"THE TOPICS OF A WEEK!!" 
 このほど、私が常々思っている事や、1週間の中で感じた事や出来事を書きとめる日記のような内容の新しいページを作る事にいたしました。 つきましては、どうか主宰者の独り言と受け止めて読んでいければありがたいと思っております。

1999年12月までのTOPICS
2000年1月までのTOPICS
2000年2月までのTOPICS
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 6/MAY/2000  36年ぶりの再会!!
 な、なんと3週間ぶりとなる更新です。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私は相変わらず仕事に追われ、ここ2週間休みなしの状態であります。
しかし、飛び跳ねるほどのうれしいこともありました。それは、2度目のメールとなる生沢徹さん御本人から頂いた、実に33年振りとなる「ニュルブルクリンク24時間レース」参戦というGOODな情報の提供です。また、このHPを通じて知り合うことが出来ました方々の温かい真心に触れられたことも嬉しい出来事でありました。
 ところで、今回のTHE TOPICS OF A WEEKは、私事で大変申し訳ないのでありますが、最近、私の幼年期時代からの長年の謎でありましたある事柄について少々述べさせて頂こうかと思っております。それは、実に36年振りに解き明かされたことでありました。
・・・と言いましても、こんなこと私の中にしまっておけばいいことなのでありますが、昔から出たがりの性格を隠し持っておりました私としては、どうしても報告だけはしておきたいな・・・などと勝手に判断いたしました結果、一応、書かせて頂くことにいたしました。どうか、見苦しいところが多々あるとは思いますが、御了承ください。
 さて、どこかでお話しをしたことがあるとは思うのですが、実は私は昭和38年から昭和39年にかけて、講談社発行の少年月刊誌「ぼくら」の表紙のモデルをさせて頂いておりました(この件については、私の尊敬するHP「60年代通信」に幸運にも特集「ぼくら」村の少年として企画特集して頂きました)。
それは私が、小学校3年生から4年生にかけてのことでありました。私自身その当時の記憶は確かにはっきりしているのですが、なぜか昭和39年発行「ぼくら」3月号のセスナ機とのロケ写真が必要以上に撮影されて写真だけ家に残っており、他の表紙の時と違う感じでありましたのがどうも気になっておりました。なぜいろいろなカットが沢山撮影されていたのかが私自身分からず、親父無き今となっては永遠の謎となってしまったわけでありました。
そんな時、ある古本屋さんになんと「1964年3月号」があるではありませんか!
もちろん、私の家には当時表紙となった全ての表表紙は保存してあるのですが、肝心の中味は捨て去っており(当時は私の親父が全ての管理をしておりました関係上、表紙のみを切り取り保管するということは、当時としては、至極当然の処理だったと思われます)、今となってはなんともったいないことをしたと後悔しきりであります。そして、懐かしさと中身の見たさで、少々高くつきはいたしましたが、すぐさま購入してしまいました。すると、ペラペラとページをめくっていきますと、なんと、なんと・・・ありました!当時の私が「84〜85ページ」に堂々(?)と登場しているではありませんか!!
 上の画像は、昭和39年3月号の表紙と何故ゆえに写真が多く残っていたかの謎を解くことが出来た問題の84〜85ページであります。この号に限り、5大特集の中の一つ「最新型 軽飛行機のすべて」という中で、このセスナに乗る1人の少年役として私が登場していたため、当然撮影するカットが多くなったというのが真相でありました。
 ちなみにこの「5大特集」とは、
(1)これが風魔流忍法だ
(2)海底に沈んだ大陸
(3)新しい科学そうさ
(4)最新型 軽飛行機のすべて
(5)芳の里アメリカみやげ話 きずだらけの武者修業
であります。私はこの中でも(5)の「芳の里・・・」の記事を読んで大笑いしてしまいました(内容は、また別の機会で・・・)。
 この機会ですから、「ぼくら」の表紙でとても自慢(なにが自慢だか・・・笑)な2カットがありますのでご紹介して今回の自己中のTOPICSを終わらせて頂きます。
みなさんどうもお騒がせいたしました。
左上の表紙は、今だ人気の衰えを知らない「ミスター・ジャイアンツ」との2ショット(しかし、これがなんと合成写真・・・爆笑)。そして、1964年4月号で、当時最新型だった「ホンダS500(S500ですよ!!)」のコクピットに納まる私です。
主宰者
 19/APRIL/2000  「クイズで当てよう!くるま村グッズ」に御応募本当にありがとうございました。
 2週間にわたって行ないました、開設1周年記念 感謝企画「クイズで当てよう!くるま村グッズ」も皆様の御協力のもと無事に終わることが出来ました。解答をお寄せ下さった皆様、本当にありがとうございました。もし、2年後に再びこのような機会がありましたら、その時もよろしくお願いいたします。
 さて、今回の3ジャンルの問題に対しての集計を簡単ではありますが、出してみましたので参考までにご覧ください。
(1)解答者数・・・ 8名
(2)ジャンル別解答者数 「60〜70年代日本モーター・スポーツ」に関する問題・・・4名。
「60〜70年代世界モーター・スポーツ」に関する問題・・・1名(2通出していただいた方が2通目に世界モータースポーツを解答されましたが、最初のジャンルであった日本モータースポーツの解答を優先しました)。
「60〜70年代モデルカー・レーシング」に関する問題・・・3名。
(3)平均正解数・・・8.96点
(4)全問正解者・・・2名
 以上のような結果となりました。本当に皆さんの60〜70年代モーター・スポーツ及びモデルカー・レーシングに対するの知識の高さに驚くばかりであります。また、「日本モーター・スポーツ」と「モデルカー・レーシング」の問題に集中したということも当初の予想に反した結果であったように思いました。
 やはり「第1回〜69年日本グランプリ」が私たちに強烈な印象を及ぼしていたからの結果でありましょうか。
 ところで、今回の「60〜70年代モデルカー・レーシング」についての問題の中で、1つだけ私の誤りがありました。それは、ある方からの「物言い」でわかったことなのでありますが、当時の日本メーカーで「アルファ・ロメオ・カング―ロ」を発売していたのは、「クライマックス社」と「緑商会」の2社であると確信しておりましたところ、もう1社「タイメイ」というメーカーから発売されていたことがわかりました。
このメーカーは、完全に私の記憶の中から欠落しておりました。しかし、存在していたんですね!
