また北村富三氏(29)は神崎郡北五個荘村宮荘の人で市外下落合六十五伊藤方の寄寓先を訪へば喜色満面で語るー私は二十一、二歳までいろゝな病氣をやり画道に入つたのは二十三歳の時で京都寺松國太郎氏について初歩から指導を受け廿六歳の時帝展に入選しましたがまだ甚だ幼稚であつたので一昨年上京安井曾太郎先生に師事してひたすら精進し今年はどうやら確信を得初めて二科に出品した次第でした、入選の「松の大樹」は故郷の子供時代から印象深いもので大變親しみを持つて描きました、これと同様に故郷の景色五枚出品しましたが一番自分の理想に近いのが入り・・・
【以下不明、1932年頃 掲載新聞名及び掲載月日不明】
若き新進画家神崎郡北五個荘村北村富三氏はこのたびの二科展に「初夏の水田」を出品して見事に入選した、同氏はまだ三十歳の青年画家で昨年の二科展にも、また第九回帝展にも、さらに國際美術展覽會にも入選の榮を勝ち得た湖國が生んだ天才で將來をすこぶる待望されてゐる、同氏は東上中で不在だが氏の知友同村の青木醫學士は語る
湖國の誇りです、物質的にあまり惠まれてゐないため極めて粗末なアトリエで、かの大作をもするのだからその苦心のほども察せられ、また彼にとつてはそれだけ入選の喜びは大きいわけだ、君は京都寺松國太郎および東京安井曾太郎兩画伯について洋画を研究すること約十ケ年・・・・
【以下不明、1933年頃 掲載新聞名及び掲載月日不明】
第九回帝展、第十八回二科展に入選し湖國画壇のため万丈の氣焔をあげてゐる若き画家、ー神崎郡北五個荘村大字宮荘北村富三君(30)は今秋も二科展に出品すべく大作をものしているが、同君後援の同村小學校校友會では二十八日午前八時から午後六時まで同君の作品數々を陳列して觀賞會を開くことゝなつた
【1933年頃 掲載新聞名及び掲載月日不明】
既報ー神崎郡旭村山本小學校創立六十周年記念及び奉安殿の竣工式は十五日午前九時より擧行、定刻稻本儀三郎氏より奉安殿の工事竣工の報告があり、稻本村長の式辭、日下部縣視學の祝詞、郡内中等學校長總代川勝神商校長井上南五ケ荘小學校長の外來賓及村會議員等の祝辭卒業生總代市田君等の答辭があり午前十一時滞りなく閉會しそれより祝賀宴に移り各來賓等のテーブルスピツチありて午後一時より金谷一座の余興を開催したが各教室には卒業生および各學年の成績品展覽會あり、郷土室には皇后陛下の學習院御妹君の和宮様を始め六十宮様方の御遺品、加陽宮様の御用制札、青蓮院宮様その他鐡眼禪師の御筆知名士の遺品等が陳列され、叉參考室には北五ケ荘出身者にて画壇に名聲を博しつゝある北村富三君の帝展および第二科展に入選せし作品を掲げ階上には處女會の手になれる活花が十余種陳列即賣店および當日特に設けられたる食堂等は品切れの有様にて五百余圓の賣上高を示し、良好なる成績を納めたが午後三時半頃永井學務部長の初巡視があり、來賓は百余名、一般來會者千余名にて余興場等は六時盛會裡にこの意義ある記念式の諸・・・
【以下不明、掲載新聞名及び掲載年月日不明】
上野の杜の美術の秋を前にして湖國出身洋画界の新進画家をめぐる友情美談ー
主人公は神崎郡北五個荘村字宮荘出身の北村富三氏(34)で惠まれない經濟生活と闘いつゝ十年の精進を續けて來た結果第九回帝展および第十八、九回の二科展に連續入選、將來を嘱望されてゐたが、その後續けて落選のうき目に遭ひ、逼迫する生活に堪えかねて「画を描くこと即ち生活」とまで考えてゐた同氏が遂に彩管を投げ捨てる決意をした旨の手紙に接した同村醫學博士青木正一氏は北村氏の天分を惜み同氏を激勵し郷里で今秋の帝展出品作を描くよう極力すゝめ、同氏の作品を知人に斡旋するなど親身もおよばぬ友情に北村氏は欣然彩管を握つて歸郷し青木氏の友情に報ゆるため三ケ月間寝食も忘れて魂を打ち込んだ大作「立てる農夫」「老農夫の像」の二枚をこのほど完成、近く搬入の運びとなつたので青木氏は同村小學校校友會員とはかり校友會主催のもとに一日小學校で北村氏の歸郷中の作品の展覽會を開いて、そのかどでを祝つた
【大阪毎日 滋賀版 昭和11年9月4日】
【東京発】第十四回一水会美術展は二十一日から十月七日まで東京上野美術館で開かれるが、滋賀県から北村富三氏が新入選した。
【掲載新聞名及び掲載年月日不明】