藍生ロゴ 藍生8月 選評と鑑賞  黒田杏子


花人として老人としてひとり

(和歌山県)慈幸 洋藏

 選句をすすめていて夜も更けてきたとき、投句はがきの中からこの一句が眼の前に立ち上がってきた。老人には「おいびと」とルビが附されていた。慈幸さんにお目にかかってから何年位経つだろう。山陰石楠先生の骨董店と通りを隔てて向かい合うようなところに慈幸さんのお店がある。しかし、長らく病気と闘っているこの人はいまは経営の第一線からは退いて、養生と句作に打ち込む生活。山陰先生を師として、高野の句を詠みつづけてきている。高野山の天地を愛し、空海の思想を深く学び、謙虚に自分のいのちと生き方を見つめて句作に打ち込み、生き抜いてきている人の句には気品が漂っている。



ただようて花びら何処へも着けず

(三重県)松川 ふさ
 さきの慈幸さんの句とはまた別の世界を構築している桜のこの句に出合って、私は松川さんの実力を感じ、嬉しく思った。長いつき合いである。毎日新聞「女のしんぶん」以来の句友。花びら何処へも着けず。この言葉はある年輪を重ねた人でなければ発することが出来ない。しかし長く生きてきた人すべてがこの境地に達することが出来る訳ではない。松川さんは深く思索する詩人なのである。



 

窯を出て狸まづ浴ぶ新樹光

(滋賀県)永井 雪狼
しがらき焼の窯場でもあろうか。窯出しの日に出かけた作者はこんな光景に出合って、思わず句帳に一句したためたのである。皿や鉢、壺などではこうはいかない。例の狸が窯の中からこの世に誕生した瞬間をとらえた。この作者の句に近ごろあらわれてきたユーモアのような要素がたのもしい。 


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