ということで、私の落ち度でありますので、「60〜70年代モデルカー・レーシング」に関する問題についてのみこの1問を減らし、全10問ではなく、全9問という形で集計させていただくことにいたしました。どうか御了承ください。もちろん、全問正解の方の成績はそのまま全問正解でありますので御安心ください。
よく調べてから問題作らなきゃいけないという教訓でありました(笑)。
 さて、今回出題いたしました問題の解答を簡単ではありますが、公表させて頂きます。
「60〜70年代日本モーター・スポーツ」に関する問題 
(1)「第1回日本グランプリ」において、「スポーツカーレース」で優勝したマシンは、「ロータス30」の“ピーター・ウォー”である。 
答え:× ロータス23
(2)「第2回日本グランプリ」で、式場壮吉のドライブする「ポルシェ904GTS」が優勝したが、2位となったのは、“生沢徹”の「プリンス・スカイライン2000GTB」であった。 
答え:× 砂子義一のスカイライン、生沢徹は3位。
(3)「第3回日本グランプリ」は、1966年5月3日に「富士スピードウェイ」で開催された。 
答え:○ 1965年は中止
(4)「第4回日本グランプリ」で突如エントリーしたビッグ・マシンは、「マクラーレンM6B」であった。
答え:× ドン・ニコルズと安田銀治の「ローラT70MKII」
(5)「第5回日本グランプリ」において、ニッサンR381に積んでいたエンジンは、アメリカのシボレーV8  5.5リッタ―エンジンであった。
答え:○
(6)「69年日本グランプリ」で、風戸裕がエントリーして出場した「ポルシェ910」は、前年生沢徹が乗って総合2位となったマシンそのものであった。
答え:○ 同じ「タキ・レーシング・チーム」からエントリー
(7)「68年日本CAN-AMレース」では、富士スピードウェイの6kmフルコースが使用された。
答え:× 左回り4.3kmコースを使用 
(8)「69年日本CAN-AMレース」の予選トップだったジャッキー・オリバーの「オートコーストTi22」のタイムは、前年のポールポジション・タイム“1分16秒81”を破る“1分15秒55”だった。 
答え:× 1分18秒19
(9)「70年JAFグランプリ」に来日し独走で優勝したドライバーは、「ジャッキー・イクス」であった。
答え:× 「ジャッキー・スチュワート」
(10)「71年日本グランプリ」で優勝したマシンは、「三菱コルトF2000」であり、ドライバーは、“永松邦臣”であった。
答え:○ ちなみに、生沢徹の「ロータス69・FVC」は、3位。
「60〜70年世界モーター・スポーツ」についての問題 
 (1)アメリカのデイトナ24時間レースにおいて、「デイトナ・フィニッシュ」と最初に呼ばれたのは、1967年の同レースにおいて、“フォードMKII”が1〜3位と3台並んでゴールしたことが最初であった。 
答え:× フェラーリ330P4が1〜3位までを独占し、並んでゴールして以来。
 (2)モーター・スポーツに最初にタービン・エンジンを積んでレースに参加したのは、1967年のインディ500においてパーネリ・ジョーンズが乗った「STPタービン」であった。
答え:× 1965年ル・マン24時間レースに出場した「ローバー・BRM」が最初。
 (3)マリオ・アンドレッティが最初に優勝したF1レースは、“フェラーリ312B”での1971年の南アフリカ・グランプリである。
答え:○
(4)映画俳優「スティーブ・マックイーン」は、1970年のセブリング12時間レースで、ジャッキー・スチュワ―トと組んで“ポルシェ908II”で総合2位となった。
答え:× 「ピーター・レブソン」
(5)1965年に行なわれたマニファクチャラーズ選手権「タルガ・フローリオ」において優勝したのは、“ニノ・ヴァッカレラ”と“ロレンツォ・バンディーニ”がドライブした「フェラーリ330P2」であった。
答え:× 「フェラーリ275P」
(6)1968年、F1選手権 イタリア・グランプリにおいてポール・ポジションを取ったのは、ジョン・サーティーズの“ホンダRA−302”であった。
答え:× 「ホンダRA301」
(7)インディ500において、“A.J.フォイト”は、合計4回優勝している。
答え:○
(8)1966年「CAN-AMシリーズ」において活躍した「チャパラル2E」のシャーシは、前年の「チャパラル2C」の物を流用している。
答え:○ アルミニウム・シャーシーだった「2C」がナッソー・スピードウイーク・レースでクラッシュし、その後「2E」として生まれ変わる。
(9)「ル・マン24時間レース」、「モナコ・グランプリ」、そして「インディ500」の世界3大レースに勝利をおさめているドライバーは、“グラハム・ヒル”だけである。
答え:○ *マリオ・アンドレッティは、「モナコ・グランプリ」に勝っておらず、今年ル・マンに勝っても“3冠王”にはならない(ただし、F1チャンプ、インディ500優勝の実績あり)
(10)BRMが開発した「3リッターH型16気筒エンジン」は、1回優勝したことがある。
答え:○ 1966年アメリカ・グランプリにジム・クラーク(ロータス43・BRM H16)によって勝利する。
「60〜70年代モデルカー・レーシング」についての問題 
(1)田宮模型においての1/24スケール・モデルカー・レーシングの発売順は、「ジャガーDタイプ」、「ロータス30」、「マクラーレン・エルバ」、「フォードGTスパイダー」、「フェラーリ330P2」、「ランチャ・フェラーリ」、「プリンスR380」、「ローラT70」、「ロータス40」、「キング・コブラ」、そして「ポルシェ・カレラ6」であった。
