The Special Report Of M Speed Life.
It's Became Legend ------.
The All Wheel Independent-Suspension Flame 
Of All Hand Made Slot Car. 
特報 !!
あの“全輪サスペンションF1用シャーシー”が現存!!

 1967年発行の「モデル・スピードライフ」に掲載されていたハイ・メカニズム満載の全輪サスペンションシャーシーが、なんと35年たった今も奇跡的に現存していることがわかった。
さっそく「くるま村」取材班は当時の製作者である田所博史氏に直接お会いし、あの憧れだった全輪サスペンション・シャーシーの全貌をお聞きし、なんと35年もの時を経て、幸運にも今ここに紹介させて頂くことが出来た。


TOP : The 1/24 All-sus HONDA F-1of before repair by Hiroshi Tadokoro.
 私のモデルカーレーシング趣味において「モデル・スピードライフ」誌はまさにバイブルであった。
そして、そのモデル・スピードライフ誌の中でも特に印象深い製作記事が1つある。それが今回奇跡的に現存していた「全輪・サスペンションF1シャーシー ホンダF−1」であった。
製作者の“田所博史”氏は35年もの間ほとんど当時のまま保管されており、その他貴重な自作モデルカーたちも同時に持たれていて、まさに60年代の日本モデルカー史を見る思いであった。
まずは、製作者である田所博史氏とのインタビューをご覧頂きたい。

編集長(以下MSL) : 田所さんの生年月日を教えてください。

田所氏(以下H.T) : 1950年1月生まれ、日にちは秘密です(笑)。

MSL : そして、簡単にお住まいの履歴を教えてください。

H.T : 1970年頃から大阪と東京を行ったり来たりで、75年に大阪で結婚してからずっと大阪住まいでした。99年に東京へ戻って玉川に住んでいます。(右の写真は現在の田所氏)

MSL : モデルカーレーシングを初めてされたのはいつでしょうか。

H.T : 1965年7月20日です。
(注)氏は当時の出来事をこまめに書いた日記を今だにお持ちでした!

MSL : そのきっかけはなんだったのでしょうか。

H.T : 新宿の京王デパートに有ったサーキットで初めてモデルカーレーシングを見ました。そのまま熱烈ファンに。。。

MSL : 初めて買われたキットは?!

H.T : メーカーは忘れましたが赤いフェラーリF1でした。ノーズ穴がが左右二つあるデザインだったです。

MSL : モデルカーレーシング以前の趣味はおありだったのでしょうか。

H.T : 模型少年そのものでした。確か4歳の頃に病気をしてお見舞いにもらった木製の組み合わせブロックのおもちゃがきっかけで、それいらいずっと模型を作り続けていました。
車の模型もオートスポーツ誌の写真などを参考に作った記憶があります。
初期は戦車やクレーン車など、模型とラジオ誌を愛読していました関係であれに掲載された模型作りのノウハウは随分参考になったと思います。

MSL : 第1回オール関東チーム対抗にはどこのサーキットから出場されたのでしょうか。

H.T : 三軒茶屋サーキットチームの一員として参加しました。

MSL : その時のモデルカーは何だったのですか。

H.T : もちろんフェラーリF1でした(笑)

MSL : その他その当時のエピソードがありましたら教えてください。

H.T : 三軒茶屋サーキットがオープンしたのが、65年9月。三茶最初のレースが10月末。
このときの優勝チームは原宿サーキットチームでした。
第1回オール関東選手権が開催されたのが同年11月28日、場所は中野サーキットのBコースで全長65mでした。
予選は下北沢に有った明治屋サーキット。
先行の人たちがコケてくれて3位でオール関東の出場権を獲得し参加しましたが、本戦ではシャフトが曲がってあえなく敗退でした。

MSL : 鳥海さんのレース運びその他で感銘を受けたとおっしゃってましたが、どんなところが凄かったのですか。

H.T : その本戦で居並ぶ強豪の中に前髪を手でかき上げる仕草がかっこいい人が鳥海さんだったのです。(笑)
車は1/32のIndyi500だったと思いますが、ちっこいのに驚異的なスピードで強烈にテールを振りながら走る様はとても印象的でした。
とにかく他の人とは桁違いのコントロールだったと思います。なんであんなに早く走れるのか?
何故あんなにうまくコントロール出来るのか不思議でした。やっぱり天才は違うのだと変に納得していました。(笑)

