The Legend of American V8
The McLaren M12 has come back into a circuit.
ザ・アメリカンV8 えれじ〜
PART 2
ミノルタ・マクラーレンM12 回帰 !! 

TOP : Ex-Sakai Racing Team's McLaren M12 in Auckland.
(C) Photograph by Shigeru Miyano.
 今から33年前の日本モータースポーツ界はと言えば、丁度ビッグマシンによる日本グランプリが終焉し、それまでのメーカー中心だったレースからプライベーター中心のレースに変ろうとしていた頃でありました。
そんな時代を代表するレースといえば“富士グランチャンピオン・シリーズ”しかないでしょう。
富士グランチャン(以下グランチャン)は、1971年より富士スピードウェイを舞台に始まったシリーズ戦で、良き60年代後半の日本グランプリなどで活躍したビッグ2座席グループ7カーに、再びレースフィールドに戻って来てもらおうという趣向のレースでありました。
 グランチャンは、ニッサン、トヨタなどのメーカー主体のレースと違いプライベート・チーム中心のレースで、日本グランプリ中止などによりレースに出られなくなってしまったプライベート・チームのレーシングカーの活躍の場所を提供するという意味でもとても重要なシリーズ戦となりました。参加できるマシンは、当時人気のあったグループ7カー(当時のFIA規約によれば、排気量無制限の2座席レーシングカーで、グループ6プロトタイプカーなどとは違い、ヘッドライト、スペアタイヤ、トランクなど一般道での走行を考慮した装備も一切必要ないレーシングカー)が中心でありましたが、スペシャルなフェアレディZなども出場出来る内容であり、ニッサン・ワークスからもデビューしたばかりのフェアレディZ432Rなども参加するなど中々興味あるレースとなりました。
 その中にあってグランチャン創世記を飾ったマシンといえばやはり今回紹介する“マクラーレンM12”をではないかと思います。
日本においてマクラーレンM12が初めて登場したのは、'69日本グランプリに黒沢レーシングからエントリーした2台のM12が最初であります。大石秀夫とローサー・モッチェンバッハのドライブでエントリーしたM12は、その年のCAN-AMシリーズに初登場したマクラーレンの最新プロダクションモデルであります。
 ところで、69年といえば、丁度ニッサン、トヨタ、タキ・レーシング、すなわち“T.N.T”の激突として日本中を巻き込んだ日本グランプリの真っ最中でもあり、黒沢レーシングのマクラーレンM12は、そんなニッサンR382、トヨタ7、そしてポルシェ917の対抗馬としてエントリーしたものでありました。しかし、十分なテストも出来ないまま本戦に臨んだため、モッチェンバッハはマシンが遂に走らず不出場。なんとか出場した大石選手のM12もウォーターポンプのトラブルで1周も走れずレースを終えました。
その後黒沢レーシングが購入していたその内1台のマクラーレンM12が、同年の日本CAN-AMを経て、パシフィック・レーシングのエントリーで、71年のグランチャン初年度に酒井 正選手のドライブで初代チャンピオンとなるのであります。
初代チャンピオンとなった酒井 正選手は、72年自らのチームであります酒井レーシングを設立し連覇を狙うのでありますが、グランチャンのエンジン制限による規約変更のためマクラーレンM12の2年目はチャンピオン争いに参加出来ず総合優勝のみを狙う参加となってしまいました。その1972年に登場した酒井選手のM12には、本場CAN-AMで圧倒的強さを発揮していたワークス・マクラーレンM8D-M8F-M20のようなリアに垂直フィンが付けられていました。これが一躍有名となった“ミノルタ・マクラーレン”の姿であります。
ちなみに、このリアカウルを製作したのは若き日の“由良拓也”氏でありました。
そんなミノルタ・マクラーレンが「海外のヒストリックカー・レースで活躍している」というビッグニュースが1年前に私のところに届いたのです!!そして、今やっとその実態を報告する事が出来ることになりました。
 この酒井選手が乗ったマクラーレンM12は、現役引退後、故 風戸 裕選手のマシンと共にピットイン竜王のショールームに飾られることになるのでありますが、実はこのマクラーレンは現在ニュージーランドにありますブルース・マクラーレン・トラストのメンバーの一人であるトニー・ロバーツ氏の元で綺麗にレストアされて地元のヒストリックカー・レースで活躍しています。
全てのレポートや映像は、2年前にインターネット上で知り合うことが出来ました宮野 滋氏に提供して頂いたものであります。
宮野氏は、東京で医師 兼 モータージャーナリストをされている方で、あのギネスブックに4つの自動車部門カテゴリーにおいて低燃費世界記録認定書を計6枚獲得しておられますので、きっと、ご存知の方も沢山いらっしゃると思います。
 今回の特別企画は、このミノルタ・マクラーレンM12のレストアなった画像とその経緯、そしてCAN-AMカーにおけるマクラーレン・カーズの歴史や現在のブルース・マクラーレン・トラストの様子などを宮野さんのレポートをお借りして紹介していきたいと思います。
 まずは、私の持っておりますマクラーレンM12の写真紹介などを前座として紹介させていただこうと思います。