答え:○
(2)日本のメーカーで、1/24「アルファロメオ・カングーロ」を発売したのは、“緑商会”と“クライマックス”の2社であった。
この問題は、前記理由により無効問題としました。
(3)オール・ブラス製の「ロータス・フォード」を発売したのは、“ゴーセン”であった。
答え:× 「宮沢模型」から1/24スケールで発売された。
(4)大滝製作所の「フォード・コブラ」と長谷川模型の「フェラーリ250ル・マン」と「アルファロメオ・ジュニア1600」のシャーシは、“サイドワインダー”方式であった。
答え:○ 大滝は、ダイキャスト、長谷川は、アルミ製で、共にFT−16を配置したサイド・ワインダー・シャーシー。
(5)アメリカCOX製「チャパラル」のモーターは、日本の“マブチFT−36”であった。
答え:× 「FT−36D(TTX250)」
(6)一貫して、シャフトとホイールを“六角イモネジ”で止めていたのは、日本では、“田宮模型”だけだった。
答え:○ ただし、初期モデルは、マイナス・イモネジ。
(7)「コグレ」のスロットカーの中には、“スイング・アーム”を持ったモデルが存在した。
答え:○ 1965年製1/24「ダットサン・フェアレディ」「ジャガーKX−E」
(8)1/24「ニッサンR380II」のクリヤー・ボディは、クライマックス社から発売されていた。
答え:× 「ライト工業」よりスーパー・クリヤー・ボディとして当時500円で発売された。
(9)1966年頃、アメリカ・レベル社の日本における輸入元は、“郡是産業”であった。
答え:○
(10)モデルカー・レーシング創世記の頃は、鉄道模型用モーターが盛んに使われていた。
答え:○ 1965年当時マブチ・モーターより、トルクがある鉄道模型用モーターがストックカーに良く使われていた。「天賞堂マイティモーター」「宮沢模型製モーター」「カツミDV−18E6V」「ピットマン・モーター」
 ところで、クイズ以外に「アンケート」に対しても御協力頂きまして、重ね重ねありがとうございました。
この場を借りまして、アンケート集計も同時に発表させて頂きます。
アンケート 集計
「60〜70年代モーター・スポーツ」に関したアンケート (お一人様複数記載あり)
(1)あなたが一番好きなレーシングカーとドライバーはなんですか?
*レーシングカー・・・「ダイハツP3」、「ニッサンR380II」x2、「フェラーリ330P4」、「ローラT70」、「ロータス49」x2、「ポルシェ910」
*ドライバー・・・「ジョン・サーティース」、「高橋国光」、「浮谷東次郎」、「風戸裕(昔彼の車に乗せてもらったから)」、「福沢幸雄」、「ジム・クラーク」、「生沢徹」 各1
(チャパラル2D・デイトナ仕様、フォードF3L、そしてフォードJ、ローラT70MKIII・・・きりがない。
ドライバーでは、ジョン・サーティーズ、マリオ・アンドレッティ・・・TETSU 主宰者)
(2)印象に残っている“レース”はなんですか? 
*「昔CGテレビで見た浮谷東次郎の走っていたレース」(たぶん、1965年全日本自動車クラブ選手権レースのことではないかと思います・・・主宰者)。
*「1967年第4回日本グランプリ」x2
*「1965年全日本自動車クラブ選手権レース大会 GT−I レース」
*「1967年F1選手権 イタリア・グランプリ」(生で見たかった・・・と、解答者弁)
*「1968年第5回日本グランプリ」
(「第5回日本グランプリ」での最初の12周、2台のニッサンR381と田中健二郎のローラT70MKIII
のデッド・ヒート 主宰者)
(3)浮谷東次郎を知ってますか?
*「はい。尊敬しています。素晴らしい人間だと思います。」
*「はい。」x3
*「良く知りません」
*「もちろん、世界最速のドライバーですよね!」
(知ったのは、だいぶ後からですが、今は“TOJI'S CLUB”には入ってます。人間的に好きです。 主宰者)
(4)国内外で実際に観戦したレースはありますか?
*「ごめんなさい。ないです。」
*「70年JAFグランプリ(生沢のゼブラカラー・コルトF2D)」
*「NO」x2
*「大好き。最近のフォーミュラは個性がなくて足がサーキットに向かない」
*「1967〜69年の鈴鹿耐久レースはほとんど見た」
*「1977年F1日本グランプリ」
*「1968年第5回日本グランプリ」
(1971〜73年の富士グランチャンピオンシリーズの大半。1971年富士1000kmレース トヨタマークIIXRターボが出ていました 主宰者)
「60〜70年代モデルカー・レーシング」に関したアンケート 
(1)1965年ごろのブームにおいて、実際に体験されましたか?(体験されていない方は、(4)からのアンケートからでもかまいません)
「友達の家で見せてもらった事くらいしかありません。」
「はい」
「NO」x2
「もちろん」x2
「体験しました」
(2)どこのメーカーが好きでしたか?また、好きなモデルカー名はなんですか?
*「1/24田宮製マクラーレン・エルバ」
*「1/32モノグラム社製のKIT」「1/24田宮製KIT」「COX製チータ」
*「タミヤとCOX」「長谷川の275LM」「緑商会のインディ・ローラ」「田宮製キングコブラ」「レベル製ACコブラ」
*「田宮製ロータス40」
(3)クリヤー・ボディを体験されましたか?
