第2回 写真物語のモデルに

第1回〜プロローグ
第2回〜写真物語のモデルに
第3回〜貴重な写真発見!その(1)
第4回〜貴重な写真発見!その(2)
第5回 スピンオフ〜「きみも大空を さんぽ できる」月刊「ぼくら」1964年3月号 より
by H.Makino
 前回のプロローグでは、当時の子供達の生活ぶりなども含めて、導入部となるお話を簡単にお書きいただきましたが、今回は、いよいよ、牧野さんの少年モデルとしての貴重な経験が綴られることになります。
 前回と同様に、牧野さんがお書きになった部分は太字、私の余計な能書きは標準文字となっておりますので、よろしくお願いします。

第2回〜写真物語のモデルに

 

 私が、小学2年生だった1962(昭和37)年の10月頃、講談社の少女向け月刊誌『なかよし』の連載小説「どこかで鐘が」に主人公の弟役で“挿絵”ならぬ“挿し写真?”のモデルとして出ることになったのです!!(ページ内に“写真物語”とある!)

[主宰者から]
 たしかに、あの頃、少女マンガ雑誌には、この「どこかで鐘が」と同じような写真物語が、けっこうありましたし、別冊付録の名作マンガなども、中身はマンガなのに、何故か、表紙ではモデルの写真が使われたりしていたものでありました。

 当時モデルの中に、後の「マグマ大使」に出演して有名な「江木俊夫」などがいました。
 このモデルという仕事は、もともとその子供の親が、いかに頑張るかによって、その後の子供の生きていく方向が決まるといってもよく、たまたま「江木俊夫」の両親が熱心だったために、芸能界に入ってしまったのだと思います。(私の親は、芸能界入りは反対だったみたいでしたので子供の時の思い出としてやらせたみたいです。)

[主宰者から]
 そうなんです。
 江木俊夫は、まだ、「マグマ大使」なんかに出るようになる前には、牧野さんと同じように、少年マンガ雑誌の表紙モデルなどもやっていたわけでありまして、左の画像は、東京オリンピック開幕直前に発売された『少年画報』の1964(昭和39)年10月号で少年聖火ランナーに扮した若き日の江木俊夫の姿であります。
 ちなみに、江木俊夫が出演した「マグマ大使」の放映が始まったのは、この表紙から約2年後の1966(昭和41)年7月のことでありました。
 ということで、牧野さんがお書きになっているように、ご両親は「芸能界入りには反対」されていたようですが、仮に、牧野さんのご両親が私のように「次男をジャニーズ事務所に入れるぞ」などと考えてしまうようなミーハーな親御さんであったりしたら、牧野さんは、ひとつ間違えば、フォーリーブスだったかもしれなかったりしたわけです。
 

 ロケといっても二通りあって、外で撮るものと、会社内で撮るやり方があり、私の場合は、社内で撮ることが多かったと記憶しています。
 社内で撮った場合は、出来あがりを見てみると何かと合成して一つの写真にしていました。
 『なかよし』のときは、主人公の少女が、本当のお母さんと巡り会うまでの“涙の物語”で、私は、その少女の弟役でした。主人公の少女は、私より確か1歳年上だったと記憶していますが、撮影で、姉弟が抱き合うシーンが何回もあり、子供心にも恥ずかしかったことしきり・・・。
 この撮影で、唯一外でロケーションしたのが、この小説でも、大事なシーンだった姉と弟が再会する場面で、「馬事公園」だとと思うのですが、小さな“馬”をなぜか引かされておっかなびっくり演技したのを覚えています。しかし、主人公の姉は、なぜかそのロケ地にはおらず後でスタジオで撮影した写真を合成してつじつまを合わせていました。

[主宰者から]
 この馬を引かされた時の写真は、既に、前回の(1)プロローグで使わせていただいております。
 確かに、女の子と手をつなぐことさえ恥ずかしい少年の時期に、たとえ、仕事とはいえ、年齢の近い女の子と抱き合うシーンというのは、恥ずかしさも一入であったろうと想像されます。
 もうオヤジになってしまった今は、こんな写真撮影は羨ましい限りにしか思えないわけでありまして、「牧野さんばっかりいい思いをしてずるい」などと訳の分からない言葉を口走ったりしておりますが、こんなオヤジにも、確かに、こういうことが恥ずかしくてたまらない時期があったのでありました。
 

