HE BECAME LEGEND ----.
“傷だらけの中で掴んだ栄光” 
In 1972, he joined a Fuji Grand Champion series that he gots this championship.
男 鮒子田 寛
Hiroshi Fushida

PART 1

TOP: He and his Chevron B21P at Fuji masters 250kms race in 1972.
He had a damaage to front nose when dead-heat between his Chevron and the Ronson 2000 of Nagamatsu.

 27周目1分50秒1、28周目52秒8、29周目50秒5・・・。
鮒子田のオンワード・スペシャル(シェブロンB21P)は7位、チャンピオンを争う漆原のローラT290は5位を走っている。
このままのポジションでフィニッシュすれば、鮒子田47点、漆原46点。わずか1点差で、鮒子田のチャンピオンが実現するのである。それも、あと4周後に結論が出るのだ・・・・。
 30周目49秒3、31周目49秒6、32周目49秒1、そして最終回・・・・・・。
鮒子田の前に立ちふさがっていた米山のローラT290を、S字の切りかえしでアウトから抜き去る。これでグランチャン5位、漆原に3点の差をつけた。もう安全圏である。
そして、チェッカー!! 72年度富士グランチャンピオン“鮒子田 寛”が誕生した瞬間だ!! 
ちなみに最終回のラップ・タイムは、“47秒8”であった。
 この文章は、1973年1月15日号の「AUTO SPORT」誌より引用活用させて頂いたものです。
私もこのレースを実際に富士スピードウェイで観戦していたわけでありますが、本当にすばらしいレースでありました。
 鮒子田さんは、1960年代半ばから、若くしてチーム・トヨタのエース・ドライバーとして活躍し、あの日本CAN-AMで伝説のマシンとなった“マクラーレン・トヨタ”をドライブした後、突然トヨタを去り、インディ・ドライバーを目指して渡米した伝説のドライバーであります。


 1970年、恒例の日本グランプリが日産、トヨタの相次ぐ不出場声明により事実上中止となったの契機に鮒子田寛の気持ちは海外へと自然に傾いていった。そして、鮒子田は、夢の実現の為に、将来を約束されていたトヨタを退社、一路アメリカへ旅立ったのでありました。
 しかし、1971年、一時鮒子田は、日本のレース界へ復帰することになる。鮒子田の目的は、新たに始まったビッグ・マシンのレース「富士グランチャンピオン・シリーズ」に参戦する為であった。
こうして、鮒子田のアメリカと日本との往復の日々が始まった。参戦するマシンは、なんと因縁のマクラーレンM12。
 今想像するに、鮒子田にとって、日本に戻るまでの1970年から71年は、まさに苦悩の連続であったはず。それだけに鮒子田のこのシリーズに賭ける意気込みは計り知れないものがあったに違いない。
“新たなる決意(1971年)”
“富士300kmレース(1971年4月25日) 最初の躓き” 
 久しぶりのレースに、鮒子田は燃えていた。
7000ccのアメリカンV8エンジンは、今の鮒子田によく似合う。
(以下、1971年発行の「オートテクニック」誌6月号に掲載されている文章を再び引用させて頂きます。)
 “予選を走ったのは24台、トヨタにあったマクラーレンには酒井正が、69年日本グランプリでCAN-AMドライバーのモッチェンバッハが乗ったマクラーレンには鮒子田 寛が、また、ローラT160には田中健二郎が、それぞれ7リッターシボレーエンジンを搭載して出場している。これに対抗できるのは、風戸 裕のポルシェ908-IIしかない。パワーでは劣るが、信頼性は抜群で、優勝はこの4台の中から出ると思われる。
 4月24日に行なわれたプラクティスでは、酒井のマクラーレンM12と風戸のポルシェ908-IIがともに1分50秒を切った。・・・・田中のローラT160はあまり無理せず1分52秒52を出して引き上げた。しかし、鮒子田のマクラーレンM12は、どうしてもエンジンがいうことをきかずに走らない。結局、義務周回数の3周もまわれずに、参加ドライバーのサインをもらって最後尾からスタートすることになった。
・・・・決勝スタートは、アメリカン・レースの定番スタートである“ローリング・スタート”で行なわれた。ペースカーのドライバーは、元・トヨタファクトリーの大坪善男であった。
そして、スタートが切られ、最初にヘアピンカーブに現われたのは、風戸裕の白いポルシェ908-IIであった。続いて酒井正のマクラーレンM12と田中健二郎のローラT160である。・・・最後尾からスタートした鮒子田のマクラーレンM12も、パワーにまかせて、ごぼう抜きにして上位に上がってくる。トップ争いに加わりそうであった。
 3台の7リッターシボレーエンジンのビッグ・マシンが3台とも完走する事は、これまでの実績からいってないと思われていたが、早くも酒井のマクラーレンが6周目エンジントラブル(燃料系トラブル)でリタイヤしてしまう。そして、その少し前、風戸、田中、酒井に次いで4位まで上がってきた鮒子田のマクラーレンM12も、6周目の13番ポストでストップしてしまった。酒井と同じ燃料系統がいかれ、リタイヤである。”(写真はスタート前の鮒子田とマクラーレンM12)
“大クラッシュ!!” 
 続く富士グランチャンピオンシリーズ第2戦「富士グラン300マイルレースにも鮒子田は再びマクラーレンM12で、エントリーしたが、またもエンジントラブルで不出場。今度は、予選さえトラブルで、走ることが出来なかったのだ。
さらに、鮒子田の不運は続く。再びアメリカに戻った鮒子田は、アメリカン・セダン・レースのの最高脈“Trans-Am”シリーズ第4戦“ロード・アメリカ”にカマロで出場した。ところが、メカニックの不手際等によるブレーキ・トラブルでクラッシュ。助骨4本、左肩コウ骨、左足首の骨を折るという重傷を負ってしまったのだ。
 ここで誰もが鮒子田 寛のレース生命が終わったかと思われた。
 
