THE MASSAGE TO HIROSHI FUSHIDA FROM HIS FRIEND 


“友人・知人 鮒子田 寛を語る!!”

 まさに圧巻であります。現在日本及び世界のレース界にあってトップで活躍されている歴戦の勇士たちが、今、鮒子田 寛を語る!!
 

 
第1回 
 林みのる (現・童夢 代表取締役社長) 
鮒子田 寛を語る!!
From Minoru Hayashi to Hiroshi Fushida


 私の学生時代は人生の中でもちょっぴりグレーな部分として印象が悪い。
かなりのガキのころからラジオやオーディオに熱中するあまり、個人の時間を無遠慮に侵害する学校と言う存在は非常に疎ましかったし、なによりも幼稚園を20日で退園させられてしまったほどの筋金入りの団体行動嫌いは中学になってますます顕著になり、何回も担任に退学届を提出しては帰宅する前に家につき返されて母親にこっぴどく叱られるということの繰り返しの日々だった。
実際、体育祭なんかの日に先生の号令一下、きっちり並んで行進するなんて何で自分がそれに従わなくてはならないのか、その意義も意味も解らずに奴隷になったような気分で情けなく思えたし、嬉々として練習に励む学友たちにもどことなく距離感を覚えていた。
そんな私だったから学友との親しい交流は少なかったが、唯一、興味を覚えて入った部活のラジオクラブにいた同学年の鮒子田とは、二人のオーディオに対する知識が他を抜きん出ていたこともあって、それ以来、寝るとき意外はずっとべったり状態の付き合いが始まった。
放課後は毎日のように二人で私の家に直行し、私の部屋に用意した二人分の工作机で深夜までアンプなどの製作に没頭していたものだが、鮒子田は私なんかと違ってどちらかと言えば社交的なほうだったので、そのうち鮒子田を通じて私にも友達らしきものも増えてきた。
当時は二人とも機動力はちゃりんこだったが、なにしろお金が無いのでアンプの部品なんかも必要最小限しか買わない。
だから製作中に足りないものが頻繁に出てきて、そのたびに抵抗一個とかコンデンサー一個とか買いに行くんだけどこれがとてもかったるい。
14歳になったある日、「買い物に便利だぞ」と言って鮒子田が家のスーパーカブを持ち出してきたので私もちょっと乗せてもらったが、大げさでなくその瞬間にあれだけ熱中していたオーディオのことはすっぱり忘れ去り、バイクが私の人生の全てになってしまった。
まるでテレビのチャンネルを急に変えて、突然まったく別のドラマが始まったような感覚だった。
多分、私の急激な変節につられたのだと思っているが、鮒子田も前後してバイクにのめりこんでいった。
それから毎日毎日、二人してレーサー風に改造したりモトクロスに出場したり、バイクに明け暮れる日々が続き、やがて16歳になって軽四輪の免許が取れるようになると、今度はそのまま自動車にのめりこんで、毎日夜明けまで山道を走り回った。
こうして中学入学以来、全く同じ趣味で結ばれてきた二人だったが、このころから少し目指すところに違いが見えてきた。
普通免許を取得するころには、もう私ははっきりとレーシングカーを創ることしか考えていなかったし、鮒子田は同じくレーサーになることしか頭になかった。
ところが、レーシングカー・デザイナーもレーサーも、何もバックグラウンドを持たない10代のガキには途方も無く遠い手の届かない存在で、二人とも思いは募りに募るがなすすべも無い気も狂わんばかりの日々が続いていた。
私たちにあるのは、お互いの家にある車(もちろん10代で自分の車なんか持てない時代だ)だけ。毎日、走るしかなかった。
しかし、そのうち鈴鹿サーキットにも通うようになり鮒子田が浮谷東次郎と知り合ったことにより二人の運命が少しづつ開けていくことになる。
鈴鹿で速さを示した鮒子田は着々とプロレーサーへの道を歩み始め、私は浮谷のHONDA S600を改造した「からす」がクラブマンレースで優勝したりしたものの、相変わらず借金まみれでなんとかレーシングカーらしきものを造っている状況が続いていた。
鮒子田はそれこそとんとん拍子にトップレーサーに駆け上がり、私はあんなに遥か遠い夢がみるみる実現していく奇跡を嬉しくもあり羨ましくもある複雑な気持ちで眺めていた。
そしていつの間にか社会人と呼ばれる人種に成長していた我々は、学生時代のようにべったりというわけにも行かず、お互いの道も似ているようでかなり方向は異なるしで、そうそう頻繁に会うこともなくなっていた。
そして、それから20数年が経ち、鮒子田はトヨタのワークスドライバーからアメリカンドリームを目指して渡米、レース中の事故で大怪我をして帰国後は実家の商売の手伝いをしており、一方、私は童夢という会社を設立してやっとレーシングカー・コンストラクターという職業を具現化していたころ、久しぶりに鮒子田とゆっくり話をする機会があった。
私はそこそこ大きくなってきた会社の経営者的な仕事にうんざりしていた頃で、鮒子田は実家の和装の仕事ではやっぱり満たされないものを感じていた頃だった。
私たちは良く話し合った結果、鮒子田は実家での実務経験を活かして童夢の運営面を担当し、私はそのころ盛んになりつつあったグループCカーのレースチームの運営を担当することにして副社長として迎えることにした。
しかし、この私の目論見はもろくも崩れ去り、何年か後に気がつけば鮒子田はレーシングチームを取り仕切っており、私と言えば相変わらず経営的な雑務に追われる毎日が続いていた。
鮒子田がどうしてもレースから離れられないということもあるし、適性もあったから周囲も認めていたのだと思うが、私から言わせれば「お前をレースで遊ばせるために来てもらったわけではない」ということになる。
結局、鮒子田はレースの現場での活躍を求めてTOM‘Sへ移籍することになるが、その後TOM‘S GBへ出向し、施設をAUDIに売却する際に本人も一緒に移籍し、現在は図らずもAUDIのレーシングカー開発会社の役員として活躍している。

