マクラーレンとトロージャン
この話は、クラッシュした1961年型クーパーF1をロジャー・ペンスキーが最初センターシートのスポーツカーボディに改修した1962年のゼレックス・スペシャルから始めなければなるまい。元々シングルシーターのフォーミュラマシンから作り出されたゼレックス・スペシャルは、同じクライマックス4気筒2.7リッターエンジンを積んだワークス・クーパー・モナコより90Kgも軽いというアドバンテージを持っていた。
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ブルースは、自分達で作ったM1Aでレースをして優勝を含む好成績を上げた。すると他のドライバーやチームから同じマシンを作って欲しいという依頼が何件も来るようになった。そうなるとレース活動の資金を作るためにマシンを量産して販売する事も考慮しなければならなかった。6台ほどの量産を企てたが、量産するには問題が山積みされていた。まず、彼らは余りにも少人数で、ブルースがドライブするマシンを設計したり製作するだけの手が一杯で、量産するには人手が無かった。生産を外注しようにも、M1Aの第1号車を作り上げるのに設計図も引いていなかったのである。カスタマー用のスペアパーツをどう生産管理するかも考えなければならず、結局、自分達での量産は暗礁に乗り上げてしまった。
1964年11月、サセックス州のライで少量のレーシングスポーツカーやロードカーを生産していたエルヴァ・カーズのフランク・ニコルズと量産に関しての交渉を持ち、その結果、親会社のランブレッタ・トロージャングループの社長ピーター・アッグとマクラーレン・レーシングとの間に1964年11月21日、量産に関する契約が締結された。 65年1月のロンドン・レーシングカーショウに間に合わせる為にエルヴァでのでの生産を急がなければならなかった。M1Aのプロトタイプは手作りのアルミボディを持っていたが、量産の為にはそのアルミボディを元にモールドを作りFRPボディが作られた。プロトタイプから採寸して設計図を起こす作業も必要だった。こうやって生み出されたエルヴァ・マクラーレンM1Aは24台が生産された。 M1Aは、トラコチューンの4.5リッターオールズモビルエンジンを積む事を前提に設計されていたが、カスタマー達の中にはフォードやシボレーのV8エンジンを積もうと試みる者も出てきたため、マイケル・ターナーがデザインした空力的ボディを持つM1Bでは、シャシーの構造が見直され、オールズモビルエンジン以外にシボレーやフォードのエンジンがオプションとして選べるようになった。ワークスチームがレースをしながらボディやシャシーに改造を加えた点はカスタマーの生産にもフィードバックされたし、カスタマーカー用にある程度の量が生産されたスペアパーツをワークスが必要な時には安価に使えるというメリットも生まれた。 |
幻に終わった“M6GT”計画
ワークスが新型車を設計製作してそれでレースをしながら、カスタマー用には1年落ちのマシンを供給するならワークスがカスタマーのマシンに負ける事は理論上はないはずである。67年シーズン、モノコックシャシーを持ったM6Aでワークスが戦った時には、カスタマーカーはスペースフレームのM1Cだった。68年は、ワークスは新型のM8Aを使用して、前年の3台のワークスM6Aはカスタマーチームに売却された。モノコックシャシーを持つカスタマー用M6Bは26台が生産された。69年は、ワークスはM8Bを投入して全てのレースでブルース・マクラーレンとデニー・ハルムのワークス・マクラーレンが優勝するという快挙を成し遂げブルースが2度目のカンナム・チャンピオンとなった。
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M6GTは、4台作られたと記憶が残っている。1台はブルース・マクラーレンのパーソナルロードカーとして、1台はイギリスのディビッド・プロフェットに売られてレースに使われ、後にM6Bタイプのオープン・ボディに改造されたという。1台はアメリカに船積みされ、1台はトロージャンに展示されていたという。M6GTに関しては、ゴードン・コバックが担当していた。彼は、ブルースのパーソナルカーを仕上げながら路上テストドライブをしてブルースと一緒にエンジニアリングに関して話し合っていたという。
M6GTは、ル・マン制覇という夢も持たされていたのだ。66年にフォードGTMKII をドライブしてル・マンに優勝したブルースは、今度は自分の名前の付いたマシンでル・マンへの挑戦を考えたのだ。その夢は、ブルースの死後25年たった1995年、ゴードン・マーレイが設計したマクラーレンF1がル・マン初参戦で優勝という快挙を成し遂げて結実する事になった。 M6BやM12のシャシーにはM6GTのボディを載せる事が可能である。スペシャルモールティング社が製作したオリジナルのモールドは保存されており、今でも新品のM6GTのボディパネルを作ることが出来る。実はトニーも1セットのM6GT用ボディパネルを他のM8用のパネルと一緒にコンテナ詰めにして取り寄せているのだ。M6GTのレプリカは、どこかで適当なシャシーをでっち上げて作られている。しかし、ここなら設計図を元にオリジナルと同じモノコックタブを作ることも可能だから、リプロダクションとも言えるM6GTでもM6Bでも作り出すことも可能である。 --------------------------少し主宰者より余談を語らせてください ---------------------------- ここで1969年のル・マン24時間レースのエントリーに注目してもらいたい。
下記左の写真は、三栄書房発行1970年6月号「AUTO
SPORT」誌に掲載されたM6GTである。
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