 小説の“出演者欄”には、ヒロインのみ書かれており、私の名前は、なぜかありません!
 この“小橋玲子”なる女の子(現在は、・・・才の女性!?)は、その後どうしたのかわかりませんが、会ってみたいものです。

[主宰者から]
 牧野さんの記憶からは、小橋玲子さんの記憶は殆ど消え去ってしまっているようですが、私の記憶の中には、この小橋玲子という人は、けっこうハッキリと残っていますので、別コラムの形で、書かせていただきます。

 では、「どこかで鐘が」のストーリーを簡単にまとめてみましたので、当時の小学校3年の“女の子”になったつもりで読んで見てください。


〜「どこかで鐘が」ストーリー抄録〜
 

 絵里にはお母さんがいません。
 横浜の教会で一緒に暮らしていた神父のお父様が死んだので、北海道にいるという本当のお父さんや弟のクニオを捜しに出かけます。
 そして、黒人のジョウと歌を歌いながら歩いているうち、偶然にもお母さんに巡り合いました。
 しかし、お母さんは世を捨てた尼僧でした。
 まもなく、弟のクニオとお父さんが見つかりました。
 絵里は二人を連れて、もう1度お母さんに、会いに修道院へ訪ねて行きますがそこには、もうお母さんはいませんでした・・・。

 実は、おかあさんは、尼僧を辞めて絵里が黒人のジョウと歌うことになっていた「日比谷公会堂」に雪の中朝から待っていたのでした。そして、あまりの寒さで体を壊して入院していたのでした。ジャズの公演が終わった後お父さんが絵里とクニオを迎えに来ていました。お母さんが見つかったと・・・。
 しかし、お母さんは、輸血を必要としていましたが、O型の血液が足りません。
 子供たちは、「自分の血を・・・!」と叫ぶのですが、子供はだめだと断られてしまいます。
 そんな時、黒人のジョウが自ら「私は、O型なのでぜひ採ってください!!」と申し出てくれたのです。

 そして、お母さんは、元気になることが出来たのです。 これで、やっとのことでお母さんと一緒に暮らすことができるようになりました。

 これが大体のあらすじですが、なんと悲しい物語でしょうか!
 文中コピーにも、「お母さんのいない教会の子、絵里の悲しいお話・・・」とあります。
 ちなみに、今日の今日まで、私は、この“写真物語”の内容を読み返したことはなく、初めて最後まで読んでしまいました。
 当時も、もちろん物語を把握していませんでしたからね!
 (そう言えば、ご対面ものは、当時から人気だった気がします。なぜか、日本人は好むようです。桂小金治アフタヌーンショーや、小川宏ショーなんかも“ご対面企画”があったと思います。これらの人気TV番組ももちろん60年代を代表するカルチャーだと思いますが・・・。)

小橋玲子さんについて
 
 牧野さんの記憶からは、“小橋玲子”というタレントの存在は殆ど消えてしまっているようですが、私の記憶の中には、しっかりとプリンティングされておりますので、簡単に紹介させていただきます。
 当時の状況からいうと、少女モデルというか子役として活躍をし、そのまま、テレビ・タレントや俳優として芸能界での地位を確立していくというパターンがあって、例えば、牧野さんが言及されている江木俊夫などは、確かに、モデルから子役へ、そして、フォーリーブスの一員として、スターへの道を歩んだわけですし、ちょっと世代的には上になりますが、松島トモコとか中山千夏なんかも、そういう系譜に入るのではないかと思います。それから、以前、紹介させていただいたブルーコメッツと一緒に少女フレンドの表紙を飾っていた高見エミリーなんかも、やはり、モデルあるいは子役からタレントへという流れの一例なのでありましょう。また、この小橋玲子なんかと同じ時期に活躍をしていて、現在も、タレント活動を続けている人としては。榊原ルミなどの名前が浮かんできます。
 
小橋玲子
左から2番目が小橋玲子、その右隣が
松本めぐみ、その右隣の帽子をかぶっ
ているのが小松政夫です
ジュリーの左側で横顔の
見えているのが小橋玲子
であります

