“ミノルタ・マクラーレンM12回帰 !! ”  
by Shigeru Miyano 
 
 甲府のレストラン・ピットインで1974年から28年間保存されていた酒井 正選手により1971年のグランドチャンピオンシリーズの初代チャンピオンとなったマクラーレンM12は、3年前にニュージーランドに渡り、彼の地で、ブルース・マクラーレン・トラストのメンバーであるトニー・ロバーツの元で走れる状態にレストアされ、現在は現役時代のように元気に走っています。
私は、2003年3月末にニュージーランドを訪問し、その姿をデジタル・ビデオに納めてきましたのでこの場を借りてその勇姿とニュージーランドに渡る事になった経緯などを紹介したいと思います。

 ニュージーランド最大の町、オークランドの近郊のダンカン・フォックスが所有する農園の納屋を改造したワークショップで始まります。
ここで、新造されているアルミ製のモノコックタブは、アメリカのコレクターがレース中に破損されたマクラーレンM20の為の物です。ここでは、コーンブルックで造られたワークス・マクラーレンもトロージャンで造られたカスタマー向けマクラーレンも完全に修復したり、新造する事が出来ます。
数十人の職人たちが働いていたコーンブルックのワークショップと違い、たった3人が働くこのグループでは時間がかかりますが、チームを継承したロン・デニス氏のマクラーレン・インターナショナルからオリジナル設計図のコピーを供給され、高いオリジナリティを保った仕事をしています。

インディー・ジョーンズ 失われたM12 !? 
 
 私がこのマシンに関わる事になったのは、ニュージーランドから送られてきた1枚のフォックスがきっかけだった。
ニュージーランド出身のレーシング・ドライバー“ブルース・マクラーレン”は、1970年6月2日にグッドウッドサーキットで1970年シーズンのCAN-AMマシン“マクラーレンM8D”をテスト中に事故死した。チームは彼の死後も存続し、F1グランプリでのトップチームで在り続けている。
彼の故郷では、妹のジャニスが中心となってレース史に名を残した偉大なドライバーとして彼の名前を残しいく為に“ブルース・マクラーレン・トラスト”が設立され、グッドウッドでのメモリアルを通じて彼の家族と親しくなった私も誘われて、ブルース・マクラーレン・トラスト・サポーターズクラブ会員番号173となった。
ファックスは、このトラストのメンバーであるトニー・ロバーツという人物からだった。
トラストが所有するコーンブルックのマクラーレン・ファクトリーで組み立てられた元ワークスの“M8A”のレストアを行っているのが、彼である。ジャニスから私のファックス番号を聞いてファックスを送ってきたというわけだ。
 ファックスの内容は、日本のミスターNというビジネスマンがマクラーレンM12を買って、そのレストアの見積もりを依頼してきたのだが、この人に連絡を取って、ニュージーランドでレストアするように話をしてくれとのことだった。Nさんとは、会った事はなかったが、東京のある知人からの紹介で電話があり、歳を取ってパワーのある車に乗れなくなる前にマクラーレンのカンナムカーに乗りたいのだが、出物があったら紹介して欲しいという話であった。私の本業とは関係ない話しだし、その時はあても無かったので、そのままになっていた。Nさんの連絡先は分かっているから何とか連絡は取ってみましょうと返事をして、Nさんに電話してみると、あるレーシングチームの敷地に何年も雨ざらしになっていた状態のマシンをこれから買うという話であった。ボディは黄色でミノルタのロゴが入った物だという。その話から、カラースライドの箱を漁って見つけ出したのが、学生時代の1974年に福岡市の国体道路にあったケンタッキー・フライド・チキンの前に大きな透明プラスチックの箱の中に入れて展示されていたパパイヤオレンジに塗られ、ミノルタのロゴが入ったマクラーレンの写真だった。
プリントを送ってあげるとフロントノーズのラジエターのエア抜きの形状からNさんが買おうとしていたマシンその物だと確認できた。
(注)最終的に、このマクラーレンM12は、純粋なM12ではなく、1968年にCAN-AMで活躍していたトロージャン製のマクラーレン・プロダクションモデルであった“M6B”にM12のカウルを載せたものだったのだが・・・。
 当時の自動車雑誌を調べてみると富士スピードウェイを舞台にしたレースでマクラーレンのカンナムマシンが何台も走っていたし、68年と69年には日本カンナムといってアメリカからカンナムチームを招待して、それをトヨタのグループ7マシンが迎え撃つというイベントも開催されていたようだ。
当時、九州の高校生だった私にとって、富士や鈴鹿は遠い異星でのスターウォーズのようなものだったし、そこでのレースやマシンの事を当時の雑誌を使ったりして調べるのは、まるで考古学のようなものであった。
ガラス箱の中のM12  

