Nassau Speed Week became Legend-----.
It's the greatest race, I've ever seen before !!
フォード VS シボレーの静かなる対決に揺れた
"The Nassau in 1965"
激闘!!
“1965 ナッソー・スピード・ウィーク”

TOP: #47 Bruce McLaren and his McLaren M1B.
Modeling by Hirofumi Makino.
 伝説となった“ナッソー・スピード・ウィーク”の中でも名レースと言われた1965年シーズンをモデルカーレーシングにより再現してみたいと思います。
 “チャパラル2C !! マクラーレンM1B !! ローラT70 !! ロータス40 !! フォードGTX !! ”
 1965年のナッソースピードウィークは、まさに近年まれに見る激闘のレースでありました。
特に注目されていたチャパラル・カーズのジム・ホールは、この年のセブリング12時間レースで劇的な勝利をものにした“2”をより発展させた“2C”を登場させ、チャパラルここにありということを強烈にアピールしていました。
このチャパラル2Cの特長は、なんと言っても可動式エアー・スポイラー(当時は、エアーフォイルなどと呼んでいた)ではないでしょうか?!
このエアー・スポイラーは、アクセル、ブレーキ(2速オートマチックの為、クラッチがない)の2つのペダルと、もう1つのスポイラー用ペダルによって水平、そして傾斜させることができる画期的なものでした。コーナーに入る手前では、エアー・スポイラーを垂直に近づけるように移動させて、エアー・ブレーキとし、ストレートでは、水平位置として直進性を高める効果を生むセンセーショナルなものだったと当時さかんに言われていました。
さらにジム・ホールは、既存のタイプである“2”にも2Cタイプのエアー・スポイラーを装着し、競争力を高めることに成功、まさに当時のチャパラルはパフォーマンスNO.1であったのです。
その翌年に高々と聳え立つ“フリッパー”を装着して登場させた“2E”も、この2Cの開発があってこそ生れたものであり(事実2Cのシャーシーは、2Eとなって復活した)、この1965年ナッソーは、まさに走る実験室と化したのでありました。
 ところでそんなジム・ホールのアイデアを真っ向から否定するデザイナーがいたのです。それはあの“ヒノ・サムライ”の生みの親である“ピーター・ブロック”でした。
1967年三栄書房発行「モーターファン」誌7月号において掲載された特別寄稿「サムライ・プロトタイプと私 ピーター・ブロック」より関連事項のみ引用させて頂きます。
“チャパラルとサムライのフォイル”
 私が、このリング・エアフォイルのアイデアを最初に実用にうつす機会を得たのは「ギヤ・デ・トマソ」5リッタ―・カーだった。この車は、私がイタリアのデザイナー、デ・トマソ(De Tomaso)と共同で作り上げたもの。この計画のスポンサーは最初シェルビーだったが途中で、シェルビーと、デ・トマソとの意見が一致せず、デ・トマソは車が完成してから後にイタリヤのギヤに援助を依頼したという曰く付きのもので、ここから車名は「ギヤ・デ・トマソ(写真右タミヤのキングコブラでおなじみですね!Right side : The Group 7 car Gear De Tomaso by Peter Brock」)と呼ばれることとなったものだ。
 この車はイタリヤで実際にレースに出場したが、大した成績も上げず、また国際レースには姿を見せなかったので、私のエアフォイルの理論は、国際的に認められるというところまではいかなかった。その後、ジム・ホール(Jim Hall)が有名なチャパラルにこのアイデアを採用して、世界的に知れわたるようになったことは、周知の通りだ。
