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鮒子田 寛にとっての'60日本グランプリとは!?
HIROSHI
FUSHIDA
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1969年は、鮒子田 寛自身にとって将来を決める重要な1年であり、また辛い1年でもあった。
4年前、親友だった浮谷東次郎を事故で亡くし、レーシング・ドライバーとしての宿命を知った鮒子田は、この1969年、2度目の試練に立ち向かうこととなる。 前年、何回となくコンビを組み優勝を分けあっていた福沢幸雄が1969年2月12日、新設なったヤマハ・テストコースにおいて、テスト中のトヨタ―7と共に陽炎の如くコースに散ってしまったのだった。 原因は、トヨタ―7(クローズド・ボディの新型)のトラブルだったのか、人的ミスだったのかは今だに闇の中である。 実は、鮒子田はこの日、福沢と共にこのヤマハ・テストコースでテストをする事になっていた。しかし、風邪をこじらせた鮒子田は、ついにテストをする事が出来なかった。 もしもという言葉が許されるなら、鮒子田が福沢の替わりになっていたかもしれないこの出来事、鮒子田の当時の心境は、とても複雑だったのではと想像してしまう。 しかし、それだけでは終わらなかった。 1970年、鮒子田は諸般の理由でトヨタを退社、単身アメリカのインディを目指し、武者修業の旅へと出かけることとなる。鮒子田の後を追いエース・ドライバーとなっていた川合 稔が8月26日、鈴鹿サーキットでニュー・ターボチャージド・トヨタ―7をテスト中、激突死してしまったのだ。もしも、鮒子田がトヨタに残っていたら必ずやこのテストに参加していたはず。 そして時は過ぎ1974年、あの風戸 裕と鈴木誠一の命を一瞬のうちに奪ってしまった忌々しい富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦。鮒子田は、当初出場予定だったのだが、マシンの手配が間に合わず不出場。もしも、出場していたらこの事故に巻き込まれていたかもしれない。 これはどう考えるべきだろうか、生かされる鮒子田 寛。 私は、そう信じたい。とにかく鮒子田は生かされているのだと・・・。 |
TOP : McLaren TOYOTA at The 2nd JAPAN CAN-AM in1969. |
生かされている“鮒子田 寛”伝説がここにもう1つある。
“69年のシーズン終了後、トヨタは鈴鹿サーキットで、日本Can‐Amレースから採用されたウイング仕様車を持ち込み、開発テストを実施していた。もちろん鮒子田もこのテストに参加していた。 テストメニューは順調に消化していた。そして、鮒子田がフルタンクでのテストを開始して数周後、最終コーナー(当時は250Rと呼ばれ、シケインはなく、130Rから続く、下りの高速コーナーであった)に差し掛かり、アプローチのために減速しシフトダウンしようとした時、アクセルが全開のまま引っかかり戻らなくなってしまったのだ。 直ぐに、クラッチを踏みブレーキを踏んだが、200キロを軽く超える高速コーナー進入での急ブレーキは、全開の600馬力近い猛々しいパワーでスピードが乗り切ったトヨタ7を押さえることは出来なかった。そのまま、車はガードレール目掛けて猛進していった。鮒子田に出来たことは、ダメージを減らすために、ガードレールにぶつかる角度を浅くすることぐらいだった。車はあっという間もなくガードレールに激突、瞬間、車は爆発的に炎上し、そのまま、ガードレールをなぎ倒しながら、100M以上も走り、土手にぶつかり横転してしまった。当時のグループ7カーはドライバーの両サイドに燃料タンクを抱え、搭載量も250リッターを超えていた。この、250リッター近いガソリンと多用されているマグネシュームが爆発的に炎上したのだから、手のつけ様がない。車は赤黒い獰猛な炎と数百メーターにも達する黒煙を上げながら何時間も燃えつづけた。” これは、1969年12月、年も押し迫ったここ鈴鹿サーキットにおいて、トヨタ―7(一部で言われていたマクラーレン・トヨタではなく、5リッタ―・トヨタ―7である)をテスト中に起こった炎上事故であった。 ところで、鮒子田はどうなったのか? 後に鮒子田はこの事故のことをこう語っている。