 ニュージーランドでは、アメリカの業者を通じてレストアの見積もり依頼が来るまでは、日本でグループ7によるレースがあったことことさへも思いもよらなかった事らしく、当時の事に関して色々と質問が来るので、私も保存してある当時の雑誌を元に調べた事を英文でファックスしていたのだが、途中でもっと便利なEメールでのやり取りに変えて進化していった。
当時日本に輸入された様々なレーシングカーは、古くなって戦闘力をなくしたり、レギュレーションの変更でレースに出られなくなったりした後は、どこへ消えてしまったのか? スクラップになったのもあるだろうが、どこかに保存されているかもしれない。歴史の中に消えてしまったマクラーレンのカンナムマシンを日本で探すのは、トニーの表現を借りるなら「インディー・ジョーンズが失われたアークを探すような」難航だった。しかし、それは、ある雑誌のインタビュー記事で見つかった。74年に死亡した風戸 裕のスポンサーだった甲府のレストラン「ピットイン」のオーナーであるK氏のインタビューの中で、風戸 裕が乗ったマシン以外に酒井 正選手が乗ったマクラーレンM12が、ピットインで保管されているという記述だった。それが見つかったのが1999年夏の非常に暑い時期だった。直ぐにトニーへメールを送った。
「熊本は、今、とても暑い夏が始まっているが、もっと熱いニュースがあるよ!」という表現だった。
すぐにトニーは、そのM12を購入出来ないか?!K氏に交渉してくれないか?!と依頼してきた。私は、面識の無いK氏に、いきなりこの車を売ってくれという話をするのは礼を失する話だが、ピットインの住所は分かったので、私がどんな人間か、ニュージーランドのトラストとの関係、マクラーレンの家族と知り合う経緯とかを手紙に書いて送ってみたのだ。
しばらくしてK氏本人からお電話があり、改めてM12を譲って頂けないかとお願いをしたわけである。
開業医をやっている私としては、甲府まで会いに行く時間が取れず電話で失礼させて頂いたが、何度かのやり取りの中で、レーシングカーは動く状態にして走らせてやるのが一番良いという事を理解して頂き、ニュージーランドで動態保存する事を約束して譲って頂ける事になった。
私達は幸運に巡り会っていたのだ。実は、国道の拡張が決まって、ピットインの建物を取り壊ししなければならなくなり、1階のガラスの箱の中に入っているM12を26年ぶりに外へ出すのに、丁度良い機会だったわけである。
 

 
ミノルタ・マクラーレンとマクラーレン・トヨタは同じ車体だった !? 

 M12は、マクラーレン・チームが製造したワークスカーではなく、トロージャン社によって1969年シーズンの為に15台生産されたカスタマー向けの市販マシンである。当時、ドイツのハインケルのイギリス版であるトロージャンを生産し、イタリアのスクーター、ランブレッタやスズキのバイクの輸入元であったトロージャン社を率いてカスタマー向けの市販型のマクラーレンを生産していたピーター・アッグ氏とは、92年のグッドウッドでの第1回ブルース・マクラーレン・メモリアルで会ったことがあり、99年のグッドウッド・フェスティバル・スピードで再会した時も私の顔を覚えていてくれたので、日本に売ったマクラーレンM12の中でもトヨタに売ったマシンの事を質問すると、「それはシャシーナンバー4だったね。その関係でトヨタの研究所を訪問した事があるんだが、トヨタが何基もの5リッターの4カムエンジンを製作して、テストベンチで回していたのが印象的だった」と語ってくれた。
 このM12は、5リッターエンジンのトヨタ7を開発していたトヨタ(ヤマハ)が、シャシーの研究用に買い入れ、DOHC4カムエンジンを搭載して、69年11月の日本カンナムに鮒子田 寛選手のドライブでマクラーレン・トヨタとしてエントリーし、予選では、ジャッキー・オリバーのオートコーストTi22に次ぐ2位を獲得した。他のトヨタ・ワークスのスペース・フレームのトヨタ7より2秒以上速い予選結果は、シャシーの重要性を充分に認識したであろう。鮒子田氏の証言によれば、エキゾーストパイプの取り回しが上手くいかず、数十馬力は失っていたとの事だが、それでもこれだけ速かったのだから、この組み合わせは成功だった。たった1度マクラーレン・トヨタとして出たこのレースは、エンジントラブルでリタイヤという結果であった。
当時の第一級のシャシーであったM12を比較テストして、アルミモノコックのこのマシンからどのようなフィードバックを得てスペースフレームシャシーのトヨタ7の開発の参考にしたのか不明である。
そして、71年にエンジンレスの状態でこのM12は、払い下げられた。廃棄処分のようにしてとにかく安い価格だったという。この時にシャシーナンバーは剥がされてしまったらしい。失われたシャシーナンバープレートは、トロージャン社の出荷記録で確認した上で再発行してくれるそうだ。ただし、それなりのコストを払わなければならないという。(右の写真は、マクラーレン・トヨタ)