「NO」x2
「はい。リアルさがなく一時やめました」
「結構買いました」
「少しだけ」
(4)モデルカー・レーシングという呼び名を聞いてどう感じられますか?
「欲しかったです」
「時代の匂いが思い出させる」
「このHPで知りました」
「今はスロットカーと呼んでいるので懐かしい響きです」
「60〜70年代のスロット・レーシングを表するのには何の違和感も感じません」
「今風かな?昔はレーシングカーと言っていた」
(5)現在も続けてますか?
「YES」x2
「もちろん。大好きで続けている」
「70年以降止めて、今から6年前から再開」
「休業中」

「HP」についてのアンケート 

“「くるま」村の少年たち”にこれから望むことはなんですか?
*「これからも、主宰者様の思い出を全開にして楽しませて下さい。いつも覗かせて頂いています。」
*「狭く、深く」
*「これからも主宰者の思い出を全開にして楽しませてください」
*「末永く続けてください」
*「住んでいるところは違っても、あの当時の情熱を共有していたものの一人として、主宰者の牧野さんにはくれぐれもお体を大切にされ、末永くこれからも僕たちが共感できる企画を発表されることを期待しています。」
*「昔話の充実」
*「ジョー・シファート企画」「いとしのローラ」みたいな車にピントを当てた企画の期待」「ポルシェ906〜917の特集」

 皆様、本当にアンケートご協力ありがとうございました。中には、涙流さずには読めない文章もございました。これら皆様の御意見を参考にして、これからもいっそうの充実を図りながら頑張っていきたいと思っております。重ね重ねありがとうございました。

主宰者
 9/APRIL/2000  4月7日と言えば・・・!?
 2週間の御無沙汰でありますが、皆さんお元気でしょうか?
先週は、突如思いついたように「開設1周年記念 クイズで当てよう!くるま村グッズ」なる企画をUPしてしまいましたが、現在のところ数名の方々から解答メールを送って頂きました。誠に感謝感激であります。
 このクイズは、正解不正解を問わず皆様の暖かい御声援に何とかお礼をしたい一心で始めたものでありますので、結果を恐れずにどうか御参加をお願いいたします。
ところで、先週、そして今週は、色々なことがありました、まずは、有珠山噴火に始まり、そして、突然の小渕首相の入院。本当に、ミレミアム元年である2000年はいったいこれからどのような出来事が起こってくるのでありましょうか、誠に心配であります。
 そういえば、今から32年前の1968年にも世界を揺るがす出来事があったことを皆様御存知でしたでしょうか。
と言いましても、全世界を揺るがしたというよりは、モーター・スポーツ・ファンにとっての一大事だったと記憶しております。
それは、「JIM CLARK」の死。そうです。「ジム・クラーク」という今や伝説となっているレーシング・ドライバーが、今から32年前の1968年4月7日ドイツ・ホッケンハイム・サーキットで行なわれた国際フォーミュラ2レースにおいて、ロータス・フォードで単独走行中にクラッシュ!そして、絶命したのでした!
 ジム・クラークは、スコットランド出身の天才肌のF1ドライバーでした。1963年、1965年には、コーリン・チャプマン率いるチーム・ロータスのナンバー1ドライバーとして、ロータス25、33を駆ってチャンピオンに輝きました。さらに、クラークは、F1規約が改正された1966年、エンジン排気量が、それまでの1500ccから倍の3000ccに変更されたシーズン、エンジンが間に合わず低迷していたチーム・ロータスを、信頼性の低い(BRMのH型16気筒エンジン)エンジンにもかかわらず、アメリカGPにおいてシーズン初勝利をロータスにもたらしたのでありました。これは、BRM H16エンジン唯一の勝利でもありました。
(左の画像は、1966年US・GPで優勝したクラークのロータス43・BRM。右は、H型16気筒BRMエンジン)
そして、クラークは、翌1967年シーズン、遂に最強のエンジンを得ました。それが、あの「フォード・コスワースDFV(ダブル・フォー・バルブ)」だったのであります。
 クラークとチーム・ロータスとしては、最強のフォードDFVエンジンとロータスのニュー・マシン「ロータス49」のコンビで臨んだ1967年は、チャンピオンを取る絶好のシーズンになるはずでありました。しかし、エンジン供給が遅れたことや、エンジンの信頼性が今一つだったことで、チャンピオンは、ブラバム・レプコに乗る「デニス・ハルム」のものとなってしまいました。そんな状況下の中、クラークは、9戦出場中4勝し(3戦リタイヤ、3位1回、6位1回)、総合3位となり、翌68年シーズンの勝利を確信したのでありました。
 そして迎えた1968年、開幕戦となった「南アフリカ・グランプリ」では、予定通りの完全優勝で飾ることが出来ました。しかも、ジョイント・ナンバー1ドライバーである「グラハム・ヒル」が2位にはいるワン・ツー・フィニッシュという圧倒的な強さを示したのでありました。
 “もし”と言うことが言えるのであれば、1968年4月7日、当初ジム・クラークは、悪魔の「ホッケンハイム」に出場するはずではなかったのでありました。実は、同日イギリスのブランズハッチで開催されるマニファクチャラーズ選手権(スポーツカー・メーカー選手権)に、同郷のアランマン・レーシングから、デビュー戦となる「フォードF3L(右画像フォードP68)」のドライバーとしてエントリーしていたのでありました。
