The 30th Anniversary
Hiroshi had a first challenge of japanese driver of Le Mans in 1973 with Tetsu Ikuzawa.

それからのHIROSHI 
PART 1 
PART 2 
PART 3 
「再びル・マンへ」

TOP : Hiroshi Fushida and his SIGMA MC75 TOYOTA at Le Mans in 1975.
(C) Photograph by Joe Honda.

 今回の企画ページ「それからのHIROSHI 再びル・マンへ」は、今から丁度30年前に日本人として初めて歴史ある「ル・マン24時間レース」に挑戦した“鮒子田 寛”氏に捧げるものである。
鮒子田氏が初めて参加した1973年のル・マンというと、丁度映画「栄光のル・マン」(1971年日本公開)でのポルシェ917とフェラーリ512Sとの死闘の後の時代であり、有名なル・マン式スタートはすでに廃止されており、現在まで続くローリング・スタートとなっていた。
ライバル・マシンといえば、3000ccのレーシングエンジンを持つフェラーリ312PB、マトラMS650などが主役であり、やはり日本車として初めてル・マンに鮒子田 寛らと共に挑戦した“シグマMC73”もスピードだけでは同クラスのマシンたちに負けてはいなかったが、やはり開発の歴史が違いすぎていたためか、24時間を走りきることが出来ず無念の涙を流す結果となってしまった。
何もかもが初めてだった最初の挑戦1973年の鮒子田氏の活躍は、下記のページを参照頂くとして、氏の挑戦30周年記念としてその後の鮒子田 寛氏の活躍を今回はまとめてみることにより、当時まだまだ遠い世界だったル・マンへの挑戦を振り返ってみることにしたい。

The First Challenge Of Le Mans 1973
鮒子田 寛のル・マン

 
 “打倒 高原敬武!!”

 1974年11月24日、富士グランチャン最終戦「富士ビクトリー200Kmレース」のスターティング・グリッド最前列には73年度シリーズチャンピオンの“高原敬武”、レース巧者“長谷見昌弘”、そして、ベテラン“生沢 徹”が共に1分18秒台で並んでいる。
さて、72年度シリーズチャンピオンに輝いた我が 鮒子田 寛 はというと、3年目を迎えるシェブロンを駆りなんとトップに0.67秒差で2列目をなんとか確保、今期劇的な優勝を飾った第4戦の再現を虎視眈々と狙っている。
そして、いよいよスタートだ!!3-2-3のスタンディング・スタートでまず飛び出したのは、今期絶好調の高原敬武が駆るスタンレー・マーチだった。高原は、抜群のスタートを見せ4.3Kmショートコース右回り第1コーナーへトップで飛び込んだ。しかし、いつも抜群のスタートを見せるTetsuのGRD S74はスタートに失敗し後退、さらにレース巧者 長谷見昌弘もスタートをしくじったため、高原のマーチはすでに第1コーナーに入るまでに独走体制に入ってしまう。
そんな中、ただ1台猛然とダッシュして高原を追うマシンがあった。鮒子田のデサント・シェブロンだった。
(右の写真は、1周目先頭の高原のマーチを猛追する鮒子田の白い“デサント・シェブロン”。)
今年の鮒子田は、昨シーズンの低迷を挽回する為第2戦を休み、チームを立て直してのGC出場であった。その成果が実ったのか先の“鈴鹿グレート20レース(FJ1300マーチ・シビックでの完全優勝)”、“富士1000Km(高橋晴邦とのコンビでの優勝)”と続けざまに優勝、その勢いで出場したGC第4戦も2年振の優勝を飾り、今鮒子田は不死鳥の如く蘇ったのだった。
そんな時の人 “鮒子田 寛”について書かれたコメント(GC第4戦における鮒子田 寛)を1974年発行オートテクニック誌10月号No.66から紹介したいと思う。
 

■鮒子田 寛(シェブロンB23 BDA/フシダレーサーズ)

