マクラーレンとトロージャン 

 この話は、クラッシュした1961年型クーパーF1をロジャー・ペンスキーが最初センターシートのスポーツカーボディに改修した1962年のゼレックス・スペシャルから始めなければなるまい。元々シングルシーターのフォーミュラマシンから作り出されたゼレックス・スペシャルは、同じクライマックス4気筒2.7リッターエンジンを積んだワークス・クーパー・モナコより90Kgも軽いというアドバンテージを持っていた。
他のエントラントからの抗議で、曲げたチューブと交換して2座席分のスペースを持つように改造されたが、それでも競争力があった。
ジョン・ミーカムのチームに売られたこのマシンは、エンジンをさらに強力なアルミブロックを持つ3.5リッターのオールズモビルF85 V8気筒エンジンに交換される予定でオールズエンジンと一緒に並べられていた。
 この頃アメリカでのレースを体験したブルースとその仲間達は、比較的小排気量のDOHCクライマックスエンジンよりもアメリカ製のOHVエンジンの方が競争力が高い事に気づいていた。
 1964年春にガレージで眠っていたぜレックス・スペシャルをオールズモビルエンジンと一緒に買ってイギリスへと持ち帰った彼らは、細いチューブを溶接したスペースフレームのセンター部分をばっさり切断して太い鋼管を基本とした新しいスペースフレームを溶接した。
完成したスペースフレームを日曜日に開いていた雑貨屋で買った緑のペンキで塗ったことからジョリーグリーンジャイアントという名前をつけた。これにオールズモビルエンジンとコロッティ・タイプ21の5速トランスミッションを積んで完成したのが、まだブルースがクーパーチームの契約ドライバーとしてF1等に乗っていた為に「政治的理由」でクーパー・オールズモビルという名前でカナダのモスポートでのレースにエントリーしたマシンである。
エキゾーストシステムを作る時間が無く、8本のパイプが斜め後方に突き出した状態でレースを走った。改造したゼレックス・スペシャルでモスポートとイギリスに持ち帰ってブランズハッチのレースで優勝をした8月までの間に、フェルタムの新しいワークショップでブルースとその仲間達は、新しいシャシーを製作してそれにトラコチューンの3.9リッターに拡大したオールズモビルF85エンジンとヒューランド製ミッションを組み合わせた自分達で生み出した最初のレーシングスポーツカー、マクラーレンM1Aを作り出した。
 1958年にニュージーランドからイギリスに渡って来て以来、、クーパーチームのワークスドライバーという立場にあったブルース・マクラーレンは、自分の道を歩み始めたのだった。

 ブルースは、自分達で作ったM1Aでレースをして優勝を含む好成績を上げた。すると他のドライバーやチームから同じマシンを作って欲しいという依頼が何件も来るようになった。そうなるとレース活動の資金を作るためにマシンを量産して販売する事も考慮しなければならなかった。6台ほどの量産を企てたが、量産するには問題が山積みされていた。まず、彼らは余りにも少人数で、ブルースがドライブするマシンを設計したり製作するだけの手が一杯で、量産するには人手が無かった。生産を外注しようにも、M1Aの第1号車を作り上げるのに設計図も引いていなかったのである。カスタマー用のスペアパーツをどう生産管理するかも考えなければならず、結局、自分達での量産は暗礁に乗り上げてしまった。
 1964年11月、サセックス州のライで少量のレーシングスポーツカーやロードカーを生産していたエルヴァ・カーズのフランク・ニコルズと量産に関しての交渉を持ち、その結果、親会社のランブレッタ・トロージャングループの社長ピーター・アッグとマクラーレン・レーシングとの間に1964年11月21日、量産に関する契約が締結された。
 65年1月のロンドン・レーシングカーショウに間に合わせる為にエルヴァでのでの生産を急がなければならなかった。M1Aのプロトタイプは手作りのアルミボディを持っていたが、量産の為にはそのアルミボディを元にモールドを作りFRPボディが作られた。プロトタイプから採寸して設計図を起こす作業も必要だった。こうやって生み出されたエルヴァ・マクラーレンM1Aは24台が生産された。
 M1Aは、トラコチューンの4.5リッターオールズモビルエンジンを積む事を前提に設計されていたが、カスタマー達の中にはフォードやシボレーのV8エンジンを積もうと試みる者も出てきたため、マイケル・ターナーがデザインした空力的ボディを持つM1Bでは、シャシーの構造が見直され、オールズモビルエンジン以外にシボレーやフォードのエンジンがオプションとして選べるようになった。ワークスチームがレースをしながらボディやシャシーに改造を加えた点はカスタマーの生産にもフィードバックされたし、カスタマーカー用にある程度の量が生産されたスペアパーツをワークスが必要な時には安価に使えるというメリットも生まれた。
幻に終わった“M6GT”計画 

