"IS NASSAU DYING ?"
U.S. CHALLENGERS-FORD AND CHAPARRAL 
THE LAST TIME OF NASSAU !?
NASSAU SPEED WEEKS IN 1966
ナッソー・スピードウィーク 1966

TOP : Chaparral 2E at Nassau in 1966.
 最後のシーズンとなった!?偉大なる草レースNASSAU !!
 1966年といえば、あのCAN-AMシリーズが開幕した記念すべき年でした。しかし、伝統のナッソー・スピードウィークにとっては悲しい閉幕のシーズンとなってしまいました。
CAN-AMとNASSAU、この偉大なるレースはあまりにも私たちに強烈な印象を与えたのではなかったでしょうか。チャパラルやローラ、そして、マクラーレンなどのビッグ・マシンたちはこのレースによって認められ、そして有名になりました。
今回は、この偉大なる草レースであったナッソー・スピードウィークのラストシーズンとなってしまった1966年の模様を1965年に続き再現してみたいと思います。
 チャパラル2E登場!!
 1966年、CAN-AMシリーズの初年度に当たるこのシーズンに、ジム・ホールはついに究極のマシンを登場させました。それがこのチャパラル2Eでありました(画像右)。2Eは、前年の2Cをよりエアロダイナミクスに作り変えたニューマシンであり、その高々とそびえ立つ“フリッパー”は見るものを魅了せずにはおきません。
 そして、CAN-AMシリーズの第4戦ラグナセカにおいてチャパラルにとっての唯一のCAN-AMシリーズ優勝になってしまう勝利を飾りました。新しい試みはたえず成功する可能性を持っている反面、トラブルを起こす可能性も同居するわけで、チャパラルのウイング(フリッパー)もその例にもれず、たえずこのフリッパーのトラブルに悩まされていました。
速さとモロさの両面を打ち出しつつCAN-AMシリーズ初年度を終えたチャパラル2Eは、さらなる完璧さを求めて12月のナッソーに乗り込んで来たのは、いうまでもありません。しかし、オーナーのジム・ホールは参加せず、新しい“2E”をドライブするのは前年のナッソー・トロフィー・レースの覇者“ハプ・シャープ”でありました。チャパラル・カーズは、この年から世界マニファクチャラーズ・チャンピオンシップに挑戦している関係で、もっぱらチャパラルのドライブをしているは、1961年のF−1ワールドチャンピオン“フィル・ヒル”でありましたが、ここナッソーには登場しませんでした。実は、ハプ・シャープは、1965年シーズンで引退し、それまでのロジャー・ペンスキーから変わってチャパラルのマネジャーを今年からしていたのですが、テストを兼ねたドライバーとしては、ヒルよりも適任だったからかもしれません。
ところで、1966年のナッソー・スピード・ウィークは、オーガナイザーの不手際で、なんと1週間のレース・スケジュールが3日間で行なう羽目になってしまったのです。帰りのフェリーの手配を間違えたために起きた出来事でありました。
そして、参加ドライバーもいつものダン・ガーニージャッキー・スチュワート、ブルース・マクラーレン、クリス・エモンなどのビッグ・ネームがおらず、少々トーン・ダウンの感は否めません。
しかし、フォードの積極的な参加(フォードGTの開発を兼ねて)により、マリオ・アンドレッティ、AJ.フォイトの参加(両方ともホルマン&ムーディの7リッターローラT70MKII )、そして、ペンスキー・チームから参加のマーク・ダナヒューの参加などによりかろうじて決戦ムードが整ったと言えたレースでありました。
 レースは、例年通り「フォーミュラVレース」、「ガバーズ・アンド・ツーリスト・トロフィー・レース(知事杯)」、そしてメインイベントの「インターナショナル・ナッソー・トロフィー・レース」が行なわれました。
まず行なわれた「フォーミュラVレース」の話題は、死後F1チャンピオンとなるあの“ヨッヘン・リント”が地元オーストリアからエントリーし、アメリカ製フォーミュラVカー勢を全く寄せつけず圧勝したことでしょう。
続いて行なわれた「ガバーズ・アンド・ツーリスト・トロフィー・レース」は3日間に短縮されたナッソー・スピードウィークの犠牲となったレースでありました。本来「ツーリスト・トロフィー」と「ガバーズ・トロフィー」は別々のレースであったのを1つレースで行なうという非常に危ないレースとなってしまったのでした。
エントリーをみると、チャパラル、ローラ、マクラーレンというビッグ・マシンと一緒にミニやボルボ、それにアバルトなどが一緒にレースを行なうというもので、スピード差がありすぎるため、接触事故等が絶えないレースとなってしまいました。
 ポールポジションを獲得したのはハプ・シャープの駆るチャパラル2Eでした。チャパラルに積まれているエンジンは、アルミブロックのシボレーV8 5300ccチャパラル・チューンで、驚異的な2分30秒3をマークしみせたのでした。
 2位は、昨年まではジム・ホールのマネジャー役を勤めていた元チャパラル・カーズのドライバーでもあったロジャー・ペンスキー(私は、AUTO SPORT誌の影響でしょうか、ロジャー・ペンスケRoger Penskeと発音していたことが懐かしいです・・・笑)チームがエントリーしたマーク・ダナヒューの乗るローラT70MKII シボレー(5900cc V8シボレーエンジン)でありました。
 そして、シボレーVSフォードの戦いとして注目されていた“ホルマン&ムーディ”がエントリーした7000ccフォードV8エンジン搭載のローラT70MKII には、マリオ・アンドレッティとA.J.フォイト(画像右)がステアリングを握る。しかし、A.J.フォイトが第3列目確保するも、期待されたマリオ・アンドレッティは、エンジンのガスケットを吹き飛ばしてしまい、このレースへの出場を諦めるという結果となってしまったのでした。ところで、アンドレッティのローラには、チャパラルに対抗したフォード製オートマチック・トランスミションが搭載されており、フォードの来シーズンに賭ける意気込みを感じさせてくれました。
 シャープ逃げ切る!!