 何という運命のいたずらか、チーム・ロータスは、契約を盾に、クラークにF2レース出場を迫り、やむを得ずアランマン・チームのオファーをキャンセルし、クラークは、結果的に“死”を選んでしまったわけでありました。
わたしは、もしも「タイムトンネル」なるものが実在したのならば、すぐにでも1968年に戻り、ジム・クラークを救ってあげたい気持ちであります。そんなことを考えておりますと、1965年の「浮谷東次郎」、1969年の「福沢幸雄」、1970年の「ヨッヘン・リント」、「ブルース・マクラーレン」、「川合稔」、そして1974年の「風戸裕」、「鈴木誠一」などの名ドライバー達も救えたらなとつい考えてしまいます。
 ジム・クラークは、同郷の「ジャッキー・スチュワート」に破られるまで、F1優勝回数25回という金字塔を立てて天国へ召したのでありました。
1936年3月、スコットランド生まれの弱冠32歳。まだまだこれから勝ち続けることが出来ただけに誠に残念でありました。
 「モデルカー・レーシング」の立場からしても、ジム・クラークは憧れの「ロータス30/40」、「ロータス38」のドライバーとしてとても有名であり、ブリティッシュ・レーシング・グリーンにイエローのストライプのカラーリングは、当時の定番的カラーでありました。さらに、私が初めて読んだ秋田書店発行の「モデルカー・レーシング入門」のカラーグラビアには、1965年インディ500で初優勝したジム・クラークの「ロータス38」が紹介されており、その時の印象が今も強く焼き付いております。
 ということで、今回のTOPICSは、「今日は何の日!?」ということで、伝説のF1ドライバー「ジム・クラーク」を紹介させて頂きました。
主宰者
19/MAR/2000   2000年F1開幕記念企画「フォーミュラ・ワンへの夢」PART 2
 皆さん、先週はいかがお過ごしだったのでしょうか。
私は、一昨日、昨日と今の仕事でありますインポート・ファッションの一大イベントであります「東京サンフェア―(2日間で16,000名を動員する日本で一番大きな有名海外ファッション・ブランドのバーゲン・セール)」に出店のため、休みを返上して行ないました関係上、不覚ながらもうくたくた状態であります。そして、本日は久々の休日を頂戴しましたので本日昼過ぎまで睡眠を取ることが出来たしだいです。
 私事はこのくらいにしまして、先週のF1開幕戦でありました「オーストラリアGP」は、マクラーレンの相次ぐリタイヤにより、フェラーリのワン・ツー・フィニッシュという結果に終わりました。ところで、マクラーレン神話と言うものが生まれましたのは、1967年にシリーズ2年目を迎えた「CAN-AMシリーズ」で名車“マクラーレンM6A”がシリーズ・チャンピオンとなり、その後1971年まで取りこぼしはあったものの勝ち続けてからだと記憶しております。一昨年、昨年とマクラーレンと“ミカ・ハッキネン”の強力コンビは、年間チャンピオンの座につくことが出来た訳でありますが、実は、30年ほど前に前記のとおりマクラーレンは、CAN-AMシリーズにおいて無敵を誇っていたのでありました。丁度、前回で御紹介した「F1一番乗りは俺だ!」に登場いたしました“風戸裕”も1971年に、この「CAN-AMシリーズ」に挑戦し、最高位5位というすばらしい成績を残し、シリーズ総合成績も10位という立派なものでありました。
ちなみに、総合優勝は、マクラーレンM8Fに乗った“ピーター・レブソン(アメリカの大手化粧品メーカー“レブロン”の御曹司で、第1回日本CAN-AMの優勝者、その後レース中に事故死)”で、2位にも同僚の“デニス・フルム(1967年F1チャンピオン、1968,70のCAN-AMチャンピオンで、1985年富士スピードウェイの“インター・テック”にジャガー・ワークスのドライバーとして来日している)”、そして3位には、その年2勝を上げた“ジャッキー・スチュワート”のローラT260が入り、日本グランプリにも来日した“ジョー・シファート”が4位という大変国際色豊かなシリーズ結果でありました。
 では、前回の続きとなります1972年の「CARトップ」誌に企画ページとして載っておりました「F1一番乗りは俺だ!」の後編を御紹介したいと思います。


“井の中の蛙・日本のレース界への警鐘”
TETSU IKUZAWA
本誌: ところで生沢さん、風戸さんや桑島さんの後へ続けという合言葉で頑張っている若い連中が多いと思うけど、そういう人になにかアドバイスがあったら・・・。
風戸: 出てくるのは大変結構なんだけど、最近変なものも来ますよ。準備不充分で出場できなくて帰った人もいる。(笑)
本誌: 生沢さんあたりのところへは、なんだかんだと言って手紙をよこす人も随分いるでしょうね。
生沢: そういうのは無視することにしてますよ。そんなこと相談すること自体、もう行くセンスないですよ。風戸や桑島なんか、こうして現に自分でやって来るんだから。
本誌: 生沢さんあたりは、初めにやったという点で大変でしたでしょう。そもそものいきさつはどういうことなんですか。
生沢: 最初ジム・ラッセル(イギリスの有名なレーシング・スクール)の手づるでやってきたんだけど、インチキくさくて面倒を見てくれなかった。結局は自分で開拓したわけですよ。
本誌: 風戸さんの場合は?
