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PART 2 白熱の攻防!!'73 富士グラン300Kmレース
TOP : Hiroshi Fushida ( Leftside) and Masahiro Hasemi ( Rightside). 2人の秒刻みの駆け引きを今敢えて解剖する!! |
1973年6月3日、富士スピードウェイでは今や日本屈指の人気イベントに成長した富士グランチャンピオンシリーズ第2戦「富士グラン300Kmレース(合計50周 25周X2ヒート制)」が開かれようとしている。
そして、前年度のシリーズチャンピオンに輝いた鮒子田 寛は、開幕戦をつまらないトラブルで優勝を逃した悔しさをこの1戦にぶつけようとしていた。 しかし、今シーズン大スポンサーに後押しされ鳴り物入りで参戦してきた元ニッサン・ワークスの黒沢元治と最新鋭で最強の2リッターマシンと言われていた“マーチ735 BMW”のコンビは緒戦こそマイナー・トラブルに悩まされてはいたものの、この第2戦「富士グラン300Kmレース」までにはトラブルもほぼ解決し、今や鮒子田の腕をもってしても届かない存在になりつつあるのが現状であった。 さらに、鮒子田 寛にとって脅威なのは思わぬ強敵が参戦してきたことだった。 “長谷見昌弘”である。 鮒子田 寛と長谷見昌弘は同い年ということもあったが、不思議とビックレースでデッド・ヒートをする事が多く、あのT.N.Tの対決といわれた'60s日本グランプリ、'68 NETスピードカップレース、そして、'68 日本CAN-AM等においてもデッド・ヒートを繰り広げた、さらにF-2、FJ1300などでの攻防も続き、まさに2人はライバルであったのだ。 そんな長谷見昌弘が、ニッサンに在籍のまま今年からGCシリーズに挑戦してきたのだから鮒子田としてもうかうかできず、ましてや酒井レーシングより最新のマーチ735 BMWを駆っての参加でもあり、まさに1968年のNETスピードカップレースにおける“鮒子田 寛(トヨタ―7)VS 長谷見昌弘(ローラT70MKIII)” 白熱の攻防の再現かと思わず期待してしまうは私だけだろうか。 そして、注目の予選は下記の通りであった。
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“レース巧者 長谷見昌弘の場合”
鮒子田 寛は、このレースからエンジンを“ブライアン・ハートBDA(アルミ・ブロック)”に載せ変えて最強のマーチ BMWに対抗しようとしていた。さらに最新のシェブロンB23タイプのフロント・サスペンションに変更、同時にB23タイプのフロントカウルを装着し、空力面でも改善されている。黒沢マーチ以外であれば現状としては最高のマシンといえた。 しかし、公式予選を第2位で終えた鮒子田にとっての不安要素は、B23タイプに改良した為に起きたと思われるフロントのダウンフォース不足とコーナリングのグリップが多少ピーキーになっていることが少々気がかりであった。 さて、対する黒沢元治は公式予選1回目の1周目に早くもベストラップ“1分44秒25”を記録し、ポールポジションを決めてしまう。我が鮒子田 寛も黒沢と同じ組での予選で“1分46秒22”を出し早々に切り上げる。 注目の長谷見昌弘は、予選2回目に“1分47秒04”を記録、浅岡重輝のいすゞスパイダー2000を挟んで4位のポジションを得る。さらにニッサン・ワークスの3羽ガラスの1人で今回初出場の北野 元のシェブロンB23は、ハートBDAのトラブルでFVCエンジンでの参加となったが不調であった。 6月3日、午前11時 4、3,4、・・・とグリッド場に並んだマシンが一斉にスタートした(グリッド・スタートは、GCシリーズとしては初の試み)。 まずポールポジションの黒沢のマーチが一瞬遅れる感に、浅岡のいすゞスパイダーがトップで30度バンクに突っ込んで行く。しかし、100Rコーナーでは2位以下にかなりの水をあけながら黒沢がトップで通過して行った。もう誰にも黒沢を止める事が出来ないのか。 2位以下は、田中 弘(マーチ)、鮒子田 寛、浅岡重輝(いすゞ)、長谷見昌弘(マーチ)が第2集団を結成し2位争いを続けている。 2周目に入ると鮒子田は田中を捉え2位に躍進、黒沢を追う展開かと思われたがどうしても追いつけない。 かえって浅岡、田中らの追撃にあいタイムが上がらない。 そんな時、長谷見は上位3台の攻防を見ているかのごとく第2集団の最後尾を走っていた。 ここで、その時の長谷見昌弘の心理状態を細かに描いている記事を紹介したい。それは、1974年山海堂発行「オートテクニック」3月号 今宮 純氏著作「シリーズ・心にのこるレース 長谷見昌弘の場合 “自己との闘いとレースかけひきと”」の中にある1節である。その内容を抜粋引用させて頂き、第1ヒートでの長谷見のレース駆け引きを探ってみたいと思う。 |
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以上、今やフォーミュラ1において、欠かす事の出来ない存在となっているモータージャーナリストの今宮 純氏が書かれた1974年度「オートテクニック」誌掲載の一節を御紹介した。
この長谷見昌弘の冷静沈着なレース運びは、当時の鮒子田 寛も一目置く存在だったのではないだろうか。 次ぎに当時を振り返ってこのレースについてのコメントを鮒子田氏にうかがっているので続けてご紹介したい。 |
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第3者が長谷見、鮒子田、両選手の“その時”におけるそれぞれの思惑を文章で判断する事はむずかしい。
しかし、これぞという勝負の瞬間における両者の気持ちは、嘘偽りなく切実に伝わってくることは確かだ。 私が長い間、どのレースだったか思い出せないでいた素晴らしい攻防、そして、今だに脳裡に焼きついて離れない最高のGCレースは、やはりこのレースだったのだと、上の文章を読みながら確認し、そして納得した。 ところで、鮒子田氏も上のコメントで書かれているとおり、この「富士グラン300Kmレース」の第2ヒートはまさに鮒子田 寛にとって快心のレースであった。 もちろんトップの黒沢元治のマーチはその時点では別世界の領域へ飛び立っていたが、それ以外のマシンの中では、間違いなく鮒子田のシェブロンはダントツの速さを誇っていた。 ところで、このレースにおける長谷見のレース巧者ぶりを見せたのは第1ヒートであったが、対する鮒子田の走りの真骨頂は第2ヒートだとズバリ指摘した人物がいる。ニッサン・レーシング・スクールなどの講師を勤めるレーシング・ドライバー “辻本征一郎”である。 再び1974年発行「オートテクニック」誌3月号「73シリーズの激闘とそのドライビング」から引用抜粋させて頂く事にする。
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かくしてレースは終わった。
我が鮒子田 寛は、第1ヒートでの長谷見との攻防によるクラッシュでリタイヤしたことが最後まで響き、第2ヒートに黒沢に次いで2位でチェッカーを受けたものの総合5位に終わる。 しかし、この第2ヒートにおける快走は、連続チャンピオンを狙う鮒子田にとっては充分な布石となったのではないだろうか。 だが、今の鮒子田に、その余韻に浸っている時間はない。すぐにフランスに向けて旅立たなければならなかったのだ。 それは、生沢 徹と共に日本人初の「栄光のル・マン」への挑戦が待ち構えていたからだった。 |
Fuji Grand 300Kms Race Result Heat 1 Result ( 50Laps)
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Fuji Grand 300Kms Race Result Heat 2 Result ( 50Laps)
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Fuji Grand 300Kms Race Result Overall Result
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(C) 12/FEB/2002 Text reports by Hirofumi Makino.