“いざ出陣!!”
上のコメントは、1973年発行の「オートテクニック」誌8月号に掲載されていた「世界のヒノキ舞台、ルマンに感動 by Hiroshi Fushida」より抜粋引用させて頂いたものである。 |
生沢 徹、加藤 真と共に、日本人として初めてルマン サルテ・サーキットに立った感激の鮒子田 寛。
その鮒子田 寛の喜びの心境が切々と伝わってくるコメントではないだろうか。 そして、3名のドライバーの先陣を切ってシグマと共に初めてルマンの予選を走った鮒子田 寛は、次ぎのようなコメントも書き残している。
(注:何故か当時の報道ではユーノディエール・ストレートのことをミュルサンヌ・ストレートと言っており、書かせて頂いている当の私もミュルサンヌ・ストレートと言ってしまう方が何故か自然な感じがしてしまうのはなぜだろうか) |
“シグマ 初挑戦で価値ある予選14位を獲得!!”
ここに当時のシグマチームのルマンでの格闘を的確にまとめた記事がある。1973年6月9日発行の報知新聞に掲載されていた「“日本” 初の“ル・マン”を走る」である。そして、その取材記事を書いた記者は「知人・友人 鮒子田 寛を語る」に登場して頂いた元・報知新聞記者の“中島祥和”氏だった。
さらに、初挑戦で意気上がる鮒子田 寛のコメントも書かれているので御紹介したいと思う。
シグマの先陣を切ってコースに飛び出した鮒子田は、予選初日にシグマ・チームとしての最高タイムである“4分25秒”をマーク。これは、チームの目標だった“4分15秒”達成に期待を抱かせるに充分のタイムであった。
|
予選終了前、鮒子田 寛は再度タイム・アタックのためサルテ・サーキットに勢い良く飛び出して行った。
テスト・ドライバーとしてシグマを煮詰めてきた鮒子田にとってシグマのトップ・タイムは是が非でも自らの手で叩き出したかったからだ。 ところが、数周後これからタイムアタックという時になんとミュルサンヌ・ストレート(ユーノディエール・ストレート)において突然クラッチがいかれコース上にストップしてしまったのだ。結局、スタッフが、シグマをトラックに載せてガレージにたどり着いたのは、なんと夜中の2時になってしまった。とんだハプニングであった。しかし、結果的にこのトラブルは本戦でもシグマ・チームを悩ますこととなるのだが・・・。 |
さて、第50回ル・マン24時間レースのスターティング・グリッドを紹介しよう。
The 50th Le Mans 24 Houres Races Starting Grid ( Best 18/33 )
|
![]() TOP : The Ceremony of Le Mans. It's a first Japanese flag !! |
“いよいよ世紀のル・マン スタート!!”
いよいよ待ちに待った“栄光のル・マン”のスタートが近づいた。シグマ・チームの作戦は、スタートを日本レース界を盛り立てた立役者である“生沢 徹”が受け持ち、20周後に鮒子田がステアリングを握る。そして、さらに20周後にダルボと交替し夜間を受け持つというローテーション。また、目標周回ペースは、“4分30秒台”で、アクシデントがなければ昨年の2リッター・クラスの優勝車である“ローラ”を凌ぐことが可能なのだ。 ![]() TOP : Hiroshi Fushida( Leftside) and #26 SIGMA MC73 at Le Mans's Sterting Grid in 1973 with Tetsu Ikuzawa( Middle). (C) Photograph by Joe Honda. ![]() TOP : Tetsu (C)Photograph by Joe Honda. |
上の写真は、6月7日の“ル・マン”スタート前のグリット上に立つ鮒子田 寛と生沢 徹(中央)。
トップ・バッターを受け持つ生沢 徹は、余裕(!?)の表情でスタートを待つ。 一方鮒子田は、初めてのル・マンに感無量の心境か、ル・マンの空を見つめることしきり。鮒子田にとってその先は栄光のゴールなのだろうか。 |
(C) Photographs by Joe Honda.