1966年のル・マン24時間前にフェラーリを飛び出した“ビッグ・ジョン”こと、ジョン・サーティーズは、67年よりホンダF1チームと契約を結びチャンピオンを目指していた。そして、67年開幕戦の南アフリカ・グランプリで3位入賞し、遂にイタリア・グランプリでは、優勝。
一躍、翌68年シーズンのチャンピオン候補として、ジョン・サーティーズとホンダF1チームは注目されていた。
しかし、ホンダF1前線チームと本田技研本社との考えが合わず、遂に1勝も出来ずに68年シーズンを終わってしまう。
同シーズンに登場した空冷V8ホンダRA302は、完全なマシンではなく、それを主力にして戦う事を主張する本田本社側と、あくまでも実戦的な水冷V12 ホンダRA301での続行を希望する前線側との対立は深く、最終的には、2チーム分散での挑戦という結果となってしまった。そして、フランス・グランプリでの悲劇の事故。本田技研チームのドライバーとしてRA302に乗ったジョー・シュレッサーは、わずか1周で炎上死亡。皮肉にも、サーティーズは、そのシーズン初の2位入賞という結果。
さらに、ビッグ・ジョンの悲痛は続く。1966年、初のCAN-AMチャンピオンとなったサーティーズは、その後も同シリーズにローラの準ワークス・チームとして参加していたが、マクラーレンの台頭により、彼のローラT70の戦闘能力が低下し、遂に67年シーズンにおいては、6戦中1勝という結果に終わってしまう。そして、起死回生を誓った68年、ローラはT160という最新型を投入。サーティーズは、このローラにハイ・ウイングを付けた“ローラT160TS”というスペシャルマシンを持って乗り込んだのだった。
しかし、結果は全て初期的なオーバーヒートなどのトラブルで完走すら出来ず、サーティーズにとっては屈辱のノーポイントでシーズンを終えることとなってしまった。
考えてみると、66年、フェラーリを飛び出したサーティーズを待っていたものは、あまりにも彼が思う理想とは違うものだった。
67年シーズンでのプロトタイプカーにおけるローラ・アストンマーチンの失敗。ホンダF1初年度は、わずか1勝に終わってしまったこと。また、CAN-AMでのマクラーレンの躍進とローラT70の旧態化によるチーム・サーティーズの弱体化。
68年シーズンでは、F1でのホンダRA301の未成熟によるリタイヤとRA302の失敗。同じくCAN-AMでのローラT160TSの失敗。
さらに、69年シーズンにおいては、ホンダの撤退によりBRMチームのエースとして入るものの、今だ開発が遅れている同チームの不振により絶えず中段位置に甘んじなければならなかった事。
そして、CAN-AMでは、遂にローラと決別し、再びチャンピオンとなるために、チャパラルカーズと組むも、ジム・ホールの開発したニューマシン“2H”がまだまだ未開発のマシンだったため、サーティーズの目論見はまたも外れてしまう。
サーティーズは、勝てるマシンが必要だった。マシンが完璧ならば、まだまだ自分はチャンピオンになれる。
年齢的にもそうだったが、67〜69年半ばまでの間に、あまりにもいろいろなことがありすぎたため、精神的な意味でもここ1年間が勝負だとサーティーズは思っていたのかもしれない。
 そして、1969年シーズン、ますます競争力を増してくるマクラーレン・チームに対抗するため、今までのローラとの関係を断ち切ってでもサーティーズは、CAN-AMシリーズに賭けていた。
そのために選んだチームは、ジム・ホール率いるチャパラル・カーズであった。
1964年頃から頭角を現したチャパラルについてサーティーズは良く分かっていたつもりだった。しかし、69年シーズンからのチャパラルは少々違っていたのだ。エアロダイナミックスをホール流に突き詰めた形。それが“2H”だった。
寝るようなドライビングスタイル。弾丸スタイルのボディラインのため、側面にウインドウが(サイドドアも兼ねていた)あり、そこからサイドを見なければならないと言うなんとも変則的なドライビングテクニックが必要だったのだ。
シーズン前での開発に当たって、ホールは、サーティーズに援助を求めていたと言う。しかし、サーティーズの求めていたのもは、実戦的なマシンだった。もう、年齢的にも精神的にも今から開発して将来を考える余裕はサーティーズにはなかったし、69年を最後のチャンスと思っていたのかもしれない。
サーティーズは、ホールに2Hを完成させるまでの実戦的なマシンを要求。それが、マクラーレン・カーズのプロダクションモデルである“M12”であった。
このマシンについて、1969年発行のAUTO SPORT誌7月号で下記のように紹介しているので抜粋引用させて頂く。
 