後日談だが、この事故は、1984年のAUTO SPORT誌400号記念臨時増刊号「ザ・タイムトンネル・サーキット」で初めて明らかにされたことで、当時の私たちはこの事故を全く知らなかった。その真相は、この事故の模様を当時の三栄書房AUTO SPORT誌記者が極秘にキャッチし、記事にしようとしたところ、トヨタ自工第7技からクレームが編集部に入り、記事掲載をしないことを条件とし、AUTO SPORT誌に河野二郎第7技術部長代理(当時)と“独占インタビュー”を行なうという取引が行なわれていたからだった。 しかし、まるで翌年に起こってしまう川合 稔の事故を予期したような鮒子田 寛の事故であり、ここでも生かされている鮒子田を感じてしまうのは私だけだろうか。 |
ところで、1969年当時の鮒子田 寛のもう一つの顔を皆さん御存知だっただろうか。
その頃の鮒子田について、1969年発行のAUTO SPORT誌8月号「鮒子田 寛の野望」に書かれているので引用させていただくことにする。 “・・・鈴鹿サーキットへ着いたのは午後1時過ぎ。ここで、鮒子田 寛のもう1つの仕事が始まる。彼は、トヨタ・ファクトリーのドライバーとしてレースやテストに参加するいっぽう、昨年5月から(1968年5月)大阪トヨペットの“ペット・ドライブサロン”のマネジャーを勤めている。仕事の内容は、関西方面のスポーツ・ユーザーの相談相手。もっと具体的にいえば、お客さん相手にチューンアップに関するアドバイスやテクニックの指導をしたり、大阪トヨペットの工場で仕立てたお客さんの車をレース前にテストしたり・・・といったことだ。むろんお客さんがレースに出る場合はピットに付き添っている。 雨の時など、濡れたレーシング・シューズを拭いてやる。・・・商売となれば、そこまでやらなくてはならないのだ。” |
“TOYOTA NEW 7登場!!”
福沢幸雄の死以来、沈黙を守っていたトヨタは、遂に4月6日に行なわれた鈴鹿耐久シリーズ第1戦「鈴鹿500kmレース」にその姿を現した。しかし、エントリーされていた2台のトヨター7(3000cc)は、細谷四方洋と川合 稔の手に委ねられ、鮒子田の姿はそこにはなかった。 その頃鮒子田は、年頭1月19日に行なわれたビック・イベントである“鈴鹿300Kmレース”を完璧な“ポール・トゥ・フィニッシュ”で勝利した後、先に述べたようにペット・ドライブショップの仕事を続けながら、別の仕事として極秘にトヨタ ニュー7の開発を続けていたのだった(写真は鈴鹿300kmレースに優勝した鮒子田 寛と彼のトヨタ―7)。 TOP : Hiroshi Fushida and his TOYOTA-7 at Suzuka 300Kms in 1969. ポール・ポジションからスタートした鮒子田は1周目のS字ベント入り口で他車を抜こうとした時に接触しスピン、最後尾へと落ちてしまう。しかし、そこからの必死の追い上げは凄まじかった。1周目34位、2周目20位、そして3周目にはなんと8位にまで順位を挽回したのだった。更に25周目、トップにいた長谷見のローラと2位の細谷のトヨタ―7がエンジントラブルとクラッシュで同時にリタイヤした為、3位まで順位を上げていた鮒子田は難なく1位に踊り出ることが出来たのだ。そしてその後は鮒子田の独走で幸先の良いシーズン初勝利を飾ることが出来た。鮒子田快心の勝利であった。 このレースについて実際に鮒子田 寛氏にうかがっているので御紹介しよう。
さて、鈴鹿300Kmレースで勝利して以来姿が見えなかった鮒子田がサーキットに姿を現したのは、4月20日の富士スピードウェイであった。このレースは全日本選手権のかかった「第11回全日本クラブマンレース大会」として富士スピードウェイ左回り4.3Kmコースで行なわれ、特殊ツーリングカーレース、スポーツカー、そしてレーシングカーの3種目が行なわれた。
夏の日差しが眩しい1969年も半ばを過ぎた7月3日の富士スピードウェイ。鮒子田は再び富士スピードウェイに立っていた。当時のレポートがAUTO
SPORT誌にあるので再び引用活用させていただくことにする。
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TOP : The Pole to Finish by #7 Hiroshi Fushida at '69 FUJI 1000kms race. #6 Shihomi Hosoya with TOYOTA new7 and #2 Kenjiro Tanaka(Taki LOLA T70). |
“POLE
TO FINISH !!”
