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■ 開基百年の礎■ |
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■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ●北海道庁 団体移住状況調査より |
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■ 移住者成績調査 | |||
移住者成績調査(北海道庁 明治39年9月10日) ●郷里における状態 |
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●移住の顛末 団体総代人服部惣吉の実弟某なるもの、明治34年石狩国石狩郡樽川村へ移住せしが、しばしば音信して本道農業の有利にして、将来発達の余地多きことを報ぜしかば、明治35年、惣吉実況視察の為め渡道して実弟の所に止まり、各地を旅行調査したる後帰郷し、移住の利を説き、同志者を募りしに忽ちにして十九名の賛成を得たり。 是に於て規約を設けて知事の認可を受け、惣吉総代人となり、在本道の某を代理人とし、明治36年2月現在地二十戸分を予定存置許可を受けたるを以て、直に移住の準備を為し、第一回移住者八戸と共に3月2日郷里を発し、同月19日現在地に着し、一時付近の小屋を借り受けて住居し、後ち各自小屋を設け之に移りて伐木に着手し、融雪を俟ちて各戸五反歩乃至一町歩に馬鈴薯、麦等を播種したり。 此の年の移住者は、多く夫婦のみにして、非労働系累あるもの少なりしが故に生計容易にして事業また意外に進捗し、秋期菜種各数反歩づつ作付したり。 又春期下種の作物は、生育可良にして、相当の秋収を得、冬期は専ら伐木に従事したり。 然るに郷里に於ては団体に加盟を希望するもの続出せしを以て惣吉は、冬期一時帰郷し、種々斡旋し、別 に二十四戸の団体を結び、翌37年2月隣接地に於いて新に二十四戸分の予定存置を受けたり。 37年の移住者は4月24日現地に着し、先住者の補助を受け、居小屋を建築して直に開墾に着手し、家族多きも労働に堪ゆるものまた多かりしが故に事業進捗し、気候また順良なりしかば作物善く生育し、各戸一カ年の食料を収穫し、又前年の移住者は約二町五反歩づつを成墾したり。 越て38年に至り、在郷団体員の内、或は兵役に召集せられ、或は父兄の戦死等時局の影響を受けて種々の故障を生じ、僅に四戸の移住者ありしのみなりき。 且つ貸付予定地は、初、次二年間に移住せるもの良好なる部分を選びたれば、残地は比較的地味不良なるを以て此の年8月検査ありし際、現住者に対し各一戸分の貸付を受け、他を返還し、既移住者は協力して益々開墾耕種に努めたり。 然るに本年に至り、時局の終局と共に、旧団体員其の他新に移住せるもの七戸あり。 此等は移着すべき予定地なきを以て、一時団体内の土地、又は他の成墾地を借受けて耕作し、目下土地貸下出願中なり。 之にて本団体の移住は終了し、30戸となるに至れり。 |
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●移住者の位置 本団体地は手塩国中川郡下名寄村オン子ナイ原野十線乃至十二線間の手塩川支流オテレコッペ川沿岸にして、36・37両年間に予定存置許可せられしもの相接続す。 東北は笠原農場に界し、西は伊藤農場、及び丘陵の官林に接し、南方は単独移住者の貸付地なり。 地勢起伏多く梢々平地に乏しきも、地味肥沃なる処多し。 オン子ナイ街道に接し、名寄市街を距る約八里、交通敢て不便なりと云うべからず。 |
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●現況 |
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文中の※※は収穫した作物の名ですが、判読不能のため記号に置き換えています。 |
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