 2000年1月にトニー・ロバーツが来日してM12と対面する事になった。初めての来日という事で異文化の中へインディ・ジョーンズような気分だったろう彼を友人のジャガースペシャリストのY氏に成田まで出迎えてもらいN氏やもう1台のM12と対面させるアレンジをしてもらった。観光は外人向けのハトバスに乗せることを頼んで私は、土曜日に熊本から羽田へと飛び、ここからトニーと一緒にY氏の車で甲府へと向かった。道中トニーは、初めての日本で体験した色々な事を語ってくれた。
実は、N氏のM12は、純粋のM12ではなくて、M6BのモノコックにM12のサスペンションやボディを付けたM6B改だという事が、サスペンション取り付け部分のモデファイを見て判明したという事だった。後日の調査により、このM6B改は、68年CAN-AMシーズンで、ローザー・モッチェンバッハのドライブでカンナム・シリーズを戦い、ラスベガスでジム・ホールが乗るシャパラル2Gと絡んでクラッシュしたマシンそのものだという事が判明した。
 トニーは、N氏にモノコックはニュージーランドに送って使える部分は活かしてモノコックは新造する位のレストアを勧めたが、日本でレストアの進行をコントロールしたいというオーナーの意向なので、パーツの供給で協力する事になったという。
 
 甲府市内から少し外れた竜王町にあるピットインに到着した時にはかなり日も暮れていたが、駐車場に面した部分にM12を収めたガラスケースのような展示スペースがある。
中に入るには、身を屈めながら小さなドアから入らなければならないし、M12を外へ出すには壁を壊さなければならない。
上へ上ってレストランへ入った所に、昔風戸 裕選手が乗って71年カンナムシリーズに参戦したローラT222が展示されてあり、来意を告げると、ポルシェ908II 、シェブロン、GRD の3台が飾られたメモリアルルームに通され、そこでK氏と娘のKさんに対面し、食事をしながら風戸 裕の事、マクラーレンを手に入れたのは、雨のスピードウェイを疾走する姿を見て惚れ込んだからだという話などを伺い、トニーとの間の通訳もしながら2時間近い時間を過ごした。

TOP : Hiroshi Kazato's Lola T222 ( Left side ) and his Porsche 908II ( Right side ).
(C) Photograph by Joe Honda ( Left side ).
(C) Photograph by Hirofumi Makino ( Right side ).
 契約がまとまるとトニーは早く実物を目の前で見たいとせがみ、小さなドアから中へ入り、神殿の中へ入ったインディー・ジョーンズの気分でM12の細部をチェックし、給油口の蓋を開けて「まだガソリンの臭いがする」と興奮する始末だった。翌日、明るい光の中でもう1度M12をチェックし、ニュージーランドまでの輸送に関しては、東京在住のY氏が手配をしてくれる事になって、トニーを箱崎のT-CATまで送って私は羽田から熊本へと戻った。
後日、トニーから届いたビデオとメールで、コンテナに積まれて届けられたM12は、燃料系のジェリー状になったガソリンを掃除して、ルーカス製のインジェクションをフラッシングしてやるだけでエンジンが掛かり、シャシーだけの状態でトニーがワークショップ周辺の工業団地の中を一周してくるシーンが写っていた。整備をしてタイヤを新品に交換して、1ヵ月後の草レースに出ていきなり優勝してしまったというから楽しい話だ。
 レース後、一冬かけて細部まで分解してレストア作業を行った。その時、何層もの塗装の後ろからなんとヤマハの3つの音叉のマークが出てきたとメールに添付されたデジカメ画像と共に報告があり、これがやはりマクラーレン・トヨタであったという証拠が加わった。

 その後、2003年3月末に2回目のニュージーランド訪問をし、デニス・ハルムの墓参りとこのマクラーレンM12との再会を果たした事から、改めてこのマシンとトニー・ロバーツとダンカン・フォックスによって行われているグループ7Ltd.の活動を紹介してみようと筆を取る事になった。

 下の写真は、ニュージーランドで発行されているカー雑誌「New Zeuland Classic Car」に掲載されたマクラーレンM12。

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(C) Text reports by Shigeru Miyano.