TOP : Champion frame by Tamao Furukawa.
The Special Report Of MSL
The History Of Japanese Slot Car Racing 
PART 3 
日本モデルカーレーシングの夜明け
PART 3 

第1回目 「アングルワインダー時代到来 !!」 

PART 1
PART 2 

最強のモーター“FT-26D”登場 !! 
 
 1967年初頭、日本モデルカーレーシング・シーンに衝撃が走った。
以前より噂されていた最強のスロットカー用モーター“FT-26D”がマブチ(当時東京科学)より遂に発売されたのだ。
サイドワインダー全盛でのタイヤの小径化、より低重心のクリヤーボディの普及に伴い、今までのFT-36Dでの限界を感じていたところでの発売はまさにグッドタイミングであった。
FT-16DとFT-36Dの間を埋める寸法は、タイヤ幅の拡大に伴うサイドワインダー方式のシャーシ製作に最適であり、さらに巻き直し等でのチューンナップの可能性を考えると将来的にも楽しみなモーターだと考えられた。
さらに、従来のモーターにはなかった両軸受けにボールベアリングを使用し、毎分35000回転以上の脅威的な性能を引き出している。

TOP : FT-16, FT-26D and FT-36D (modifed) from left side.
 このモーターの特徴としては下記のことが上げられる。
 
1) 回転、トルク共に良い。
2) 幅が狭いので、サイドワインダーに向いている。
3) 回転方向が反時計回りの方が良く、タミヤ製シャーシ向きである。
4) ボールベアリングによって耐久力が向上している。

また、巻数は0.29mmのウレタン線が70回巻いてあり、その為もあって従来の巻き直しモーターに近い性能がなんの苦もなく得られるのだと思われる。
さらに、アマチュアの直径はFT-16DよりFT-36Dに近く、それでいてコンミュテーターはFT-16Dと同じ太さであり、このことは十分に高回転に向いていることを示している。
実はこのFT-26D、単体発売前に田宮模型から同社の従来発売されていたシャーシに取りつけ可能なマウント等付属部品とセットとして発売されていた経緯を持っている。これは当時スロットカーメーカーとして唯一残っていた田宮模型の海外進出(1/25 ストックカーレーシングの輸出販売によるアメリカ等進出)に東京科学が田宮模型に協力した結果だったのではと想像してしまう。
ところで当時の元祖「モデル・スピードライフ(以下MSL)」誌がまだ単独月刊誌の形をとっていた1967年4月号NO.18(発売は3月初め)に初めてFT-26Dの特集が掲載されたわけであるが、実際の単独での発売時期を明確に知ることは今の私の資料だけでは出来そうにない。ただ、MSL 3月号NO.17(発売時期は2月初め)の「各地のクラブだより」の「■東京・レースウエイズ ムサシノ < No.1 日米親善レース報告> 1月21日開催」においてすでにFT-26Dが使用されている事実からして、少なくとも田宮製「FT-26D モーターセット」は1966年年末か1967年初頭には発売されていたものと想像される。
そして、1967年4月に開催された「第3回オール関東選手権大会」においては上位入賞車のほとんどがFT-26Dを巻き直して使用していることから、確実に時代はFT-36DからFT-26Dへと変わったことを物語っている。また、それまでサイドワインダーシャーシ搭載は不可能と思われていたフォーミュラクラスにおいてもAYK(青柳金属工業)等がFT-26D用サイドワインダー用モーターマウントを各種発売したことやクライマックス社からF1よりボディ幅の広いインディカークリヤーボディ「ブラバム・フォード」、「STPスペシャル」、そして「ロータス・タービン」等が発売されたことも手伝って、コンパクトなFT-26Dをサイドワインダー方式でFクラスに搭載可能にしたことは、まさにエポックメイキングな出来事だったのではないだろうか。
さて、今回3回目を向かえた「日本モデルカーレーシングの夜明け」は時代を60年代後半から70年代初頭に移して日本のスロットカーレーシングの変化を何回かに分けて紹介していきたいと思う。ただ、私自身が73年からモデルカーレーシングの世界から遠ざかってしまったため、今回から当時のリアル・タイマーの方々からコメントを頂きながら資料と共に進めて行きたいと思っている。