 ジム・ホールは、私のアイデアをさらに拡張し、彼の車は今やすべて、大きなフォイル(またはフリッパーとも呼んでいる)をつけるようになっている。だが、ホール車ではエア・フォイル断面を採用しておらず、従って、私の車とちがい、ネガティブ・プレッシャーを発生させるのではなくて、ただ車の安定性をコントロールするためのものとなっている。私の場合ではエア・フォイルをシャーシーに直接取り付け、バネ下重量軽減をはかっているが、チャパラルのフリッパーは、リヤ・サスペンションに直接取り付けている。ここらが、私とホールのやり方の相違点といえるだろう。もちろん、チャパラルのフリッパーは、サーキットが平坦である限り大変有効であるが、ラスベガスやナッソーでのレースが示すように、粗い路面のサーキットでは、まったく実用にならない。
この2つのサーキットでのレースでは、チャパラルは、フリッパーを取り付けているシャフトが折れ、フォイルは破損してしまった。
 これに対して、私のエア・フォイルの原理は、これまでのコンペショナルなスポイラーの約半分の空気抵抗で、しかも、速度に応じたロードホールディングを維持させるというものだ。つまり、その角度は、サーキットの性格によって簡単に変えることが出来、たとえ濡れた路面の場合でもリヤ・タイヤの接地性は低下させないようにするという役目をもっている。といったところで、絶対に最高だという空気流体力学的な解法などというものは存在しない。私がこれまでに製作したいくつかのレーサーにしても、その一つ一つが実験的な意味があるものであり、これまでの手法より優れているアイデアを一歩ずつ進めていると言っても良いだろう(左写真ヒノ・サムライ・プロトタイプ  Left side : The Group 6 car Hino-SAMURAI by Peter Brock)。
by ピーター・ブロック 
 ナッソー・スピード・ウィークでは合計4つのレースが1週間の間に行われ、その中でもメイン・イベントとなる“ナッソー・トロフィー・レース”は最終日に行なわれます。
 最初のレースは、グランド・ツーリングカー( GT)による「ツーリスト・トロフィー・レース( The Nassau Tourist Trophy Race 179.2Km)」であります。GTとは、年間100台以上の生産を義務ずけられている車両を指し、これらGTスポーツカーたちの中にはあの“ポルシェ904GTS”や“シェルビー・コブラ427”なども含まれておりました。誰もが優勝はこの2台から出るものと予想していました。
しかし、レースは水物。優勝したのはCharlie Kolbのドライブする“フェラーリ275GTB”でありました。しかし、この優勝は最終ラップでそれまでのリーダーだったTom Payneのコブラが止まってしまった為に拾ったラッキーな優勝だったのです。
 このフェラーリはGeorge Arrent Teamのもので、まさにコンペティション・フェラーリと形容した方が良いほどのレーシングカーとして生まれ変わっており、250GTOを彷彿させる活躍でありました。
ちなみにこのレースのリザルトは、優勝チャーリー・コルプのフェラーリ275GTB、2位はピーター・グレッグ( Peter Gregg)のポルシェ904GTS、そして、不運のトム・ペインのコブラは3位でした。
 次ぎのレースは、VWのシャーシーを使用したフォーミュラカーのレースです。正式名「フォーミュラV( The Formula V Race 23 laps 165.6Km)」と呼ばれるこのレースには、AJ.フォイト、ブルース・マクラーレン、そしてクリス・エモンなども出場する大変興味深いレースでありました。日本で言えば1970年代初期に爆発的な人気レースでありましたFL500(軽自動車のエンジンを使ったフォーミュラカーレース)にさかんに片山義美選手や鮒子田 寛選手が出場しておりましたが、まさに同じ感覚ではないでしょうか。