 ワークスが新型車を設計製作してそれでレースをしながら、カスタマー用には1年落ちのマシンを供給するならワークスがカスタマーのマシンに負ける事は理論上はないはずである。67年シーズン、モノコックシャシーを持ったM6Aでワークスが戦った時には、カスタマーカーはスペースフレームのM1Cだった。68年は、ワークスは新型のM8Aを使用して、前年の3台のワークスM6Aはカスタマーチームに売却された。モノコックシャシーを持つカスタマー用M6Bは26台が生産された。69年は、ワークスはM8Bを投入して全てのレースでブルース・マクラーレンとデニー・ハルムのワークス・マクラーレンが優勝するという快挙を成し遂げブルースが2度目のカンナム・チャンピオンとなった。
カスタマー用はM6Bと基本的に同じシャシーにM8風のボディと新型のサスペンションを付けたM12が、15台生産された。70年にはワークスはM8Dとなり、カスタマー用はM8シャシーを持つM8Cが8台生産された。こうして書いてくるとおかしな事に気づかされる。マクラーレンとトロージャンの関係からすれば、M8Cは69年に登場していなければならず、69年になぜM12という時系列から離れた形式番号が与えられて、M6Bと同じシャシーを持ったマシンを生産したのだろうか?
 それは、69年に計画されたM6GTとの関連から謎を解くことが出来る。ブルースは、M6GTを長距離レースにも使える生産台数50台の義務を負ったグループ4マシンとしてホモロゲーションを得ようとしていたのである。70年からは25台に減らされたが、5リッターエンジンを持つグループ4マシンとしてフォードGT40、ローラT70MKIII , フェラーリ512S、ポルシェ917と同じ土俵でメイクス・チャンピオンの懸かったレースへ進出しようと試みたのだろう。コーンブルックに移ったワークスのファクトリーでは50台という数はとても無理な話で、パーレイの新工場に移ったトロージャンというパートナーが必要だった。
M6Aが3台、M6Bが26台、M12が15台ならあと6台のM6GTを生産すれば50台となる。FIAの技術委員会と話し合いを持ったりしたそうだが、元来オープンタイプのグループ7マシンとして販売したわけだから、全てのカスタマーに屋根を付ける為のボディキットでも送って改装したM6GTを50台揃えるというのも不可能な話で、結局ホモロゲーションは取れなかった。

 M6GTは、4台作られたと記憶が残っている。1台はブルース・マクラーレンのパーソナルロードカーとして、1台はイギリスのディビッド・プロフェットに売られてレースに使われ、後にM6Bタイプのオープン・ボディに改造されたという。1台はアメリカに船積みされ、1台はトロージャンに展示されていたという。M6GTに関しては、ゴードン・コバックが担当していた。彼は、ブルースのパーソナルカーを仕上げながら路上テストドライブをしてブルースと一緒にエンジニアリングに関して話し合っていたという。
M6GTは、ル・マン制覇という夢も持たされていたのだ。66年にフォードGTMKII をドライブしてル・マンに優勝したブルースは、今度は自分の名前の付いたマシンでル・マンへの挑戦を考えたのだ。その夢は、ブルースの死後25年たった1995年、ゴードン・マーレイが設計したマクラーレンF1がル・マン初参戦で優勝という快挙を成し遂げて結実する事になった。

 M6BやM12のシャシーにはM6GTのボディを載せる事が可能である。スペシャルモールティング社が製作したオリジナルのモールドは保存されており、今でも新品のM6GTのボディパネルを作ることが出来る。実はトニーも1セットのM6GT用ボディパネルを他のM8用のパネルと一緒にコンテナ詰めにして取り寄せているのだ。M6GTのレプリカは、どこかで適当なシャシーをでっち上げて作られている。しかし、ここなら設計図を元にオリジナルと同じモノコックタブを作ることも可能だから、リプロダクションとも言えるM6GTでもM6Bでも作り出すことも可能である。

   --------------------------少し主宰者より余談を語らせてください ----------------------------

 ここで1969年のル・マン24時間レースのエントリーに注目してもらいたい。
なんとグループ4(5000ccスポーツカー)クラスに“マクラーレン”が1台エントリーしていたのだ。
エントラントは、“John Woolfe Racing McLaren - Chevrolet John Wolfe Racing Sports 5000”。
ドライバーは、最終的に“ブルース・マクラーレン/ジョン・ウルフ”のコンビでエントリーされた。
しかし、上記で述べたとおり、ホモロゲーションが取れなかったことが原因だと思われるが、遂に決勝レースに“マクラーレンM6GT”の勇姿を見ることは出来ず、幻のエントリーとなってしまった。余談だが、ブルース・マクラーレンとコンビを組む予定だった“ジョン・ウルフ”は、同年のル・マンにこれまたホモロゲーションを取得したばかりのポルシェ917でエントリーし、ル・マン出場を果たしている。しかし、なんという不運だろうか、ル・マン式スタートと共に917を走らせていたジョン・ウルフは、1周目の終わり近くのホワイトハウスあたりでクラッシュ炎上、懸命の救助の甲斐なく37歳の生涯を閉じたのだった。なんとも不運極まりないジョン・ウルフである。
もしもということが許されるならば、マクラーレンM6GTがホモロゲーション取得に成功していたならば・・・とつい考えてしまう。
さらに余談だが、この燃えてしまった917とジョン・ウルフはその年の'69日本グランプリにあのTETSU IKUZAWAと組んでエントリーするはずだったという。もちろん、ジョー・シファートが乗った917とは別個の話でだ。その結果、TETSUは日本グランプリ欠場となってしまった。

 下記左の写真は、三栄書房発行1970年6月号「AUTO SPORT」誌に掲載されたM6GTである。
また、右の写真は、謎の「コヨーテ・スーパースポーツカー COYOTE SUPER SPORTCAR 」である。このコヨーテは1983年から日本でも放送されていた人気TV映画「探偵ハード&マック HARDCASTLE & McCORMICK」に登場していたスポーツカーである。
しかし、よく見て頂きたい。まさに、これは“M6GT”にそっくりではないだろうか!
これこそ上記で述べていたM6GTのレプリカモデルではないだろうか?


TOP : McLaren M6GT ( Left side ) and COYOTE SUPER SPORTCAR ( Right side ).
Maybe COYOTE is a reprica of M6GT ?!

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