“いざ出陣!!” 
 
 6月4日11時50分、ルマンに向けて羽田を発つ、飛行機に乗り込むとさすがにムードが盛り上がり、心は早くも夢のルマンへととんでいた。
 イギリスに着いてからも、道草はくってはいられない、旅の疲れなど、ルマンのことを考えれば全く皆無、その日のうちにパリへと直行した。そして、憧れのルマンへと向けて汽車に乗り込んだのは、5日の早朝だった。
 ルマンの昼は長い、午後10時ごろまで空は明るく、作業もはかどる。
日本を発って間もない僕は、6日の午後6時からの予選に奇異な気持ちで臨んだ。
 最初にシグマに乗り込んだのは、富士、筑波で再三テストしたことがある僕だった。
ルマンのコース上にシートベルトを締めると、さすがに実感がわき、日本人としてルマンを走る言い知れぬ喜びに浸った。

 上のコメントは、1973年発行の「オートテクニック」誌8月号に掲載されていた「世界のヒノキ舞台、ルマンに感動 by Hiroshi Fushida」より抜粋引用させて頂いたものである。

 生沢 徹、加藤 真と共に、日本人として初めてルマン サルテ・サーキットに立った感激の鮒子田 寛。
その鮒子田 寛の喜びの心境が切々と伝わってくるコメントではないだろうか。
そして、3名のドライバーの先陣を切ってシグマと共に初めてルマンの予選を走った鮒子田 寛は、次ぎのようなコメントも書き残している。
 
 6Kmのミュルサンヌ・ストレートは、さすがに長く、1.6Kmの富士の直線の比ではない。走っても走っても直線といった感じであった。
ルマンのコースの第一印象は、どこもグリーンが非常に狭く、危険がいっぱいというのが本音で、スピードに対しグリーンが非常に狭いと言われる鈴鹿とも比較にならないほどだ。しかし、この印象も走り込むにつれて薄らいでいき、手慣れたコース員のおかげで、思ったより安全度が高いことを確認した。

(注:何故か当時の報道ではユーノディエール・ストレートのことをミュルサンヌ・ストレートと言っており、書かせて頂いている当の私もミュルサンヌ・ストレートと言ってしまう方が何故か自然な感じがしてしまうのはなぜだろうか)

“シグマ 初挑戦で価値ある予選14位を獲得!!” 
 ここに当時のシグマチームのルマンでの格闘を的確にまとめた記事がある。1973年6月9日発行の報知新聞に掲載されていた「“日本” 初の“ル・マン”を走る」である。そして、その取材記事を書いた記者は「知人・友人 鮒子田 寛を語る」に登場して頂いた元・報知新聞記者の“中島祥和”氏だった。
 
 “シグマ”は、鼓膜が破れるようなロータリー・エンジン特有の排気音を立てて、ピットを飛び出していった。
「さあ、やろうぜ。落着いてな」 シグマの設計者であり、レーシング・チームのディレクターでもある加藤 真エンジニアは、腕を組んでコースをにらんでいた。ポルシェが、ミラージュが、マトラが、フェラーリが、予選だというのに8分入りのスタンド前を、風と爆音を巻いて突っ走っていく。
「走って来ますよ。どこまで出来るか・・・。それよりも、ベストを尽くすことですよ」加藤氏は口早に言った。
 トヨタも日産も、かつてすばらしく速いプロトタイプ・スポーツカーを作ったが、それは結局、世界への道を開くのではなく、日本GPでの、エスカレートした戦いだけに終わってしまっていた。
 自動車生産世界2位の日本が、スポーツカー・レースへ初めて送り出したマシンは、なんと、プライベート・チームのシグマなのである。フランス人記者は、日本から初めて、はるばるル・マンまでやってきた“シグマ”が、純粋のプライベート・チームとは、とうてい信じられない、といった顔付きだ。

さらに、初挑戦で意気上がる鮒子田 寛のコメントも書かれているので御紹介したいと思う。
 

 「コース自体はそんなに難しくはない。けっこうその気になれば速く走れる。ただ高速コーナーといわれるだけあって、ストレートからコーナーへ入るときの減速が難しい。コーナーもスピードが乗っているわりにはタイトだしね」 鮒子田は完走を狙って 「あわてずに乗るつもり」と言った。