風戸: 全部自分で連絡をとってやりましたよ。
本誌: ヨーロッパでレース活動をするにはズバリいって何が大事ですか。カネか手づるか、ファイトか・・・。
風戸: みんなですよ。もちろん、手づるといったってみな自分で開拓するんですよ。
本誌: ところで日本のレーサーは、才能という面ではどうでしょう。
生沢: ある方でしょうね。でも井の中の蛙で経験がない。
日本で一流といわれるトップクラスのメーカードライバーでも全然来ないでしょう。見にすら来ようとしない・・・。恐らく永松(1972年に本グランプリ優勝者)なんか来ればよいところへ行けるでしょうけどね。
本誌: これは大変重要な問題だと思うんですが、いったい日本のレースは、今後、少しは向上するんでしょうか。
風戸: 2、3年のうちにはだんだん良くなっていくと思うけどね。
生沢: 僕ははっきり言って悲観論ですよ。オーガナイズしている連中が本当にレースを好きではなくて、名誉欲みたいなものでやっているだけでしょう。
この間のグラン・チャンピオンのとき、うちのチームマネージャーが3度くらいコンストラクターに呼びつけられた。なぜかというと“生沢の態度が悪い”というわけですよ。選手紹介のときでなかったという理由で・・・。
だけどあの時は、ウォーミングアップの途中、それもコースの半周でエンジンが止まっちゃったんですよ。引っ張って帰ってきてピットまで戻りなんとかスタートまでには直そうと大騒ぎしてる際中ですよ。それを連中だって見て知っているんだからね。こっちとしては、レースに出ないほうがよほどお客さんに申し訳ないと思うわけでしょう。ホントにがっかりですよ。
 まったくそういったタイプの人種だから、決める規則も良くないし、これじゃ良くなるわけはないと思うよ。
本誌: 風戸さん、2,3年の内には良くなる可能性があるといわれますが・・・。
風戸: もちろん悪い面もいっぱいあるけど。モーター・スポーツの本体・車自体がだんだん生活の中に入って来るでしょう。それと共に良くなるのでは・・・。
“さかんな一般人のレースへの関心”
HIROSHI KAZATO
本誌: しかし、やっぱりヨーロッパとは、まだまだ大きな差がある・・・。
生沢: 日本だとレースにしろ一般にスポーツといえば、悲壮感がつきまとうでしょう。レースそのもの、スポーツそのものを楽しむ余裕がない。第一、体育部のシゴキなんて、恐らく日本だけの特質でしょう。まったくイヤですね。
風戸: 一般のモーターレースに関する関心度も羨ましい限りですね。
桑島: この間も、こちらのサンデータイムズといえば、かなり硬い新聞ですよ。そこにジャッキー・スチュワートに続く男と言うことでフィッティパルディのことが囲みで出ていたけど。
生沢: 朝日新聞に「風戸がヨーロッパへ行く」なんて記事が載ることが、まずないものね。
 この間も何新聞だったかな。生沢はヒート1が終わったらさっさと着替えたけどあれはどういうことがなんて記事が載っている。あの時は誰だって着替えている。第一濡れたままでいられますか。いかにも誠意がないみたいに書かれる。
「どうして皮肉な目でばかり見てるんでしょうね。もっと好意的に見てくれないのかしら。悔しいわねェ。」と宏子さん(前夫人)の声がもれる。
生沢: こちらだと、リント(1970年イタリアGP予選で事故死したが、その年のF1ワールド・チャンピオンとなる)が勝ったとか、新人フィッティパルディが勝ったと書くけど、日本だと「生沢またもや無残な敗退」(笑)なんて書かれちゃう。
 どうして勝った選手をタイトルに使わないのかねェ。
 まったく敗者をさらにやっつけるという感じしかないでしょう。少なくとも、やり口が暗くて陰険ですよ。
風戸: イギリスでは、モーターレースは国技みたいなものですよ。日本の相撲と同じ感じ。
生沢: 日本の茶の間の話題。例えば、長島がホームラン打ったとか、貴ノ花が北富士を破ったとか。そんな感じですよ。
桑島: 知らない人とあって何か話さなければならないとき、車とかレースの話しをすれば良いわけですよ。
本誌: 生沢さんは、こちらでは有名でしょう。そういう点ではやりやすいのでは・・・。
生沢: 桑島君ほどでもないですよ。(笑)
風戸: 彼はすでに夜の部でロンドン中に鳴り響いている。(爆笑)
“日本人は車に対して神経過剰だ”
本誌: ところでヨーロッパといえばレースの本場。当然生沢さんたちも一流のレーサー連中と走る機会が多いわけですが、目標とするレーサーは・・・。
 生沢さん、ロニー・ピーターソン(1978年ロータス79に乗り、イタリアGPで事故死、当時最速のF1ドライバーといわれていた)などはどうですか。
生沢: ロニー・ピーターソンなんて目標にないですよ。第一彼は、僕らのレベルじゃないですよ。とにかく別格ですよ。我々から見たら神様みたいなもんで目標にすらならない。
風戸: 得るところより、向こうがあんまり速いんで、ガッカリですよ。こちらは・・・(笑)
生沢: ただでさえ速いのに、コスワース(エンジンチューンメーカー)が付ききりで、彼だけは特別製のエンジンをもらうんだから、ただでさえ差がつくのに、ますます差は開く一方・・・(笑)
本誌: ヨーロッパの連中は、ドライバー同士の交流はあるのですか。
生沢: 大体ドライバー同士はあまりないですね。
風戸: 例えば、この間のル・マンの場合でも、セベールとギャンレイが組んだでしょう。その場だけの付き合いですよ。
生沢: 日本だと同じ釜の飯でないとチームワークが出来ないみたいな意識があるでしょう。ドライバーは、レースでチームワークを組めばいいわけですよ。これだっていかにも日本的ですね。
本誌: 親しく付き合っているドライバーはいますか。
生沢: 何人かいます。
本誌: じゃあお互いにアドバイスなどもするわけで・・・。
生沢: そりゃあするけど、あんまりしないな。むしろバカ話ばっかりですよ。
本誌: グラハム・ヒルなんかはどのような地位にあるんでしょう。最近さすがに力が落ちてきているともいうが。
風戸: まだまだ英国のサーキットでは速いし、どんなレースでも必ず良いとこいってる。
桑島: テレビのレース解説では、毎度おなじみの顔ですし、彼なんてイギリスでは、間違いなく名士ですよ。
風戸: 日本じゃまだまだレーサーの地位が確立されていないですよ。
生沢: 自動車自体が認められていない現状で・・・何かあると車が目のカタキにされるでしょう。
 車というものに対して日本は神経質過ぎるんじゃないですか。
“大きくはばたけ! 3人の若者!!”
