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■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 北海道庁 団体移住状況調査より
 
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当時の北海道庁は各地の団体移住状況を調査して、その実体を公表していました。
 明治39年に発表された「徳島団体」(団体長服部惣吉)の「移住者成績調査結果 」です。

 先人の開拓の苦労を偲び、それを後世に伝えるのも大切と感じます。
 これらの資料をひも解いて脚本化し、みんなの力で創作市民劇として上演してみるのも面 白いですね。
 配役、舞台装置の大道具小道具、脚本、広報、みんなで力を合わせて先人達の血と汗と泪の歴史をひも解くのです。
 まだまだ資料は膨大に有りますし、それらをひも解くことにより、先人と現在との接点が輝くのではないでしょうか。
 そうすることで未来の子供達へも、大切なメッセージを伝えられるのではないでしょうか。

 恩根内原野とは西里以北の殖民地選定調査が行われた地区を云います。

 北海道庁団体移住状況調査の一部を転記します。
 

 
   
   
  移住者成績調査
 

 移住者成績調査(北海道庁 明治39年9月10日)

   徳島団体 郷里 徳島県勝浦郡多家良村一カ村      
        現在 手塩国中川郡下名寄村オン子ナイ原野

●郷里における状態  
  此の団体の郷里は、徳島県勝浦郡多家良村、及び生名村にして就中多家良村大字渋村の者多し。
 同村は山間に避在せる狭長なる小部落にして田百四町歩、畑十八町歩あり、田畑とも二毛作をなし、豊産なりと難も戸数百四十ありて、一戸の作付反別 僅に八反歩なるが故に自然、小作料の騰貴を来たし、一反歩米三石を収穫する田地の小作料一石六斗、麦二石を生産する畑地の小作料八斗にして尚争うて作付せんとする状況なり。
 故に小作料と栽培に要する肥料代とを支払うときは、剰す処幾何もなく、冬期は柴、薪を採り、若くは莚、縄類を副業として製作し、勤勉業務に従うも近年諸物価の騰貴と日露開戦以来負担の増加せし為め、わずかに糊口を為し得るに過ぎず。
 是れは薺に本村のみにならず、生名村もまた同様なり。
 団体員は即ち斯くの如き状態の下に小許づつの田畑を所有し、自作兼小作、若くは小作農を営みしもの、及び其の子弟にして渡航の際は家財を売却して、少なきは僅かに旅費を弁し得たるのみ、多きも携帯資金三百円を出でず、中には自己の所有資産なく、父兄の補給を受けたるものありと云う。

 
   
   
  ●移住の顛末
 団体総代人服部惣吉の実弟某なるもの、明治34年石狩国石狩郡樽川村へ移住せしが、しばしば音信して本道農業の有利にして、将来発達の余地多きことを報ぜしかば、明治35年、惣吉実況視察の為め渡道して実弟の所に止まり、各地を旅行調査したる後帰郷し、移住の利を説き、同志者を募りしに忽ちにして十九名の賛成を得たり。
 是に於て規約を設けて知事の認可を受け、惣吉総代人となり、在本道の某を代理人とし、明治36年2月現在地二十戸分を予定存置許可を受けたるを以て、直に移住の準備を為し、第一回移住者八戸と共に3月2日郷里を発し、同月19日現在地に着し、一時付近の小屋を借り受けて住居し、後ち各自小屋を設け之に移りて伐木に着手し、融雪を俟ちて各戸五反歩乃至一町歩に馬鈴薯、麦等を播種したり。
 此の年の移住者は、多く夫婦のみにして、非労働系累あるもの少なりしが故に生計容易にして事業また意外に進捗し、秋期菜種各数反歩づつ作付したり。
 又春期下種の作物は、生育可良にして、相当の秋収を得、冬期は専ら伐木に従事したり。
 然るに郷里に於ては団体に加盟を希望するもの続出せしを以て惣吉は、冬期一時帰郷し、種々斡旋し、別 に二十四戸の団体を結び、翌37年2月隣接地に於いて新に二十四戸分の予定存置を受けたり。
 37年の移住者は4月24日現地に着し、先住者の補助を受け、居小屋を建築して直に開墾に着手し、家族多きも労働に堪ゆるものまた多かりしが故に事業進捗し、気候また順良なりしかば作物善く生育し、各戸一カ年の食料を収穫し、又前年の移住者は約二町五反歩づつを成墾したり。
 越て38年に至り、在郷団体員の内、或は兵役に召集せられ、或は父兄の戦死等時局の影響を受けて種々の故障を生じ、僅に四戸の移住者ありしのみなりき。
 且つ貸付予定地は、初、次二年間に移住せるもの良好なる部分を選びたれば、残地は比較的地味不良なるを以て此の年8月検査ありし際、現住者に対し各一戸分の貸付を受け、他を返還し、既移住者は協力して益々開墾耕種に努めたり。
 然るに本年に至り、時局の終局と共に、旧団体員其の他新に移住せるもの七戸あり。
 此等は移着すべき予定地なきを以て、一時団体内の土地、又は他の成墾地を借受けて耕作し、目下土地貸下出願中なり。
 之にて本団体の移住は終了し、30戸となるに至れり。
   
