只の元祖では無い。決して怪獣を際立たせる為に作られた特撮の為の特撮映画という訳でも無い。あらゆる意味合いで此れだけ唯一無二の映画は(もしかしたら?)後にも先にも作られない可能性があるので、未見の方は今の時期、是非一度1954年制作の「ゴジラ」の大元に立ち返るのも良いのでは???・・・と、ソンナ気持ちで此処まで解説文を書きました。 まだまだ本作については書けていない処が多々ありますが、残りは又機会が有りましたら其の際に。 ☆ ・・・と、此処までは「初代ゴジラ」の解説を主に書きましたが、記事冒頭にも書いた通り、此の記事を書き始めた直接の切欠がありまして、其の不思議な縁の話は10月に入ってから(本頁・追記で)書いていきます。 ☆ ≪2023.10.2 (月)≫ 本記事・序文の最後に・・・ 昨年8月に長年続けて来たブログ書きの作業が諸事情で(一旦)一区切りとなったという事もあって、次に纏まった文章を載せる企画を・・・と色々考えている内に、既に一年経ってしまったのだが。 只、其の間何も遣っていなかった訳では無く、纏まった文章関連では『年越しクリスマス』と『オムニバス映画祭』の合わせ技で2022~2023・年末年始遣ったという事もあったのですが、其の2023年3月26日(日)~3月31日(金)追記の『赤富士』に関して色々な解説を載せた際、1954年制作の初代・ゴジラを監督した本多猪四郎と、本多監督が監督補佐で参加した1990年制作 黒澤明・監督作のオムニバス映画「夢」(2022年度・第17回ウェブアワード・グランプリ作品)との関係を書いたのが、本企画に点火させる本当に奇妙な(?)縁と成りまして・・・ https://www.mmjp.or.jp/gigas/GIGATALK-2022AWARDS-ANTHOLOGY https://www.mmjp.or.jp/gigas/GIGATALK-2023AWARDS-ANTHOLOGY 実は近頃、私めが以前住んでいた地域(東京都・文京区)辺りにお引っ越しをする計画が立ち上がって来ていまして、暇を見つけては当地の物件を色々見て回っていたのですが・・・そのついでに、何とはなしに子供時代よく行っていた(文京区とは隣の区の)商店街に寄ってみた処、昔馴染みの模型&玩具店が一件だけ《昔の雰囲気で》そのまんま(時が止まっていたかの如く)残っていたんですネ。・・・今年の6月下旬の話。 ・・・と載せて序文を締めたのだが、此処からは此の序文・最後の続きを書こうかと。 ☆ ↑ で話題にしている下町情緒あふれる商店街というのは、豊島区にある『巣鴨地蔵通り商店街 (Sugamo Jizodori Shopping Street)』の事で、其の地蔵通り商店街・最古の店舗とも云われている『ますや玩具店 (Toy Store Masuya)』というラジコン、模型(プラモデル)、おもちゃ etc を扱ったお店があり、其処が正しく 《時が止まっていたかの如く》 ~と先に形容した玩具店でして・・・ 小生が『ますや』に初めて訪れたのは小学生低学年の頃で、大サイズの米プラモデルの輸入品が複数置いてあったのが特に印象的だった。特に他店では扱っていなかった米・SFドラマ・シリーズ「宇宙空母ギャラクティカ (Battlestar Galactica)」(1978) のモデルも主人公側の『ギャラクティカ』と敵側の『サイロン』機体&戦艦・両方を店頭に置いてあったので、随分拘りを持った店だという事は気付いていたのだが・・・ 此の辺の時代感覚は(ビギナーの方には)少々説明が必要だと思うのだが、当時は「スター・ウォーズ (Star Wars)」(1977) 全盛の時代で、模型店、玩具店、その他レコード店、デパート etc etc 兎に角「スター・ウォーズ」(以下:SW) 商品が圧倒的に巷に溢れている状況で、「宇宙空母ギャラクティカ」シェアは日本国内において(当時の記憶としては)限りなくゼロに近かった筈で。 《「宇宙空母ギャラクティカ」はSWの盗作である》 ~とジョージ・ルーカスから正式に裁判で訴えられた事もあり、「宇宙空母ギャラクティカ」関係の商品展開自体も(米国内で)縮小気味だった様で、よくよく考えてみると当時・日本国内の店舗『ますや』で現物を手に取って見られたというだけでも奇跡的だったのだ。 SWが公開された1977年の直後~1980年代前半というのは世界中でSW亜流映画が数多く出没した時代で、日本からも石森章太郎(後の石ノ森章太郎)原作という触れ込みで宣伝されていた(*後に石森は原作では無く野田昌宏、深作欣二、松田寛夫と共に原案として表記)+深作欣二・監督のSFファンタジー映画「宇宙からのメッセージ」(1978) という超珍品が超大作として公開され、制作した東映はフォックスにあと一歩で訴えられソウだった様なのだが・・・まぁ、当時はソウイウ時代だったのである。 