1972年9月3日、珍しく富士スピードウェイは快晴に恵まれておりました。
私と友人“ハマ”は、いつものように新宿より“小田急ロマンスカー”を利用して御殿場に早朝到着し、タクシーで富士スピードウェイへと向かっておりました。
 今日こそは、我が“生沢徹”が表彰台の中央に立つことを信じて2人は富士スピードウェイのゲートをくぐったのでありました。
すでに、前座の“マイナー・ツーリングカー・レース”はスタートしており、長谷見昌弘と黒沢元治の乗る“ワークス・チェリー”がトップ争いをしていました。当時すでに、1,200ccの“チェリー”や“サニ―”でさえ、富士スピードウェイ6kmコースを2分8秒台で回っており、1966年の「第3回日本グランプリ」優勝車であるあの“プリンスR−380”並みの性能を示していたのには驚かされるばかりでありました。
 ところでこのレースに対してTETSU は、今までにない意気込みでのぞんでいたのでした。
当時の報知新聞にそんな彼の意気込みを感じる記事がありましたので引用させていただきました。
 
「徹は語る」
 フジGC(グランチャンピオン)シリーズ第3戦「富士インター200マイルレース」に出場するレーサー、生沢徹(GRD−S72)は、20日昼、2ヶ月ぶりに英国から“里帰り”した。
ところが、夏の日本は、なんと8年ぶりということで暑さにゲンナリ。2日、3日、体を慣らしてから富士スピードウェイ入りするというが、21日、欧州でのレースや、フジGC第3戦への抱負を聞いてみた。
 迫る!「富士インター200マイルレース」
 第2戦の終わった翌6月5日、ロンドンに戻った生沢は、以来、4回のレースにエントリーした。
 最初は6月11日、西ドイツのホッケンハイム。ところが直線で、下手なライバルに追突されて「オー、ノー」続いてのルーアン(フランス=6月25日)では、エンジンのオイル漏れでリタイヤ。
 その後、2レースを欠場し、やっと手にした自分のエンジンを据え、イタリアのイモラ(7月23日)へ、勇躍“出陣”していった。
 「それまでは、自分のエンジンがなく、全て借り物でだったんですよ。買おうとしても足りない。欧州のエンジン事情は、昨今、それほどひどいんですよ・・・」と、全く信じられないくらい悪化しているという。
 しかし、調子も運も、徐々にではあるが、上向いてきている。8月6日、スウェーデンのマントープパークでは、完走して総合9位。この時は、予選でエンジンが壊れたが、同レースでクラッシュした風戸裕のエンジンを借用して好走。特に第2ヒートは良く走って、世界超一流のロニー・ピーターソン(スウェーデン)とデッドヒートを演じるなど、北欧の人たちに“日の丸ヘルメットのテツ”と、強い印象を与えた。
 さて、マシン、GRD−S72だが、レース前たった数時間しかテスト出来なかった前回にくらべ、今回は雲泥の差。愛知県豊田市にあるトヨタ自動車のテスト・コースで完璧な仕上がりへ。そして、エンジンも、生沢の所属するシグマ・オートモーティブの加藤真代表が、先頃渡英し、GRDが搭載するBDAエンジンの製作者、ブライアン・ハート氏と綿密な打ち合わせをして、万全を期している。
 「前回の不調の原因が数々、判明したし、2ヶ月以上費やして調整したのだから、もう、そろそろ総合優勝へ、のろしを上げなくちゃ・・・・・・。問題は、8年ぶりの猛暑をどう克服するかですね」と、控えめに語る生沢に、今回同行したのは宏子夫人だけ。もう、英国からピットクルーを連れてこなくでも、GRD−S72は、十分に走るという自信が生まれてきた証拠なのだろう。
 