 さて、ローリング・スタートでまず飛び出したのは、マーク・ダナヒューのスノコ・ローラT70でありました。
その後をシャープのチャパラル2E、ピーター・レブソンのマクラーレンM1Bが追う展開。
話しは少々外れてしまいますが、マーク・ダナヒューとピーター・レブソンというと私は、どうしても1968年、富士スピードウェイで開催された第1回日本CAN-AMを思い出してしまいます。1分16秒81という驚異的なタイムで富士の4.3km左回りショートコースのコースレコードを樹立したダナヒューのスノコ・マクラーレンM6Bシボレーと、同じくその大会でシェルビーアメリカンチームにCAN-AMレース初優勝(正確にはCAN-AMシリーズ番外編レースでありましたが・・・)をプレゼントしたピーター・レブソンのマクラーレンM6Bフォードの争いは、日本グランプリのニッサンVSトヨタVSタキレーシングしか見ておりませんでした当時の私たちにまさしくカルチャー・ショックを与えてくれた2人なのでありました。
さらに脱線してしまいますが、このレブソンは、遅咲きのプリンスとして有名であり、1971年にブルース・マクラーレン亡き後のマクラーレンチームからCAN-AMシリーズにデニス・フルムと組んでM8Fで出場し、総合チャンピオンとなり開花するまでは、まさしく影の実力者として地味な存在でありました。
その一番の例が1970年の世界メイクスチャンピオンシップの第2戦セブリング12時間レースです。
レブソンはあの「栄光のル・マン」でお馴染みのスティーブ・マックイーンとコンビを組んで出場、マリオ・アンドレッティのフェラーリ512Sに続いて総合2位に輝いたのですが、ほとんどのマスコミはマックイーンの偉業を称えておりましたが、実はマックイーンはレース前にモトクロスレースで足を骨折しており、レースの大半はレブソンがドライブしたもので真の英雄はレブソンだったという裏話もありました。これこそ影の実力者としての悲しさがよく表われていた一例であります。
 話しは戻って、そんな2人と残念ながら1968年CAN-AM最終戦で大クラッシュして日本CAN-AMには来日が果たせなかったチャパラルとのトップ争いは想像しただけでも凄まじい戦いであったのではと思ってしまいます。
 しかし、あっけなく「ガバーズ・アンド・ツーリスト・トロフィー・レース(知事杯)」の勝敗は決まってしまうのでした。
3周目ダナヒューは早くも下位のボルボをラップしようとした時接触、ダナヒューのローラはボディにダメージをおってしまい後退、変わってシャープのチャパラルがトップになり、そのままゴール!!25周のレースの内、3周目以降はトップを1度も渡さない完璧な勝利でありました。
2位は、B.ランガーのマクラーレンM1B。3位は、D.ブラウンのマクラーレンM1B。そして、なぜかGTクラスでの参加となったピーター・グレッグのポルシェ・カレラ6がクラス優勝と総合4位を獲得し、1台のポルシェを入れて、本来GTクラスの優勝候補だったペドロ・ロドリゲスのNARTフェラーリ275GTBがGTクラス2位で、総合6位となりました。

TOP : The winged Chapparal 2E also can be seen !!
 ダナヒューの勝利とシャープのクラッシュ!!