“再起に賭ける”
 1972年、富士グランチャンピオン・シリーズは、新たな局面を迎えることとなった。それまで、チャンピオン争いを繰り広げていたビッグ・マシンたちがチャンピオン・シップから外され、常にセカンド・ポジションに甘んじていた2リッタークラスにチャンピオンが懸けられたのだ。
 そして、この年からあの生沢徹もこのグランチャンにフル参戦する事となり、グランチャン人気はうなぎ登りの様相を迎えていた。
 一方鮒子田は、昨年の事故以来生まれて初めての入院生活を送り、半年間レースとは無縁の状態が続いていた。
そんな時、このグランチャン・レギュレーション変更の知らせは、鮒子田に新たなやる気を与えたのだった。
「イコール・コンディションだったら、俺は絶対勝てる!!」。鮒子田は、不思議にそう素直に思うことが出来た。
ここに、鮒子田の気持ちを裏づけるインタビュー記事がありましたので、1971年7月号の「オートテクニック」誌より、引用させて頂きます。


インタビュアー 望月 修
望月: ドライバーとしての素質という点では、鮒子田君は、速い車に乗るたびにそれに適応して早くなってくるという高いレベルにいるんだけれど、自分として、自覚している点はどんな事かな?
鮒子田: 昔は違ったんですが、トヨタ時代からいきなり車に乗せられても速くないんです。それでサスペンションとかを自分に合わせていくと速くなるんです。これを変えて、あれを変えてというのをこの辺でやめてタイムを出すというタイプの人もあるわけなんですが、僕は納得しないと速く走れないんですよ。だから、そういう意味で最初はちょっと人より遅いかもしれないですね。ところがなれれば人より速くなるという自信は持っていますね。特にレースになれば絶対速くなる。
 これからも未知の車に乗せられた場合、いきなり走れといわれてもダメですけど、ただセッティングの時間を与えてくれて、自分に合う車にしてくれた場合は、僕は速く走れる自信はあります。
望月: ドライバーとしては、それが本格派だろうしね。いろんな危険性を内包したまま突っ走るという事は、やはりよくないし、いつかは失敗することになるからね。
鮒子田: いろんな未知数の車に乗ってきた結果だと思うんです。
望月: それだけでなく、外から見た印象だと、鮒子田君というのは“不死身のドライバー”という感じがするんですよ。結構大きな事故をやっているのに無傷だろう。それに身近なところでも親友だった東次郎君が亡くなったし、同僚の福沢幸雄君も亡くなっている。川合稔君もそうだ。ドライバーとしては大きなショックを受けると思うんだ。だから、それを乗り越えてくるというのは精神的な粘り強さがあるんじゃないかと思うけど、どうだろうね。
鮒子田: ・・・浮谷くんの事故があってショックを受けてね。自分の事故と重なって、僕には精神的に大変いい勉強になったし、粘り強さも生まれていると思うんです。・・・・自分もいつかそういうことがあるかもしれないという覚悟はしています。町を歩いていても死ぬ人はいるし、運命ですね。ただ僕自信はそう簡単には死なないと思いますね。やっぱり運が強いというか・・・。”

