The Report of Model SpeedLife.
HAVE YOU EVER SEEN THE NASSAU ? 

FROM 1954 TO 1966 

TOP: Chaparral 2E and Hap Sharp at Nassau in 1966.
 60年代のレース・シーンを思い浮かべる時、必ず浮かんでくるレースといえば、F−1レースでしょうか?!
いや、違うはず。60年代をリアルに生きられた方は、きっと良き時代のスポーツカーレースを思い浮かべられているはずです。
それでは、ル・マンでしょうか。それともCAN-AMでしょうか。はたまた、日本グランプリのあのニッサン、トヨタ、そして、タキ・レーシングの戦いであったT.N.Tの激突を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。
ということで、今回の企画として、そのどれにも属さない異質のレースであり、良い意味で楽しみながらレースをすることが出来た最後のスポーツカーレース「NASSAU SPEED WEEK」を特集していきたいと思います。
 バハマ諸島のナッソーで毎年12月のクリスマス・シーズンに行なわれていた恒例のレース・ウィークが、「ナッソー・スピード・ウィーク」でありました。バカンスを兼ねたレーシング・ドライバーとチームの為のレースとでも言いましょうか、ヨーロッパ、そしてアメリカのレースを終えた各チームは、マシン・テストを兼ねた形で、必ずこのナッソーに毎年やって来ました。ダン・ガーニー、マリオ・アンドレッティ、AJ.フォイト、ケン・マイルズ、クリス・エモン、ヨッヘン・リント、ブルース・マクラーレン、ジム・ホール、マーク・ダナヒュー、そして、ペドロ・ロドリゲスetc。まさに、グレート・ドライバーの集いでありました。
 ナッソー・スピード・ウィークは、1周間にわたって3つの大きなレースを行なうもので、「フォーミュラVee(ワーゲン・エンジン付き)」、「ツーリスト・トロフィー・レース」、そして「ナッソー・トロフィー・レース」が毎年行なわれていました。
ところで、このレースは、1954年(なんと私の生まれた年にスタートしたわけであります・・・関係なかったですね!)に始まり、1967年にその幕を閉じたのですが、大変印象深いレースでありました。

TOP: Nassau of BAHAMA IS.
 ナッソーは、アメリカ フロリダ半島から近いバハマ諸島の首都として特にバカンス地で有名でありました。
 そういえば、偉大なロックグループとして今なお健在なあのローリング・ストーンズのメンバーであるキース・リチャーズもこのバハマを好んでよくこの地を訪れると聞きます。
1989年、ストーンズ再起をかけて発表された「スティール・ホイールズ」は、確かこの地のスタジオでレコーディングされたものではなかったでしょうか。キースとミックの不仲説を吹き飛ばすこのアルバムは、きっとバハマのこの焼けつくような太陽の中で、消し飛んでしまったに違いありません。
余談ですが、翌年遂に実現したストーンズの日本公演には、3回も見に行くことが出来ました。バハマがなければストーンズの公演も永久に見れなかったなどと考えてしまうのは私だけでしょうか。
 "OAKES COURSE"サーキットは旧国際空港を利用して作られた1周4.5mile(7.2km)のオークス・フィールド。
 スタート方式は、メイン・イベントの“ナッソー・トロフィー”は、伝統のル・マン式スタートで行なわれています。
 そんなナッソー・スピード・ウィークについて当時のオートスポーツ誌(1966年NO.8)は次ぎのようにコメントしていますので、引用させて頂きました。
昼間のレース、夜の歓楽
 青い海、輝く太陽。気温は25度から30度という常夏のくに。
島の観光協会は夜毎のパーティーを1週間にわたって繰り広げる。レースの合間には水泳や水上スキーを楽しむドライバーたち。女性ヘルパーの姿もいたって開放的だ。その数も他のレースよりは目立って多い。
 ナッソー・スピード・ウィークは、そんな環境の中で、この暮れも開かれた。FIA(国際自動車連盟)のチャンピオンシップこそかかっていないが、スポーツカーやGTカーのほか、フォーミュラカーも加わって行なわれる国際オープンのレースである。
 ドライバーの中にはインディーのヒーロー、A.JフォイトやF1ドライバーのブルース・マクラーレンなどの顔も混じっている。” (写真は、パーティでくつろぐメキシコの英雄ペドロ・ロドリゲスと美女!?)
 
TOP: Nassau Sports Center "OAKES COURSE".

TOP: The Night Party of Nassau Speed Week!!
 ところで、このナッソー・スピードウィークは、突然1967年で13年間の歴史にピリオドを打ってしまうわけでありますが、この原因について1967年発売のAUTO SPORT誌7月号「スターリング・モスのスポーツ時評」に興味深いレポートが書かれておりましたので、再び引用させて頂きます。
ナッソーの失敗
 モーター・レースの場合、オーガナイゼーションとマーケティングはまぎれもなく重要である。
 たとえば、バハマ諸島で毎年クリスマス・シーズンに行なわれているナッソー・スピードウィークだ。そのナッソーが場所を本島のグランドバハマに移すらしいということを耳にしたが、これは、私の考え方が正しいことを証明している。
 ナッソーは有名な保養地だ。にも関わらず一般大衆はナッソー・スピードウィークにあまり興味を示さなかった。この点が、ル・マンとは対照的である。
 だいいち、コースが良くないし、舗装は非常に悪く、地元の人々は無気力だ。そのうえオーガナイザーがきわめてがめついときては、言うことがない。レースをバック・アップする為の援助や努力を誰もしようとせず、トップ・ドライバーは年ごとに集まらなくなってしまった。
 このことは、裏を返せば、ほとんどのファンがナッソーを無視することを意味する。そして、これがまた収入の減少につながってくる。とどのつまりは、必要最小限の安全対策さえも手付かずのまま・・・ということになってしまうのだ。
 ル・マンの立派なトラックや観客設備や楽しいアトラクションが、主催者のたゆまぬ熱意によって作られたものだ、ということをよく考えてみるといい。
 ナッソーの主催者が、わずかばかりの幸運にたよらず、じっくりと考えて熱意を持って開催に当たっていたら、ナッソーはCAN-AMシリーズのように西半球で欠かす事の出来ないイベントになっていたことだろう。
 ル・マンでは、レース開催中は物価が跳ね上がるが、ナッソーだって、オーガナイゼーションとプロモートをうまくやっていたら、物価がいくぶん高くなっても旅行者は島に群がって来ただろう。それが島の経済をうるおすことにもなったはずである。
 とはいうものの、ル・マンにはたんにオーガナイゼーションの問題だけではない“何か”があることは否定できない。それは“ル・マンの神秘”とでもいうべき独特のムードがもたらすものかもしれない。” by Stirling Moss talks motor racing
 ナッソー・スピードウィークが当時のモーター・スポーツ界に与えたものとはいったいなんだったのでしょうか。
まだCAN-AMシリーズが始まるずっと前の時代からビッグマシンたちが所狭しと走りまわっていたこのナッソー・スピードウィークは、すばらしきレーシングカーとドライバーたちが争う最後のアマチュアニズムを持ったレースだったのではないでしょうか。スターリング・モスやダン・ガーニー、AJ.フォイトらが同じ土俵で本気で争うレースなど当時はナッソー以外にはほとんどありませんでしたから、13年あまりで消滅してしまった事実はあまりにも残念でなりません。
 今回は、そんなナッソー・スピードウィークのピークとなった1965〜66年シーズンを再現 モデル・スピードライフ特別企画として特集していきたいと思います。

 
Scene of 1965season 

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(C) 13/SEPT/2001 Text Reports by Hirofumi Makino.