本誌: ところで、3人は、それぞれ日常の足に何を使われているんですか。
生沢: 桑島は、ベンツ、風戸は、BMW、僕はセリカ。一流はベンツ、ニ流はBMW、三流だと僕みたいにセリカしか乗れないんだな。(笑)
本誌: ところで、今年ももう半分過ぎちゃったわけですが、それぞれ今年の目標は、どこに絞っているんでしょうか。

MASAMI KUWAJIMA
桑島: 僕は、とにかく今年は徹底的にコース覚えですよ。そのためには、できるだけ出るチャンスを見つけてとにかく出ようということです。そして来年はF3をものにしたい。もちろんグランチャンピオンも魅力はあるけど・・・。
本誌: 風戸さんは、将来は、もちろんF1を目標に・・・。
風戸: F2が成功すれば、もちろん後はF1ということになりますがね。
生沢: 僕は、もう年だし、とてもF1は無理ですよ。しかし、風戸君、桑島君は、若いから可能性も大きいし、努力してほしいと思う。取りあえず、僕は今年残った富士・グランチャンの3戦に全力投球したい。もちろんF2戦でも良い成績を残したいけど・・・。
本誌: とにかく3人とも思った以上に明るく、元気に頑張っていられるので、安心しました。今日は本当にありがとうございました。
 生沢徹を評して、生意気だとか神経質すぎるとか、かなり風当たり強い。しかし、それはまったく当たっていないように思う。彼は、無類のテレヤなのだ。加えて非常にまじめな性格なのだと思う。彼は、レースで敗退してもあまり言い訳をしようとしない。リタイヤしても、あまり悔しそうな態度を見せない。それを見て、生沢はレースに対する執着心が薄いなどと言う。これも、大変な誤解だ。リタイヤして悔しくないレーサーなどいるはずがない。むしろマスコミが作り上げた虚像が、本人を異質なものに見せているに過ぎないのではないか。
 話しを聞けばさわやかな青年なのである。
 風戸裕は若干23歳。レース歴はそれほど古くないのに、すでにベテランの味を感じさせる。語り口も淡々をして決して力んだりしない。
「今年は、とにかくF2を一生懸命やります」という時、本当に一日も早く大成してほしいと思わずにいられない好青年である。
 桑島はまだ20歳。あどけなさを感じさせる。2人の大先輩に挟まれて、対談における発言も、あまり多くはなかった。しかし、本場イギリスをめざして飛び出した彼のファイトに期待しようではないか。
 ともかく生沢宅における対談は、大変愉快な2時間だった。


 ということで大変長いTOPICSとなってしまいましたが、当時のF1を夢見た若者たちの心意気がお分かりになられたことと思います。
しかし、1974年の風戸裕の死、桑島正美のレース界離脱、そして生沢徹のリタイヤにより、遂に彼等が夢に見たフォーミュラ・ワン・ドライバーへの道は、達成されないまま終わりを告げたのでありました。
 では、今日はこの辺で終わらせていただきます。
主宰者
12/MAR/2000  2000年F1開幕戦記念企画「フォーミュラ・ワンへの夢」
 いよいよ本日は、輝く2000年F1レースの幕開けである「オーストラリアGP」であります!!
しかし、1987年より続いておりました日本人ドライバーの連続出場が途絶えたとはいえ、7年ぶりとなるホンダのカムバックなど、話題にほど欠きません。
ところで、私が日本人F1ドライバーで思い出すのは、我がHP上でもたびたび書かせて頂いております1960〜70年代の「生沢徹」、「風戸裕」などが遂にたどり着くことが出来ずに終わった“グレーデッド・ドライバーへの夢”の悔しい思いです。
風戸裕と言えば、明日3月13日が彼の誕生日であります。もし、彼が今生きていたら“満51歳”となっていたところでありました。
そんな彼と生沢徹、そして当時20歳の若き“桑島正美”を加えたインタビュー記事が1972年発行の「CARトップ」誌にありましたので引用して御紹介したいと思います。
これは、まだまだF1への道を諦めないで日本から孤独な挑戦を続けていた日本人ドライバーたちのインタビュー記事であります。

 “F1一番乗りはオレだ!