TOP: The 5th Tokyo Racing Car Show in 1972 and his Chevron B21P.
(C) 2/2001/FEB Photograph by Hirofumi Makino.
 上の画像は、1972年3月10日から12日まで東京 晴海国際貿易センターで開催された「第5回東京レーシングカー・ショー」で、メイン・ブースに展示されていた鮒子田 寛所有のシェブロンB21Pであります(撮影は、僭越ながら私であります)。
私は、この東京レーシングカーショーに、第2回目から毎年見に出かけてましたが、久しぶりにニューマシンが大挙登場という事で、この年の会場は、モーター・スポーツ・ファンで埋まっていました。
また、昨年より開催された「富士グランチャンピオン・シリーズ」人気にも後押しされ、2リッタークラスのレーシング・マシンが人気の的でありました。
 そんな中、一際目を引いていたのは、上の写真の“シェブロンB21P”でありました。
このマシンは、鮒子田 寛が72年度の富士グランチャンにフル出場するために購入したニュー・マシンであります。
また、このマシンの素性がすばらしい! なんと元・シェブロン・ワークスカーだとのこと!!
1971年の7月にシェブロン・ファクトリーで完成したこのシェブロンB21Pは、ブライアン・レッドマンとマイク・ヘイルウッドが南アフリカのスプリング・ボックス・シリーズ参戦用に開発したもので、細部仕様は、1971年シリーズから富士グランチャンに参戦している田中弘のB19より30gほど車重が重いが、フロント・ブレーキがガーリングのベンチレーション・ディスク、ギヤ・ボックスを標準のヒュ―ランドFT-200からより強力なFG-400に交換してあるという優れものでありました。
また、エンジンは、コスワースFVCで、特にグランチャン用にイギリスで完全整備されたものとのことで、早くも第1戦での活躍が注目されていました。
“ー奇跡の復活ー チャンピオンをわが手に!” 
 鮒子田は、このグランチャン挑戦を期に、自らのチーム「フシダ・レーサーズ」を結成し、万全の体制でのぞんだ。
さらに、鮒子田の懸命な努力により、オンワード樫山、チャンピオン・プラグ等のスポンサー獲得にも成功し、後は実績を残すのみとなり、それだけに鮒子田の自身にかかるプレッシャー足るや計り知れないものがあったものと想像出来る。
そして、約1年振りとなる鮒子田の復帰第1戦は、3月19日に行なわれた富士グランチャンピオン・シリーズ第1戦「富士300キロスピードレース」だった。
しかし、鮒子田の前に立ち塞がるライバルたちもこれまた凄い! 前年のチャンピオン酒井正のマクラーレンM12(シリーズ・ポイント対象外)、優勝候補の筆頭と言われた田中健二郎率いる“チーム・マグナム”のロンソン2000(永松邦臣ドライブ)プラス三菱R39Bエンジンのコンビ、世界メーカー選手権用の3リッター・マシン“ローラT280・DFV”を駆る高原敬武(シリーズ・ポイント対象外)、そして、鮒子田がもっとも意識するライバル“生沢徹”のGRD S72などがエントリーしていたのだ。
さて、注目の予選は、前日3月18日に行なわれた。
