ジョーホンダファン待望の書籍+写真集が発売された。題名は「富士スピードウェイ物語」。
多くのジョーホンダファンは、なぜ富士スピードウェイなのだ!?と思われたのではないだろうか。当の私も実はそう思ってしまった。
しかし、よくよくジョー氏のお話をお聞きするうちにその答えを見つけることが出来た。
すでにこの本を読んでいらっしゃる方はお分かりだろうが、ジョー氏がモータースポーツの世界に入ることとなったのは、1966年に富士スピードウェイで開催された「日本インディ」を見に行ったことがきっかけだった。そして、ジャッキー・スチュアートとの出会い。すべてが富士で始まっているのだ。
 この書籍は60年代の日本グランプリを中心とした富士スピードウェイの歴史を語った本ではない。世界のカメラマン&モータースポーツジャーナリストとしてのジョーホンダの半生を描き、同時にジョーホンダの観た富士スピードウェイの誕生から終焉を語ったものである。
 当時の世界的レーシング・ドライバーであったジム・クラークやジャッキー・スチュアートが富士を駆けた時、彼らはどのように富士の将来を見ていたのだろうか。ニキ・ラウダが雨の富士を走った時・・・。スター“TETSU”が富士に戻って来た富士グランチャン。風戸 裕とグランチャン、そして、ビッグマシンの競演CAN-AMシリーズへの挑戦。ル・マン男“ジャッキー・イクス”がポルシェで走ったWEC、イクスとの友情。
今やF1には欠かせないバーニー・エクレストンと富士スピードウェイとの因縁・・・。タバコ広告とF1と日本・・・。
やはりこの本の題名は「富士スピードウェイ物語」以外にはありえないと私は思う。
 

TOP : Lorenzo be killed in a accident in '67 Monaco GP.
 1968年、悲劇の連鎖

 すべてはモナコのバンディーニの事故と同じであった

消火ははかどらず

その脇を他のマシンが無情に走り抜けていった

1968年 ジョーホンダ 

 
 1967年、ジョーホンダは初めての取材としてフランスのポーで行われたフォーミュラ2のレースの取材に出かけた。そして、マニファクチャラーズ選手権のモンツァ1000Km・・・。そこでジョーホンダは、フェラーリのワークス・ドライバー“ロレンツォ・バンディーニ”と出会う。
しかし、2週間後、モナコグランプリにおいて、バンディーニはレース中の事故で他界してしまう。ジョーホンダはどんな気持ちで上の炎上するバンディーニのフェラーリを写していたのだろうか。死の前日、手持ちの絵葉書にバンディーニからサインをもらう。それが上の写真だ。
 そして、翌1968年、4月ホッケンハイムで起きた悲劇。ジム・クラーク。世界最高のドライバーの死。その後に起きたレーシング・ドライバーの相次ぐ事故死。この連鎖は70年代中盤まで続く。
マイク・スペンス、ピアス・カレッジ、ジョー・シュレッサー・・・、そして、ブルース・マクラーレン、ヨッヘン・リント、ペドロ・ロドリゲス、ジョー・シファート。日本ではトヨタ7のテスト中に福沢幸雄、川合 稔が事故死。そして、風戸 裕も・・・。まさに、悲劇の連鎖であった。
 
 
 レースというのは、なんという非情な世界なのだろう、と思った。消火活動が思うように進まない一方で、レースはそのまま続けられていったのだ。自分は恐ろしい世界に足を踏み入れてしまったのではないか、と思った。それが私の最初のGPレースの印象だった。
by Joe Honda 

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(C) Photographs by Joe Honda.

Special thanks Joe Honda.