 優勝は、遂に引退までF1チャンピオンシップで1度も優勝できなかった不運のクリス・エモンでありました。そして2位はブルース・マクラーレンという翌年ル・マン24時間レースを制覇するニュージーランド・コンビが1〜2位を占めたわけであります。そういえば、1964年のこのレースでは、あのダン・ガーニーとAJ.フォイトがVWそのもので出場し(当時このレースは、FVとVWとの混合レースでありました。もちろんフォーミュラとはクラスが違うのですが・・・)、調子が悪いフォイトのVWをガーニーが後から突つくという和気藹々のレースをしていたのが思い出されます(と言っても決して私がその当時実際レースを見ていたわけではないので悪しからず・・・)。
 さあ、セミファイナルのガバナーズ・トロフィー・レース( The Governor's Trophy Race 25 laps 180Km)」であります。
 このレースには翌年からスタートすることになる「CAN-AMシリーズ」に出場するような排気量無制限で何でもありのグループ7( Group 7)レーシングカーが大挙出場し、メイン・イベント「ナッソー・トロフィー・レース( The Nassau Trophy Race)」の前哨戦として非常に人気の高いレースでありました。
 出場車とドライバーは、常勝チャパラルにジム・ホールとハプ・シャープの2人、特にホールのマシンは可動式のリア・スポイラー付きのコーク・ボトル・タイプの新しい“チャパラル2C”を持ち込み必勝を喫し、また、マクラーレン・エルバ( M1B)にはブルース・マクラーレン、そしてシボレー(イコール=チャパラル)に対抗するフォードの秘密兵器   “フォードGTX”(1965年ル・マン出場車のフォードGT 7リッターをブルース・マクラーレンがオープン・タイプに改造したもので、オート・マチック・トランスミッションを装備している)にクリス・エモン。変わったところでは、あの“ピーター・ブロック”がデザインし、シェルビー・アメリカンがプロデュースする世界一軽いレーシングカーと言われた“ミラージュ(J.W.オートモーティヴのミラージュとは別物)”が出場していることと、ワークス・ロータス40をホルマン&ムーディ社が入手し、それをあのAJ.フォイトにドライブさせることなどでしょうか。
ところで、このレースに出場予定であったアメリカの英雄“ダン・ガーニー”と、当時、驚異の新人と言われていたジャッキー・スチュワートはそれぞれマシン・トラブルとスタンディングマネー・トラブルで出場しておらずやや拍子抜けした感は否めません。
 レースは、VWファーストバックカーの先導によるローリング・スタートで始まり、まずジム・ホールの2Cとハプ・シャープの2台のチャパラルが先頭で第1コーナーになだれ込み、それをブルース・マクラーレンのマクラーレンM1Bとクリス・エモンのフォードGTXが追うという展開で始まりました。
期待された(!?)AJ.フォイトのフォード7リッターV8を積む“ロータス40”は全く精彩がなく、12周目にリタイヤしったのには失望してしまいました(写真右)。
 快調にトップを快走していたホールの新型チャパラル2Cがスローダウンしてリタイヤしたのは、15周目。
原因は、スロットル・リンゲージが壊れるというトラブルが生じたためでした。
 その後、トップに立ったハプ・シャープのチャパラル2(2Aタイプに2Cタイプのエア・スポイラーを装着したマシン)もやがて猛追して来たマクラーレンにトップを譲り、結局ハプ・シャープはこのレース2位でフィニッシュしたのでした。
優勝は、ブルース・マクラーレン。そして、3位には、エド・ハミルのオールズ・モービル・スペシャルが入り、4位にはBRMのF2エンジンを搭載したロータス23に乗るロビン・ウイドウ( Robin Widdows)が入賞しました。