 鮒子田は見事な“ハットトリック”を演じることになった。そして、3勝目がもっとも鮮やかであった。彼はニュースポンサーの“デサント”一行を従え、シルバークラウドでパドックに到着。
30日よりプラクティスを始めていくが、数周で1分21秒5をマーク、前回の富士1000Kmであらかたのセットはしてあるので、余裕はあるらしい。
 31日のクォリファイ第1セッションを、鮒子田は雨も降っているのでフリートライアルだと勘違いし、タイムも振るわなかった。第2セッション、Tetsuや田中 弘の面々に送られながらコースへ出ていったが、激しい雨なのでしばらくするとキャンピングカーの脇のテント下へ戻ってきてしまう。
 レース直前まで雨だったらレースをやめようよと言っていた鮒子田だが、彼はグルービングしていないレインでスタートしていった。
1周目、9位。まずは北野を抜き、5周かけて藤田をかわし、生沢と岡本の2位争いへ割り込んで行った。14周目から次ぎのスタンド前へ来る間に、鮒子田は2人をまとめて抜き2位へ。29秒から30秒台で長谷見を追い上げる。
そう2人は好敵手なのである。
 18周目の第1コーナー、長谷見よりブレーキングに勝ち、トップへ立った。慎重な彼はマシンとタイヤのために水たまりを走った。


TOP : The Winning machine's ChevronB21P from a auto technic magagine no.65.

TOP : The Winner Hiroshi Fushida and Harukuni Takahashi of Fuji 1000Km in 1974.
喜びのシャンパンシャワーを浴びる優勝した鮒子田 寛

TOP : '74 GC No.4 winner's Hiroshi Fushida( No.18).
 波に乗る74年シーズンの鮒子田 寛(左より2番目)は富士1000Km、鈴鹿グレート20に続いてGC第4戦も優勝して3連勝を飾る。
 “無念!!しかし、来シーズンこそは・・・”
 
 話しは74年GC最終戦に戻る。スタートでジャンプアップした鮒子田は、トップの高原を懸命に追うがいかんせんベストセッティングされた最新の“マーチ745/BMW”にはどうしても勝負出来ない。73年GC第1戦で黒沢マーチをバンクでぶち抜いた時と今回の場合は全くマシンの状態が違うのだ。
次第に鮒子田は高原に離され始め、遂に7周目追い上げてきた長谷見のマーチに2位の座を奪われてしまう。
その後鮒子田は我慢のレースを続けたが20周目に高橋国光のマーチに抜かれ4位に後退。そのままゴールかと思われた最終ラップに最大のドラマが待ち受けていた。
 
・・・そう、鮒子田は4位で最終コーナーに現われなかったのである。300Rであまりにも突然にエンジンを破損した彼は、惰力でチェッカーまでこぎつけたのであった。
遠く最終コーナーから大白煙をたなびかせながら、鮒子田はシートベルトもはずして懸命にもがき、停止寸前のスピードで5位によろよろとたどり着いた。

上のコメントは、同じく1975年発行オートテクニック誌1月号より引用活用させて頂いた。

 鮒子田にとっての11月23〜24日は、69年の日本CAN-AMでのリタイヤ、72年の傷だらけのGCチャンプ奪取、そして今回のハプニングなど鮒子田 寛にとってそれらの結果全てが翌年の新たな展開の始まりの予感であり期待であったと思う。
すでに75年シーズンに向けて鮒子田の周辺はにわかに動き出していた。

“シグマと共に”