「全日本モデルカーレーシングチーム対抗選手権大会に見るスロットカーの変貌」

 全日本チーム対抗選手権大会を第1回から調べて行くと不思議なことに行き当たる。
第1回全日本チーム対抗選手権大会であるが、当時のMSL誌等の専門誌にはその記念すべきレースの記事はなぜか見当たらないのだ。そして、第2回全日本チーム対抗選手権については東京 科学技術館 サイエンスモデルカーサーキットで1966年8月14日に開かれ、自他共に認める当時のチャンピオン“鳥海志郎”氏が活躍し、シブヤ・サーキットチームが大会2連勝したレースであった。続く第3回大会は、1967年8月20日に東京 赤坂テアトルサーキットで開かれ、大阪のクラブオーナーズアカデミーが優勝、初めて関西勢が関東勢を破った記念すべきレースであった。
その後の急激なブーム減退、メーカーの倒産等、相次ぐサーキット閉鎖により、全日本選手権自体が開催不可能となる可能性も出てきた時期であり、第4回全日本モデルカーレーシングチーム対抗選手権は暗礁に乗り上げたかに見えた。
しかし、68年8月18日、前回同様東京 赤坂テアトル・サーキットにおいて開催にこぎつけ、レースウェイ・ムサシノの3チームが群を抜いて他を圧倒、第4回大会完全優勝を達成する。
そして向かえた第5回大会は、69年8月17日、東京 カマタ・サーキットで開かれた。奇しくも69年日本グランプリ直前ということもあり、タキ・レーシングチームのメンバー等もゲストとして参加、違う意味で盛り上がり見せた大会であった。
優勝チームは、CHIKYU S.Pが獲得し昨年のムサシノは姿を消した。
続く1970年の大会は、諸般の事情で中止、変わりに中京地区にて全日本個人選手権が開かれることとなる。
その後の同大会については資料等がないため残念ながらコメントすることは出来ない。御存知の方がいらしたら是非御一報頂きたい。
ところで、一つ推測であるが下記のコメントにより第1回全日本チーム対抗大会は実は「第1回オール関東サーキット対抗レース大会」が全日本大会を兼ねていたのではないかということである。

「関東では初めてのサーキット対抗レースが、去る8月22日 東京 科学技術館のサイエンスモデルカーサーキットにおいて開催されました。参加サーキット32、ゲスト参加した関西代表18名を含む228名の選手により熱戦が展開されました。」(MSL誌1965年11月号創刊号より抜粋引用)。

「第2回全日本モデルカーレーシングチーム対抗選手権大会は、去る8月14日科学技術館サイエンスモデルカーサーキットに東京、大阪、名古屋から38チーム、152名の選手を集めて盛大に行なわれました。
 栄光のチーム優勝は昨年のオール関東チーム対抗の優勝チーム、シブヤ・サーキットチームが優勝し、見事2連勝を成しとげました。」(MSL誌1966年10月号第2回大会より抜粋引用)。

「・・・中略・・・。第1回、第2回の全日本は科学技術館で開催されました。当時のシブヤ・サーキットの人たちのチーム・ワークの良さ、個人の鳥海氏の素晴らしいテクニックとレース運びが、今でも記憶に残っています。第3回は、モデルカーレーシング界の一番不況の時期で、その開催が危ぶまれましたが、・・・・赤坂サーキットで昨年開催することが出来ました。この第3回大会よりわたしたちは本腰を入れて参加しましたが、結果は大阪チームが1位、当レースウェイは2位と、個人では天才取口君がGTクラスで優勝という、まあまあの成績でした。・・・」(模型とラジオ誌1968年11月号付属MSL第4回大会記事より抜粋引用)。 

 以上のコメントから推測するには、第1回全日本大会は毎年開催される日程(8月)や上記第2回大会記事でのコメントから察するに第1回オール関東サーキット対抗レースが第1回全日本大会を兼ねていたと推測できないだろうか。
さらに、第4回大会優勝チームオーナーのコメントである。第1〜2回大会が科学技術館で開かれていた事実からして第1回大会は推測通りだと思われるのだが・・・。
 当時のことをおわかりの方がいらしたら是非ご一報願いたい。

 第1回(オール関東を第1回として)から第2回全日本チーム対抗まではどちらかというとメーカーシャーシを手直ししてのスペシャルシャーシというのがほとんどのようであったが、1967年大会からは各サーキットチームが独自のシャーシを開発、その結果過去のどちらかと言えば鳥海志郎氏のようなスーパースターたちが他を圧倒して勝利するという図式から、より組織的総合力が勝るプロフェッショナルなチームが優勝を勝ち取る結果に変わってきたように思われる。
そして、忘れてはならないのが完全に定着したFT-26Dによるレベルアップである。GTカー、ストックカーはもとよりFクラスまでもがサイドワインダー方式を採用出来るようになり、このことにより独自のシャーシ開発は飛躍的な進歩を遂げルことが出来たのである。
この頃、スロットカーシャーシ等の開発の中心としてスロットカーレーシング界に君臨していたのは“レースウェイ・ムサシノ”であった。
まさにこの頃のムサシノは向かうところ敵なし状態であり、同時に高性能タイヤやホイールなども開発販売していたことも拍車をかけ、大きなレースにおいては他チーム全てがムサシノ製タイヤを履いていたなんてことも少なくなかった。
常にスロットカーレーシングのリーダーとして活躍した“レースウェイ・ムサシノ”は、この後等々力サーキットと共に70年代をリードして行くことになる。また、この頃からシャーシ開発はドライバー個人が行なうのではなく、各チームのシャーシ開発者によって行われようになり、ドライバーはただ与えられたシャーシをいかに速く動かすかという今で言うF1サーカスに見られる分業制が行なわれだしていた。
その開発者として当時沢山のシャーシ開発やモーターチューンナップを行ない、巣鴨サーキットをホームとされていた古川玉夫(ふるかわたまお)氏に当時の貴重な御話しをうかがうことが出来た。
その内容については次回の再現第6号MSLで紹介したいと思う。こうご期待願いたい。
MSL 編集長 

SEE YOU NEXT TIME
次号に続く


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(C) Text report, photographs by Hirofumi Makino.