鮒子田は、シェブロンを駆り、富士の6kmフルコースに華麗に挑み、50秒を切る“1分49秒89”を叩き出し、なんと予選5位に食い込んだのだ。マクラーレンとローラT280を除くと、2リッタークラス3位の成績であり、緒戦としては、上出来だったのではと思われる結果だった。
しかし、翌日の本レースは、なんと暴風雨。2座席レーシングカーにとっては、最悪のレースとなってしまった。
私もこのレースを当時観戦していたのだが、当日買ったプログラムが雨でグショグショとなるほどの悪コンディションであった。そんな中、優勝したのは、なんと柳田春人のフェアレディ240ZG、2位も星野一義のフェアレディ。総合では、レインタイヤを用意した酒井と高原のマクラーレン(ローラは間に合わず、酒井からのレンタルでの出場)が1〜2位を占め優勝賞金のみを獲得するという予想外の成績であった。
鮒子田のシェブロンは、前半こそトップ・グループで争っていたが、結果は総合11位、グランチャン・クラス9位に終わり、やっと得点2点を獲得するに留まった。
 第1戦が終わるとすぐ鮒子田は、第2戦が行なわれる6月までの約3ヶ月で、シェブロンB21Pのより完璧なマシン・セッティングをする事に専念するのであった。
そんな鮒子田に、思わぬアクシデントが発生したのが5月14日の鈴鹿だった。マシンセッティングを含めて参加した「鈴鹿1000kmレース」において、鮒子田は、序盤戦のトップ争いの最中に、相手のマシンに当てられてしまいクラッシュ!! さらに、その時傷めたシャーシが意外に重傷であった事がその後に発覚し、結局、グランチャン第2戦を不完全なマシンで、戦わざるを得なくなってしまったのだ。これは、鮒子田にとって大誤算であった。
 そして、迎えた第2戦(6月4日 富士グラン300マイルレース)、予選において鮒子田は、傷だらけのマシンで、なんと“1分48秒90”の好タイムで、4位となり大いに決勝が期待されたが、富士の天候は、またも鮒子田に味方せずに再び暴風雨。それでも、第1ヒートにおいて、総合4位でフィニッシュさせたのは、鮒子田の執念と言える。しかし、ますます強まる雨風の中での第2ヒートは、まったくレースにならず総合13位に沈んでしまう。
結局総合9位のグランチャン・クラス7位、シリーズ・ポイント4点を獲得するのがやっとであった(写真は、豪雨のグランチャン第2戦を走る鮒子田のシェブロンB21P)。
 ここまでのシリーズ・リーダーは、なんと誰も予想だにしなかった柳田春人のフェアレディ。彼は、2戦ともグランチャン・クラスで優勝し、第3戦も勝利すると早くもチャンピオンとなる可能性すら出てきたのだ。

TOP:Whatever Happened to Hiroshi Fushida ?
Hiroshi and his Chevron B21P at Suzuka 1000kms race in 1972.
 

 
 
 

 追い詰められた鮒子田は、第3戦に全てを賭けた。絶対、ここで負けるわけにはいかない。こんな決意を胸に、「フシダ・レーサーズ」の社運を賭けて望んだのがこの1戦であった。もう後はない。
ところで、鮒子田は、このグランチャン・シリーズに参加するために、今まで無縁だったスポンサー活動も行なっている。右の写真は、鮒子田自身がモデルとなっている雑誌広告であります。
 プライベータ―にとって、資金が途絶える事は今後のレース継続にも影響する重大な事であり、形振り構わずという言葉が当時の鮒子田には必要だった。
 