この夏、生沢・風戸・桑島は何を起こすか(現地ロンドン独占座談会 生沢徹 風戸裕 桑島正美)
 日本を遠く離れてのレース生活となれば、さぞ苦労も多いだろうというこちらの質問に、実にアッサリ「別に」と答える若い3人。その表情は、底抜けに明るい。力まず、さからわずゴーイングマイウェイをつらぬく3人に、栄光の日を期待したい。
 さすが本場!F2に強者がワンサ
本誌(CARトップ誌):F2は年間何レースですか。
風戸: ヨーロッパチャンピオンシリーズが15回くらい。その他全部を含めてトータル25回くらいかな。
僕は全レースに出るつもりでやってますが。
生沢: 僕は、風戸君より少し少ないけど、それでも15回ぐらい。それに今年はフジ・グランチャンピオンの残り3戦にも参加予定です。
本誌: となるとレース前の準備もかなり大変でしょうが、大体試合前のスケジュールは、どういうふうになってるのでしょうか。
生沢: レースは日曜日でしょう。そうすると金、土が予選ですよ。だから、木曜日にロンドンをたって、月曜日に戻ってくるというのが、一般的なパターンですね。
本誌: 準備は日本と違って少人数だから、何かと大変だと思いますが・・・。
生沢: 人によって違うけど、風戸君と僕の場合は、人任せでやってるから、まあ自分のパンツをスーツ・ケースに詰めるくらいですよ。
本誌: レースの内容は想像以上に厳しいと聞いてますが・・・。
風戸: 同じようなハイレベルのヤツがうじゃうじゃいるから大変ですよ。
生沢: 日本だと2リッターのいっても、せいぜい本命は10人くらいだけど、こちらは、1レース60台が予選に参加するとしたら、全部が全部勝ちそうな連中ですからね。
風戸: 我こそはという連中が世界からワンサかやって来るでしょう。生存競争は考えられないくらい厳しいですよ。
生沢: 予選の予選があって、僕と風戸なんか、この前のレースで、予選の予選で見事2人とも落っこっちゃった。ちょっと失敗すると予選の予選すら出られない・・・(笑)
本誌: 予選の予選で、何台くらい集まるわけですか。
風戸: 50台の中からまず32台に絞って、さらに本番では、16台しかグリッドに並べないわけですよ。
生沢: だから、ちょっとでもマシンの調子が悪かったりすると、グラハム・ヒルであろうとベルトワーズであろうと0.01秒くらいの差で落ちちゃう。
この間もフィッティパルディにあって、本当にドキッとしたよ。だって、急に年をとった感じなんですよ。彼は、今年26歳でしょう。それなのにシワだらけって感じだもんね。
 特に今年はF1は厳しいから顔が変わっちゃったんですよ。
本誌: それほど神経も体力もすり減らすんでしょうね。
風戸: 第一日本じゃ全然名前の知られていないヤツでも、勝てる選手がゴマンといる。
生沢: 実際、誰が1位になったとしてもおかしくない。
例えば昨年のようにエンジンが拮抗しているときなんか、20人がレースに出るとするでしょう。そうすると20人が交互にトップにたち、最終ラップの最終コーナーまで、誰がトップで入ってくるかわからない有様だったんだから・・・。
 はじめは「こういう話しはノリにくいねぇ」といっていた3人も、次第に話しに乗ってきたとみえて、俄然話しは佳境に入ってきた。


左から、風戸裕、生沢徹、そして桑島正美
 モロいエンジンで波乱含みのF2戦線
本誌: 今年のF2はエンジンの当たりはずれがひどいと聞いてますが。
生沢: ヒドイヒドイ!各チームとも文句たらたらどうしょうもないよ。とにかくやたら壊れるッて感じですよ。この間のホッケンハイムでも、電気系統がいかれたし、フジ・グランチャンピオンでも電気系統をやられちゃったんですよ。あんまりひどいんで、ロンドンで、コンストラクターの会議があるんだけれど、その席上でCSI(国際スポーツ委員会FIAの一機構)にみんなで断固提訴することになっているんですよ。それもこれも、あんまりにもエンジンが壊れすぎるからですよ。
 FIAが、変な規則なんか決めちゃうもんだから・・・。去年のF2は本当に面白かったでしょう。面白くなるとすぐに規則を変えてしまう。
 (本誌から少し読者に説明しよう。昨年1971年までのF2レースはエンジンは1.6リッター。それが今年からは2リッターになった。だが、早々簡単に1.6リッターエンジンを2リッターにする訳にはいかない。しかも規約上、市販エンジンの1000台以上生産されたものでなければならない。当然、どこも、エンジン供給が間に合わない。間に合ったとしてもまだ完成度が低いので、すぐに壊れてしまうのだ。)
本誌: エンジンは、一体デベロップの段階からどれくらいで物になるもんですかね。
生沢: パーツがないからエンジンが作れない。マクラーレンのF2が、過去の5レースでエンジンだけで7000ポンドも使ったというほどだもの。日本円にして600万円ですよ。
風戸: 今年のF2はテクニック以前と言っても良いくらいですよ。だからF3の新人選手がボコッと勝ったりする。
本誌: ところで、ヨーロッパのサーキットは走りやすいんですか。
風戸: 日本とまるきりパターンが違いますよ。
桑島: だから僕なんか今年は、コースになれるだけで精一杯です。
生沢: 日本には、ダウンヒルのあるコースなんてないでしょう。イギリスのカドウェル・パークなんて、まったく空からしか見えない。逆バンクコーナーが多いし、公道閉鎖だって多い。
風戸: だから日本のように、芝生の上で抜くなんてまず考えられない。コースアウトなんて絶対しないね。仮にコースアウトしたらクラッシュだもの。
生沢: こちらの選手は、パターンの違う数多くのコースを走っているせいか、とにかく凄く順応性がある。ジョン・サーティーズをみればわかるでしょう。(ジョン・サーティーズは、1972年日本グランプリで初出場初優勝している)
彼なんか、いきなりフィスコを走っても、あんな調子でしょう。
本誌: しかしそれだけ数多くのコースがあるとなると、コースを頭にたたみ込むだけでも大変ですね。
風戸: たってこちらの連中だって条件はそんなに変わらないですよ。
生沢: 僕の場合なんか、日本でグランチャンピオンに出ると、大変ですね。忙しいでしょう。練習不足じゃないですかなんて言われるけど、まったく関係ないですよ。
風戸: こっちの感覚でいくとレース場入りは、早くて数日前でしょう。それでもチャンと走れるようじゃなきゃだめなんですよ。
生沢: 数日前に来ても勝つ人は勝つ。日本じゃ年中練習してないと、練習不足だなんて目で見るでしょう。
この間だって、練習不足だなんていうのがいる。電気がこなきゃあ、準備したってどうしようもないでしょう。”
 ・・・この続きは、次回に書きますのでよろしくお願いします。
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