it's a challenge of Le mans !! With Tetsu Ikuzawa. |
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1973 |
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![]() この企画は、今から29年前に日本人として初めて「ル・マン24時間レース」に華麗にチャレンジした2人のドライバーの物語である。 まだまだ当時の日本は世界のモータースポーツ界において後進国であったころ(しかし、今でも果たして先進国なのであるかは別として・・・)、一人の勇気あるエンジニアの夢からこの物語は始まる。 その人は、“加藤 真(当時のトヨタ自販福社長の二男。左写真)”。 60年代チーム・トヨタ(当時のトヨタ自工第7技術部)の中心的なエンジニアとして“トヨター7”などの伝説的なビッグマシンの開発に携わった後、自らの夢を実現させる為に独立し、「シグマ・オートモーティブ」を設立。レーシング・マシン開発、兼レーシング・チームを運営する欧米の有名コンストラクターに負けない理想的なコンストラクターを目指した。 ![]() 彼がまず最初に手がけたマシンは、1973年に富士グランチャンピオンシリーズのために用意した「シグマGC73」である。前年、生沢 徹がイギリスから持ちかえった「GRD S72」をメンテナンスした実績から、当時人気のあった2シーター2000ccマシンのノウ・ハウを吸収し、改良開発したものだった。そして、彼が持っている“夢”の実現のための第一歩を印した記念すべきマシンでもあった(右写真)。 その“夢”こそ、あの俳優“スティーヴ・マックイーン”が製作した映画「栄光のル・マン」でも知られている「ル・マン24時間レース」に、自らのマシンで出場することであったのだ。 ちなみに、スティーヴ・マックイーンは、この映画を作るために彼の全財産を注ぎ込み、ついには自らの映画会社であった“ソーラー・プロダクション”を潰してしまったことはあまりにも有名である。しかし、これは彼の“夢の実現”のために起こった必然的な代償であり、現実のきびしさを感じさせるエピソードでもあったのだ。 マックイーンの例にもれず「ル・マン24時間レース」に参加することが、加藤 真にとっては正に“夢”であった。 |
“栄光のル・マンに正式エントリー!!” ![]() 当時の羽田国際空港に、ロンドンよりアエロフロート機が予定通りに到着した。 73年ル・マン24時間レースに正式エントリーを終えた“加藤 真”とすでに正式ドライバーに決定している“生沢 徹”が揃って帰国したのだ。時、1973年2月12日、午前11時22分であった。 2人は、その年の1月にヨーロッパでは顔となっていた生沢 徹をとおし、ル・マン オーガナイザーと接触、エントリーを要請。再度加藤と共に渡欧し、パリでル・マン事務局長(当時)をしていたモラン氏と会見。エントリー書類を提出し、帰国したもの。 このことにより、遂に日本車として、はたまた日本人ドライバーとして、初めての“ル・マン24時間レース”出場が事実上実現する運びとなったのだ。これはまさに、エポックメイキングな出来事であった!! 当初、ドライバーとして加藤が考えていたのは、スポンサー等獲得の可能性が強く、また、海外の経験が多い“生沢 徹”と“風戸 裕”であった。さらに、体力的に若干弱さを持つ生沢のフォローということで、トヨタ時代に気心が知れていた“高橋晴邦”を第3ドライバーとする計画であった。 しかし、その後風戸側からの返答がなかったため、最終的には風戸起用を断念、生沢からの紹介でフランス人のパトリック・タルボ(ピグミーF2の製作で有名)を起用することになった。 ところが問題点も山積みであった。それは、シグマMC73の熟成を急ぐ一方、使用するエンジンの最終決定を急がなくてはならなかった。 シグマとしては、最初から純国産マシン(シャーシー+エンジン)としてル・マンに行くつもりだったため、エンジンは、当初1971年の富士1000Kmレース出場の“コロナマークII GSS-XRターボ”などで使われていた「R8」型SOHCターボエンジンか、セリカなどに使われていた「2TG」型DOHC直4エンジンのターボ仕様(翌1973年の富士1000Kmレースに優勝したワークス・トヨタ・セリカLBターボ・エンジン)を主力エンジンとして候補に上げていた。しかし、まだまだ信頼性がないということでトヨタ側との交渉が難航、遂にタイム・リミットとなり、シグマはトヨタ・エンジン以外の日本製エンジンを探さなくてはならない事となってしまう。 そこで目をつけたのは、以前から海外レースにチャレンジし、ル・マンにもエンジン単体でシェブロンなどに搭載し、出場経験を持つ“マツダ・ロータリー・エンジン”だった。 |
“無敵の耐久レース王 鮒子田 寛 起用!!”
加藤 真は悩んでいた。それはシグマMC73のドライバー決定である。 加藤は、密かに「鮒子田 寛」を今回初挑戦するル・マンにドライバーとして迎えられないかと考えていた。チーム・トヨタで、当時エース・ドライバーとして活躍していた鮒子田の持っている高い開発能力と耐久レースにおける抜群の強さを知っている加藤としてはなおさらのことであった。ただし、現実問題として、その時点では不可能に近いことだったようだ。 それは、シグマ・オートモーティブの契約ドライバーは、“生沢 徹”と当時まだトヨタ・ワークス在籍中の“高橋晴邦”であったため、シグマとしては、この2人を当初ル・マンに挑戦させるつもりだったからだ。 そんな時、鮒子田 寛は、たまたまフリーの立場にいたため、加藤の依頼を受けてマツダ・ロータリーエンジン搭載のMC73のテストを日本でこなしていた。それは、シグマのエース・ドライバーだった生沢 徹がGCレース以外は、ヨーロッパでのレースに専念していたためである。 しかし、最終的にマツダ・オート東京の協力を得てマツダ・ロータリーエンジンを搭載エンジンとして正式決定した今、トヨタ在籍中の高橋晴邦をドライバーとして使うことは不可能になってしまった。それは、トヨタがシグマに提示した高橋晴邦のレース参加条件が、あくまでも外国製エンジン車でのレース参加であったからだ。このエンジン決定により、晴れて 無敵の耐久レース王 “鮒子田 寛”のル・マン挑戦が決まった。 |
![]() TOP : SIGMA MC73 of test run at Tsukuba CK in 1973 with Hiroshi Fushida from AUTO SPORT No.121. ![]() このテストは、5月6日に行なわれた富士スピードウェイでの初試走後に行なわれた筑波サーキットでのテストの模様であった。 |
(C) Text reports by Hirofumi Makino.