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 チャンピオン ターボアクション・スパ―クプラグ
 

 
 
 

 

“一気に時の人に・・・” 
 1972年9月3日、富士グランチャンピオン・シリーズ第3戦 富士インター200マイルレース は、久しぶりの快晴の中で行なわれた。
ツキに見放されていた鮒子田 寛は、前日の予選で、“1分48秒78”のタイムで第6位には入り、今度こその期待が膨らんだ。確実に彼のシェブロンがベストな状態となっていることをこのタイムが示している。
 決勝は、スタートから酒井マクラーレンM12、高原ローラT280、永松ロンソン2000(ローラT290)、生沢GRD S72、そして、鮒子田シェブロンB21Pのトップ5車での争いが続き、近年にないデッドヒートが展開されていた。
 10周目酒井が脱落し、その後永松がトラブルでピットインしたため、トップを独走する高原を別とすれば、グランチャン・クラスでのトップ争いは、完全に生沢と鮒子田の2車に絞られた。
そして、46周目、生沢が信じられないようなピットレーン上にあるパイロンを蹴散らしピットインし、その後遺症で脱落した後は、鮒子田が執念でグランチャン・クラスで優勝(総合2位)し、チャンピオンへの布石を立てることに成功したのだった。快心の鮒子田の走りであった。
 下の写真は、今までは、生沢徹の行動ばかりを報道してきたスポーツ新聞が一斉に鮒子田にスポットを当て始めた記事であります。