MSL : 田所さんが作られた全輪サスペンションシャーシ―の2号車(スピードライフ掲載車)はその後どうなったのですか。

H.T : 2号車のその後はわかりません。とっくに処分されてしまったのか、またはどなたかが秘蔵されているのか私も知りたいところです。

MSL : 田所さんに見せて頂いたアバンティ(?!)の正式名とその特徴と材質を再度教えてください。

H.T : スチュードベーカー・アバンティ です。63年型モデルだったと思います。
オートスポーツ誌に乗った写真を参考に作ったと思いますが、模型にしたオープンカースタイルが有ったかどうか覚えていません。
材質は木とバルサと白ボール紙です。ボデイはラッカーをコテコテに塗って堅く仕上げ、シャシー、エンジンなども全て作って有り、リアトランクに単3電池を搭載してエンジンに仕込んだモーターが回るようになっていますが、走行はしません。これを作ったときは中学生の頃で、まだモデルカーレーシングのことは知りませんでした。

MSL : アバンティのサスペンションとユニバーサル・ジョイントを見ているとまさにホンダF-1の原点を見ているようですね。
ところで、やはりオール自作のチャパラル2Fのボディはバルサと長谷川のディノ166Pの屋根を使って作られたと聞きましたが、シャーシーはピアノ線に前輪サスペンションを付けられ、リヤも独立懸架だったのですか。

H.T : 現在残っているシャシーはフロントアクスルを除き他の部品を外してしまっているので、当時どんな形式でリアサスペンションを作っていたのか記憶が有りません。
しかし多分、ピアノ線の弾力を利用してクッションを持つ4輪独立懸架だったと思います。
ただしこのボデイはバルサのため衝撃に弱く実際に走行させていましたがフロント部分がすぐに壊れてしまい、修理してありその後はシャシーも解体して現在残っている状態になりました。

MSL : 1968年頃の等々力サーキットで開かれた12時間レースに優勝されたと聞きましたが、このときの車はあのロータス47(ヨーロッパ)でしたでしょうか。

H.T : 当時確か小林さん新井さんそれに私と3人でチーム参戦し、車本体は新井さんの作ったストックカーかGT車を使用(車種は忘れました)鈴木さんが駆動部品のパーツ類担当、私はモーターを数個用意して巻き直す担当だったと思います。
67〜68年当時の等々力サーキットでのレースは800周くらいの耐久レースが主でした。
このためボデイとシャシーの修理のしやすさ、モーターの耐久性向上等、耐久レースならではの技術を競っていました。
そんななかで12時間の耐久レースをやろうという話しが出て夜6時から翌朝6時までの超耐久レースの実施が決まり、色々とレギュレーションの取り決めをして開催したのだと記憶しています。まず2〜3名でチームを作り1台の車で走ります。参加は8チームまで。
基本的なシャシー以外は全て交換OK、実際数時間以上連続して走るとモーターもギヤやシャフトなど駆動部分はかなりダメージが出て必ず壊れる部分が出てきます。
走行は90分走って2分くらいの休みを挟んだと思います。
ドライバーは交代制でルマンなどと同様のやり方でした。部品交換やモーターを焼き切れる前に交換するなどかなり実車のレースに近いピットインを繰り返したと記憶しています。
ナイトレースも2回ほど室内の電気を全部消してやりましたが、コースアウトすると自分達の車がどこに有るのか分からなくなるので懐中電灯は必需品でしたね(笑)しかし、ナイトレースの光の帯は実に綺麗でした。
一周50mのコースを7〜8秒で走りますから、1時間で400〜500周、12時間で4000周以上走ったと思います。
実走行距離で50×4000=200km、東京から静岡辺り走った計算になりますが、まぁとにかく大変で、またとても楽しいレースでした。
朝日が昇る頃眠い目をこすりながら、サーキット裏の等々力渓谷を眺めたときの爽快さはマックィーンの映画「栄光のルマン」そのままの雰囲気でした。
とにかくあのレースは私のモデルカーレーシング人生最高の思い出です。

MSL : 懐かしいお話本当にありがとうございました。

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(C) Photographs, textreports by Hirofumi Makino.
Special thanks by Hiroshi Tadokoro.