 サーティーズがあやつるニュー・マクラーレンM12は、マクラーレン・レーシングカーの“プロダクション・モデル”を作っているイギリスのトロージャンにメカニックを派遣して完成を急がせるいっぽう、テキサスのチャパラル・カーズで、これに搭載するシボレー・エンジンのチューニングを引き受けていたもの。そんなわけで、このニューマシンはジム・ホールのテスト・コースを10周するのが「精いっぱい」だったという。
第1戦に優勝したブルース・マクラーレンの“M8B”と同じ80ラップを走りきったのは、3位のジョン・サーティーズまで。
彼はレース1週間前テキサスのジム・ホールのところへ運び込まれたニュー・マシンのマクラーレンM12に乗って出走したのだ。ボディの色もジム・ホールの白。ニューマシンだけに68年型のマクラーレンM8よりも速いポテンシャルを秘めているはずだが、過酷なCAN-AMレースを戦うには、まだ新しすぎたようだ。

 

 この“M12”については、特別企画「ミノルタ・マクラーレン回帰!!」にて詳しく書いてあるのだが、M6,M8と続く一連のものがなぜ飛んでM12なのかは、当時のマニファクチャラーズ世界選手権出場を目論むブルース・マクラーレンの思惑が大きく影響している。
当時のスポーツカー規約では、年間に25台の製作が義務づけられており、このM12はまさに“M6GT”そのものになるはずであった。
しかし、FIA側は、CAN-AMマシンのM12およびM6Bなどをカウルを変更してスポーツカーにするなどというブルース・マクラーレンの案(!?)に対して認可せず、遂に幻の計画となってしまった。

 そんなことは、サーティーズにとってはどうでもよいことであり、まずはこのマシンでシーズンを戦いたいと思っていたのだが、この辺がジム・ホールと最後まで対立してしまう原因となってしまった。
自分のオリジナルマシンを開発して走らせることが、ジム・ホールの考えであり、M12は、ただの代替マシン。しかし、サーティーズは、戦闘力のあるマシンを優先的に使用すべきと主張する。この辺が、69年シーズン第2戦以降、2Hにかかりっきりのジム・ホールとM12の初期的なトラブルが最後まで直らなかった原因との関連があるのだろう。

 ジョン・サーティーズは、69年シーズンを持ってCAN-AMシリーズから去って行った。翌70年からは、チーム・サーティーズとしてF1を戦い、その後自らのネームのついた「サーティーズTSシリーズ」を製作し、F1、F2,F5000などのフォーミュラカーを販売続けることとなる。
また、70年シーズン、古巣のフェラーリの要請で、フェラーリ512Sのハンドルを握り、スパやニュルブルクリンク、そして、モンツァなどのスポーツカーレースにも久方ぶりに参加したが、往年のドライビングは遂に見ることは出来なかった。
 サーティーズは、69年シーズン燃え尽きてしまったのだろうか。最後の入魂の走りは、やはり69年CAN-AM開幕戦モスポートパーク“ラバッツ・ブルー・トロフィー”のM12での3位入賞と、続く第2戦カナダ・サンジョビートでのブルースとの接触事故へと繋がったトップ争い・・・などではないだろうか。
 数ある“M12”の中で、サーティーズの駆ったM12は最高のものだったと今も私は思っている(ただし、鮒子田 寛氏が乗ったマクラーレン・トヨタに関しては別であるが・・・)。チャパラル・チューンのシボレーエンジンも最高だったが、やはりサーティーズのドライビングがとにかく似合うマシンだった。60年代に彼が我々に与えた影響はとてつもなく大きい!!
今直健在なジョン・サーティーズ。いつまでも元気でいて欲しい!!“ビッグ・ジョン”よ、永遠に!!
 

GO TO NEXT PAGE
次のページへ続く



GO TO TOP

GO TO TOP PAGE