 上の新聞記事は、1972年9月4日発売の“スポーツ・ニッポン”誌に掲載されていた「富士インター200マイルレース」決勝記事であります。左から、総合優勝した高原敬武(ローラT280)、中央は、レース・クイーンの江夏夕子、そして、グランチャン・クラス優勝で慢心の笑顔を見せる“鮒子田 寛”。
“高原、念願の優勝 生沢7位4年振り完走 鮒子田2位 ”
 これで、鮒子田は、一躍チャンピオン候補となり、10月10日に開かれる第4戦「富士マスターズ250kmレース」が注目される事になる。 下の新聞記事は、鮒子田について書かれた当時の記事であります。
 以下、当時の文章を引用させて頂きました。
 “傷だらけ”の鮒子田に 
ツヨーイ味方!!
 シェブロンB21Pの戦闘力アップ
“チェッカー”へ最短距離
空よ、晴れろ
マークは田中、漆原、生沢
 スポーツニッポン新聞社後援の自動車レース、フジGC(グランチャンピオン)シリーズ第4戦、“富士マスターズ250キロ”は9日(公式予選)10日(決勝)の両日、静岡県御殿場市郊外の富士スピードウェイで行なわれるが「ここで一気に首位に立つ」と張切っているのが鮒子田 寛(オンワード・スペシャル)だ。 鮒子田はシリーズ5戦を通して争われるGCポイント26点で目下2位、10日の成績次第では一気に首位におどり出す可能性は十分である。しかも、パワーアップの為に英国に送っておいたスペアエンジンが、たくましくなって返ってきた。一戦ごとに調子を上げている上に、この“強い味方”の到着でニンマリの鮒子田なのだ。  鮒子田は昨年7月米国で行なわれた自動車レース「トランス・アメリカン」の大クラッシュで頭と脊髄以外のほとんどの骨を折るという瀕死の重傷を負っているが、今年5月の全日本鈴鹿1000kmのクラッシュで今度は愛車シェブロンB21Pのフレームをおかしくしてしまった。 まさに“傷だらけの人生”である。  そんなわけで体の方は完治したもののマシンの方はもう1つパッとしない。鮒子田はそのマイナス分を2基ある1.8リッターのFVCエンジンのパワーアップで補うことを計画。7月上旬早速その内の一基を本場の英国へ送り戦闘力強化を依頼した。  「わずか0.1リッター。馬力にしても数十馬力のアップだが・・・」と本人はつとめて冷静さを装うが「鮒子田君は性格からみて数十馬力という数字のアップより、気分の上でのプラス面が大きい」という声もあり、ライバルレーサーにはますますイヤな存在になったといえる。  過去3戦の鮒子田の戦績は、公式予選のタイム、決勝の順位ともレースごとに上昇している。これに一番驚異を感じているのは目下40点でトップに立っている柳田春人(フェアレディ240Z)だ。
 この柳田、1、2戦がものすごい豪雨だったため、次々に脱落するオープン2座席のグループ7勢をシリ目に屋根付きカーの有利さで勝ったいわばラッキーな首位。それだけに「僕の方は雨という“強い味方”が降ってくれないことには・・・」と弱気。  こうなると鮒子田の目標は“柳田追い落とし作戦”より戦力的に全く互角の田中弘(シェブロンB19)漆原徳光(ローラT290コルト)それに相次ぐトラブルで力を発揮しきれず10位前後に低迷している生沢徹(GRD S72)永松邦臣(ロンソン2000)からの逃げ切りに移さざるをえない。  「4、5戦とも3位に入れば2代目のグランチャンピオン(GC)になれる計算だが、200数十万円という大きな賞金も出ることだし、カッコよく連続1位でGCを頂きたいですね」  めったに大口をたたかない“不死鳥”鮒子田が、もう一度、長いもみあげをゾリッとなでまわした。(昭和47年10月7日 スポーツニッポンより)
 突っ走るか?
“不死鳥”鮒子田
 シリーズ(全5戦)もう後半戦に突入した今回、各レーサーとも、総合優勝への“秒読み”第1段階に入った。  9月3日の第3戦を終わってのシリーズ・ポイントは、別表の通りだが、この中で、最後まで残れそうなのは、2位につけている鮒子田寛(オンワード・スペシャル)をはじめ、田中弘(シェブロンB19)漆原徳光(ローラT290)それに、目下10位に甘んじてはいるが、虎視タンタンと一大逆転を狙っている生沢徹(GRD S72)らだろう。  前半、下位に低迷しながら、第3戦で、突如、首位に踊り出たのは“不死鳥”のニックネームを持つ鮒子田。春先の下馬評でも、ダークホースと目されていただけに、このまま突っ走って、初の栄冠を手中にする事も十分考えられる。  一方、これに、猛烈な対抗意識を燃やしているのが生沢だ。自動車レースの本場、欧州での生沢もすでに7年、特に、今月のF−2レース(マントークパーク)では、世界の超一流ロニー・ピーターソン(スウェーデン)とデットヒートを演じるなどの実績も残しているだけに、総合優勝のタイトルは是が非でも奪取したいところ。さらにゴール直前で、タイヤ・バーストに見舞われ、無念の涙を飲んだ第3戦での好走と、一発逆転への可能性を裏付ける材料は多い。(昭和47年9月26日 スポーツニッポンより)
 