ついにトヨタニュー7が実戦デビューする時がやって来た。そして、その中にはエース・ドライバーとして成長した鮒子田寛ももちろん参加していた。 1969年7月27日、トヨタ・モータースポーツクラブ主催の第3回全日本富士1000kmレースは、昨年11月に行なわれた日本CAN-AMレース以来のビックレースとあって大変注目されたレースであった。 その中でも、トヨタが新しく開発したグループ7(CAN-AMタイプの排気量無制限の2座席レーシングカー)マシン“ニュー7”がどのような走りをするかが最大の注目であった。 このレースには、トヨタ ニュー7の2台のほか、ニッサンR380IIIが2台(高橋国光/砂子義一、北野 元/黒沢元治)、タキ・ローラT70(田中健二郎/長谷見昌弘)、チュールド・カレラ6(津々見友彦/米山二郎)などが含まれており、その年の日本グランプリ本戦へ向けての各チームマシンの仕上がり具合をうかがうことの出来るレースとあって、大変注目されていた1戦だった。 そんな中26日に行なわれた公式予選においてポールポジションを獲得したのは、やはり鮒子田だった。 タイム“1分24秒44(平均速度約184.3km/h)は、昨年同コースで行なわれた日本CAN-AMレースで鮒子田自身が出した1分26秒60を破るタイムではあったが、まだまだ鮒子田にとっては不満なタイムであった。 2位以下は、細谷/川合組のニュー7、田中/長谷見組のタキ・ローラ、そして、津々見/米山組のポルシェと続く。期待のニッサン勢は、5〜6位と低迷している。 決勝は、終始鮒子田組のニュー7がリードし、500km付近を過ぎたあたりから、独走態勢となり、終盤は1分33秒台にペースを落し、そのままゴール。まさに、鮒子田の“ポール・トウ・フィニッシュ”であった。 RESULTS (The Fuji 1000kms race in 1969) Fuji SW 4.3km
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“執念の勝利 NETスピードカップ!!”