 1975年3月、時を同じくして当時のAUTO SPORT誌No.165と富士グランチャン第1戦のパンフレットに、シグマのニューマシンである“MC75/TOYOTA”が堂々と表紙を飾っていたのだった。さらに、そのドライバー席にはなんと我が“鮒子田 寛”がにっこりと乗っているではないか!!
そう、75年シーズンの鮒子田 寛はシグマのワークス・ドライバーとして1年間を戦うのだ。
シグマ・オートモーティブの加藤監督よりGCを含めた依頼があったためそれを受けたのが真相だ。
ところで、そのマシンカラーに注目だ。F-1などでは見慣れたスポンサーカラーの“Marlboro”だが、日本では私の記憶でいうとシグマが初めてではなかっただろうか。
これも加藤監督が75年シーズンを優位に戦うため必死で掴んだスポンサーであった。
マルボロ・シグマという名前で今年1年間を戦う鮒子田 寛とシグマ・オートモーティブは、トヨタ2TG( 1588cc)/ターボエンジンを搭載し、最高出力330ps/9000rpm 最大トルク26kgm/7000rpmを絞り出す当時の2000ccクラスとしては最強のマシンであった。(当時のFIA規約でのターボ付きは排気量X1.4係数とは違いGC規約ではターボ付きエンジンDOHC 1600cc、SOHC 2000ccと規定されているために出場が認められる。ただし、ル・マンではFIA規約で3000ccクラスに入ってしまいフェラーリやマトラと同じ土俵で戦うことになってしまう。)
鮒子田 寛とマルボロ・シグマMC75のレース計画は、国内のGCレースや耐久レースだけに留まらず73年以来挑戦を続けているル・マン24時間レースへの参加ももちろん含まれており、俄然鮒子田 寛の周辺は例年になく活気に満ちていた。


TOP : Hiroshi Fushida and his SIGMA MC75/TOYOTA from Auto Sport magagine No.165 in 1975.

TOP : The official pamphlet of Fuji GC with Hiroshi and SIGMA MC75 in 1975.
 “試練の時”

 鮒子田にとっての75年シーズンは躍進の年になるはずであった。グランチャン開幕戦でいきなりポールポジションを取り、ブッチギリの優勝を勝ち取るのが鮒子田の思惑だった。
しかし、期待の“シグマMC75/トヨタ2TG・ターボ”は実のところまだまだ開発途上のマシンであり、実戦でトップクラスの力を発揮するまでに成熟していなかったのだ。
昨年の74年6月にその年のマシン“MC74”の経験を生かしながら“MC75”の開発はスタートした。そのためかその年のグランチャンにはシグマはワークス参加していない。全てを75年のル・マンとGCに賭けたと言っても過言ではなかった。そして、向かえた75年3月の発表であったのだが、前年までの使い慣れたマツダ・ロータリーエンジンからトヨタ2TGターボエンジンへの変更などが影響してか、特にターボのセッティングが最大の問題点で、EFIを使っているため、いったんエンジンが不調になりだすとその原因を見つけ解決することが当時のチーム力では困難を極めたのが現状だった。
そして向かえた富士グランチャン開幕戦、シグマはセッティング不足のまま予選へ。そして、タイムアタック中になんと最終コーナー出口で突然スピン、左フロントサスペンションのピンが折れたのだ。これで鮒子田のシグマMC75でのGCデビューは夢と消えてしまった。
問題は山ほどあった。まず先に述べたトヨタ2TGエンジンとターボ・チャージャーのセッティングが優先課題だ。73年にセリカ2000LBターボで富士1000Kmを制覇したエンジンもターボであったが、シグマは独自でラジョイ製ターボ本体とのマッチングをトライしていたが、実戦ではさかんにツュニッツァー製を使っていたようだった。
ル・マンまであと2ヶ月。マルボロ・シグマ・チームに課せられた問題は山ほどあり、まさに試練の時であった。
ところで余談であるが、マルボロ・シグマのワークス・ドライバーである我が鮒子田選手はこの75年GC開幕戦に関して実はもう一つの顔を持っていたのだ。それは、このレースからGCに挑戦することになった“ケビン・バートレット”(タスマン・シリーズの常連で69〜70年JAFグランプリにミルドレン・ワゴット/アルファV8でエントリーしていたのでご存知の方も多いと思うが・・・)の隠れたマネジャーだったことはあまり知られていない思う。当時のオートテクニック誌(1975年5月号)には、開幕戦についてはシグマの鮒子田よりもケビン・バートレットの“スーパーバイザー”としてあれこれ世話を焼いている鮒子田 寛の方が目立っていたと記載されている。将来の童夢監督、トムスGB監督などで力量を発揮する鮒子田 寛がその時点ですでに誕生していたと私は思ってしまうのだが・・・。
さて、ル・マンまで残された期間は後少し・・・。次回 「再びル・マン、そして夢のF-1へ」をお楽しみに!!

PART 4へ続く


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(C) Textreport by Hirofumi Makino.
Special thanks Joe Honda.