 かくして鮒子田 寛は、一躍優勝候補として名乗りを上げ、第4戦富士マスターズ250kmレースを迎える。
10月9日、1戦、2戦の豪雨が嘘のような、晴天の富士スピードウェイで行なわれた。
鮒子田は、高原、漆原、生沢、田中、永松に次いで、予選6位(1分49秒08)と今一歩の出来。翌日の決勝に全てを賭ける。
 しかし、決勝は、3リッター・マシンの底力を持って、高原の独走となり、マクラーレンの酒井が、途中リタイヤした時点で、漆原、生沢、永松、田中らと共に鮒子田は、久しぶりのデッドヒートを満喫していた。
ところが、8周を過ぎた頃、なんと鮒子田は、争っていた永松のロンソン2000と接触、フロント右にダメージを負ってしまう。しかし、その後も鮒子田は、傷ついたオンワード・スペシャル(シェブロンB21P)に鞭打ち、総合3位、グランチャンクラス2位の成績で、レースを終える。
 そして、最終戦 富士ビクトリー200kmレース(11月23日)がやってきた。
鮒子田にとって、この11月23日という日は、特別の日であった。3年前、チーム・トヨタのエースとして、この同じ日に行なわれた富士ワールド・チャレンジカップ 富士200マイルレース、通称“日本カンナム”レースにおいて、鮒子田は、世界の強豪の中、マクラーレン・トヨタを駆って、同レースに出場していた優勝候補7000ccシボレーV8エンジン搭載のオールチタニウム製“オートコーストTi22(新鋭ジャッキー・オリバーがドライブする)”に次ぐ予選第2位で決勝を迎えた思い出があった。
奇しくも、このグランチャン最終戦も、前日の予選で、クラス違いの3リッターローラT280の高原、そして7リッターミノルタ・マクラーレンの酒井に次ぐ第3位(当時2リッターマシンとしては、驚異的な “1分46秒00”をマーク)を確保したのは、まさに鮒子田の底力を感じさせる予選結果であった。
 そして、レースは、このページの最初に書かれていた通り、鮒子田は、6位でフィニッシュ。見事、1972年度の富士グランチャンピオン・シリーズ王者となったのだ。
本当におめでとう!鮒子田さん!!これが当時、観戦していた私の心からの言葉でありました。
 ここに、1972年富士グランチャンピオン王者となった鮒子田 寛選手のインタビュー記事がありましたので、当時の報知新聞「人と発言 鮒子田 寛」より引用活用させて頂きます。

 人と発言
鮒子田 寛(25歳 当時) =自動車レーサー=
------富士GCシリーズ優勝者------
成功のマシン選択

 東京・大手町の精養軒。日本最大のモーター・スポーツ・シリーズ、富士GC(グランチャンピオン)シリーズの表彰式。生沢徹、高原敬武、酒井正らのレース仲間の祝福を受けて、鮒子田は御機嫌だった。
昨年のロード・アメリカでクラッシュして左足首を複雑骨折、2度の手術、3ヶ月の入院生活を経てのレース出場。“不死鳥の寛さん”らしい見事なカムバックである。
ー今シーズンを振り返って・・・。
「不運だった昨年のことを考えると、全く夢のようだ。1度はレース活動をやめようと思った事もあったが、続けていてよかった。運がよかったのと、マシン選定が間違ってなかったことがシリーズ優勝の勝因だ」
ーシェブロンを選んだのは・・・。
「プライベートとして採算があるようにと、完走率の高い車をいうことで選んだ。ローラに比べて丈夫な点は心強い。富士スピードウェイの高速コーナーに向いている。それにフィーリングも抜群。来年もこのマシンでやるつもりだ」
ービジネスとしての今シーズンは・・・。
「もちろん赤字だ。一千万円近い。しかし、これでスポンサーへの責任も果たせたし、借金できる信用も出来た。金利と維持費は、賞金でなんとかペイできる見通しもついた。やっと太陽が昇り始めたところです」
ー来シーズンはニューマシンが何台か登場するらいしが・・・。
「金にまかせて、しかも他人まかせでマシンを購入するのは考えものだ。このシリーズは特に完走度の高い車が勝つと思う。ドライバーは、自分の目で確かめた上で、良いマシンを安く手に入れるようにすべきだ。何人もの手を経て“中間”でもうけさせることはない。
ファクトリー・ドライバーなら会社まかせでもいいが、プライベートはそうはいかない。JAFが、その点で税金対策などで便宜をはかってくれれば助かるのだが・・・」
ー日本のモータースポーツは、どうすれば盛んになると思うか。
「着実に前進していると私は思う。GCシリーズも、来年はさらに盛んになるだろう。しかし、何よりもレーサー自身の自覚が必要だ。“走り屋”から早く脱出して、レーサーの社会的地位の向上をはかることだ」
ー来シーズンの抱負は・・・。
「富士と鈴鹿を中心に積極的にレース活動をする。海外レースには出ない。賞金を稼ぎますよ」
 



 
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(C) 25/FEB/2001 Text Reports by Hirofumi Makino