今や押しも押されぬトヨタのエース・ドライバーへと成長した鮒子田は、続くビッグ・レース「NETスピードカップ・レース」にさらに成熟度を増したトヨタ ニュー7で出場した。すでにその頃の鮒子田は、ニッサンの誇る高橋国光、北野 元らと同等以上のドライビングセンスを持ち合わせた日本を代表するドライバーだと言われ、当の鮒子田も自分の力を世界で試したいという欲望も同時に感じていた頃でもあった。 1969年8月9日、NETスピードカップ・レース予選当日富士スピードウェイは、異様な雰囲気に包まれていた。 それは、ニッサン・チームが遂に自社製V12気筒5000ccエンジン搭載車“R381”を高橋国光、北野 元に託し出場したからであった、同じ土俵で同排気量の2車が対決するのだから燃えないわけにはいかない。トヨタ ニュー7とR381の対決に両チームは、予選からヒートすることとなった。 その他に、タキ・レーシング・チームからオープンに改造した“タキ・ローラT70”を新たにチーム入りした永松邦臣が乗る。また、若き日のあの風戸 裕も“コーヤマ・スペシャル(ブラバム・ホンダ)”で出場している。 さて、予選でのヒートぶりは、下の鮒子田自身の言葉からも想像出来よう。
トヨタ、ニッサンの激しいタイムアタックの中、鮒子田は富士1000kmレースに続き、ポール・ポジションをトヨタにもたらす事が出来た。タイムは、“1分51秒77”。真夏の富士スピードウェイでのタイムとしては、悪くない。
A Practice time ('69 NET SPEED CUP RACE) Fuji SW 6km
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TOP : The WINNING TOYOTA new7 by Hiroshi Fushida at The NET Speed Cup Race in 1969. |
さて、この’69NETスピードカップ・レースはユニークなレース・システムで行なわれた。同じメンバーが1時間レースを2回戦い、その総合ポイントによって優劣を決めるシステムである。ポイント規定は、第1ヒート、第2ヒートともに1位から6位までに100,
90, 80, 70, 65, 60点。これに予選時のポイントである1位から6位までに20,
16, 14, 12, 10, 8点が加えられる。
<ヒート1> 快晴の富士スピードウェイ。午前11時ちょうど、スタートがきって落とされた。 以外にも鮒子田は予選で北野車が跳ねた石を眉間に受けた影響なのか精彩がなく、川合 稔のトヨタ ニュー7がダッシュ良くトップに立つ。そのままレースは、川合、鮒子田の順でヒート1を終える事となった。 ニッサン勢では、北野が3位でフィニッシュしている。 <ヒート2> 今度は、鮒子田が意地を見せトップをキープし、川合と予選タイムにも迫る1分51〜52秒台のハイペースでデッド・ヒートを続ける。このまま鮒子田がトップでゴールすれば、合計得点で鮒子田の総合優勝が決まる。 そして、そのまま鮒子田は川合 稔を押さえ込みトップでチェッカーを受る。 TOP : #15 Hiroshi Fushida and his TOYOTA new7.
RESULTS (The NET SPEED CUP RACE in 1969) Fuji SW 6km
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傷だらけの中で掴んだ「'69NETスピードカップ・レース」の余韻も冷めない頃、鮒子田は、まだまだ問題山積みの状態であった“トヨタ ニュー7”の開発に追われる毎日が続いていた。後2ヶ月あまりに迫った“決戦 '69日本グランプリ”までに直さなければならない箇所は数多くあり、鮒子田は少々焦り気味でもあった。
そんな中、耳を疑うような情報が鮒子田に届いたのである。「ヴィック・エルフォードがトヨタに来る!」。 ヴィック・エルフォードと言えば、1968年からポルシェ・ワークスの一員として活躍している世界の現役トップ・ドライバーである。昨年(1968年)は、ポルシェ907などで3勝、今年(1969年)は、優勝こそないがたえずポルシェ908を駆り、ベスト3に顔を出しており、あのポルシェ917を最初にル・マンで走らせトップを快走した男でもあった。 そんなエルフォードが何故に今年の日本グランプリの為だけにトヨタに来ることになったのかいまだに謎であるが、一説では、将来的にトヨタを有望と見たエルフォードが直接トヨタに売り込んだとも言われている。 そんな頃、鮒子田はなぜかコーナーで思うように曲がらないトヨタ ニュー7に不安を感じていた。開発ドライバーでもある鮒子田は、その原因をトヨタ ニュー7のシャーシー剛性にあると感じ、たえずエンジニアたちに助言していた。 しかし、思うように改良が進まずただいたずらに時間だけが過ぎていっていた。後グランプリまで1ヶ月を切った段階でもこの状態である。そして、タイムも1分45秒台にはまだまだ届いていないのだから鮒子田が焦るのも無理はない。 そして、最初耳を傾けたがらなかったエンジニアたちも徐々に鮒子田の意見を受け入れかけてきた頃、突如トヨタ ニュー7開発にストップがかかるような事件(?!)が起きた。
