黒沢レーシングから、パシフィック・レーシングに移ったマクラーレンM12は、1971年から開催された富士グランチャンシリーズに酒井レーシングへとチーム名は変ったものの全戦参加し、見事酒井 正選手が初代王者となりました。しかし、第1戦から2戦までは完走すら出来ない状態だったM12をここまで仕上げた努力は並大抵なものではなかったと想像出来ます。
かねがね言われ続けていた“マクラーレンM12”は完走出来ないというレッテルを外すことが出来たのはシリーズも半ばに入った真夏の第3戦富士500Kmレースまで待たねばなりませんでした。 私はこの歴史的な酒井マクラーレンの初勝利を目の前で見ることが出来た事を今思えば誇りにさえ思っています。それだけこの勝利はその後の酒井マクラーレンにとっては重要なレースだったのです。
上の写真は、初めて勝利する酒井 正選手とマクラーレンM12。特にこの富士500Kmレースはグランチャンの中でも一番距離が長いレースであり、珍しく2ヒート制で行われました。真夏の暑さも加わりこのレースでの勝利は限りなく大きい習得だったのではないでしょうか。
![]() TOP : Sakai's M12 in October 1971. (C) Photograph by Hirofumi Makino. 71年最終戦でのM12。このレースには、あのTETSUがポルシェ917Kを持って乗り込み人気をさらったレースでした。
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![]() TOP : Rain ! Rain ! Fuji condition was a always rains when they had races. Sakai's McLaren M12 of Fuji 300 miles race in Jun 4th, 1972. (C) Photograph by Hirofumi Makino. ![]() TOP : Fuji Masters 250Kms race. Sakai lead a early lap in October 10, 1972. (C) Photograph by Hirofumi Makino. ![]() TOP : This is Minolta McLaren !! (C) Photograph by Hirofumi Makino. |
上の写真は、1972年シーズンを戦うマクラーレンM12の勇姿であります。
この年から2リッタークラスのマシンにチャンピオンシップがかけられたことから酒井選手のマクラーレンはオープン参加という形となり、優勝賞金のみ狙うこととなりました。第1戦を優勝という形で飾ったM12でありましたが、残り4戦は全て優勝戦線に残る事が出来なかったものの見事第2戦では69年に北野 元選手が持っていた富士スピードウェイフルコースレコードを破る 1分44秒63をマーク。その存在感を示しました。 当時のCAN-AMカーでありましたマクラーレンM8D-F等のリヤウイングを真似たリヤカウルを装着して出場したのはグランチャン折り返しの第4戦マスターズ250Kmレースからでありました。スポンサーも“ミノルタMinolta”がつき、非常にシンプルで綺麗な塗装となりTV写りもよく、まさにカッコイイという表現がピッタリと言う感じであります。 余談ですが、当時のTV放映は、トップで独走してしまうとまったくTV画面に映らなくなることがしばしばあり、さらに、その年から2リッタークラスにタイトルがかけられたことによる影響でしょうか、酒井選手はわざとやや遅い2リッタークラスのマシンたちと同じタイムで走りスポンサー名がTV画面に映るように走ったという噂も・・・。 そして、その年、1分43秒58という高原敬武選手がローラT280/DFVで出した1分43秒40には届かなかったものの、有終の美を飾るタイムを出してマクラーレンM12は長きに渡るその役目を終えて、静かに消えていきました。 |
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(C) Photographs by Hirofumi Makino.