酒井 正。このネームを聞いてアメリカンV8を思い出す貴方は50歳以上の60年代日本モータースポーツをこよなく愛する方だと断言する。
古くは、今はなきあの船橋サーキットを駆け抜けた酒井の赤いコルベット・スティングレイ、はたまた滝進太郎のポルシェカレラ6、安田銀治のローラT70などと共に60年代後期の日本モータースポーツ界を駆け抜けて行った3羽ガラスの1台、デイトナ・コブラを思い出してしまうのは私だけだろうか。
そして、1969年に晴海で開催された「第2回東京レーシングカーショー」で初めてそのデイトナ・コブラを目の前で見たときの感激は今でも忘れることが出来ないでいる。
しかし、60年代の酒井 正は物静かさが仇になってか、活躍の割りには話題になることが少なかった。1967年日本グランプリでTETSUとデッドヒートを繰り返し、不運にもバンクでクラッシュしてしまったり、1968年、1969年日本グランプリのようにたった数周でリタイヤしてしまったりとツキにも見放されていたように感じてしまう。
あくまでも7リッターアメリカンV8にこだわり続けた酒井。そんな酒井 正に勝利の女神が微笑みかけたのは1971年になってからであった。
諸般の事情で、メーカー主体のビッグマシンによる日本グランプリが中止となり、初めて富士スピードウェイ主催のレースとしてスタートしたのが富士グランチャンピオンシリーズであった。あくまでもプライベーター中心のレースとしてスタートしたこの富士グランチャンは、当時世界的に人気のあったCAN-AMシリーズの日本版のようなレギュレーションでの開催であった。そして、酒井は当初のパシフィック・レーシングから新たに酒井レーシングを結成して日本にあったビッグマシン“マクラーレンM12”を購入、このグランチャンに挑戦、見事初代シリーズチャンピオンとなる。まさに“アメリカンV8が似合う男 酒井 正”が頂点に立った瞬間であった。
 しかし、翌1972年のグランチャンは、より日本モータースポーツ事情に適応する2リッタースポーツカー中心のレギュレーションに変更することが決定、酒井マクラーレンが主役を演じることは不可能となってしまった。さらに、1973年のグランチャンからは2リッタースポーツだけのレースになることから、もう酒井マクラーレンの出番はどこにもなくなってしまった。

 1972年、酒井 正は、チームオーナーとして大きな決断をする。それはビッグマシンとの決別、そして、チームオーナーに徹する決心を固めたのだ。それは彼自身が尊敬するニッサンワークスの高橋国光や速さを認める長谷見昌弘などをドライバーに招き、チーム力を高めていったことでもわかる。自身も73年度まではドライバーと監督の2足の草鞋であったが、74年からはドライバーを引退し、チームオーナーとしてチームをまとめていったのである。
 上の写真は、1973年シーズンに初めてイギリスのマーチ車を購入し、代表のロビン・ハードと話し合う酒井 正の姿をジョーホンダ氏が捉えた写真である。その顔はすでにドライバーというよりは、チーム監督の顔に変わっているのが手に取るようにわかる。
 


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(C) Photographs by Joe Honda.

Special thanks Joe Honda.