筆者はSWも大好きだが、ソウイッタ亜流と呼ばれる映画も映画史を研究する中で重要だと考えており、似た様な形になると思う、黒澤時代劇「七人の侍」を基とした西部劇「荒野の七人」の無断リメイクで制作されたジミー・T・ムラカミ監督作=「宇宙の7人」(1980) というのもあるし(*「宇宙の7人」は当時無名だったジェームズ・キャメロンが宇宙船デザイン等の特撮スタッフで参加していたり、音楽は故ジェームズ・ホーナーが担当)・・・私めは偶然「宇宙からのメッセージ」&「宇宙の7人」の両方共、公開時に空席だらけのガラガラな劇場で(間違って?)観てしまっていて(^^;)・・・確かに、空席だらけだったのには理由があったのだが、しかし、ソンナ幼少からの経験から(上手に言語化出来ていないのかも知れんが)亜流と云われている作品の中にも “ある一方の” 可能性は大きく開けていて、次の時代を創るパワーを秘めている場合もあると察したのである。 今迄何処にも書かなかったと思うのだが、小生・実は「宇宙空母ギャラクティカ」のTV再編集・劇場版というレアなVer.も公開時に劇場で(間違って?)親と一緒に観てしまっていて(「宇宙空母ギャラクティカ」TV再編集・劇場版の日本での公開は1979年1月27日(土))、此れは子供ながらに全体のイメージ、映像で示そうとしているSFヴィジョン=要するに映画の文脈における作家性が(前年に観た)SWの酷いパクリ物というのが第一印象で、先の亜流二作品と同じく劇場内は空席だらけだったと記憶している。 只、特撮シーンは他のSW亜流作品と比べて(かなり)シッカリ・・・というか、異様にクオリティが卓越しており、此れは何故か?というとジョン・ダイクストラ、リチャード・エドランド etc と旧SW特撮のメイン・スタッフを「宇宙空母ギャラクティカ」プロデューサーのグレン・A・ラーソンが引き抜いた為だった。此れでは特撮を全面的に売りとした(SWと同じく)所謂スペース・オペラというジャンルなのだし、安直なパクリ物と世間に烙印を押されて仕方がなかったのであろう。(特にコンセプチュアル・アーティストのラルフ・マッカリーを起用したのが致命的で、マッカリーはSWのXウイング、ダースベイダー etc デザインの大元も手掛けた、要するにSWヴィジュアル面全般の、云わば裏方の顔中の顔であり) 世間的には今一&不評であった「宇宙空母ギャラクティカ」も、時代は21世紀に移り2003年に「GALACTICA/ギャラクティカ」として同じくTVドラマ・シリーズとしてリブートされ、此方が新世代のコアなSFファンには好評を博す事と成る・・・そんな新装「GALACTICA/ギャラクティカ」が注目されている最中、ルーカスのTVドラマ版SWの制作構想の発表とが被った時期でもあり、ドウモ今ではルーカスも本作(シリーズ)をライバル視している間柄らしいのだ(少なくとも業界内ではソウ噂されている)。 であるから、幾ら本家に亜流と罵られる間柄であっても、決して侮れないのである。シブトク続けていると先の事は誰にも読めぬ、解せぬモノ・・・と、ソウイウ事なのだが。 此処で又「宇宙空母ギャラクティカ」の米プラモデルに話を戻すと、先に書いた通り当時SWと比べたなら(日本国内では)知名度が限りなくゼロに近かったが、映画本篇の特撮スタッフは(先に書いた通り)超一流で最高に脂が乗りに乗っていた時期でもあり、元々の基礎のデザインワークがシッカリしていた為、プラモデルの出来も(元ネタ的ポジションである)SW商品全般と比べて決して悪くはなかったのだ。 ・・・なのだが、普通は幾ら物の作りが良くとも棚のスペースの都合もあるし(オマケにサイズが米仕様で馬鹿デカかった)、知名度で劣る商品を店頭にズラリと並べる物なのか???先日『ますや』御主人の北澤輝之 (Teruyuki Kitazawa) さんに直接その事を訊いたら『昔の事だから』~とあやふやな答えしか引き出せなかった・・・のだが、サポートしている奥さんから色々な『ますや』逸話を聞くにつれ、此の「宇宙空母ギャラクティカ」米プラモデルのエピソードは重要と判断し(此処のスペースに)ピックアップしました。 気付けば本記事も大分長くなってしまったので、此の続きは『第2頁』に載せます(*『第2頁』へのリンクは此の ↓ に後日貼ります)。 『第2頁』では冒頭から本多猪四郎・監督と『ますや』との「初代ゴジラ」を交えた驚くべき関係&黒澤明・監督のオムニバス映画「夢」(1990) 第六話「赤富士」との不思議な縁の話から入ります。 |