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“決戦!!'69日本グランプリ”
(The 6th Japan GP) トヨタ ニュー7の開発がままらないうちに10月9日の公式予選がやって来てしまった。 鮒子田は、白地に濃紺のラインの入った日本グランプリ用“トヨタ ニュー7”で富士の6kmフル・コースを全力で走った。 しかし、思うようにタイムが伸びない。ライバルであるニッサンが車両変更届をし、6000ccV12気筒エンジンを搭載することを聞いても鮒子田は不思議に驚かなかった。それ以前にトヨタ ニュー7の不調にそれどころではなかったからかもしれない。「6リッターだろうが、トヨタのエンジンはニッサンには絶対負けない自信がある」という鮒子田自身の言葉通り、そのパワーにシャーシーがついて行けないもどかしさに鮒子田は、苛立ちさえ覚えていた。
Official Practice time ('69 JAPAN GP) Fuji SW 6km
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TOP : The Start!! Hiroshi's 8th!! いつものスタート・ダッシュで必ずトップ・グループについて行くという硬い決意で鮒子田はスタートラインでスタートを待っていた。 10月10日、午前11時10分世紀の'69日本グランプリのスタートが切って落された。 まず、久木留とエルフォードのトヨタ ニュー7がスタート・ダッシュ良くトップに立つ。そして、それを川合のトヨタ ニュー7とシファートのポルシェが追う。オープニング・ラップで鮒子田は、7位で通過。まずまずのスタートだった。 そして、3周目に入り鮒子田は、シファート、川合、高橋、黒沢、北野に次ぐ6位に進出、さらに4周目には、シファート、黒沢、高橋、北野、川合に次ぐ6位で川合を追いはじめた。ところが、その4周目のバンク下のカーブでいきなり鮒子田がグリーンに飛び出した。リア・サスペンションが壊れたのだった。 TOP : The Lap 4, Hiroshi's 6th place. TOP : Oh! He couldn't gets a good race. |
たった4周、時間にして約7分間だけで終わってしまった鮒子田 寛の'69日本グランプリ。しかし、予選9位からの猛烈な追い上げはさすが鮒子田と言わしめるに十分な時間だったのではないだろうか。上の画像は、メインストレートの電工掲示板が4周目に鮒子田が6位で通過した事を示しているもの。そして、4周目。無情にもリヤのアップライトが破損してリタイヤした鮒子田がトヨタ ニュー7のリヤを覗きこんでいる画像。いったいその時鮒子田は何を思っていたのだろうか。
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"From
Epilogue to Prologue"
1969年11月23日、ここ富士スピーとウェイでは昨年に続いて日本カンナム(THE JAPAN CAN-AM FUJI 200MILE RACE)が開かれていた。もちろん鮒子田 寛も参加している。 しかし、鮒子田のマシンは、オリジナルのトヨタ ニュー7ではない。エンジンこそトヨタとヤマハが共同で開発したDOHC V8 5000ccエンジンだが、シャーシーがこれまでの7のものではなく、本場CAN-AMシリーズで活躍しているマクラーレン・カーズの69年ワークス・マシンの市販版というべき“マクラーレンM12”のシャーシーを改造して使用している。このマクラーレン・トヨタで出場することになった経緯を鮒子田は次ぎのように語っている。
Official Practice time ('69 The 2nd Japan CAN-AM) Fuji SW 4.3km
ペースカーに先導されて、集団がメイン・ストレートに戻ってきた。左回り4.3kmショート・コースを使用しての第2回日本CAN-AM。いよいよスタートだ。ペースカーがピットに消えた。たった今スタート!!
TOP: Hiroshi and his McLaren Toyota at The 2nd Japan CAN-AM in 1969. (C) Photographs by Naofumi Ibuki. RESULTS ('69 The 2nd Japan CAN-Am) Fuji SW 6km
エース・ドライバーとしての栄光と苦悩 END |
(C) 09/JUNE/2001 Text Reports by Hirofumi Makino