   
  ●移住者の位置
 本団体地は手塩国中川郡下名寄村オン子ナイ原野十線乃至十二線間の手塩川支流オテレコッペ川沿岸にして、36・37両年間に予定存置許可せられしもの相接続す。
 東北は笠原農場に界し、西は伊藤農場、及び丘陵の官林に接し、南方は単独移住者の貸付地なり。
 地勢起伏多く梢々平地に乏しきも、地味肥沃なる処多し。
 オン子ナイ街道に接し、名寄市街を距る約八里、交通敢て不便なりと云うべからず。
   
   
 

●現況
 本団体は中途故障ありて、団体員全部の移住を見ず。
 又本年の移住者は未だ土地の貸付を得ずと難も、移住を開始して以来、僅に四星霜事業大に進捗して、初年移住者の内七戸は既に全部を成墾して付与を出願し、他の二戸、及び次年の移住者も本年中に成墾の見込なりと云う。
 現在の作付反別は、一戸に付初年度移住者平均四町八反歩、次年移住者約四町歩、三年目移住者約三町歩にして此等は皆各自の貸付地に属し、又本年移住者の作付は平均二町五反にして、之は小作地なり。
 今之を総計するときは、全耕作反別百十町五反にして一戸平均三町八反余に当る。
 又、馬匹を所有するもの各一頭づつ十二戸あり、此等は皆、洋犁、把撈を所持して耕作し、又他の求めに応じて賃耕す。
 作物は※※、麦、菜豆、玉蜀麥、馬鈴薯、大小豆等にして、※※、小豆、菜豆主として売却す。
 全団体に於ける作物売却概算は、37年は※※三十四石、小豆十石、菜豆二十石なりしが、昨年は※※二百五十石、小豆六十石、菜豆五十石に増加し、本年は※※四百石、小豆・菜豆二百石を売却し得る見込なりと云う。
 故に初年移住者の如きは、既に余裕を生じ、総代人服部惣吉は以前より所有の資金を合せて二千余円を有し、成墾地五戸分を買い、其の他百余円を投じて未開地一戸分の譲与を受けしもの二戸あり。
 現在団体総戸数三十、人口百十三にして、内七十一名労働に従事せり。
 食料は主に雑穀を用い、住宅は六坪乃十四・五坪の掘立にして、外囲は野草、又は板を用い、屋根は柾を得ることを易きが故に柾葺とせるもの多し。  又移住後改築し、土台付木囲造の平家とせるもの二十三戸あり。
 相互の交際は親密にして能く和合し、団体内を二部に分ち、各毎月一日、十六日の夜、宿を順送として集会し、主に耕種上の知識を交換し、又公私の協議をなす。
 又毎年六月十五日の札幌祭、及び春秋の社日には、一同休業安息することを定め、常には相互に戒めて、勤検を旨とし、業務に精励せり。  又昨年より農産物は共同販売をなせしに頗る好結果なりしを以て尚、引続き行う予定なりと云う。
 総代人服部惣吉は、当初より能く公私共に奔走し、常に衆の先にたち、農園に出でて、労働し、以て団体民を指導せり。
 団体今の成績を見るに至れるのも同人の功多きにあると云わざるべからず。

 
 文中の※※は収穫した作物の名ですが、判読不能のため記号に置き換えています。
   
   
     
 
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