これが鮒子田と私の付き合いの歴史の概要だが、学友を含め親しい友達間での鮒子田評のキーワードは「ケチ」である。
誰と話しても「あいつはケチやったな」から話は始まるくらいだが、私が童夢の副社長として迎えた最大の魅力がこのケチ精神であり、わたしの底なしざるのような金銭感覚に自ら危機感を感じていたからに他ならない。
また、女性に関しては二人ともとてもおくてだったけど、スタートだけは鮒子田のほうが一歩早かったようだ。ある日、鮒子田は散々苦労してやっと初デートに漕ぎ着けたがキスの仕方というよりもどうしたらそういうシチュエーションに持ち込めるのか想像もつかない。そこで、デートに先駆けてバイク仲間のその筋の先輩にご教授を願ったのだが、それが何歳か年下の14〜5の少年なんだから情けない話だ。
顔の角度は何度くらいだ?とか、一回目はどのくらいの長さが適当だ?とか、真剣に聞き入っている姿を思い出すが、私はその頃はまだ女性にはまったく興味が無かったから鮒子田のほうがうんとませていたようだ。
我々は中学からエスカレーターだったが高校一年になった時、とても可愛い新入生が入ってきて二人はまた同時に初恋に陥った。
しかし、もう一人このレースにエントリーしてきた奴がいて、こいつが我々とは違って大企業の御曹司、学業成績超優秀、ハンサムと三拍子そろったつわもので、常に我々は苦戦を強いられていたが、こいつはポールポジションから常にトップをキープしつつもレース後半にクラッシュ、鮒子田はスタートの出遅れが響き、終始下位グループから脱出できず、私は付かず離れずの2位キープながらトップのリタイアにより一躍トップに踊り出るも、ゴールライン直前でルール違反の途中参加車両に行く手を阻まれてスピン、惜しくもフィニッシュすることは出来なかった。
この間11年、本当に初心な時代だった。今なら半年でかたをつけてやるが。

まだ、二人とも何も出来ずに毎夜のように山道を走り回っていた頃、夕飯が済んでどちらかの家の持ち出せる車をそっと乗り出してもう一人を迎えに行く。
それから夜が白むまでいくつかの決められたコースを走り回るのだが、ガソリン代もバカにならない。
そこで必死にアルバイトをする訳だが、ある日、鮒子田がやっていた幼稚園の送迎バスのバイトが続けられなくなって私が代わることになったが、初日、決められたコースを回っているとだんだん園児が待っていなくなる。
添乗の保母さんが遠慮がちに「鮒子田さんはもう少し速く回ってらっしゃいました」と言うので、次の日はかなり速いペースで回ったがそれでも後半の園児は待ちくたびれて家に戻ってしまっている。
次の日はもっと速く回ったが、まだまだ追いつかない。数日後、ついに鮒子田のペースがつかめたが、これは幼稚園の送迎バスにとってはほぼレーシングスピードで、やっと園児たちも「前の速さに戻った!!」と喜んでくれたが、いったいなに考えとんじゃ!

ある時、鮒子田から電話があり当時のグラチャンマシンのボディを作ってほしい、ただし予算は全く無いのでなんとか安く作れる方法を考えてくれということだった。
そこで私は合板を巧妙に組み合わせて直接メス型を作ってしまう方法を考え、鮒子田に提案した。
御殿場のガレージで一日中検討を重ねたが、二人ともまったくお金の無い時代だったから高々何万円の見積もりの差で話がなかなか進まない。
結局、私の方が譲歩するような形で話は終わったが、御殿場からの帰り、車が東京に近づいたころ鮒子田は突然「銀座でちょっと飲んで行かへんか?」と言い出した。
「そんな金ないよ」と私、「そんなん僕が奢るがな」と鮒子田。そんな金があるんやったら、今日一日、何万円のことでもめ狂っていたのはいったい何やったんや!!
まったく、ケチなのか何なのか不思議な金銭感覚を持った奴ではある。
(右のスケッチは林みのる氏が鮒子田氏のためにデザインしたグランチャン・マシンであります)
付き合いが長いだけにエピソードを並べ立てればネタは尽きないが、まあ、私が書く限りは私に不利な内容のエピソードは書かないから(もっとも探しても無いと思うが)、結果的に自画自賛になってしまうのでこのくらいにしておこう。
今は同業者として、また、英国での展開では先輩としていろいろお世話にもなっている。
同じ趣味、同じ仕事を通じて40年以上の付き合いなんてそうざらにあることではないし、これからもお互い協力しあってレーシングな生き方をエンジョイしてゆこう。

林みのる 
by Minoru Hayashi 

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(C) 26/JULY/2001 Text report by Minoru Hayashi.