 シグマの先陣を切ってコースに飛び出した鮒子田は、予選初日にシグマ・チームとしての最高タイムである“4分25秒”をマーク。これは、チームの目標だった“4分15秒”達成に期待を抱かせるに充分のタイムであった。
そして、予選2日目、ル・マン経験のあるフランス人ドライバー“パトリック・ダルボ”がシグマとしての予選タイムとなる“4分11秒1”を叩きだし、初挑戦としては出来過ぎの予選14位を獲得することに成功する。
ちなみに、ポールポジションは、“3分37秒5”を記録したA・メルツァリオの駆るフェラーリ312PBであった。

 予選終了前、鮒子田 寛は再度タイム・アタックのためサルテ・サーキットに勢い良く飛び出して行った。
テスト・ドライバーとしてシグマを煮詰めてきた鮒子田にとってシグマのトップ・タイムは是が非でも自らの手で叩き出したかったからだ。
ところが、数周後これからタイムアタックという時になんとミュルサンヌ・ストレート(ユーノディエール・ストレート)において突然クラッチがいかれコース上にストップしてしまったのだ。結局、スタッフが、シグマをトラックに載せてガレージにたどり着いたのは、なんと夜中の2時になってしまった。とんだハプニングであった。しかし、結果的にこのトラブルは本戦でもシグマ・チームを悩ますこととなるのだが・・・。
さて、第50回ル・マン24時間レースのスターティング・グリッドを紹介しよう。

The 50th Le Mans 24 Houres Races Starting Grid ( Best 18/33 ) 


Place
Machine
Drivers
Time
1st
Ferrari 312PB
A.Merzario/C.Pace
3'37"5
2nd
Ferrari 312PB
J.Ickx/B.Redman
3'38"5
3rd
Matra MS670
J.P.Beltoise/F.Cevert
3'39"9
4th
Matra MS670
H.Pescarolo/G.Larrousse
3'41"8
5th
Ferrari 312PB
C.Reutemann/T.Shenken
3'42"3
6th
Matra MS670
J.P.Jabouille/J.P.Jassou
3'44"7
7th
Matra MS670
P.Depailler/B.Warlet
3'45"3
8th
Gulf Mirage M6
D.Bell/H.Ganley
3'46"3
9th
Gulf Mirage M6
M.Hailwood/J.Watson
3'46"6
10th
Lola T282
J.L.Laforth/R.Wisell
3'49"2
11th
Lola T282
-/-
3'50"7
12th
Alfa Romeo 33TT3
-/-
3'54"8
13th
Chevron B23
-/-
4'11"0
14th
Sigma MC73
Tetsu Ikuzawa/Hiroshi Fushida/-
4'11"1
15th
Dacam Ford
-/-
4'11"2
16th
Ligier JS2
J.H.Laffite/G.Ligier
4'13"1
17th
Chevron B23
-/-
4'14"7
18th
Porsche CarreraRSR
H.Muller/G.V.Lennep
4'14"9

TOP : The Ceremony of Le Mans. It's a first Japanese flag !!
“いよいよ世紀のル・マン スタート!!” 
 いよいよ待ちに待った“栄光のル・マン”のスタートが近づいた。シグマ・チームの作戦は、スタートを日本レース界を盛り立てた立役者である“生沢 徹”が受け持ち、20周後に鮒子田がステアリングを握る。そして、さらに20周後にダルボと交替し夜間を受け持つというローテーション。また、目標周回ペースは、“4分30秒台”で、アクシデントがなければ昨年の2リッター・クラスの優勝車である“ローラ”を凌ぐことが可能なのだ。

TOP : Hiroshi Fushida( Leftside) and #26 SIGMA MC73 at Le Mans's Sterting Grid in 1973
with Tetsu Ikuzawa( Middle).
(C) Photograph by Joe Honda.

TOP : Tetsu
(C)Photograph by Joe Honda.
 上の写真は、6月7日の“ル・マン”スタート前のグリット上に立つ鮒子田 寛と生沢 徹(中央)。
トップ・バッターを受け持つ生沢 徹は、余裕(!?)の表情でスタートを待つ。
一方鮒子田は、初めてのル・マンに感無量の心境か、ル・マンの空を見つめることしきり。鮒子田にとってその先は栄光のゴールなのだろうか。

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(C) Photographs by Joe Honda.