 さて、小橋玲子に話を戻しますと、昭和40年代前半には、いわゆる「ヤング・タレント」(というような言い方があったかどうかも忘れましたが…)として活躍し、TBSの“ヤング720”で、亡くなった小柳とおるさんなんかとレギュラー司会者などもやっていたと記憶しています。
 それから、「60年代通信」では、このところ、たまたま、グループサウンズ(GS)のことを取り上げさせていただく機会が多くなっておりますが、ザ・タイガースの初の主演映画である「世界はボクらを待っている」でも、ザ・タイガースのファン役として大事な役回りを演じていたのが、小橋玲子さんでありました。
 上の画像をご覧いただいても分かるかと思いますが、映画の冒頭で紹介される出演者のリストでも、主演のタイガースのメンバーに続いて、ジュリーの相手役だった久美かおりと共に、小橋玲子の名前が登場しております。
 ジュリーの相手役として、準主役を演じた久美かおりは、この映画が公開される前年の1967(昭和42)年のレコード大賞では、「口づけが怖い」で、永井秀和と共に新人賞を受賞しています。
 この映画で、同じタイガースのファン役ながら、お金持ちのお嬢さんとして、運転手付きの車を乗り回していたのが、現・加山雄三夫人の松本めぐみ、その運転手役は、小松政夫でありました。
 小橋玲子は、ファン役として登場していましたので、ジュリーと絡む場面は全くありませんでしたが、唯一、ジュリーと一緒に映る場面が、上の画像にある、楽屋から出て来たジュリーがファンにもみくちゃにされる場面でした。
 ちなみに、この映画では、地球に不時着したUFOにのっていた何処かの星の王女様が久美かおりで、三遊亭円楽が星の王子様として登場し、タイガースの警備に当たる刑事役として小沢昭一も出演し、その小沢昭一が演じていた刑事の娘でタイガース・ファン役だったのが小橋玲子でした。

ということで、このページをアップした直後(1998年11月22日夜)に、むむむさんという方から、次のようなEメールを頂戴しました。

 ところで、小橋玲子のところに久美かおりのことが出ていましたが、彼女は、ザ・タイガースの「世界はボクらを待っている」がデビューだと思っていたのですが・・・。
 少なくとも「口づけが怖い」でレコード大賞の新人賞を受賞したのは、「世界はボクらを待っている」の後だと記憶しています。
 違うかな?

 実は、ご指摘の通りでありまして、久美かおりが「口づけが怖い」でレコード大賞を受賞したのは、「世界はボクらを待っている」が公開された1968(昭和43)年のことでありました。
 すでに、「60年代のカレンダー」というコーナーで「レコード大賞受賞者リスト」というページまで作らせていただいているにも関わらず、その辺の確認作業を怠ったまま、自分の強い思い込みに基づいて、書かせていただいてしまいました。
 「60年代のカレンダー」の「レコード大賞受賞者リスト」をご覧いただければ、すぐに、ご確認いただけることではありますが、一応、ここで、1967(昭和42)年のレコード大賞と新人賞、1968(昭和43)年のレコード大賞と新人賞の整理をさせていただきます。

レコード大賞
新人賞
1967(昭和42)年
ブルーシャトー(ジャッキー吉川とブルーコメッツ)
恋人と呼んでみたい(永井秀和)
世界は二人のために(佐良直美)
1968(昭和43)年
天使の誘惑(黛ジュン)
あなたのブルース(矢吹 健)
くちづけが怖い(久美かおり)
恋の季節(ピンキーとキラーズ)

 ここで、一応、言い訳めいたことを書かせていただきますと、題名や曲のイメージ、歌手の雰囲気というようなことでいうと、「恋人と呼んでみたい」の永井秀和と「くちづけが怖い」の久美かおりの方が、組み合わせとしては、永井秀和と佐良直美、あるいは、矢吹健と久美かおり、というような組み合わせよりも、私にとっては自然でありまして、しかも、GSフリークの私としては、どちらも、いかにもGSサウンドという編曲だったと記憶している「恋人と呼んでみたい」と「くちづけが怖い」をセットでインプットしてしまったというような事情もあったようで、今回のような誤りにつながってしまったものと思われます。
 ということで、やたらに能書きが長くなってしまいましたが、要するに、訂正記事としては、“「この映画が公開される前年の1967(昭和42)年のレコード大賞では、『口づけが怖い』で、永井秀和と共に新人賞を受賞しています」とあるのは、「この映画が公開された1968(昭和43)年の暮れには、『くちづけが怖い』で、矢吹健、ピンキーとキラーズとともに、レコード大賞の新人賞を受賞しています」の誤りでした、訂正します”というようなことになりますので、よろしくお願いいたします。

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