Hiroshi had a first challenge of japanese driver of Le Mans in 1973 with Tetsu Ikuzawa. それからのHIROSHI
今回の企画ページ「それからのHIROSHI
再びル・マンへ」は、今から丁度30年前に日本人として初めて歴史ある「ル・マン24時間レース」に挑戦した“鮒子田 寛”氏に捧げるものである。
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![]() “打倒 高原敬武!!” 1974年11月24日、富士グランチャン最終戦「富士ビクトリー200Kmレース」のスターティング・グリッド最前列には73年度シリーズチャンピオンの“高原敬武”、レース巧者“長谷見昌弘”、そして、ベテラン“生沢 徹”が共に1分18秒台で並んでいる。
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![]() TOP : The Winning machine's ChevronB21P from a auto technic magagine no.65. ![]() TOP : The Winner Hiroshi Fushida and Harukuni Takahashi of Fuji 1000Km in 1974. 喜びのシャンパンシャワーを浴びる優勝した鮒子田 寛 ![]() ![]() TOP : '74 GC No.4 winner's Hiroshi Fushida( No.18). |
“無念!!しかし、来シーズンこそは・・・”
話しは74年GC最終戦に戻る。スタートでジャンプアップした鮒子田は、トップの高原を懸命に追うがいかんせんベストセッティングされた最新の“マーチ745/BMW”にはどうしても勝負出来ない。73年GC第1戦で黒沢マーチをバンクでぶち抜いた時と今回の場合は全くマシンの状態が違うのだ。 次第に鮒子田は高原に離され始め、遂に7周目追い上げてきた長谷見のマーチに2位の座を奪われてしまう。 その後鮒子田は我慢のレースを続けたが20周目に高橋国光のマーチに抜かれ4位に後退。そのままゴールかと思われた最終ラップに最大のドラマが待ち受けていた。
上のコメントは、同じく1975年発行オートテクニック誌1月号より引用活用させて頂いた。 鮒子田にとっての11月23〜24日は、69年の日本CAN-AMでのリタイヤ、72年の傷だらけのGCチャンプ奪取、そして今回のハプニングなど鮒子田 寛にとってそれらの結果全てが翌年の新たな展開の始まりの予感であり期待であったと思う。
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“シグマと共に”
1975年3月、時を同じくして当時のAUTO SPORT誌No.165と富士グランチャン第1戦のパンフレットに、シグマのニューマシンである“MC75/TOYOTA”が堂々と表紙を飾っていたのだった。さらに、そのドライバー席にはなんと我が“鮒子田 寛”がにっこりと乗っているではないか!!
![]() ![]() TOP : Hiroshi Fushida and his SIGMA MC75/TOYOTA from Auto Sport magagine No.165 in 1975. ![]() TOP : The official pamphlet of Fuji GC with Hiroshi and SIGMA MC75 in 1975. |
“試練の時”
鮒子田にとっての75年シーズンは躍進の年になるはずであった。グランチャン開幕戦でいきなりポールポジションを取り、ブッチギリの優勝を勝ち取るのが鮒子田の思惑だった。
PART 4へ続く |
(C) Textreport
by Hirofumi Makino.
Special thanks
Joe Honda.