TOP : The McLaren M12 ( Left side ) at Harumi in the '71 Tokyo Racing Car Show from Kurosawa Racing Team.
(C) Photograph by Hirofumi Makino.
 上の写真は、1971年に開かれた第4回東京レーシングカーショーに飾られていた黒沢レーシング所有の白いマクラーレンM12であります。ちなみに、横の赤いローラT160は、安田銀治選手が68年日本CAN-AM、69年日本グランプリにエントリーしたマシンそのものであり、1971年のグランチャン開幕戦にベテラン田中健二郎選手のドライブにより、待望の優勝を勝ち取った由緒あるマシンです。

TOP : The white McLaren M12.
(C) Photograph by Hirofumi Makino.
 黒沢レーシングが所有するマクラーレンM12は合計2台。下のメタリック・ブルーに塗られたのがもう1台のM12であります。
これらのM12は、それぞれがことなるヒストリーを持ち、上の白に塗られたM12は、71年よりパシフィック・レーシング〜酒井レーシングで活躍するM12であることから、これはまさしく“ミノルタ・マクラーレン”そのものだということが言えると思います。さらに近年分かった事でありますが、このM12は、69年にイギリスのトロージャンから実験用にヤマハに納車されたもので、その年の第2回日本CAN-AMにチーム・トヨタから鮒子田選手のドライブで“マクラーレン・トヨタ”として出場したマシンそのものだったことがわかりました。
ちなみに通常のM12モデルは、フロント先端中央のラジエターグリル左横に小さなNACAダクトが1つだけ開いているのですが、マクラーレン・トヨタ車はありませんでした。そして、上のM12もありません。ミノルタ・マクラーレンM12も開いていませんのでこのマクラーレンM12はそのものズバリだと言っても良いのではないでしょうか。


TOP : This is a mysterious M12 ?! Maybe I think this is a M12 of M6B freme.
(C) Photograph by Hirofumi Makino.

 上の写真は、白黒でありますが、実車はブルーメタリックに塗られたM12であったと記憶しています。
このマシンは、71年のグランチャン第3戦富士500Kmレースにおいて、田中健二郎選手が第1ヒートで酒井選手のM12に続いて2位となったマシンそのものだと思われます。その後高原敬武選手、トニー・アダモウイッツ選手などがこのマシンに乗り活躍しました。
ところで、このマシンは最近の某誌や宮野さんのレポートで分かったのですが、オリジナルのM12ではなく、マクラーレン・プロダクションモデルでありましたM6BのシャーシにM12型のボディを乗せ変えたものであることがわかりました。

GO TO NEXT PAGE
次のページへ続く



GO TO TOP

GO TO TOP PAGE

(C) Photographs by Shigeru Miyano, Hirofumi Makino.