 1972年9月3日を数日後に控えた8月24日の報知新聞の「人と発言」に我が生沢徹が登場。TETSUらしい発言が掲載さておりましたのでこちらも紹介させていただきます。
 「人と発言」 生沢徹(レーシングドライバー)
―モーター・スポーツ界の“苦言男”―
 ヨーロッパF2レースに挑戦して2年目。ロンドンを本拠地にレーシング活動を続けている“一匹オオカミ”が、富士グラン・チャンピオン・シリーズ第3戦(9月3日・富士SW)出場の為帰ってきた。この人気NO1レーサー、このところマシン不調に泣かされつづけたが、今度のレースへの意気込みは激しく熱い。
日本のモーター・スポーツを良くするためにも頑張らなくてはとー。
―ヨーロッパでは・・・
 「やっとエンジンの調子が落ち着いてきたので、レースらしいレースになった。だがスウェーデン(8月6日・マントープパーク)では、新しいエンジンにして2度目のレースだというのに、予選でエンジン不調。決勝は風戸君のエンジンを借りたほどで、ポイントをあげるまでにはいかなかった。現在、金持ちのボンボン息子、M.ヘイルウッド(英)が総合得点でトップだが、近いうちに一泡ふかせてやる」 
ーJAF(日本自動車連盟)が相変わらずゴタゴタしていが・・・。  「バックが強いから、1人の人間がどんなレジスタンスを試みても、結局はもみ消されてしまう。JAFは金儲けをしてもいい。それをレーサーにも還元してくれれば文句はない。JAF幹部が目先のことだけしか考えないからいけない。それに、ドライバー自信が“あやつり人形”で無気力すぎる。今年の日本GPでスターティング・マネーとして10万円受けとって喜んでいるようでは・・・」 
ーF2助成策としてJAFが金を出すと言っているが・・・。  
 「2年前にどうして出さなかったのかね。しかし出すというのは進歩だ。でも映画スターだってギャラにはランクがあるように、レーサーにも当然、客を呼べるものとそうでないものとの格差はあるはずだ。とにかく、今こそモーター・スポーツ関係者の全員が、名誉欲、権威欲を捨て、どうしたら面白いレースが出来るか真剣に考えるべきだ」 
ーメーカーがモーター・スポーツから手を引いたことについて・・・。  
 「ナンセンス。公害と安全対策が第1で、モーター・スポーツどころではないというのは、言い訳に過ぎない。欧州では読んだこともなければ、聞いたこともない。日本のマスコミにも責任の一端はある。メーカーはレーサーを実験台に使って殺したとか・・・。 登山で死者が出たとき、山の存在が原因だ、といえますか? レーサーは冒険の対象としてモーター・スポーツを選んだはず。私は登山と同じだと考える。メーカーにしても、公害と安全対策を考えるなら、モーター・スポーツがその基盤になると考えるべきだ」 
ー今後の方針と今度のレースの抱負を・・・。  
 「来年はお金をためたい。もちろんF2レースには出るつもりだが、今度の富士インター200マイルは、“落ちた偶像”から“よみがえった偶像”にしたいね。自信あるよ」
“TETSU意地の予選4位奪取!”
 
