"THE TOPICS OF A WEEK!!"
  このほど、私が常々思っている事や、1週間の中で感じた事や出来事を書きとめる日記のような内容の新しいページを作る事にいたしました。
つきましては、どうか主宰者の独り言と受け止めて読んでいければありがたいと思っております。

 
1999年12月までのTOPICS
2000年1月までのTOPICS
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 5/MAR/2000  「スーパージェッター」と「マッハGO!GO!GO!」
 一段と春の匂いが漂ってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
私は、現在生まれて初めて“花粉症”になりまして、大変苦しい思いをいたしております。
こんなにも花粉症なるものが苦しいものなのかはなって初めてわかる思いがいたしました。
ところで、数日前にフジミ模型製「トヨタS800・浮谷東次郎仕様」を探しに私の住んでおります市川市の模型店に立ち寄ったところ、すでに浮谷東次郎仕様の“ヨタ・ハチ”は、絶版となっておりましたが、そこに置いてあるある懐かしい絵柄につい我を忘れて吸いつけられるように立ち尽しておりました。それこそは、HPでも紹介させて頂いております「スーパー・ジェッター」の「流星号」があるではありませんか、それに「マッハGO!GO!GO!」や「ウルトラマン」でおなじみの「ビートル号」なども並んでおりました。
全てこれらは、イマイ(昔の今井科学)の復元版であります。
私は、この中から「スーパー・ジェッター 流星号」と「マッハGOGOGO マッハ号」をすぐさま購入いたしたのはいうまでもありませんが、その他の物についてもついどうしようかなどと考えてしまいましたが、諦めることにいたしました(いくらなんでも1つ2,500円はちょっと辛いです 笑)。
 スーパー・ジェッターの「流星号」については、“本キットは、昭和42年当時の金型で成形したスペシャルキットです。”という説明があるように、当時発売された2種類あったモデルのうちの小さい方の流星号であることが分かりました。HPでも紹介させて頂いております「流星号をモデルカー・レーシングに・・・」にありましたモデルは、大きいほうのモデルであり、推定スケールは、1/24でありましたが、今回紹介させて頂くモデルは、スケール表示はもちろん(?)ありませんが、私の感じでは1/30〜1/32スケールぐらいではないかと思います。
もし、スロットカーへのコンバートを実行するのであれば、やはり1/32スケールのシャーシーを取りつけるのが一番かな・・・などと思っております。
ところで、このキットは、オリジナルの機構をそのまま取り入れておりますので、ゼンマイ付き・ミサイル発射装置も当時のまま付いております。よって、当時を懐かしむのであればストレートにキットを組むことをお勧めしたいと思います。さらに、当時のキットには付属してなかったと思われます「スーパージェッターフィギュア」などというオマケまで付いており、それを飾る時に必要な“木製飾り台”も付くという豪華(?)さでありました。
ところで、この流星号は、なんとオープン・モデルであります。やはり、流星号はクローズド・モデルでなくては・・・という考え方もあるとは思うのでありますが、その代わり「カオルさん」と「ジェッター君」がドライバーと助手席に座るのですから、OKかなって感じであります。
私としては、1/24スケールに相当すると思われる「流星号」モデルについても再販してもらいたいなと思わずに入られない心境なのですが、皆さんはどうでしょうか。
 後「マッハGO!GO!GO!」の「マッハ号」ですが、このモデルは、先に紹介いたしました「流星号」よりまだ小さいモデルであります。解説には、“本キットは、昭和47年当時の金型で成形したスペシャルキットです。”と書かれております。
このキットの推定スケールは、1/40〜1/43ぐらいでしょうか。キットは、マブチFA-130を使用するリモコン・カーであります。このキットにも「三船剛フィギュア」が付いておりました。ということは、「ウルトラマン ビートル」のキットには、「ウルトラマンフィギュア」が付くのでありましょうか。
 しかしながら、これらのキットは、やはり30年以上も前のものでありますので、形に付いての云々はもうしょうがないものでいかに当時を懐かしむという心境で接するのが一番かなと、しみじみこれらのキットに接しながら今感じております。
では、この辺で。
主宰者
 20/FEB/2000 東山魁夷展を見て
 皆さん、1月30日以来の久々の"THE TOPICS OF A WEEK"でありますが、いかがお過ごしだったでしょうか。私は、仕事に追われた約1ヶ月間であったのと同時に、アイデアが出るとすぐに実行しないと制作意欲が沸かない性格のようで、「60年代のくるま広告 “レコード盤に見る60年代のレース・シーン”」を企画制作する毎日を送っておりました。
 ところで、昨日は、久しぶりに絵画展などを鑑賞してまいりましたので、その時の印象などを書かせていただこうと思います。
「東山魁夷(ひがしやま かいい)」と申しますと、少しでも日本画の事を御存知の方であれば誰でも知っている世界に通用する日本画家でありました。私は、なぜかこの東山魁夷の名前を幼年時代から知っておりました。それは、私の親父が大好きだった画家でよくこの名前を聞かされていたからだと思います。何を隠そう私の親父も、日本画家でありました。このHPの番外編において「紙彩画(しさいが)」という企画ページにおいて紹介させて頂いておりますので、すでにご覧になった方がいらっしゃるとは思いますが、少なからず親父の作りだしました「紙彩画」に影響を与えたであろうこの「東山魁夷」画伯とはいったいどのような画家だったのかを知ることは、私にとってのある意味での永遠の謎でありました。今回、日本橋三越で行なわれたこの「東山魁夷展」は、絶好の謎解きの場であったわけであります。
 簡単に、「東山魁夷」画伯の経歴を述べさせて頂きます。
 
