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![]() ![]() TOP : Hiroshi Fushida and his Chevron B21P. (C) Photograph by Hirofumi Makino( Leftside). 今回よりマクラーレンM12などの“ビッグ・マシン”は締め出され、本当の意味での2リッター・レーシングカーだけによるチャンピオン争いとなる1973年シ―ズン。鮒子田 寛は、いかなる決意で望んだのだろうか。 |
1973年、衝撃がGCを襲う!!
1973年1月25日、東京赤坂のホテル・オークラ「銀杏の間」において今シーズンの富士グランチャンピオン・シリーズの行方を左右する重大発表が行なわれていた。
「有力ドライバー6人をブリヂストンが協力サポート!!」
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このブリヂストンタイヤの突然のスポンサー契約の発表は、今のF1などでは当たり前となっている独占的なタイヤメーカーのスポンサードを今から30年近く前に取り入れた画期的なものであり、日本モーター・スポーツ界全体を揺るがす一大事件であったのだ。
つまり「風戸レーシング」、「酒井レーシング」、「シグマ・オートモーティブ」、「高原レーシング(この発表には欠席)」、そして「ヒーローズ・レーシング」に対してブリヂストンタイヤを独占的に提供しレースに出場、それと同時にタイヤ開発も協力する。契約期間は1年間とし、ユニホーム、レーシングカーカラー及びステッカーの指定、そして、この場では発表はされなかったが契約金として各チームに1000万円以上が支払われることが約束されていた。 この発表により、1973年の富士グランチャンピオンシリーズは、過去2年間とは全く違った様相となることは必死で、これらのチーム&ドライバー以外の関係者はまさに崖っぷちに立たされることとなった。 |
“鮒子田 寛の決意!!”
さて、1972年度の富士グランチャンシリーズ総合王者である我が鮒子田 寛はどのような決意を持って新しいシーズンにのぞんだのだろうか。もちろん、ダンロップタイヤでシリーズチャンピオンになった鮒子田には先に述べたブリヂストンタイヤからのスポンサードの話しはなかった。しかし、その当時の鮒子田の心境を語る貴重な記事があったので御紹介したいと思う。1973年の報知新聞記事「“戦国GC(グランチャン)は呼ぶ!!”」から再び引用させて頂く。
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“意地のトップ快走!!”
1973年3月18日に開かれた富士グランチャンピオンシリーズ第1戦「富士300キロスピードレース」は、強力なスポンサードを受けた有力ドライバーたちが大挙出場する大変注目されるレースとなった。
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OFFCIAL PRACTICE IN '73 FUJI 300Km SPEED RACE
*米山二郎、従野孝司は予選不出場で最後尾から出場
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さて、いよいよローリングスタートのためのフォーメーション・ラップが始まった。
先頭は、国産マシンの“シグマGC73”の生沢、そして、昨年のマシンで予選2位をゲットした木倉がその横に並び、我が鮒子田 寛は今シーズンより参加した見崎清志の乗るローラT290と並んで2列目でフォーメーションに入った。 鮒子田は、このGC第1戦に際し、ある決意を秘めて臨んでいた。「絶対にトップに立って優勝してやる!!」であった。 一昨年、アメリカ修行中のTrans-Amレースにおいて起こった再起不能とまで言われたクラッシュ事故。そして、その苦境をバネに掴み取った昨シーズンのグランチャン・シリーズ・チャンピオンの座。 しかし、今年のレース界は前記のとおり、大スポンサーのバックアップを受けるチームが大挙出場し、鮒子田は昨年以上の苦戦を余儀なくされていたのだった。フシダ・レーサーズの今後のためにも是が非でもこの第1戦は優勝しなければならなかったのだ。 「生沢、黒沢、高原、酒井、風戸らの為のレースではない。この鮒子田を忘れてもらっちゃ困りますよ!」 このシリーズ・チャンピオンの意地がこのレースを燃えさせているのだった。 そして、フォーメーション・ラップが2周目が終わろうとしている最終コーナー、望月 修氏の乗るペースカーがピットロードへと駆けこんだ。いよいよスタートである。 まず、先頭は生沢のシグマ、そして木倉のローラ、そしてダッシュ良く鮒子田のシェブロンが3番手で30度バンクへと突っ込んで行く。 注目の黒沢のマーチは鮒子田のすぐ後ろに迫っている。ところがこの30度バンクで思わぬハプニングが起こる。酒井のマーチがなんとスピン。おもわず1967年の日本グランプリにおける生沢 徹との死闘の最中に起きた酒井のバーストのよるバンクでのクラッシュを思い出してしまう。そして、酒井のスピンに巻き込まれるかたちで米山二郎のシェブロンが酒井と接触。それにフェアレディも巻き込まれて3台が一瞬の内にリタイヤしてしまった。 |
トップ集団は生沢を先頭にヘアピンにさしかかっていた。木倉、黒沢、鮒子田、永松、そして見崎の順に生沢を追う。
そして、2周目のグランドスタンド前ではなんと黒沢がBMWエンジンの力を見せつけて2位で通過。鮒子田はその黒沢をピタリマークして3位で駆け抜けて行った。 3周目、バンク手前で黒沢が生沢を抜き去ってトップに立つ。我が鮒子田 寛は、なかなか生沢を抜く事が出来ずにいる。そして、黒沢との間が少しづつ開いてきた5周目ついに鮒子田は生沢をパスして2位に躍進する。 生沢のペースが上がらないのか、鮒子田のペースが速いのか、その差がだんだん開いて行くようだ。 この後の我が鮒子田 寛の猛追については、1973年発売のAUTO SPORT誌5月1日号から引用活用させてもらう事にする。
これぞ前年チャンピオンの意地だと感じずにはいられない鮒子田の走りだ。
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“さらなる挑戦へ”
鮒子田のトップ快走は、50周レースの内、実に19周にわたって続いた。 そして、26周をトップで通過して27周目の最終コーナーをまわったところで突然鮒子田のレースは終わってしまった。 ウォーター・ホースの破損によるオーバー・ヒートである。 2位を走っていたライバル黒沢マーチも白煙を上げながら25周目にピットイン、30周目にエンジン・トラブルでリタイヤ。生沢シグマも24周目にすでにリタイヤしており、鮒子田のリタイヤは快走を続けていただけに本当に残念であった。
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RESULT( 1973.3.18 Fuji Speedwey)
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かくしてレースは終わった。鮒子田 寛の胸の内は全力を出しきった満足感でいっぱいだった。
そして、終わった事は結果として受け止めて次ぎのターゲットに向かはなければならない。 次ぎのGCレースは6月3日の富士グラン300キロレースだが、その前に鮒子田にはしなければならないことがあった。 それは、シグマMC73・ロータリーのテストである。このテストの目的は、日本人として初めてとなるあの“栄光のル・マン”に生沢 徹と共に出場するための最終テストであった。 「それからのHIROSHI 」 PART 1
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(C) 23/NOV/2001 Text reports by Hirofumi Makino.