 さて、いよいよナッソー・スピードウィークのメインイベントである「インターナショナル・ナッソー・トロフィー・レース」がスタートしようとしています。このレースのスタート方式は、伝統のル・マン式スタートであります。
ところで、このオークス・コースのストレートは異常なほどコース幅が広く、駆け出してマシンに向かうドライバーにとってはちょっとした短距離走になってしまいます。それでも全力疾走するドライバーはよほどの体力の持ち主か、とにかく1回だけでもトップに立ちたいというドライバーでもない限り、皆ゆっくりとジャッキー・イクスばり(!?)に歩いて自分のマシンに向かうのが多かったのではと私は想像してしまいます。
 「ナッソー・トロフィー・レース」は予選がなく、「ガバーズ・アンド・ツーリスト・トロフィー」の1、2位チャパラル2E、B.ランガーのマクラーレンM1Bを先頭に、排気量の大きい順にスタート順が決められていました。
まず上手いスタートを切ったのが、ピーター・レブソンのマクラーレンで、つづいてB.フォルプのローラT70、そして、マーク・ダナヒューのスノコ・ローラT70が続く。ところが、ハプ・シャープのチャパラルと、AJ.フォイトのローラT70フォードがスタート出来ず、全車スタートし終えたころ、やっとスタートしていく意外な展開となりました。ハプ・シャープとAJ.フォイトはその後、その有り余るパワーを使い、テールエンドグループを追い始め、特にシャープは8周目に、なんと4位まで順位を挽回し、3位のダナヒューに20秒ほどのところまで追い上げてきたのです。
そしてAJ.フォイトも6位にまで順位を上げ、猛追態勢を築いたかに見えた14周目、ウォーター・ホース破損であっけなくリタイヤしてしまうのでした。続いて同じく9位を走っていたマリオ・アンドレッティも7リッター・フォード・エンジンのパワーに、クーリング・システムが耐えきれずオーバー・ヒートでリタイヤ。フォイトに続き、フォード期待のアンドレッティも息の根を止め、ホルマン・ムーディ・チームは意気消沈してしまったのは言うまでもありません。
余談ですが、この年初のUSACチャンピオン(インディカ―チャンピオン)となったマリオ・アンドレッティは、当時のグループ7カー(CAN-AMカーともいう)においては、常に実験的な(不完全な!?)マシンで出場しており、ついにチャンピオンシップに絡むようなマシンを手に入れることが出来ませんでした。例えば、1966年のCAN-AMシリーズには、パーネリ―・ジョーンズ・チームのローラT70フォードで出場してみたり、1967年には、ホルマン&ムーディ・チームから“ホンカーII”というアランマン・レーシングが関与したマシンで2戦のみ参加したり、はたまた1968年にはローラT70MKIIIBフォードで6戦中2戦出たかと思うとその後姿を消し、そして最終戦ラスベガス・グランプリにローラT160フォードで突如再挑戦したりとスポット参戦の非常に多いドライバーでありました。また、1969年では、当時最大排気量を誇った8.1リッター・フォードV8を積むマクラーレンM6Bフォード(ホルマン&ムーディー)で11戦中の残り3戦だけに出場、1970〜71年は、フェラーリ・チームから各1戦づつの参加(70年が512Sで、71年が712Mでの参加)とあまりCAN-AMには興味がなかったのか、それともインディカ―レース、フェラーリによるF1とマニファクチャラーズチャンピオンシップの方に積極的だったのかはわかりませんが、良いチームでCAN-AMにのぞんでいれば必ずやチャンピオンを取れたのではと思ってしまうのは私だけでありましょうか。
さて、レースは大詰め。トップを死安していたピーター・レブソンのマクラーレンがガス欠状態となりピットインしたのは中盤戦にかかる頃でした。レブソンの不意のピットストップで首位に立ったのはスキップ・スコットのマクラーレン。
そして、その背後からじりじり追い上げて来たのはマーク・ダナヒューのスノコ・ローラでありました。
その後スキップ・スコットのリフェール・ストップなどもあり、ダナヒューは難なく首位に立つとその後は独走に継ぐ独走を続け、これで優勝かと思われたゴール2周前、なんとダナヒューもリフェールのためピットイン。
これで万事休すかと思われたのを、ロジャー・ペンスキー・チームは“7.5秒”という現在のF1チームのピットインタイムに匹敵するようなすばやい作業でダナヒューを送りだし、猛追してきたスキップ・スコットを辛くもかわし、トップのままゴールインとなりました。まさに、ピット作業の勝利と言ってもよいような結末でありました。
これで、ダナヒューは先のガバーズ・アンド・ツーリストトロフィーレースの復讐戦を勝利で飾ることが出来たのでした。
ところが、ナッソー・スピードウィークの熱き女神はそう簡単にはレースを終らせてくれませんでした。
ダナヒューがゴールに向かっている時、実は重大な“事件”が起こっていたのです。それは4位を走行していたハプ・シャープのチャパラル2Eがなんと“フリッパー”のトラブルでバックストレートを駆け抜けたところでクラッシュしてしまったのです。幸いハプ・シャープは無事でありましたが、チャパラルにとっては、何という不運だったのでしょうか。
これでBuck FulpのローラT70が4位に浮上。その後からサム・ポージーのマクラーレン、ペドロ・ロドリゲスのフェラーリ・ディノ206SPが続きゴール。ナッソーの全てのレースはこれで終了となりました。
それにしても昨年ジム・ホールが乗ってクラッシュしたチャパラル2Cといい、なぜか可動式スポイラーを持つチャパラルは荒れた路面のこのナッソーで相性が悪いのは何故なんでしょうか。やはりピーター・ブロック氏の発言は、正しかったのでしょうか。

THE AMERICAN DREAM OF NASSAU SPEEDWEEK
THE END


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(C) 7/DEC/2001 Textreport by Hirofumi Makino.
(C) 7/DEC/2001 Photographs by Hirofumi Makino.