 “TETSU”が燃えた!
前回のGC第2戦で不本意な成績しか出せず“落ちた偶象”の異名を取ってしまった生沢にすれば今回のレースは名誉挽回のチャンスでもあったわけですから、今までになく必死でこの予選を迎えたはずでありました。
 しかし、マクラーレンやローラT280などのクラスの違うマシンは別として、同じ2000ccクラスの永松邦臣(ロンソン2000)に敗れたのはなんとも“TETSU”としても悔しかったのではと想像できます。
TETSUのマシンは、前記の「徹は語る」でも述べているとおり、シグマ・オートモーティブで万全の調整を行なってきたのでありますから、必ずや決勝ではやってくれることと信じて私は、9月3日の富士へやって来たのでありました。
左の予選結果は、当日パンフレットを買った時に付いておりましたガリ版で当日印刷したと思われるチラシであります。
オープン参加でチャンピオン争いに関係ない酒井のミノルタ・マクラーレンと高原のローラT280のタイムは、それぞれ“1分45秒11”と“1分47秒22”であり、その次に永松のロンソン2000(ローラT290・三菱R39B)が“1分48秒39”で続き、TETSUは、“1分48秒59”で惜しくも4位となっています。それはたった0,2秒の差でしかない息詰まるものでありました。しかも決勝は、3位から7位の田中弘のシェブロンB19まで1秒の差しかなく大混戦が予想される大変面白いレースになることは必死でありました。
“46周目の悪魔?!”
 46周目に“それ”は起こったのでした。私と友人“ハマ”は、一躍2位となりオープンクラスの高原のローラT280を除けばグランチャンピオン・クラス1位となった我が“TETSU”の勇姿が目の前を通るのを今か今かと待ちわびておりました。
ところが、最終コーナーを回った“TETSU”がピット・ロードに近いコース取りをして戻ってきたなと思っていた矢先にふらっと右に振られたかに見えた瞬間、なんとピット・ロードとコースを区切っております“パイロン”を蹴散らしそのままピット・ロードへ入っていったのでした。私達は、何が起こったのか理解出来ずにその様子を呆然と見つめておりました。
“TETSU”の“GRD-S72”はフロントカウルが無残にも砕け散り、ピットではガム・テープで応急手当を行なっておりました。
「信じられない・・・」と私達は、一瞬にして天国から地獄を見た思いでありました。
これで“不死鳥伝説”も終わりだな・・・と誰もが思った瞬間、“TETSU”がピットを後にしてコースに出ていったのです!
なんとも無残な姿となった“GRD-S72”ですが、その後なんとか完走して3周遅れながら7位となったのでした。
上の新聞は、翌日9月4日付「スポーツ・ニッポン」(左)と「報知新聞」(右)の決勝レースの模様を伝える記事であります。優勝した高原敬武よりも生沢徹の結果を前面に出しているのはやはり期待が大きかった証拠でありましょうか。
その中に“TETSU”のコメントが載っておりましたので引用させていただきたいと思います。
 =完走に満足げな生沢=
 久しぶりのレースに観衆もホットな気分を満喫した。
ポール・ポジションから酒井の“お化けマシン”がまずトップ。高原の3000ccマシンが続く。やや遅れて2000ccクラスの永松、生沢、鮒子田、田中がピッタリと互いにけん制し合いながら集団をつくった。
 10周目。3番手にいた酒井の7000ccマシンがヘアピン手前でいきなりストップ。高原が1分48秒8の好ラップをマークしてようやくトップに踊り出る。高原のスタンレーT280は息を吹き返したように、みるみる後続のマシンを離して独走態勢を固めた。 酒井は油圧系統のトラブルが直らず、ピット・インしたまま、ついにコースには姿を見せなかった。  しかし、2位をいく生沢にハプニングが起きた。ガス補給のためピット・インしたがその時コースにあった三角形のパイロンを4、5本吹き飛ばしてしまった。左フロントを破損し、おまけにタイヤのパンクも加わって再び無念のピット・イン。タイヤの交換は、あと5周とレースが残り少なくなっていただけに致命傷になった。 「まあ、見せ場も作ったし、完走もしたんだからしかたないよ」 7位に終わった生沢はそれでも68年(昭和43年)のGP以来の完走に満足な表情だった。  
 以上が記事内容でありますが、1つ誤りがありました。それは“TETSU”のGCでの完走は、前年のポルシェ917Kで出場した「マスターズ250キロレース」で総合2位となっておりますので“3レースぶりの完走”というのが正解でした。  それにいたしましても、実際46周目に何が起こったのか機会がありましたら、御本人に確かめてみたいものであります。TETSUのミスなのか、それともマシントラブルだったのか。私がいくつか思い続けております“60〜70年代のレースの謎”の中でもトップクラスであるこの“46周目の悪魔”は永遠の謎となってしまうのでしょうか。


本日(12月2日)、私も今年入会させていただきましたTOJI'S CLUBのO様より、なんと“46周目の悪魔”についての真相を早々にメールで頂いたのであります。 27年間“謎”のまま過ごしてまいりました関係上、本当に霧が晴れた心境でございました。 それではその“真相”をメールのまま紹介させていただきたいと思います。 
"初めてお便りします。  富士iner200milesを楽しく読ませて頂きました。72年のこのレースをテレビで 見ていたのを思い出します。あの時なぜあんな所でピットレーンとの境目のパイロンを引っかけてピットに向かうんだろうと、何度もスロービデオの再生をしていましたっけ。 TOJI'S CLUBの総会の時ゲストでいらしていた生沢さんに聞いたのか、その後の テレビ出演していた生沢さんが言ったのか、本のインタビュウで書かれていた所を読んだのか忘れましたが、あの時ピットインするタイミングを誤り、もう一周するとガソリンの量が足りなくなるところだったそうです。だからわざとパイロンを蹴散らしてピットインを図ったそうです。しかしパイロンの中に砂か何かの重りがが入っているなんて夢にも思わなかったそうで、結果的にああゆう事になってしまったそうです。 とっさの判断でやった事とはいえ高い代償になってしまったと言っておりました。"  そうだったのですか、今と違い無線でドライバーと連絡し合うなんてない時代だからこそ起きた(・・・今のF1でもありましたっけ?!)ハプニングだったようでした。 もしをあえて使わさせていただくならば、“アレ”がなければ、あのレースはTETSUのものだったかもしれませんね! それにいたしましてもO様、貴重な情報本当にありがとうございました。


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