TOP : Dead-heat between the #4 Ford GTX ( C.Amon) and the winning #47 McLaren M1B ( B.McLaren).

TOP : Driven by Hap Sharp( #65 Chaparral 2) and Jim Hall( #66 Chaparral 2C).
The early stage of the Governor's Trophy Race in 1965.
(C) Photograph by Dr.K

TOP : #2 AJ.Foyt ( Lotus 40 Ford ) and The Winner Bruce McLaren ( McLaren M1B Chevrolet).
Modeling by Hirofumi Makino.
 “メイン・イベント ナッソー・トロフィー・レース!!” 
 さて、最終戦は56周、403.2Kmで争われる“インター・ナショナル・ナッソー・トロフィー・レース( The Nassau International Trophy race 56 laps 403.2Km)”であります。
また、このレースの優勝者には$5000(当時で約180万円)の賞金が出るというのも魅力でもあり、出場者全員がこのメインレースに賭ける意気込みは想像を絶するものがあります。
 また、このレースの出場車をみるとまるで1969年に我が日本で行なわれていた日本グランプリを彷彿させるような内容なのには驚いてしまいました。
それは、当時のトップ・レベルにあるグループ7(排気量無制限2座席レーシングカー)に混じってアルファTZ、SZ、MINI、フィアット、ヒーレ―・スプライト、そしてコルチナなどといった小排気量車が参加しており、マクランサ、エバCAN-AM、ロータス47GT、そして、カーマン・アパッチなどがニッサンR382、トヨター7、そしてポルシェ917などと一緒に走っていた日本グランプリを思い出さずにはいられません。
 予選1位になったのはブルース・マクラーレンのマクラーレンM1Bシボレー、そしてジム・ホールのチャパラル2C、ハプ・シャープのチャパラル2、ボブ・ボンデュラントのローラT70が続き、AJ.フォイトのロータス40(ホルマン&ムーディ・フォード)は7位、期待のクリス・エモンの駆るフォードGTX(このレースには、オートマチック・トランスミッションではなく、マニュアル・ミッションを装備)はコブラ427よりも遅く、10位と低迷しています。
このレースのスタートは、伝統のル・マン式スタートで行なわれました。
まず、飛び出したのはクリス・エモンのフォードGTX。しかし、すぐにマクラーレンのM1Bに抜かれて2位で第1コーナーに飛び込む。ジム・ホールはスタートに失敗し、シャープのチャパラル、チャーリー・ヘイズ(懐かしい!あのニッサンR381のテスト・ドライバーとして1968年に来日したことがありました)の"Nickey McLaren"の後、7位でスタート。
4周目、シャープをかわし、トップのマクラーレンを追う展開。エアー・スタビライザーがコーナーで大きく立ち上げる様は圧巻でありました。そして7周目、ついにホールはマクラーレンを捕らえ首位におどり出るのでした。
AJ.フォイトの7リッターロータス40は、5周目にフロント・キャリパーの破損で早々にリタイヤ、The Governor's Trophy Raceを含めてフォイトは、合計17周しか走れなかったという不名誉な記録が残ってしまったのでした。
 
“ホール、またしてもリタイヤ!!”
 フォイトがリタイヤした時、時を同じくしてクリス・エモンのフォードGTXも遅いルノーを抜く時にシフトミスでミッションを壊してリタイヤ。
31周目、トップはホールのチャパラル2C。2位のマクラーレンには17秒ほどのリードを保っています。
その時2位を走るブルース・マクラーレンのM1Bシボレーから突然青白い煙が上がり即リタイヤ。バルブ破損が原因だと言う。そのため1〜2位はチャパラルが占め、独走態勢に入るのでした。
しかし、トップのホールが34周目ピットインし、すぐにピットアウトするもトップは同僚のシャープ。すなわちチャパラルの1〜2位は変わらない。ところが、その夢も44周目で果かなく消えてしまう。高速カーブにさしかかったとき、突然ホールの2Cはフロント・サスペンションが壊れ、激しくスピンしたホールは止まっていたフィアットに激突し、大破してしまうのです。
これでノースウエストGP,タイムズGP(リバーサイド)、スターダストGP(ラスベガス)、そしてこのレースに出場という極端に短いチャパラル2Cの歴史は幕を閉じてしまいました。しかし、この“2C”は、翌年、あの“2E”として生まれ変わることになるのですが・・・。
 一方ハプ・シャープのチャパラル2は、怪鳥、いや快調でニュー・ラップ・レコードを樹立( 平均時速165.24km/h)で56周を走り抜き優勝してしまいました。2位はジョン・キャノン(オールズ・モビル・スペシャル)、3位はピーター・レブソン(ブラバムBT8クライマックス2リッター)で同時に2リッター・クラスのウイナーとなり、4位はポルシェ・スパイダーのチャーリー・コルプ、そして5位はコブラに乗るボブ・グロスマンが入りGTクラス・ウイナーとなりました。

TOP : Jim Hall and his Chaparral 2C didn't finish this Nassau Trophy !
 かくして“ナッソー・スピード・ウィーク”は終わりました。
数々のドラマを残し、夜毎の歓楽の名残と照りつく灼熱のレースの余韻を残しながらナッソー・スピードウィークは何事もなかったかのように静かに太陽の彼方に消えていくのでした。
THE END

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(C) 28/SEPT/2001 Text reports by Hirofumi Makino.