1908年 横浜で生まれる
1911年 一家で神戸に転居
1926年 東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学
1929年 最初の展覧会出品作<山国の秋>が第10回帝展に入選
1934年 ドイツ・ベルリン大学哲学科美術史部に入学
1945年 敗戦後、千葉県市川市に移る
1947年 第3回日展に<残照>で特選を受賞
1956年 <光昏>で日本芸術院賞を受賞
1961年 東京で初の回顧展「東山魁夷自選展」を開催
1965年 日展理事に任命される
1966年 宮内庁より新宮殿壁画制作を依頼される
1969年 文化勲章、文化功労賞を受賞
奈良・唐招提地御影堂障壁画の制作を受領
1974年 日展理事長に就任
1989年 ベルリン・ハンブルグ・ウィーンで「東山魁夷展」開催
各国より数多くの賞を受賞
1990年 長野県信濃美術館に併設して東山魁夷館が開館
1999年 老衰の為永眠(91歳)

 私は、この「東山魁夷展」を見させていただいて感じたことは、なんともいえないこの幻想的な風景画は、単なる絵だとはいえない何か光り輝くものをその各絵画から感じたことでありました。何しろ、その絵から発する光は、実際には発しているわけではないのでありますが、思わず右手で目を覆いたくなるほどの眩しさでありました。さらに、「青」「緑(ペパーミント・グリーン)」「藤色(薄紫)」「白」を限りなく同化させて、見るものを吸い寄せてしまうその魅力的な色彩は、いったいどのようにして生み出されたのでありましょうか。本当に驚きを隠せないすばらしい絵画でありました。
 これならば、海外でも評判になったことがわかる気がいたしました。日本画でありながら、世界の絵画に引けを足らない「東山魁夷」の絵画は、この絶妙といえるこの色彩バランスと色調が何よりも命だったのではないかとつくづく感じてしまいました。
 私の親父の絵画は、日本古来の和紙を使った絵画であり、そのタッチこそ違えど、油絵と紙彩画の差をまったく感じさせないものでありました。今回「東山魁夷展」を見て両者の絵画を見比べて感じたのは、絵の構図と配置の関係、そして色調がとてもよく似ていることでありました。しかし、時代背景の違いと人生観、そして人生体験等の違いからか、親父の絵画の方が何か悲壮感を感じてしまうのは何故でしょうか。それはきっと、親父が病魔によって他界したことに関係があったからではないかと私は感じておりますが・・・。
 今回、何か死んだ親父に連れられて「東山魁夷展」に来たようであり、何か奇妙な気持になりましたが、長年の謎が一つなくなり、今はすっきりした気持になることが出来ました。
 では、この辺で失礼いたします。

主宰者